要害山城(ようがいさんじょう)

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戦国最強の武将と評される武田信玄が誕生した城

主郭部の虎口と土塁
主郭部の虎口と土塁

躑躅ヶ崎館跡(甲府市古府中町)の北東約2kmに臨済宗妙心寺派の万松山積翠寺(せきすいじ)があり、積翠寺の背後の要害山(標高780m)に要害山城が築かれていた。要害山は丸山とも呼ばれている通り、お椀を伏せたような丸い形をしている。城域は山頂の主郭を中心に西尾根の広い範囲に渡っており、山腹から主郭にいたる登城路に沿って、枡形虎口や曲輪が複雑かつ連続的に設けられている。要害山城は山麓にある躑躅ヶ崎館の詰の城として築かれたもので、詰の城とは敵に襲われた時に立て籠もる山城であり、山麓の居館と詰の城をセットで築くのが中世の一般的な城郭形態であった。積翠寺温泉「要害」から登る道が大手道で、まず数段の腰曲輪群があり、さらに進むと竪堀と、その斜面に沿って竪土塁という珍しい形態の土塁が現われる。山頂の主郭までには8つの門跡(虎口)や多くの曲輪が配置されているが、この門跡には石積みや枡形を伴うものが多く存在する。特に二の門の巨石を用いた石組みと内枡形の虎口は、要害山城の見所となっている。不動明王が祀られている不動曲輪の北側に大きな帯曲輪があり、井戸の遺構が存在する。これは築城の際に諏訪明神に祈誓して得た湧き水なので、諏訪水と呼ばれたという。主郭部は方形の広い曲輪で、周囲を土塁が全周しており、東側には櫓台が存在する。また主郭には規模の大きな建物が存在したと推定されており、庭園に用いた石組みも残っている。搦手からの尾根続きにも門跡、石組みなどとともに、堀切、竪堀、土橋などが連続している。特に搦手虎口の土橋の左右にある竪堀は、竪堀の側面にも石組みが施されているという珍しい遺構で、これも見所のひとつになっている。要害山城の南東尾根上には支城の熊城(甲府市上積翠寺町)があり、深い堀切で区切られた連続的な小郭と畝状竪掘が特徴とされる。その麓には根古屋の地名が残り、城番を勤める武士の屋敷が置かれた。山麓の積翠寺は、寺伝によると開山を行基(ぎょうき)、中興開山を夢窓疎石(むそうそせき)の弟子である竺峰(じくほう)としている。また、武田信玄(しんげん)が誕生した寺とも言われている。天文15年(1546年)後奈良天皇の勅使として大納言の三条西実澄(さんじょうにしさねずみ)と中納言の四辻季遠(よつつじすえとお)が甲斐国に赴いた。三条西家は武田信玄の正室三条夫人の実家である三条家の分家筋にあたり、彼らの目的は朝廷への寄進の依頼である。このとき武田信玄は、三条西実澄、四辻季遠に加え、府中五山の住職であった東光寺鳳栖(ほうせい)、法泉寺湖月(こげつ)ら十数名を積翠寺に迎え和漢連句の会を催した。和漢連句とは、和句と呼ばれる五七五の和歌と、漢句と呼ばれる五言の漢詩を次々に詠んでいく連歌の一種であり、当時流行した知的な遊びであった。当時の最高レベルの文化人だった2人の公家に肩を並べて句を連ねているところに、26歳であった信玄の教養の高さがうかがえる。この時の折本形式の『武田信玄和漢連句』一巻は積翠寺の寺宝として現存しており、一番初めに武田信玄の自筆で「心もて 染すはちらし 小萩原」と発句が書かれている。

永正16年(1519年)甲斐武田氏の18代当主で甲斐国守護職の武田信虎(のぶとら)は、山梨郡古府中に躑躅ヶ崎館を築いて、川田館(甲府市川田町)から本拠を移した。また翌永正17年(1520年)躑躅ヶ崎館の詰の城として要害山城を築城した。中世の山城で築城年代が特定できることは大変珍しく、これは武田氏の重臣であった駒井高白斎政武(こうはくさいまさたけ)が残した『高白斎記』という記録の永正十七年六月の条に、「積翠寺丸山を御城に取り立てられ普請初る」と記述されていることによる。居館と政庁を兼ねた躑躅ヶ崎館に対して、要害山城は緊急時に立て籠もる詰の城としての役割を担っていた。永正18年(1521年)駿河国守護職の今川氏親(うじちか)は、遠江高天神城(静岡県掛川市)の福島正成(くしままさなり)を総大将とする1万5千の大軍を甲斐国に侵攻させた。富士川を北上して甲斐に進入した今川軍は、迎え撃つ武田軍を大島の戦いで破り、富田城(南アルプス市)を占拠して西郡一帯を荒しまわった。さらに軍勢を進めて勝山城(甲府市上曽根町)を占領する。勝山城から笛吹川を渡河して北進すれば躑躅ヶ崎館に至るが、武田信虎が躑躅ヶ崎館の南方にある愛宕山に2千の兵を配していたので、福島正成は武田軍による側面攻撃を危惧し、迂回して躑躅ヶ崎館の西方約6kmの龍地台に布陣した。信虎は正室で懐妊中の大井夫人を要害山城に避難させ、躑躅ヶ崎館での籠城戦は不利であると判断し、愛宕山の兵を荒川東岸に移動して布陣した。この時の武田軍はわずか2千人しか動員できなかったため、信虎は老人や婦女子まで総動員して、紙製の幟(のぼり)や旗を持たせ、実戦部隊の背後に配置して後詰の軍勢がいるように偽装させるという奇策を用いた。この時、案山子(かかし)まで偽装兵として使用されたと伝わる。福島正成は今川軍を率いて龍地台から飯田河原に進出し、荒川の渡河を開始した。川を挟んでの戦いでは、先に川を渡った方が不利になる。敵兵の半数程度が渡河したところに猛然と襲いかかり、水際で敵を叩くという渡河戦の常套手段である「半渡りの戦法」によって、信虎は今川軍を撃退した(飯田河原の戦い)。

