津山城(つやまじょう)

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森忠政が築いた層塔型4層5階の天守が聳え、77基の櫓が立ち並んだ総石垣の城

復元された本丸南西端の備中櫓
復元された本丸南西端の備中櫓

津山市は岡山県北部に位置し、北は鳥取県との県境をなす標高1000m級の中国山地、南は吉備高原に接して、その間に中国地方最大の津山盆地が存在する。かつて、美作国の中心的な地域であった津山は、出雲街道が通過し、明治時代まで吉井川に高瀬舟が行き交った水陸の要衝である。米軍の空襲を免れたため城下町もよく残る。津山盆地のほぼ中央、標高147m、比高45mの鶴山(つるやま)と呼ばれた丘陵に津山城が築かれた。文化6年(1809年)成立の『森家先代実録』によると、慶長9年(1604年)初代津山藩主である森忠政(ただまさ)が築城にあたり「鶴山」の地名を「津山」に改めたとあるが、理由は記されていない。森家の家紋が鶴丸紋なので鶴の字を避けたという説もある。元禄4年(1691年)成立の『作陽誌』に「鶴」と「津」は同じ倭訓(わくん)とあり、慶長以前の「鶴山」も「つやま」と読んだとする説がある。ちなみに津山城の別名は鶴山(かくざん)城である。城の南側を吉井川が流れ、東側にはその支流である宮川と断崖が存在し、西方にも吉井川の支流・藺田川(いだがわ)があり、天然の外堀を形成する。吉井川と宮川の合流点を望む小高い山を利用して築かれた津山城は、山頂を削平して本丸とし、一段下がって二の丸、更に下がって三の丸とする一二三段(ひふみだん)と呼ばれる雛壇状の輪郭式平山城である。最後の拠点となる天守曲輪は本丸の西端に置かれ、三の丸下段の南・西・北側を山下の総曲輪とし、その周囲を土塁と水堀で固めている。水堀内側の土塁線上には、宮川門、京橋門、二階町門、田町門、作事門、北門の6か所の出入口が設けられ、すべてが櫓門であり、うち3か所は枡形虎口であった。城下町の中心となる南側の京橋門を大手口とし、北門を搦手口とする。水堀に架かる橋は京橋門のみが木橋であり、他の門はすべて土橋であった。京橋門跡の西側、水堀の北側土手にあたる部分は、石垣と土塁が唯一残存している。総石垣造りの津山城は、播磨姫路城(兵庫県姫路市)、伊予松山城(愛媛県松山市)とともに日本三大平山城と呼ばれている。姫路城と松山城は現存天守であるが、津山城の天守は現存しない。往時は破風を持たない独立式層塔型4層5階地下1階の実戦的な天守が存在していた。また、櫓については、安芸広島城(広島県広島市)の88基、姫路城の61基に対して、津山城には77基もの櫓が立ち並んだという。本丸には櫓31基、城門15棟を連ね、二の丸には櫓12基、城門7棟、三の丸には櫓17基、城門11棟、総曲輪には櫓17基、城門6棟が構築された。津山城の天守は、豊前小倉城(福岡県北九州市)の天守を模したと伝わるが、これについては逸話がある。小倉城天守の評判を聞いた森忠政が、津山城の築城にあたって家臣の薮田(やぶた)助太夫を豊前国小倉に派遣した。海に面して築かれた小倉城は海上から検分できたため、船を出して同行した大工と絵師に天守を見取らせようとしたが、これを小倉藩の家中に見つかってしまう。事情を聞いた小倉藩主の細川忠興(ただおき)は、薮田氏一行を城内に招き入れて好きなだけ調査させた。さらに帰国時には、軍事機密である図面まで持たせたと伝わっている。文献によると、津山城天守の最上階はほとんど壁を取り払った開放的な造りとなり、畳敷きで格天井を備え、中央には西洋風の半鐘が吊るされた上段の間があった。この半鐘には細川家の九曜紋が入っており、細川忠興から完成の祝いとして贈られたものという。創建当初は5層5階の天守で、最上階は外廻縁に高欄を巡らせていた。この当時、5層天守の建造は50万石以上の大身、あるいは中納言以上の高官職の大名に限定されていた。

