善照寺砦は、織田信長が今川義元(よしもと)との決戦に備え、今川方の鳴海城(名古屋市緑区鳴海町城)を取り囲むように築いた付城のひとつである。鳴海城は小丘陵の西端に存在したが、善照寺砦は同じ丘陵の東端に後から築かれた。鳴海城とは目と鼻の先で、その距離は僅か500m程となり、悪口を言い合う言葉戦いもおこなわれたという。善照寺砦の規模は東西24間(約43m)、南北16間(約29m)と伝えられ、空堀と土塁を巡らせた館形式であった。西側の尾根続きに虎口があり、虎口南側の土塁は櫓台状になっていた。戦後しばらくは善照寺砦の空堀も土塁も完全に残されていたが、砦公園を造る際にこれらの遺構は破壊された。砦公園の遊具のある広場が本丸跡であるが、善照寺砦の遺構は確認できない。鳴海城と至近距離で対峙するため、その間の尾根筋を堀切で断ち切ったという。鳴海小学校(名古屋市緑区鳴海町矢切)の東側の道路は、地元では堀跡と伝わる。善照寺砦の名称は、近くにあった浄土真宗の善照寺に由来する。この善照寺は桶狭間合戦の兵火により焼失し、その後は転々としたのち、寛永10年(1633年)円竜寺と改称して花井屋敷といわれた本町の現在地に落ち着いた。天文21年(1552年)織田方だった鳴海城の山口左馬助教継(のりつぐ)・九郎二郎教吉(のりよし)父子が今川方に寝返った。さらに、永禄2年(1559年)山口氏は、織田方の水野大膳亮忠守(ただもり)が拠る大高城(名古屋市緑区大高町城山)を攻略し、近藤九十郎景春(かげはる)の沓掛城(豊明市沓掛町)も調略している。今川義元は山口教継・教吉父子を自害させて、鳴海城に岡部元信(もとのぶ)、大高城に鵜殿長照(うどのながてる)といった今川家の重臣を配置した。一方、信長は現在の名古屋市緑区に、鳴海城を包囲するように善照寺砦、丹下砦(鳴海町清水寺)、中島砦(鳴海町下中)を築き、大高城と鳴海城の連絡を断つために丸根砦(大高町丸根)と鷲津砦(大高町鷲津山)を築いた。善照寺砦には佐久間右衛門尉信盛(のぶもり)・左京亮信辰(のぶとき)兄弟ら450人、丹下砦には水野忠光(ただみつ)、山口盛隆(もりたか)ら340人、中島砦には梶川高秀(たかひで)ら250人を配置したとされる。このため、鳴海・大高城の周辺は一触即発の情勢となった。こうして桶狭間の戦いが始まることになる。鳴海城本丸跡は標高14m、善照寺砦本丸跡は標高26mなので12mも高い。しかし、善照寺砦から西方の鳴海城は途中の勾配が邪魔して目視することができない。一方で桶狭間合戦の主戦場となる東方は大きく視界が開けている。従来、善照寺砦は鳴海城を監視するための付城だと考えられてきたが、信長は今川軍が後詰めに来ることを想定しており、今川軍が東方から来た際にその動向を見極めるために善照寺砦を築いたと考えられるようになった。永禄3年(1560年)5月12日に駿河国府中(駿府)を出陣した今川義元は、鎌倉往還(後の東海道)を西上して、初日は駿河国藤枝に泊まり、翌13日に遠江掛川城(静岡県掛川市)、14日に遠江引馬城(静岡県浜松市)、15日に三河吉田城(豊橋市)、16日に三河岡崎城(岡崎市)と進軍している。ここまで1日20kmから40kmという早い速度であった。17日に三河池鯉鮒(ちりゅう)城(知立市)に陣を張り、18日には尾張に入り近藤景春が守備する沓掛城に入った。この時、先鋒の松平元康(後の徳川家康)隊と井伊直盛(なおもり)隊は、先行して前線に向かった。5月18日の夕刻、今川義元の大軍が尾張に来襲したという急報が清洲城(清須市)に届いた。その夜、諸将は清洲城に集まったが、信長は軍議も開かず雑談だけして帰宅させた。