福島正成は今川軍を龍地台の本陣に引き上げ、いったん勝山城に後退した。この頃、要害山城に避難していた大井夫人が男児を生んだ。武田氏の世継ぎである太郎(のちの武田信玄)誕生の報せに武田軍の士気は大いに上がったという。武田信玄の誕生場所については、要害山城説と積翠寺説の二つがある。要害山城の主郭部には、日本海軍司令官であった東郷平八郎(へいはちろう)の筆による「武田信玄公誕生之地」の碑が建っている。また要害山城の山麓にある積翠寺の境内には、信玄が生まれた時に使用した「信玄公産湯の井戸」や、産湯天神などが祀られている。もともと境内の巨石から泉が湧き出ていたことで、石水寺と呼ばれていたが、のちに積翠という字を当てるようになった。本堂の屋根には武田氏の家紋である四つ割菱がかかげられており、本堂裏の庭園は、南北朝時代に活躍した夢窓国師が造営したものである。勝山城で陣容の立て直しをはかった福島正成は、再び北進を開始し、武田軍と上条河原で激突した(上条河原の戦い)。士気に勝る武田軍は、軍師の荻原常陸介昌勝(おぎわらひたちのすけまさかつ)の武略により圧勝して、福島正成をはじめとした今川軍の多くの部将は討たれ、武田軍によって600余の首級をあげられた。翌朝、総大将を失った今川軍は信虎に降伏して撤退した。甲斐では、この一連の合戦を「福島乱入事件」と呼んだという。天文5年(1536年)信虎の長男太郎は16歳で元服し、室町幕府12代将軍足利義晴(よしはる)の偏諱を受けた「晴」と、甲斐武田氏の通字の「信」で、武田晴信(はるのぶ)と名乗る。信虎は、学問好きで理屈っぽい長男の晴信を嫌い、素直な次男の信繁(のぶしげ)に武田総領家を継がせようと考えていたと言われる。天文10年(1541年)廃嫡を恐れた晴信は、重臣の板垣信方(のぶかた)や甘利虎泰(とらやす)らに擁立されて、父の信虎を駿河国に追放、クーデターにより家督を相続して19代当主となった。信玄の時代にも、躑躅ヶ崎館の詰の城として要害山城は存続したが、圧倒的な強さで他国への領土拡大を続けた信玄は、ついに一度も甲斐国を攻められることはなく、要害山城が実戦で使用される機会はなかった。

天正元年(1573年)上洛途中の武田信玄は三河で持病が悪化し、甲斐の躑躅ヶ崎館に引き返す途中、信濃国伊那郡駒場にて53歳で病没した。要害山城が再び記録に現れるのは、信玄の四男で、家督を相続した武田勝頼(かつより)の時代である。天正3年(1575年)勝頼は長篠合戦で織田・徳川連合軍に大敗してしまい、天正4年(1576年)来たるべき織田信長との決戦に備えて要害山城の大改築を命じ、躑躅ヶ崎館の防衛態勢を固めている。また天正7年(1579年)勝頼が遠江に出陣した際、陣中より要害山城の備えを厳重にするよう指示したと『甲州古文書』にある。しかし、躑躅ヶ崎館では織田氏の攻撃に耐えられないと判断した勝頼は、天正9年(1581年)躑躅ヶ崎館よりも要害の地である七里岩の断崖上に新府城(韮崎市)の築城を始め、信虎から3代続いた躑躅ヶ崎館を破却のうえ、普請半ばで新府城に入城する。しかし、天正10年(1582年)織田信長の武田征伐において、武田勝頼は新府城を焼いて岩殿山城(大月市)を目指して逃れたが、家臣の小山田信茂(のぶしげ)に裏切られ、天目山の田野にて自刃した。武田氏滅亡後は、信長の家臣である河尻秀隆(ひでたか)が甲斐国に赴任する。同じく天正10年(1582年)織田信長が本能寺で討たれると、徳川家康と北条氏直(うじなお)が甲斐国、信濃国の覇権を争うが、和睦により両国は徳川領となった(天正壬午の乱)。この頃、躑躅ヶ崎館には仮御殿が造営され、甲斐国の統治を任された家臣の平岩親吉(ちかよし)が居城した。一方、要害山城は、駒井右京、日向玄東斎、日向半兵衛などが城番を務めた。天正18年(1590年)徳川家康が関東に移封すると、甲斐国には羽柴秀勝(ひでかつ)が入封して甲府城の築城を開始し、天正19年(1591年)続いて入封した加藤光泰(みつやす)が甲府築城を引き継いだ。この頃も躑躅ヶ崎館は使用されており、加藤光泰は要害山城に修理を加えている。『甲斐国志』によると、要害山城は慶長5年(1600年)の終わりに破却されたと記録されている。(2006.10.09)

石組みの残る二の門跡
石組みの残る二の門跡

石組みを伴う搦手の竪堀
石組みを伴う搦手の竪堀

信玄公産湯の井戸
信玄公産湯の井戸

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