宮城県の南東部に位置する亘理郡亘理町は、阿武隈山地の天明山(福島県相馬市)から最北端の七峰山(亘理町逢隈小山)まで南北に細長く連なる約30kmの山地である亘理地塁(ちるい)を西端とし、東側を仙台湾、北側を阿武隈川に囲まれる。阿武隈川の南岸に位置し、川を渡る地なので「わたり」という地名になったという。かつて、大和民族が東北へ進出していく道筋で、川の渡し場やその付近を「わたり」と名付けた。現在の亘理町が「わたり」という地名の最北端になる。延暦16年(797年)の『続日本紀(しょくにほんぎ)』に「曰理(わたり)」という表記で初めて現れる。曰理の表記は、江戸時代中期の元禄年間(1688-1704年)まで用いられる。近世では「曰」を「わた」と読むことが少なく、「日」と間違えやすいので、「わたる」の意味がある「亙」を用いるようになり、さらに「亘」が「亙」に似ているので「亘理」と書くようになった。亘理町にある亘理城は、伊達政宗(まさむね)の両腕と称される片倉小十郎景綱(かげつな)と伊達藤五郎成実(しげざね)の両名が城主を務めた城として知られる。亘理城は亘理地塁から北東に向かって突き出る舌状丘陵の先端部に築かれ、その地形から臥牛城とも呼ばれた。標高15m、比高10mの東西に細長い丘陵上に本丸と馬場が置かれ、平地部には二ノ丸が置かれた。本丸の規模は、東西約100m、南北約30mである。本丸跡に鎮座する亘理神社は、亘理の発展に尽くした伊達成実を武早智雄命(たけはやちおのみこと)として祀った神社で、神社の背後には土塁跡が残る。かつての本丸には、北側中央の大所門、南東側の詰門、その北の裏門と3つの城門が存在し、内部には20棟以上の建物が立ち並んでいたが、明治維新後に取り壊されて資料も残っていないため、規模や配置などは不明である。現在、本丸東部の詰門や裏門があった場所は、道路が貫通して丘陵が分断されている。発掘調査により、詰門に至る通路と裏門遺構の一部が発見される。本丸の北・東・南の平地をコの字に囲んで内堀が巡っていたが、現在も残っているのは南側の旧舘公園(亘理町旧舘)の中にある内堀の一部だけである。かつては「やげん(薬研)堀」または「やげん沼」と呼ばれていた。内堀の外側には同じくコの字に囲んで二ノ丸が配置された。二ノ丸の外周は土塁と外堀によって囲まれおり、内部には家中屋敷や作事所が置かれ、やげん堀の南には御兵具蔵が存在した。二ノ丸の北側には外枡形の北裏門が設けられ、西側には西裏門、大所中門が設けられていた。また、本丸詰門を下った二ノ丸の南側には、東向きに内枡形の大手門が置かれ、その先は大手先と呼ばれる城の正面であった。現在の二ノ丸跡はショッピングセンターになっており、その南側には外堀跡と考えられる地形が残される。本丸西側に馬場、本丸北側には腰曲輪があり、それらの北側には大きな大沼が広がり、天然の外堀としていた。現在、馬場跡は亘理高等学校(亘理町舘南)の敷地となり、大沼は埋め立てられて運動場などになっている。本丸大所門は常因寺(亘理町祝田)に移築されていたが、現在は取り壊されている。本丸詰門は専念寺(亘理町上町)の山門として移築現存している。伊達成実から始まる亘理伊達氏の菩提寺は、亘理城跡から南西約1kmの大雄(だいおう)寺(亘理町泉ケ入)である。ここは小堤(おづつみ)城跡でもあり、境内の土塁跡の上に亘理伊達家霊屋と歴代墓所が立ち並ぶ。平安時代初期の『続日本紀』には、奈良時代の始めには亘理郡が存在したとある。三十三間堂官衙遺跡(亘理町逢隈下郡)は、9世紀前半から10世紀前半の亘理郡の郡衙跡である。
