吉田城(よしだじょう)

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今川氏、武田氏、徳川氏が争奪した東三河最大の拠点

豊川越しの吉田城鉄櫓
豊川越しの吉田城鉄櫓

手筒花火で有名な豊橋は、明治以前には吉田と呼ばれた。この吉田の花火は、豊橋市内の吉田神社(豊橋市関屋町)に残る古文書『三河国古老伝』、『吉田神社略紀』に、「永禄元年(1558年)天王祭礼祀ノ花火ト云フ事始メル」、「花火ノ創始ハ羽田吉田綜録ニ永禄三申庚(1560年)今川義元公吉田城城代大原肥前守知尚公花火ヲ始ム」とあり、戦国時代より例祭に小規模ながら流星手筒、建物(仕掛花火)、綱火などが揚げられたと記録されており、全国的にもかなり古い歴史を持つと言われている。特に手筒花火は、この吉田神社が発祥の地とされる。東三河の要衝を押さえる吉田城は、豊川が朝倉川と合流する南岸の段丘にあって、背後に豊川を控えた本丸を中心に二の丸、三の丸を配置し、それを堀が同心円状に取り囲む半円郭式の縄張りであった。吉田城に天守はなかったが、三層櫓が5基もあげられており、これだけの三層櫓の数は例が少ないという。本丸の四隅には、鉄櫓(くろがねやぐら)、入道櫓、辰巳櫓、千貫櫓が存在した。吉田城が本格的に築城されたのは名古屋城が築城された10年後の元和8年(1622年)とされており、名古屋城で余った石材を使用して築かれたと言われている。吉田城の石垣を調査したところ、福島正則(まさのり)や、蜂須賀至鎮(よししげ)、毛利秀就(ひでなり)、池田利隆(としたか)の刻印の入った石が発見された。一方、石材の産地である西浦には、吉田城の石材を西浦からいかだを組んで豊川河口まで運んだという言い伝えがあるという。現在みられる遺構は、池田輝政(てるまさ)時代の旧態を残しており、本丸北西の鉄櫓跡に入道櫓を模した三層櫓が復元されている。かつて東海道五十三次の宿場でもあった城下には、古い家並みや船着き場跡があり、昔日の面影をとどめている。

永正2年(1505年)今川氏親(うじちか)の命により牧野古白(まきのこはく)が築城し、その当時は今橋城と称した。牧野氏は一色城(豊川市)を本拠とした今川氏幕下の豪族である。もとは一色氏の被官であった牧野氏の勢力が拡大するのは古白の時で、文明9年(1477年)一色刑部少輔時家(ときいえ)が家臣の波多野全慶(はたのぜんけい)に討たれた後、明応2年(1493年)灰野原合戦で波多野氏を破り、今川氏を後ろ盾に一色城主となって東三河に勢力を拡大した。今橋城に本拠を移した古白だが、永正3年(1506年)田原の戸田憲光(のりみつ)の讒言により、今川・戸田連合軍によって今橋城を攻め落とされ自刃した。今橋城には憲光の次男宣成(のぶしげ)が入ったが、大永2年(1522年)逆に今川氏の援軍を得た古白の遺子である牧野成三(しげみつ)・信成(のぶしげ)に追われる。吉田城と称するようになったのはこの頃である。その後、松平氏と戸田氏が争奪戦を繰り返したが、天文15年(1546年)今川義元(よしもと)が治めて城代の大原肥前守資良(すけよし)を置いた。

永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで義元が敗死したのちは、松平元康(のちの徳川家康)の勢力が東に伸び、永禄8年(1565年)今川氏の東三河の拠点であった吉田城を攻略して、重臣の酒井忠次(さかいただつぐ)を城主とした。翌永禄9年(1566年)三河統一を終えた元康は、三河守叙任と徳川という源姓を朝廷からの勅許という形で実現させる。元亀2年(1571年)武田信玄は駿河・遠江を経由して三河に侵攻し、足助城(東加茂郡足助町)や野田城(新城市)を落とし、二連木に到着した。酒井忠次はここで武田軍と戦ったが、大敗し吉田城へ退く。その間、徳川家康は浜松城(静岡県浜松市)より援軍を率いて吉田城に入城し、武田軍と対峙した。吉田城を包囲した信玄は攻城戦を避け、牛久保・長沢など近郷の民家を焼いて甲府へ帰還する。吉田城は長篠合戦の直前にも武田軍に攻められている。天正3年(1575年)長篠城(南設楽郡鳳来町)を包囲した武田勝頼(かつより)は、二連木城(豊橋市仁連木町)や牛久保城(豊川市)を攻略し、家康のいる吉田城に迫った。家康は吉田城下で戦ったが、城へ引きあげ籠城策をとった。勝頼は長期戦になるのを嫌い、長篠城攻略のため長篠に引きあげる。

天正18年(1590年)徳川家康の関東転封とともに、池田輝政が15万2000石で入封した。この石高は、明治にいたるまでの歴代城主の中で最高である。輝政は、それまでの中世風の城郭に新たな縄張りを施し、現在に残る後(うしろ)堅固で大規模な城に拡張した。しかし、慶長5年(1600年)輝政は播磨国姫路に転封となり、作事面は未完成のまま残された。江戸時代には、譜代大名が歴代の城主となるが、その交替は小刻みで、竹谷(たけのや)松平氏2代、深溝(ふこうず)松平氏2代、水野氏2代、小笠原氏4代、久世(くぜ)氏1代、牧野氏2代、大河内(おおこうち)松平氏1代、本庄(ほんじょう)松平氏1代、再び大河内松平氏7代という具合であった。その間、城の整備を進めることは、譜代ながら少禄の大名には難しく、輝政の計画は実現されることなく明治維新を迎えている。吉田の祇園祭で現在のように花火が盛大におこなわれるようになったのは、吉田が都市の形態を整えた元禄期(1688-1703年)以降とされる。この花火の打ち揚げは、寛政9年(1797年)の『東海道名所図会』にも紹介され、滝沢馬琴(ばきん)に「吉田の今日の花火天下一」とまで激賞され、江戸時代には常陸水戸(茨城県水戸市)、甲斐市川(山梨県西八代郡市川三郷町)と並び「日本三大花火の地」として全国的に有名であった。花火に使用される火薬は武器としても転用できるため、戦国時代より支配層が厳重に管理してきたが、この地域では神社での放揚にあたり庶民に火薬の使用と製造を許可された。これが始まりとなり、江戸時代になって火薬の製造や貯蔵は全国的に禁じられたが、徳川将軍家に縁の深い譜代大名が吉田城主を代々勤めたこともあり、この地域は江戸時代をとおしてその特権が保護された。(2004.05.07)

腰曲輪の高石垣
腰曲輪の高石垣

辰巳櫓下の内堀
辰巳櫓下の内堀

裏御門跡の石垣
裏御門跡の石垣

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