横須賀城(よこすかじょう)

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高天神城に対する陣城から始まり、遠江南部の拠点として整備された城

本丸の南面を見事に固める玉石垣
本丸の南面を見事に固める玉石垣

小笠山の支脈が南へ延びて、平地に接するところに位置する横須賀城は、戦国時代の攻城戦のための陣城から始まり、江戸時代には横須賀藩の政庁として使用され、明治時代に至るまで約290年間も続いた。このため、中世城郭と近世城郭のふたつの特徴を併せ持っている。比高30mほどの丘陵地を利用して、本丸を中心に西の丸、二の丸、三の丸、北の丸、および松尾山が配置され、南側斜面は総石垣造りである。北の丸の北東にある松尾山は築城当時の主郭部と推定され、本丸などとともに平山城として築かれており、松尾山一帯には土塁なども残る。その後、二の丸等の平城としての城域が拡張されて、現在に残る横須賀城の形態となった。この城は東西に長い連郭式の構造であるため、南面に東大手門、西大手門という2つの大手門があり「両頭の城」といわれた。江戸時代中期頃まで、横須賀城の前面には遠州灘から深くくい込む入江があり、三方を入江と沼沢、深田に囲まれた天然の要害であった。また、この入江には横須賀湊(みなと)があり、天然の良港として大きな船も寄港し、水上交通と物流の拠点となっていた。小笠山を挟んで北方にある掛川城(掛川市掛川)が、陸の大動脈である東海道の押さえであったのに対し、横須賀城は小笠山の南を通る浜街道の押さえであると同時に、海上交通の要衝である遠州灘の押さえでもあったと考えられる。また、掛川城の外堀となる逆川は、この入江に流れ込んでいたため、横須賀城と掛川城は船で直接行き来することができたと考えられている。しかし、宝永4年(1707年)宝永地震による地盤隆起によって入江は消滅、現在のように海岸線は南に遠くなり、横須賀城の要害性は失われた。現在は、本丸、天守台、西の丸、北の丸等は原形を留めているが、他は住宅地や農地により消滅している。昭和56年(1981年)国の史跡に指定されており、横須賀城跡公園として整備されている。横須賀城の特徴は、天竜川より運ばれた丸い河原石を用いた珍しい石垣で、他に類を見ない玉石垣は、玉石積みとも呼ばれる。本丸から西の丸にかけては、この玉石垣が復元されている。横須賀城の本丸北東隅には、4層の天守が建て坪40坪余で建っていたと記録されている。天守台といっても石垣を高く積んだ一般的なものとは異なり、周囲に低い石垣を廻らせた程度のもので、南東隅には入口と考えられる傾斜がある。また、北側には防御のための土塁が造られている。恩高寺(掛川市西大渕)には、天守に用いられていた鯱と鬼瓦が保存されている。北の丸には数棟の建物が建っていたとされ、武器倉庫跡といわれている。また城主の側室が住んでいた時期もあったことが記録に残る。大手門付近は完全に住宅地化したが、東大手門の西側に三日月堀が残っている。三日月堀といえば武田流築城術として有名であるが、丸馬出とセットで構築する武田氏の三日月堀とは異なり、初期にあった内堀の名残といわれている。城跡の北西にある撰要寺(掛川市山崎)には、江戸時代初期の本多氏時代に建てられた不開門(あかずのもん)が移築現存しており、本多家の「丸に立葵」の紋章が確認できる。この撰要寺には、小笠原氏、大須賀氏、本多氏等の墓塔群も存在する。また、搦手門が本源寺(掛川市西大渕)に移築現存している。横須賀城の東大手門の外側に設置された町番所は、城内に出入する人や荷物を見張るため、藩の役人や足軽が詰めた建物である。安政3年(1856年)に再建された横須賀町番所(掛川市西大渕)が移築現存し、大須賀町歴史民俗資料館として一般公開されている。このほか、油山寺(袋井市村松)には旧御殿の一部が移築されている。

