山口城(やまぐちじょう)

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村山党の一族山口氏の歴代居館

土塁に囲まれた小さな社
土塁に囲まれた小さな社

山口城は北に椿峰(つばきみね)の丘陵がせまり、南は柳瀬川と湿地に囲まれた要害の地で、西は鎌倉街道に面した交通の要衝の地でもあった。城郭は東西約400m、南北約200mの規模を有する多郭式城郭で、高さ3m前後の土塁が全周し外側を深さ2m前後の空堀が巡る。本郭と両側に東西の郭を備え、南部にも郭が存在した。

広大な原野が広がる武蔵野台地の中央に、島のように浮かび上がる狭山丘陵には、昔から水の便を求めた人々が住み続けていた。平安時代、武蔵地方における武蔵七党という武士団のひとつ、村山党が狭山丘陵での有力者であった。長徳3年(997年)武蔵国司に任命された平頼任(よりとう)が土着して、武蔵七党の一つ村山党の祖となり、その子である村山頼家(よりいえ)の四男・村山小七郎家継(いえつぐ)が平安末期に入間郡山口に移住して居館を築き、武蔵山口氏を興した。この山口氏の居館が山口城の始まりである。山口七郎家継は兄である大井五郎大夫家綱(いえつな)、宮寺五郎家平(いえひら)、金子六郎家範(いえのり)と共に武蔵国入間郡および多摩郡北部に勢力を伸ばした。そして、保元元年(1156年)保元の乱(ほうげんのらん)をはじめとする源平合戦では源義朝に従いその名を残した。頼朝上洛には随兵としてこれに加わり、承久3年(1221年)承久の乱(じょうきゅうのらん)には幕府方の精鋭として参陣し、『保元物語』『源平盛衰記』『吾妻鏡』など、山口氏が武蔵武士の一員として戦記物語に登場している。

南北朝時代の応安元年(1368年)上杉憲顕(のりあき)の上洛をついて武州平一揆(へいいっき)は蜂起し、河越館に籠城して鎌倉公方足利氏満(うじみつ)に叛した(平一揆の乱)。平一揆の中核は村山党の一族である河越氏と高坂(たかさか)氏であり、山口高清(たかきよ)は河越氏らに味方し河越館に拠った。一揆軍の反抗は強く、鎌倉方は関東および甲斐の国人層を動員している。そして、6月17日の河越合戦にて平一揆は敗北した。このとき山口城は鎌倉公方勢に攻め落とされ、高清の父高実(たかざね)は討死した。高清夫人は稚子を抱いて池に入水し、高清も山口氏の菩提寺である瑞岩寺で自刃したといわれ、同寺に高清の墓塔が残っている。

のちに山口氏は再興して、高清の孫高忠(たかただ)は狭山湖畔に根古屋城を築城した。室町時代の末期には山口城の城郭としての大改修を行ったが、戦国時代になると城郭的機能は根古屋城に移した。山口氏は戦国時代も山口領を支配しており、『小田原衆所領役帳』の他国衆に山口平六が40貫文を領していると記載がある。山口城は初代家継以来、山口氏の歴代居館として戦国時代末期まで利用された。(2002.12.01)

山口城の城址碑
山口城の城址碑

現存するL字型土塁
現存するL字型土塁

南面を流れる柳瀬川
南面を流れる柳瀬川

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