膳所城(ぜぜじょう)

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日本三大湖城に数えられた琵琶湖の浮城で、瀬田の唐橋を制する膳所藩の藩庁

本丸跡に残る膳所城の天守台
本丸跡に残る膳所城の天守台

膳所という難読地名の由来は、飛鳥時代に大津宮の御厨(みくりや)が置かれ、陪膳の崎(おものさき)と呼ばれたことに始まる。陪膳(ばいぜん)とは天皇の食事を給仕する意味である。これが膳の前(おものさき)、膳前(ぜんぜん)と変わり「ぜぜ」に転訛したという。膳所城は、琵琶湖に突き出した膳所崎(ぜぜがさき)に築かれた水城である。出雲松江城(島根県松江市)、信濃高島城(長野県諏訪市)とともに日本三大湖城に数えられ、坂本城(大津市下阪本)、大津城(大津市浜大津)、瀬田城(大津市瀬田)と並ぶ琵琶湖の浮城のひとつである。琵琶湖の湖岸を埋め立て、石垣で人工の島を2つ築き、それぞれ本丸と二の丸とした。これら人工島の対岸に広がる三の丸や外郭との間には橋を架けて往来した。まさに琵琶湖に浮かぶ堅固な要塞であった。正保元年(1644年)江戸幕府が諸藩に命じて作成させた『正保城絵図』の「近江国膳所城絵図」や、寛文2年(1662年)の『膳所城寛文地震修復願ヶ所絵図』により、膳所城の築城当初の姿が確認できる。それによると、本丸、二の丸、北の丸が琵琶湖の中にあり、三の丸、外郭が陸続きになっていた。湖中のもっとも東側に本丸があり、その南面に出丸が鉤状に付属し、この本丸の西側に二の丸があり廊下橋で接続していた。二の丸の北側に北の丸、二の丸の南側に三の丸があり、これら曲輪の西側に大きく外郭が広がっていた。寛文2年(1662年)5月、琵琶湖西岸の高島郡を震源地としたマグニチュード7.6と推定される大地震が発生した。この地震で4層4階天守は北西に大きく傾き、本丸や二の丸の多くの櫓が土台もろとも湖中へ崩れ落ちるなど、琵琶湖の中にあった曲輪は甚大な被害を受けた。このため膳所藩主の本多俊次(としつぐ)は、縄張りを大きく変える改修をおこなっている。具体的には、本丸と二の丸の間を埋め立てて一体化した大きな本丸とし、南側の三の丸を湖岸から切り離して方形の二の丸に変更、さらに南側に小さな三の丸を連郭式に造っている。新たな本丸は東西80間(145m)、南北55間(100m)の規模となった。その姿は『膳所城寛文地震修復願ヶ所絵図』や、江戸中期から末期に成立の『江州膳所城図』で確認できる。『江州膳所城図』によると、本丸北側の塁線中央に4層の複合式天守が聳え、本丸の塁線には櫓だけでも3層櫓が3基、2層櫓が5基、単層櫓が3基、櫓門が1棟、多聞櫓が6棟ほど確認できる。本丸内には米倉があったようで、二の丸には政庁である二の丸御殿があり、外郭には山方役所、勘定所、評定所、郡役所、作事所、馬屋、武器庫や、家老・中老などの高禄屋敷と呼ばれた屋敷があった。外郭の西側を取り囲むように琵琶湖につながる外堀を巡らせており、城内への入り口として北・中・南の3つの大手門が構えられていた。膳所神社(大津市膳所)から少し東の交差点に中大手門跡があり、小さな石碑が立っている。膳所城の城下町は、北の大津口から南の瀬田口までの約2.4kmの間、東海道を挟み込むように広がっていた。大津口・瀬田口にはそれぞれ城下町への出入口となる総門と総門を警護する番所が設置され、東海道の人や物の出入りを監視していた。膳所城下を通る東海道はまっすぐではなく、随所で折りが付けられていた。これは遠見遮断(とおみしゃだん)と呼ばれるもので、敵の軍勢が東海道を攻めてきた場合、その勢いを弱める効果があった。現在の本丸跡は膳所城跡公園として整備され、完全に陸続きとなっている。公園内には土塀や水堀が模擬復元され、正面に模擬門が建てられている。本丸跡には低い石垣が廻っており、「天主閣跡」の石碑の周囲は天守台の石垣である。