阿武隈川から南の地域は、早い段階から朝廷の政治圏に入り、亘理は北方の要所として重要視された。平安時代後期、永承6年(1051年)から始まる前九年の役では、亘理郡を治めていた亘理権大夫藤原経清(つねきよ)が河内源氏2代棟梁・源頼義(よりよし)に反旗を翻している。康平5年(1062年)前九年の役が終結すると、経清は捕縛され斬首となった。この経清は奥州藤原氏の初代・清衡(きよひら)の父にあたる。栄華を極めた奥州藤原氏であったが、文治5年(1189年)源頼朝(よりとも)により滅ぼされる。この時の戦いで功績のあった千葉常胤(つねたね)は陸奥国諸郡の地頭職を与えられた。常胤の三男・武石胤盛(たけいしたねもり)は、亘理・伊具・宇多の3郡の地頭職を分与された。千葉氏からは多くの支族が派生したが、千葉宗家と相馬・大須賀・武石・国分・東の6氏を特に千葉六党と称す。千葉六党をはじめ千葉一族の多くが奥州に移住するが、乾元元年(1302年)4代・武石宗胤(むねたね)も亘理郡に下向して小堤城を居城とした。丘陵地に築かれた小堤城は、高さ2m程の土塁が方形に巡る単郭式の城館であった。現在、伊達成実霊屋のある辺りは櫓台跡となる。暦応2年(1339年)7代・武石広胤(ひろたね)が亘理氏を称した。亘理氏は伊達氏、国分氏、相馬氏と争うようになるが、内紛により勢力が半減したという。永正11年(1514年)伊達氏14代当主となった稙宗(たねむね)は勢力を拡大していき、南奥羽の諸大名を従属させている。亘理氏も伊達稙宗の傘下に入っており、16代・亘理宗隆(むねたか)の娘を稙宗の側室に出している。男子のいなかった宗隆は、その外孫(綱宗・元宗)を養子として迎える。天文11年(1542年)から始まる伊達稙宗・晴宗(はるむね)父子の内紛である天文の乱において、亘理氏は稙宗側に味方する。翌天文12年(1543年)亘理綱宗(つなむね)が懸田城(福島県伊達市)の攻防戦で戦死したため、弟で伊達稙宗の十二男である元宗(もとむね)を跡取りとした。この17代・亘理元宗が、天正年間(1573-92年)亘理城を築いて本拠を移す。亘理元宗・重宗(しげむね)父子は伊達氏に臣従して数々の戦いで戦功を挙げている。天正13年(1585年)10月、伊達政宗は父・輝宗(てるむね)の初七日の法要を済ませると、弔い合戦と称して畠山氏の二本松城(福島県二本松市)を1万3千の軍勢で攻撃して、1か月以上の攻城戦となった。11月になると佐竹・蘆名氏を中核とする南奥諸大名の連合軍が、畠山氏を救援するために3万の大軍で北上してくる。これに対する政宗は、半数を二本松城の包囲に置き、残りの7千をもって連合軍を迎撃すべく奥羽街道と会津街道の交わる交通の要衝である本宮に移動、さらに南進して観音堂山に本陣を置いた。鬼庭左月斎良直(よしなお)、片倉景綱を本陣の守備に置き、留守政景(るすまさかげ)、原田宗時(むねとき)、国分盛重(こくぶんもりしげ)らを左右に展開した。別働隊として伊達成実が1千余を率いて観音堂山南方の瀬戸川館(福島県本宮市仁井田桝形)に入った。一方の連合軍は、鶴翼の陣で3隊に分かれて進軍を開始、伊達軍と連合軍は阿武隈川の支流・瀬戸川に架かる人取橋付近で激突する。いわゆる人取橋の戦いである。この戦闘で多くの人が死んだため人取橋と呼ばれるようになったが、元々は別の名前だったという。この時、亘理元宗・重宗父子は政宗の本陣にあって連合軍と戦った。戦いは連合軍の一方的な攻勢に終始した。兵数に劣る伊達軍は守勢に立たされ、連合軍が伊達本陣に突入し、政宗自身も槍をとって奮戦したが、鎧に銃創5か所、矢傷1か所を受けるほど苦戦した。