横須賀城の築城以前、この地には松尾城という古城があり、横須賀城はこの城跡を利用して築城したとみられる。松尾城は、付近の清ケ谷(せいがや)城(掛川市山崎)、小谷田(おやだ)城(掛川市山崎)、細ケ谷(ほそがや)城(掛川市西大渕)、上ノ山(うえのやま)城(掛川市西大渕)と同時期に築かれたという。清ケ谷城は松尾城の北方にあり、四番山を中心に一番山から五番山にかけて8館群が確認されている。これらの築城時期は定かでないが、高天神城(掛川市上土方嶺向)や横地城(菊川市東横地)よりも古い時代の築城法が取られている。このあたりは9世紀頃に成立した笠原荘という遠州灘に沿って広がる広大な荘園の中心地域とされ、特に清ケ谷は奈良時代より須恵器の産地として栄え、清ケ谷古窯跡群があり、遠江国分寺(磐田市見付)の瓦の生産地としても有名である。戦国時代になると、遠江国の支配は駿河今川氏から徳川家康に代わっているが、甲斐武田氏の圧力に悩まされていた。武田信玄(しんげん)の跡を継いだ勝頼(かつより)は、天正2年(1574年)から遠江への本格的な侵攻を開始、家康の属将であった小笠原氏助(うじすけ)が守備する高天神城を攻略した。高天神城の守備に当たっていた大須賀康高(おおすがやすたか)や渥美源五郎は、浜松城(浜松市)を目指して落去している。高天神城を落とされた家康は、高天神城の西方約8kmの地にあった馬伏塚(まむしづか)城(袋井市浅名)を改修して大須賀康高を入れ、武田軍の西方進出を阻止するとともに高天神城への牽制とした。馬伏塚城は小笠原氏助の持ち城であったが、氏助が武田方に寝返ったため城主不在になっていた。大須賀氏は北総の千葉氏の一族で、下総国香取郡大須賀保を領して、大須賀氏を称したことに始まる。鎌倉時代の宝治合戦で三浦氏に加勢して敗れ、いったん下野に逃れたが、後に甲斐を経て三河に来て土着した。これが三河大須賀氏の始まりである。戦国時代、徳川氏に仕えた大須賀氏はその後裔とされる。天正3年(1575年)長篠の戦いで織田・徳川連合軍が武田勝頼に大勝すると、家康は高天神城の奪還に向けて行動を開始した。まず、天正6年(1578年)馬伏塚城の大須賀康高に命じて、高天神城を攻略するための本格的な軍事拠点として、横須賀城を築かせている。康高は築城場所を選定する際、当初は横須賀城址から東方約1kmにある三熊野神社(掛川市西大渕)の裏山である三社山を考えていたが、そこは文武天皇に関わる由緒ある地であったため、そこを避けて現在地に定めたといわれている。横須賀城は、高天神城への海路の補給路を遮断するとともに、武田水軍に対抗するための城でもあった。『高天神記』によると、「天正六寅年春横須賀に御城取有り同国馬伏塚の城主大須賀五郎左衛門康高に命じ御自身御縄張十一日より始まり」とあり、一説によると家康がみずから縄張りしたともいう。さらに家康は、大須賀氏の軍勢を強化するため、高天神城の落城後に徳川家に帰参した者らを康高の配下に付けた。康高自身が歴戦の勇士でもあり、増強された大須賀氏の軍勢は横須賀衆、あるいは横須賀党などと呼ばれ、その後の戦いで活躍することになる。横須賀衆の中でも特に優れていた7人を俗に「横須賀七人衆」といい、その筆頭は頸取(くびとり)源五郎こと渥美源五郎勝吉(かつよし)で、他には久世三四郎広宣(ひろのぶ)、坂部三十郎広勝(ひろかつ)などの名が知られている。天正6年(1578年)8月、大須賀氏をはじめとする徳川勢は高天神城下に進み付近を放火して回った。この時、高天神城の城兵も出撃してきて合戦となっている。