二の丸跡は膳所浄水場となり、石垣を復旧して多聞櫓のような外観としている。膳所城は移築現存する建築物が特に多いことで知られる。周辺の神社などに移築城門などが多く現存している。大津市内では、膳所神社の表門が脇戸付薬医門の本丸大手門で、明暦元年(1655年)の銘札が発見されている。他に北門が脇戸付薬医門の本丸土橋門、南門が高麗門形式の水門と3棟の城門が移築現存している。篠津神社(中庄)の表門が脇戸付高麗門の北大手門であり、若宮八幡神社(杉浦町)の表門が脇戸付高麗門の本丸犬走門で、慶長期(1596-1615年)に建てられた城門を寛文の大地震後に現在の姿に再建したと考えられている。御霊神社(鳥居川町)の本殿脇門が高麗門形式の本丸黒門(御倉門)であり、近津尾神社(国分)の神門が薬医門形式の三の丸米倉門(水門)である。和田神社(木下町)の表門が高麗門形式の藩校・遵義堂(じゅんぎどう)門で、遵義堂跡には膳所高等学校が建てられている。城門以外では、六体地蔵堂(昭和町)が台所方の御椀倉を移築したもので、茶臼山公園の芭蕉会館(秋葉台)に2層の本丸東正面隅櫓が移築現存しているが、周囲を雑木(ざつぼく)が覆い隠してしまい、外観を確認することができない。隣の草津市では、鞭嵜八幡宮(矢橋町)の表門が脇戸付高麗門の南大手門であり、新宮神社(野路)の参道横の門が高麗門形式の二の丸北手水門であり、天神社(木川町)の表門も城門を移築したものという。他の地域では、ヤマキ酒店(栗東市岡)に移築された脇戸付高麗門の旧長徳寺山門が大手門の枡形一ノ門といい、大阪府泉大津市松之浜町の細見邸に脇戸付高麗門の瀬田口総門(南総門)が移築現存しているという。これらの建築物は全て本瓦葺となっており、旧膳所藩主・本多家の立葵紋が多くみられる。城下町となる響忍寺(大津市木下町)に家老屋敷の長屋門が現存している。響忍寺(こうにんじ)は、もとは膳所藩家老・村松八郎右衛門の屋敷であった。東海道が響忍寺を避けるように大きく北に迂回しているいるが、これは敵の軍勢が東海道を西から攻めて大津口総門(北総門)を突破した場合、ここに家老屋敷を置いて正面から食い止める想定であった。相模川の流路を付け替えて家老屋敷の前面に水堀の役目を持たせ、屋敷内には砲台まで据えられていた。境内の裏にはかつて相模川沿いに防塁が存在したという。響忍寺に残る長屋門は上級武士にのみ使用が許されたもので、門の左右の部屋で門番の侍が生活することができる形式の門である。他にも、大養寺(大津市本丸町)、敬願寺(大津市木下町)、願林寺(草津市野路)に長屋門が残る。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに勝利して名実共に天下人となった徳川家康は、翌慶長6年(1601年)琵琶湖水運と東海道の押さえとして膳所崎に新城を築かせた。当初、家康は大津城に家臣の戸田左門一西(かずあき)を配置しており、『懐郷坐談(かいきょうざだん)』によると、信任の厚かった側近の本多佐渡守正信(まさのぶ)に、京都・大坂への備えとして逢坂(おうさか)の関の復旧と、大津城の再興の両案を相談した。しかし正信は賛成せず、大津城は廃して、山岡景隆(かげたか)の瀬田城跡、大江村の窪江城(大津市大江)跡、膳所崎の大明神社地の3箇所のいずれかに築城することを進言し、城地としての地勢を判断した結果、膳所崎に築城することとなった。大津城も交通の要衝にあったが、関ヶ原の前哨戦である大津城の戦いで、背後の長良山(ながらやま)から砲撃の射程に入ってしまうという守りの弱さが露呈していた。大津城の石材や城門等はこの膳所城に移されている。