敗色濃厚となった伊達軍は政宗を逃がすべく、軍配を預かった宿将・鬼庭左月が殿軍を務め、人取橋を越えて敵中に突入して討死を遂げた。瀬戸川館に布陣していた伊達成実の部隊も蘆名氏と岩城氏の挟撃により孤立するが、一歩も退くことなく死闘を繰り広げた。成実配下の下郡山内記(しもこおりやまないき)、伊庭野広昌(いばのひろまさ)らが善戦し、伊達軍が総崩れする中、成実隊のみが踏み止まって時間を稼いだため、政宗は本宮城(福島県本宮市本宮舘ノ越)に逃れることができた。伊達軍の壊滅は必至であったが、政宗に従う亘理元宗、留守政景らも奮戦し、どうにか日没を迎えたため、初日の戦闘は終結した。伊達成実も陣を守り抜いており、政宗は成実の武勇に感激し、その夜に山路淡路を使者として直筆の感状を送り、翌日の戦いに備えるよう命じた。政宗は翌日の決戦を覚悟し、配下に酒を振る舞って士気を鼓舞している。ところが、夜が明けると連合軍の姿が消えていた。夜のうちに陣払いして本国へ撤退していたのである。これは、佐竹義重(よししげ)の軍師・小野崎義昌(よしまさ)が陣中で家臣に刺殺されるという事件が発生し、さらに佐竹氏の領国である常陸国に不穏な動きがあり、北条方の江戸重通(しげみち)と里見義頼(よしより)が攻め寄せるとの急報が舞い込んだため佐竹氏は撤退した。佐竹氏が抜けると連合軍は瓦解したのである。政宗は九死に一生を得るが、小野崎義昌の刺殺や北条方による常陸侵攻は伊達氏による調略ともいわれる。天正19年(1591年)政宗の岩出山移封に伴い、重臣の亘理元宗は885貫文(8850石)で遠田郡の涌谷城(涌谷町)に移っている。代わって信夫郡の大森城(福島県福島市)より片倉景綱が亘理城に入城した。慶長7年(1602年)片倉氏が刈田郡の白石城(白石市)に移ると、亘理城は伊達成実が引き継いだ。成実の父である実元(さねもと)は伊達稙宗の三男で、越後国守護職・上杉定実(さだざね)の養子に入る予定であったが、稙宗と長男・晴宗による天文の乱が勃発して立ち消えとなった。この戦いが晴宗側の勝利に終わると、伊達実元は15代当主となった晴宗の次女を娶って大森城主となる。その長男が成実であった。このため、成実から見ると17代当主の伊達政宗は、母方のいとこ(母の兄の子)、父方のいとこ違い(父の兄の孫)にあたる。一方、政宗から見ると成実は、父方のいとこ(父の妹の子)であり、いとこ違い(祖父の弟の子)にあたる。政宗より1歳下の成実は、幼少の頃から政宗と兄弟のように育ち、後に重臣として仕えた。成実といえば、人取橋の戦い、郡山合戦、摺上原の戦いなどに大功があり、伊達家随一の猛将として知られる。成実が着用した黒漆五枚胴具足の前立は、黒毛で毛虫を表現している。毛虫は後ろに進まないことから、戦において退かないという意味が込められていた。また、胴のくぼみは火縄銃の試し撃ちで強度を確かめたものと考えられている。天正14年(1586年)には大森城から二本松城へと移され、旧領の信夫・伊達両郡に換えて安達郡33か村(3万8千石)の所領を与えられた。同年に亘理重宗の長女を娶っている。天正16年(1588年)の郡山合戦では、寡兵で蘆名義広(よしひろ)の攻勢を凌ぐ一方、大内定綱(さだつな)を調略して帰参させ、天正17年(1589年)の摺上原の戦いでは、敵軍の側面を急襲して劣勢を覆している。成実は伊達軍の中核として数々の軍功を挙げ、「炎の闘将」の異名を天下に轟かせた。天正18年(1590年)政宗が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣した際、徹底抗戦を主張した成実は黒川城(福島県会津若松市)に留守居役として残留した。