老臣たちは「運の末には智慧の鏡も曇るとは此節なり」と嘲笑した。この信長の行動は、織田家中に内通者がいることを想定して、後詰めせず清洲城に籠城すると思わせることが目的だったとも考えられる。義元は2万5千の大軍で尾張に侵攻していた。今川方の最前線である鳴海城と大高城の救援が目的であるが、今川家の領国すべてに動員を掛けており、総力を挙げて織田家を滅ぼそうとしていた。今川軍は大軍を活かして部隊を分散し、織田軍の城砦を部隊ごとに壊滅させる戦術を採った。迎え撃つ織田信長は4千の兵しか動員できず、今川軍の僅か1/6以下であった。19日の早朝、松平元康隊が丸根砦に攻撃を開始、同時に朝比奈泰朝(やすとも)隊が鷲津砦に攻撃を開始した。丸根・鷲津砦から清洲城の信長の許に次々と急報が届く。信長は「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」と敦盛を舞って出陣を決意すると、法螺貝を吹かせ、具足を身に付けて、立ったまま食事をとり、単騎で駆け出した。信長に追従したのは小姓衆の僅か5騎に過ぎない。熱田神宮(名古屋市熱田区神宮)に着くと戦勝祈願をおこない、その間に雑兵200が追い付いてきた。永楽通宝の「まけずの鍔」の逸話はこの時のものである。じつは信長は熱田神宮に来るまでに、榎白山神社(名古屋市西区押切)、日置神社(名古屋市中区橘)、法持寺(名古屋市熱田区白鳥)などにも立ち寄って戦勝祈願をおこなっている。僅か12km程を4時間も掛けており、後続部隊が追い付くための遅い行軍であった。熱田神宮の摂社・源大夫社より、鳴海潟という入り江越しに丸根・鷲津砦から黒煙が上がるのが見え、両砦の陥落を確認している。熱田を出た信長は軍勢を増やしながら丹下砦に入り、すぐに善照寺砦に移動している。善照寺砦から桶狭間までの距離は3.6km、善照寺砦の下には織田軍が集結していた。沓掛城から大高城に向かう今川義元本隊1500は、桶狭間の本陣に着陣した。その頃、義元の許には松平元康と朝比奈泰朝が丸根・鷲津砦を落としたという吉報が届いた。信長の後詰めはなく、丸根・鷲津砦が見殺しとなり、信長は清洲で籠城していると考えても無理はない。この時、中島砦の佐々隼人正政次(まさつぐ)、千秋四郎季忠(すえただ)ら300の軍勢が、今川軍の前衛部隊である高根山の松井宗信(むねのぶ)隊に向けて突撃のうえ玉砕している。標高54mの高根山はこの辺りで一番高く、松井宗信隊は鳴海城方面の中島砦・善照寺砦の動静を監視していた。佐々政次は佐々成政(なりまさ)の長兄であり、千秋季忠は羽豆城(南知多町)の城主で、熱田大宮司家を継いだ人物であった。この行動は今川軍の注意を逸らすために、信長の命令による陽動作戦であったという説もある。桶狭間の本陣には、丸根・鷲津両砦の守将の首級、佐々政次・千秋季忠の首級が届けられ、義元は幸先よしと気を良くした。信長は、佐々政次らの出撃後に、家老衆の諌止を振り切って中島砦に入った。この時、信長の軍勢は「二千に足らざる御人数」(信長公記)であった。善照寺砦には佐久間信盛・信辰兄弟ら1000の軍勢を置き、大将旗をはじめ多くの幟旗を立て並べて信長のいる本陣に見せかけている。信長は将士に対し「各よくよく承候へ、あの武者、宵に兵粮つかひて夜もすがら来り、大高へ兵粮入、鷲津・丸根にて手を砕、辛労してつかれたる武者也、こなたハ新手也、其上小軍にシテ大敵ヲ恐ルヽコト莫カレ、運ハ天ニ在リ」(信長公記)と鼓舞し、中島砦から精鋭部隊2000を率いて扇川沿いを進み、義元のいる桶狭間の本陣に向けて乾坤一擲の進軍を開始した。