この戦いでは、一番槍が久世三四郎、二番槍が渥美源五郎、一番首が坂部三十郎と伝えられ、いずれも横須賀衆の面々であった。戦いは石川康道(やすみち)、久野宗能(むねよし)らの軍勢も加わって徳川方の勝利に終わっている。翌月、武田勝頼は甲府を出陣、10月には小山城(吉田町)から相良方面に陣取った。目的は高天神城への兵糧の搬入である。渥美源五郎と福岡太郎八は、大須賀康高の命により武田方の相良城(牧之原市)を偵察し、任務を終えると地頭方から佐倉に出たが、桜が池に抜ける間道の途中で武田方の忍び17人と遭遇した。渥美源五郎らはわずか6人であったが、少しも慌てることなく、「敵勢は袋の鼠、攻め寄せて一気に討ち取れ!」と叫んだ。この機転に武田方は他にも伏兵が潜んでいると思い慌てるが、渥美源五郎はこの機をとらえて突撃、6つの首級を取って見事に敵を潰走させた。のちに、この場所は首取坂と呼ばれるようになる。家康は長男の岡崎信康(のぶやす)とともに馬伏塚城に進出、12月3日にはさらに進んで三社山に本陣を置いた。武田軍は浜街道を西進して、小笠原氏助を先手に大須賀康高が守備する横須賀城を攻めた。この時も渥美源五郎が一番首をあげている。翌天正7年(1579年)にも勝頼は高天神城の南方の国安に2度布陣した。いずれも兵糧の搬入が目的で大きな戦闘には至らなかった。同年(1579年)9月、大須賀康高と横須賀衆は高天神城下に進出して田畑を焼いて回り、出撃してきた城兵と戦った。この戦闘でも横須賀衆の働きはめざましく、57の首級を取って家康から称賛されている。天正7年(1579年)から天正8年(1580年)にかけて、家康は付城として「高天神六砦」と称される小笠山、能ヶ坂(のがさか)、三井山(みついざん)、中村城山(なかむらじょうやま)、火ヶ峰(ひがみね)、獅子ヶ鼻(ししがはな)の砦を構えて、高天神城の包囲網を形成、兵糧弾薬の搬入を遮断した。天正8年(1580年)7月、家康は9千の軍勢を率いて本陣の横須賀城に入り、小笠山砦(掛川市入山瀬)に石川康道の500、能ヶ坂砦(掛川市小貫)に本多康重(やすしげ)の500、三井山砦(掛川市大坂)に酒井重忠(しげただ)の250、中村城山砦(掛川市中)、火ヶ峰砦(掛川市西之谷)、獅子ヶ鼻砦(菊川市大石)に大須賀康高の軍勢を250づつ配備した。天正9年(1581年)高天神城の兵糧は底を尽き、勝頼からの援軍も期待できない状況で、岡部丹後守長教(ながのり)以下、1千の城兵は籠城戦を断念、早暁に城門を開け放って全軍で突撃した。横須賀衆は徳川軍のなかでも高天神城に最も接近した位置に布陣していたため、真っ先に城内に踏み込んだと伝えられる。久世三四郎は城兵との剣戟(けんげき)によって飛び散る火花で敵味方を見分けたといわれ、その奮戦ぶりが伝えられている。高天神城を奪還した家康は、城内を検視したうえで建物をすべて焼き払って廃城とし、代わって地勢的に有利な横須賀城を遠江南部における拠点として整備した。大須賀康高は戦功により遠江国城飼郡を領し、引き続き横須賀城主を務めた。翌天正10年(1582年)織田・徳川・北条連合軍の侵攻によって、武田勝頼は甲斐国の天目山で滅亡した。家康はこの功績により信長から駿河国を賜っており、これによって三河・遠江・駿河を領することになり、軍事拠点としての横須賀城の重要性は薄れた。大須賀康高はその後も横須賀衆を率いて各地を転戦して活躍を続けている。天正17年(1589年)大須賀康高は横須賀城下の撰要寺に参詣した際、本堂の阿弥陀如来の前で急死した。享年62歳であった。