もし政宗の身に不測の事態が起これば、成実が伊達家を継いで秀吉に抵抗することになっていたという。天正19年(1591年)政宗の岩出山移封に伴い、成実も二本松城から角田城(角田市)に移り、伊具郡16か村、柴田郡1か村を領した。文禄元年(1592年)には文禄の役にも従軍するが、帰国後に伊達家を出奔して高野山に籠ってしまう。出奔の理由については、諸説あるものの史料が乏しく不明である。家中での席次が石川義宗(よしむね)に次いで第二席となったことが原因ともいわれる。しかも政宗の叔父にあたる石川昭光(あきみつ)が首席ならともかく、その息子で年下の義宗であったことが許せなかったとされる。ちなみに、第三席は留守政景(政宗の叔父)、第四席は亘理重宗(政宗の大叔父)であった。豊臣秀次(ひでつぐ)事件に際して政宗の関与が疑われ、連座を避けるために成実が嫌疑を被ったとする説もある。政宗はすぐに説得の使者を送っているが成実は戻らなかった。政宗は成実の所領を召し上げ、屋代勘解由に角田城の接収を命じた。この時、成実の家老・羽田実景(はねたさねかげ)ら30人余の家臣が角田城で抵抗して、戦闘のすえ全員討死してしまう。成実の家臣団は解体され、角田城は石川昭光に与えられた。牢人の成実は上杉景勝(かげかつ)から5万石で家臣になるよう誘われたが、本来ならば家来筋の家に仕えるつもりはないと拒絶している。徳川家康も成実を家臣に誘ったが、政宗の奉公構により断念したという。慶長5年(1600年)成実は留守政景・片倉景綱らの説得により帰参し、白石城の戦いでは石川昭光の陣に属した。こうして成実は、慶長7年(1602年)亘理郡内23か村、611貫文(6千余石)を拝領して亘理城主となった。成実は亘理城を改修して城下町の整備にも着手している。寛永5年(1628年)には1万2千石余に加増される。江戸時代の仙台藩は、家臣に所領を与える地方知行制(じかたちぎょうせい)を採用しており、一国一城令以後も幕府の許可のもと中世城郭をそのまま「要害」として地域の支配の拠点とする要害制を布く。亘理城も仙台藩21要害のひとつの亘理要害として存続した。寛永16年(1639年)跡継ぎのいなかった成実は、政宗の九男・宗実(むねざね)を養子として迎えている。成実から始まる亘理伊達家は、亘理要害の邑主(ゆうしゅ)として明治維新に至るまで14代続いた。慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は、やがて戦場を東北地方に移す。同年5月、仙台藩を盟主とした31藩で奥羽越列藩同盟を結成して新政府軍と対峙した。仙台藩は白河口・磐城口・相馬口を守備し、7月に海道筋で激しい戦いを繰り広げた。亘理伊達家14代当主の伊達邦成(くにしげ)は仙台藩の御一門としてこの戦いに加わった。7月には広野・木戸・熊川で敗戦し、相馬藩が降伏したため戦況はますます悪化した。8月、仙台藩は国境の駒ヶ嶺・旗巻峠を守備する。駒ヶ嶺では亘理伊達家中も奮戦したが砦を落とされ、奪回戦に挑むも敗れて多くの戦死者を出した。そして、旗巻峠が最後の決戦場となり、この戦いにも敗れて仙台藩は降伏する。明治元年(1868年)9月24日に亘理要害で仙台藩の降伏調印式がおこなわれた。仙台藩には厳しい処分が下され、亘理・柴田・伊具・刈田・宇多の5郡が南部藩の領地となった。亘理伊達家は2万4千石の所領が僅か58石に減らされ、活路を求めて北海道への移住と開拓を決意、明治3年(1870年)亘理要害の建物などは払い下げられた。同年より亘理伊達家は約3千人の家臣団と9回に分けて海を渡った。亘理伊達家が開拓に成功した有珠郡紋鼈村の地は、現在の北海道伊達市である。(2025.07.12)