織田期の坂本城から始まり、豊臣期の大津城を経て、徳川期の膳所城に至る系譜であった。膳所城の築城に関しては、慶長6年(1601年)6月、城造りの名手といわれた藤堂高虎(たかとら)に縄張りするよう下命があり、8人の奉行が築城の監督に当たって、多くの大名家に普請させるいわゆる天下普請によるものであった。関ヶ原の戦いの後では、徳川家による初めての築城であり、その後の彦根城(彦根市)や、武蔵江戸城(東京都千代田区)、越後高田城(新潟県上越市)、越前福井城(福井県福井市)、美濃加納城(岐阜県岐阜市)、駿河駿府城(静岡県静岡市)、尾張名古屋城(愛知県名古屋市)、伊賀上野城(三重県伊賀市)、山城二城城(京都府京都市)、丹波亀山城(京都府亀岡市)、丹波篠山城(兵庫県丹波篠山市)、摂津大坂城(大阪府大阪市)など、数多くおこなわれた天下普請の第1号であった。大坂に健在だった豊臣右大臣家を牽制し、豊臣恩顧の西国大名たちを監視する目的もあったが、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」といわれた瀬田の唐橋に近い場所であったことも理由に考えられる。東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡らない限り、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。明治時代になるまで、瀬田川に架かる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、交通の要衝かつ京都防衛上の重要地点であったため、ここで歴史的な戦乱が数多く発生している。いちばん最初に橋が架けられた時期は不明であるが、『日本書紀』の天武天皇元年(672年)の壬申の乱のときが文献上の初見であるため、天智天皇6年(667年)に遷都した大津宮の時代に架橋されたと考えられる。昭和63年(1988年)現在の橋より約80m南(下流)で2基の橋脚の基礎が発見された。橋脚の木材の年輪年代測定などにより、7世紀中頃から末期とされ、大津宮の時代と合致する。この橋の幅は7mから9mで、長さ250mと推定された。天武天皇元年(672年)の壬申の乱では、瀬田の唐橋が大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となった。大友皇子方が橋板を外して大海人皇子方に備えたが、ついに突破されて滅んでいる。鳥居川町の御霊神社の主祭神は弘文天皇(大友皇子)である。『日本書紀』には「是に大友皇子、走(にげ)て入る所無し、乃ち還りて山前(やまさき)に隠れ、自ら縊(くびくく)る」とある。この「山前」がどこなのか不明であるが、御霊神社の由緒によると、大友皇子が命を絶った隠れ山が御霊神社の裏山であると伝えられ、白鳳4年(675年)大友皇子の第二子・大友与多王(おおとものよたのみこ)が父の霊を祀って御霊神社を創建したと伝えられる。その後、天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)では、孝謙上皇方が恵美押勝(えみのおしかつ)に先回りして瀬田の唐橋を焼いている。治承・寿永の乱(源平合戦)では、源頼朝(よりとも)と源義仲(よしなか)との争いで、寿永3年(1184年)頼朝方の源範頼(のりより)の攻撃に対して、義仲方の今井兼平(かねひら)が瀬田橋の橋板を外して守った。宇治方面での敗報を受けて撤退、義仲と合流して粟津の戦いで滅びている。承久3年(1221年)承久の乱では、後鳥羽上皇方の軍勢が鎌倉幕府軍と瀬田川を挟んで交戦した。上皇軍は瀬田橋の橋板を外して防戦するが、佐々木信綱(のぶつな)が増水した瀬田川を強引に渡河して突破、幕府軍は入京に成功している。建武3年(1336年)建武の乱では、後醍醐天皇方の軍勢が瀬田川を挟んで足利尊氏(たかうじ)の弟・直義(ただよし)と交戦、尊氏は南下して宇治川で楠木正成(まさしげ)軍を突破して京都を奪取した。