大須賀康高には嗣子がなかったため、娘婿である榊原康政(やすまさ)の長男・忠政(ただまさ)が大須賀家の養子となって跡を継いだ。この時、忠政はまだ9歳であったため、久世三四郎ら横須賀衆がこれを補佐した。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐後、徳川家康が関東へ入部すると、大須賀忠政は上総久留里城(千葉県君津市)へ移封となり、代わって横須賀城には豊臣大名の渡瀬繁詮(わたらせしげあき)が3万石で入城した。この左衛門佐繁詮は上野金山城(群馬県太田市)の由良成繁(ゆらなりしげ)の次男で、早くから秀吉に仕えて豊臣秀次(ひでつぐ)の付家老であった。また、播磨赤松氏の庶流となる有馬則頼(のりより)の娘を娶っており、義弟となる有馬豊氏(とようじ)が家老として仕えた。繁詮は高山右近とも親交があり、撰要寺に切支丹灯籠を残したという。ところが、文禄4年(1595年)の豊臣秀次(ひでつぐ)事件に連座して、渡瀬繁詮は改易のうえ切腹を命じられた。嫡男がいたものの遺領の相続は許されず、家臣の有馬豊氏が横須賀3万石の領地と家臣団を継承した。これは渡瀬氏の領内悪政のためといわれる。こうして有馬玄蕃頭豊氏は豊臣大名として取り立てられ、横須賀城主となった。しかし有馬豊氏も悪政を敷き、過酷な検地で領民を苦しめ、玄蕃縄の悪名を残している。秀吉の死後は、父の則頼とともに徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)6月には家康の養女である蓮姫(れんひめ)を娶った。同年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に与し、美濃岐阜城攻めや関ヶ原本戦で後備えを務めた。これら有馬父子の功績に対して家康は、則頼には有馬家旧領となる摂津国三田2万石を与え、豊氏には丹波国福知山6万石を与えた。そして、横須賀城には久留里城主であった大須賀出羽守忠政が6万石で復帰することになった。忠政は城下町の整備を積極的におこない、藩政の基礎を築き、横須賀城も近世城郭として整備されている。慶長12年(1607年)忠政が27歳で病没すると、嫡子の忠次(ただつぐ)がわずか3歳で跡を継いでおり、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では天王寺口に布陣したといわれる。しかし、元和元年(1615年)館林藩主であった榊原康勝(やすかつ)が若干26歳で病没、康勝には嗣子がなかった。徳川四天王である榊原康政の家系が断絶するのを惜しんだ家康は、大須賀忠次がもともと榊原家からの養子であった忠政の子であることを理由に、忠次に榊原家を相続させる。これにより大須賀家は断絶となった。こうして横須賀藩は一時的に廃藩となり、元和3年(1617年)より駿河・遠江国50万石を領した駿河駿府城(静岡市)の徳川頼宣(よりのぶ)の支城となる。元和5年(1619年)頼宣が紀伊国和歌山に転封となると、下総国関宿から能見松平重勝(しげかつ)が2万6千石で入封して横須賀藩を再立藩し、能見松平氏が2代続いた。その後は井上氏が2代続き、正保2年(1645年)三河国岡崎から本多越前守利長(としなが)が5万石で入る。しかし、利長は悪政を敷き、天和2年(1682年)江戸城(東京都千代田区)において23か条における折檻状を受けて改易に処された。本多氏の後、信濃国小諸から西尾隠岐守忠成(ただなり)が2万5千石で入封、こうして西尾氏が幕末まで8代続き、横須賀藩を長期的に治めることになる。慶応4年(1868年)徳川宗家を継いだ徳川家達(いえさと)が静岡藩主として駿府城に移されると、8代の西尾隠岐守忠篤(ただあつ)は安房国花房に移封となり、横須賀藩領も静岡藩に吸収されることになった。明治2年(1869年)横須賀城は廃城となり、建物などは明治6年(1873年)にすべて解体された。(2012.09.01)

本丸北東隅に復元された天守台
本丸北東隅に復元された天守台

東大手門の西側に残る三日月堀
東大手門の西側に残る三日月堀

撰要寺に移築現存する不開門
撰要寺に移築現存する不開門

東大手門外に設置された町番所
東大手門外に設置された町番所

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