現在の東陵中学校(名古屋市緑区東陵)の山陰から名鉄有松駅辺りを通り、生山(はいやま)の東の谷間に沿って釜ヶ谷まで進んだと考えられる。桶狭間の「狭間」とは、丘陵地の尾根と尾根の間に深く入り込んだ谷のことである。当時の桶狭間の谷筋や低地には河川が幾筋も流れ、池沼や深田が広がっていた。桶狭間の本陣というと、過去の定説から窪地の印象が強いが、実際は「おけはざま山」(信長公記)とあり低地ではない。しかし、今も昔も桶狭間山という山は存在せず、当時の桶狭間村と大脇村の境界にあった山を指したものと考えられる。当時は現在よりも8m高かったという。その時、天候が激変し、にわかに大風が吹き出して、黒い空から大粒の雨が雹(ひょう)を伴って降り出した。目も開けられないほどの豪雨になったという。あまりの事に織田軍では「熱田大明神の神軍(かみいくさ)か」と言い合った。この豪雨のため義元本陣は織田軍の接近に気付かなかった。織田軍は、おけはざま山の北800mの釜ヶ谷に集結していた。雨が止み、晴れ間が覗いた時、信長率いる精鋭部隊が信長坂(しんちょうざか)を駆け上がり、「すわ、かゝれ、かゝれ」と義元本陣の右翼に突撃した。丘陵に散開していた今川軍は崩れ、「弓・槍・鉄砲・幟・指し物、算を乱すに異ならず、義元の塗輿も捨て崩れ逃げけり」と大混乱を物語っている。今川本隊は撤退を始めるが追い付かれて乱戦となった。「旗本は是なり、是へ懸かれ」と下知が飛び、今川本隊の300騎ほどの旗本が円陣を組んで義元を守って退くが、次第に討ち減らされて50騎ほどとなった。殺到した織田軍で、義元に一番槍を付けたのが親衛隊の服部小平太一忠(かずただ)である。しかし、義元も小平太の膝を斬りつけて最後の抵抗を試みた。続いて、親衛隊の毛利新助良勝(よしかつ)が義元を斬り伏せ、組み付いたまま義元の首を掻き切った。このとき義元は毛利新助の人差し指を食いちぎったという。程なく「敵の御大将、討ち取ったり」と大音声が鳴り響いた。この桶狭間の戦いは、地形に制約された今川軍が兵力の分散を余儀なくされ、一方の織田軍は桶狭間の地の利や天候の急変を活かして、義元の本陣近くまで接近することができた。そもそも、信長が義元本陣の急襲を成功させるには、おけはざま山の中腹に義元が本陣を構えるという確かな情報が必要であった。『伊束法師物語』によれば、5月17日に今川軍の一部が桶狭間に先発して本陣を造ったという記述がある。これを裏付けるかのように、地元には「今川方の瀬名氏俊(せなうじとし)率いる兵200が村に来て本陣を設営した」という口伝が残る。このとき瀬名氏俊が着陣した瀬名伊予守氏俊陣地跡(名古屋市緑区桶狭間)は東西15m、南北38m程の規模で、竹林の台地にあった。地元では陣地跡を「セナ藪(やぶ)」とか「センノ藪」と呼んだ。付近には瀬名氏が軍評定(いくさひょうじょう)をおこなった「戦評の松」という伝承地もある。その情報を信長にもたらしたのは簗田出羽守政綱(まさつな)との説がある。それによると簗田氏は、17日に今川軍の幕奉行・瀬名氏俊が桶狭間に先遣されて、義元が19日の昼食を取るための本陣を設営しているという情報を掴み、翌18日夜に信長へ注進したというものである。多くの戦記で、義元に一番槍を付けて討ち取った服部小平太と毛利新介よりも簗田出羽守の方が一番手柄とされ、沓掛城と3千貫文の領地を賜ったとある。連歌師・里村紹巴(じょうは)の『紹巴富士見道記』にも、桶狭間合戦後に沓掛が簗田氏の所領であったと分かる記述がある。瀬名氏俊は本陣設営後に大高城に向かっていたので戦死を免れた。