戦国時代、上洛中の武田信玄(しんげん)が危篤状態となって帰国するとき、重臣の山県昌景(まさかげ)に対して「源四郎、明日は瀬田に(武田の)旗を立てよ」と言い残したという。瀬田は都の入口を意味する言葉で、信玄が上洛に執着していた事が分かる。天正10年(1582年)本能寺の変の後、明智光秀(みつひで)による安土城(近江八幡市)の接収を阻止するため、瀬田城の山岡景隆が瀬田の唐橋を焼き落とした。光秀が仮橋を架けるのに3日も費やしたという。その後、秀吉が現在の場所に中島を挟んで大橋と小橋を架けている。江戸幕府は瀬田川に瀬田橋以外に橋を架けることを禁じ、膳所藩が瀬田の唐橋の維持管理を担った。東海道は瀬田の唐橋を渡り、里謡に「瀬田の唐橋、唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、水に浮かぶは膳所の城」と謡われた。橋の特徴である擬宝珠は歴代受け継がれており、「明和九壬辰年(1772年)」「寛政五癸丑年(1793年)」「文化元甲子年(1804年)」などの銘文が入ったものも現存する。慶長6年(1601年)膳所城の初代城主は、大津城から戸田一西を3万石で入城させ、ここに膳所藩が立藩した。慶長9年(1604年)一西は城下を巡見中に落馬、不幸にも脇差が刺さって死去している。跡は長男の氏鉄(うじかね)が継いだ。慶長19年(1614年)大坂の陣では膳所城の守備に徹することを命ぜられ、元和3年(1617年)摂津国尼崎藩5万石に転封した。代わって三河国西尾藩から本多康俊(やすとし)が3万石で入封、元和7年(1621年)長男の俊次のとき再び西尾藩に転封した。次いで伊勢国長島藩から菅沼定芳(さだよし)が3万1千石で入封し、寛永11年(1634年)丹波国亀山藩に転封、下総国佐倉藩から石川忠総(ただふさ)が7万石で入封し、慶安4年(1651年)嫡孫の憲之(のりゆき)のとき伊勢国亀山藩に転封した。代わって、同じ伊勢国亀山藩から本多俊次が滋賀・栗太両郡など7万石で再び入封し、以後は本多氏が13代続いて幕末を迎えた。最後の藩主となる本多康穣(やすしげ)の代に、藩内で勤王派と佐幕派が膳所藩の主導権をめぐって争った。譜代藩として佐幕派も存在するが、京都に近い土地柄ゆえ勤王派は多く、長州藩士らとも親交しており、京都所司代や京都守護職、新選組が密偵を送っていたとされる。慶応元年(1865年)14代将軍の徳川家茂(いえもち)が第二次長州征討の指揮を執ることになり、その上洛で膳所城に宿泊することとなった。膳所藩では2代将軍・秀忠(ひでただ)以来の将軍宿泊であり、藩を挙げて準備を進めていた。しかし、京都守護職・松平容保(かたもり)より膳所藩士による将軍暗殺計画が発覚したため宿泊の中止が通達された。これに驚いた膳所藩は、中老・保田正経(やすだまさつね)ら勤王派11名を捕縛して予定どおり宿泊を嘆願するが聞き入れられず、将軍一行は厳戒態勢のまま膳所を通過した。膳所藩は幕府に勤王派でないことを示すため、高禄の4名を切腹、他7名を斬首、その家族は「膳所十里四方所払い」とした。明治維新後、この11名は膳所藩十一烈士と呼ばれ、安昌寺(大津市膳所)には切腹した4名の墓があり、斬首の7名は岡山霊園(大津市湖城が丘)に葬られた。慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争では新政府軍に与して桑名藩攻めに出兵する。明治3年(1870年)廃城の太政官布告が出されると、膳所藩は「無用の長物」という理由で「廃城願」をすぐに提出、許可翌日より天守など建築物の解体・移築をおこない、膳所城は完全に消滅した。本丸から石垣にいたるまで総額1,200円で売り払ったという。琵琶湖に浮かぶ膳所城は地盤が脆弱で、莫大な維持費が膳所藩の財政を苦しめたのである。(2023.12.17)

膳所神社に現存する本丸大手門
膳所神社に現存する本丸大手門

御椀倉を転用した六体地蔵堂
御椀倉を転用した六体地蔵堂

雑木で隠れた2層の本丸隅櫓
雑木で隠れた2層の本丸隅櫓

村松八郎右衛門屋敷の長屋門
村松八郎右衛門屋敷の長屋門

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