桶狭間合戦ゆかりの旧跡は広範囲に点在する。その理由は、信長が義元を討ち取った後、潰走する今川軍を追って、織田軍による大規模な追撃・掃討戦がおこなわれたためである。現在、桶狭間古戦場の候補地として、桶狭間の丘陵西麓の桶狭間古戦場公園(名古屋市緑区桶狭間北)と、丘陵北麓の桶狭間古戦場伝説地(豊明市栄町)が挙げられる。おそらく織田軍に急襲された今川軍はその両方に敗走したので、いずれも古戦場といえる。しかし、大高城に逃れようとした義元が討たれたのは、かつて田楽坪と呼ばれた西麓の古戦場と考えられる。義元は深田際まで追い込まれて討ち取られた。桶狭間古戦場公園には、田楽坪の「ねず塚」から出土した「駿公墓碣(すんこうぼけつ)」と刻まれた墓碑があり、義元のものとされる。田楽坪の東方にある丘陵中腹あたりは見晴らしがよく、今川軍の前衛部隊である松井宗信隊1500が布陣した高根山と幕山(まくやま)や、井伊直盛隊1100が布陣した巻山(まきやま)が一望でき、人馬に給する水や草にも恵まれて本陣を置くのにふさわしい。幕山は前衛部隊が陣幕を張ったことから名付けられ、巻山は義元の敗死後に井伊直盛隊が織田軍に取り巻かれる、つまり包囲されたことから名付けられたという。遠江二俣城主の松井左衛門宗信は高根山で戦死、井伊直盛は次郎法師こと女城主・井伊直虎(なおとら)の父で、巻山で戦死している。長福寺(名古屋市緑区桶狭間)は、桶狭間合戦後に信長が義元の首検証をおこなったという寺院で、境内には血刀濯ぎ(ちがたなすすぎ)の池もある。ここには『古戦場討死人別』という史料があり、桶狭間合戦での戦死者が記録されるが、この最後に「此外信長勢討死九百九十有余人、此内弐百七拾弐人ハ近江国佐々木方之加勢」とあり、織田軍の戦死者990余人のうち272人は近江国の佐々木方つまり六角氏の援軍とある。信長と六角承禎(じょうてい)は敵対していたイメージが強いが、この頃は同盟していたようである。永禄2年(1559年)信長は一時上洛しており、『言継卿記』には「尾州より織田上総介(信長)上洛と云々、五百計(ばかり)と云々、異形の者多しと云々」とある。500もの軍勢を引き連れた信長は、六角氏が支配する南近江をどのように通過したのかという問題が解決する。永禄3年(1560年)の『六角承禎条書写』でも六角氏が織田氏や越前朝倉氏と同盟していた事が分かる。この頃、織田氏と美濃斎藤氏の同盟は崩壊しており、今川氏が織田氏を攻める際、斎藤氏と連携するはずだが斎藤氏は動いていない。織田氏は六角氏や朝倉氏と連携して、斎藤氏を背後から牽制していた可能性もある。今川軍を掃討した信長は、全軍を釜ヶ谷に集めて勝鬨を上げた後、村人に戦死者を葬るよう命じて引き上げた。村人は山裾に約50mおきに7つの穴を一列に掘って埋葬し、これが七ツ塚(名古屋市緑区桶狭間北)と呼ばれるようになった。清洲城内で首実検がおこなわれたのは翌20日である。ずらりと並べられた首級は3千余にのぼった。この時、武将の名を特定するのに役立ったのが、捕虜となった義元の同朋(どうぼう)衆の林阿弥だった。この林阿弥に義元の首を持たせ、10人の僧を付けて駿河に送った。信長が桶狭間合戦で薄氷の勝利を得ると、役目を終えた善照寺砦は廃されたものと考えられる。熱田神宮の社殿の南東側に残る築地塀は「信長塀」と呼ばれ、永禄3年(1560年)信長が戦勝の御礼に寄進したものである。土と石灰を油で塗り固めて瓦を積み重ねた構造で、三十三間堂(京都府京都市)の太閤塀、西宮神社(兵庫県西宮市)の大練塀と並び、日本三大土塀のひとつに数えられる。(2026.02.16)