そのため忠政は幕府から詰問を受けており、その際に5層天守ではなく4層であると弁明した。幕府は検分のため役人を津山に派遣することにしたが、忠政は甲賀出身の重臣・伴唯利(ばんただとし)を先行させて、役人の到着前に4層目の瓦を剥がし、軒を切り詰めて板葺きの庇(ひさし)に変更した。このように4層5階の天守に改造する事で難を逃れたという。平面規模は梁間10間、桁行11間で、高さ約22m、天守台も含めると約28mになった。現在は天守曲輪の中央に天守台が残るのみである。本丸南西端の備中櫓は2階建ての櫓で、津山城の櫓の中でも最大級の規模を誇り、天守に次いで象徴的な建物であった。東西に長い平櫓の中央部分に望楼のような2階を載せた独特な外観である。備中櫓の名称は、鳥取藩主・池田備中守長幸(ながよし)に由来する。森忠政の長女・於松(おまつ)の嫁いだ先が池田長幸で、慶長18年(1613年)於松が亡くなった後は、忠政の四女・於宮(おみや)が長幸に嫁いでいる。『森家先代実録』には「備中矢倉、池田備中守長幸入来之節出来」と記されている。忠政にとって2人の娘婿にあたる長幸が津山城を訪れた際に完成した櫓なので備中櫓と名付けたという。さらに備中櫓には、池田家の揚羽蝶紋の瓦まで使用されたようである。池田長幸は元和元年(1615年)従五位下備中守に叙任し、津山城の工事は元和2年(1616年)に終了しているので、備中守長幸が津山を訪れたのは元和元年(1615年)から翌年までの僅かな期間に限定される。備中櫓は外観だけでなく内部も特異で、奥御殿の最奥部に位置して櫓内部は全て畳敷きの御殿様式になっており、文化7年(1810年)の本丸御殿の再建後は藩主寝所(御寝之間)から御化粧之間を経て備中櫓に廊下で連結した。明治時代の記録によれば、最後の藩主である松平慶倫(よしとも)は備中櫓を住居として使用していたという。『本丸御殿指図』には、備中櫓が東に接続する長局・到来櫓とともに描かれており、これらの建物は本丸御殿の一部として認識されていた。このような特異な構造を持つ櫓は類例が少ない。他にも、表鉄門の2階部分が本丸御殿への通路となっていたり、裏鉄門枡形の一部が本丸御殿の地下室の空間として使われるなど、本丸御殿の限られた面積を広く使おうとする工夫が見て取れる。平成17年(2005年)備中櫓と五番門南石垣土塀が従来工法により復元された。三の丸から二の丸に至る登城路に存在した表中門は、その規模が長さ16間(約32m)と巨大で、城内最大の櫓門であった。これは摂津大坂城(大阪府大阪市)や武蔵江戸城(東京都千代田区)の櫓門に匹敵する日本有数の規模である。階段幅が広いのも特徴となる。この階段を登った左側には、二の丸の入口にあたる四足門があった。表中門が一の門、四足門が二の門で、巨大な枡形を形成した。この四足門は、明治7年(1874年)に中山神社(津山市一宮)の神門として移築され現存している。神門や絵図の調査から、桁行1間、梁行1間の薬医門形式であることや、扉のない城門であったことが分かっている。三の丸跡南東隅にある鶴山館(かくざんかん)は元々は津山藩の学問所(文学所)で、明治4年(1871年)京橋門の内側に建てられ、藩校・修道館の一部であった。しかし、同年の廃藩置県によって藩校として使用されることはなかった。この修道館で使用されていた薬医門形式の表門が大隅神社(津山市上之町)に移築現存している。和銅6年(713年)美作国が成立すると、その翌年には津山城跡の北西にあたる総社に国府が開庁した。その場所は現在の国府台寺(津山市総社)の辺りで、この地域が美作の中心地であった。

平安時代の平家全盛期には、美作は平家の知行国となり、鎌倉時代には有力御家人である梶原景時(かげとき)が、続いて和田義盛(よしもり)が美作守護になった。しかし、両者とも鎌倉幕府の内部抗争により滅亡し、執権北条氏の嫡流である北条得宗家の領国となっている。鎌倉幕府が滅亡するまでは北条氏一門が守護職を独占した。鎌倉時代の美作守護所は院庄(いんのしょう)に置かれ、その場所は作楽神社(津山市神戸)の院庄館跡に比定される。元弘2年(1332年)後醍醐天皇が隠岐島へ流される際、この守護館に4日ほど逗留したと伝わる。その後、南北朝・室町時代の美作守護所は院庄館から600mほど南の院庄構城(津山市院庄)に移ったようである。嘉吉元年(1441年)嘉吉の乱において石見国守護職・山名教清(のりきよ)は、同族の山名宗全(そうぜん)らと共に赤松満祐(みつすけ)討伐に加わり、その恩賞として赤松氏に代わって美作守護を獲得した。同年、山名教清が美作の本城として久米郡に岩屋城(津山市中北上)を築いた際、叔父の山名美作守忠政(ただまさ)に岩屋城の支城を築かせた。それが苫田郡の鶴山城で、近世津山城の前身となる城である。現在に残る厩堀と薬研堀はこの当時の遺構とされる。山名忠政は鶴山城に拠点を置いて美作守護代として在国した。応仁元年(1467年)応仁の乱が勃発すると、山名教清の子・政清(まさきよ)は軍勢を率いて京に上り、山名宗全を総大将とする西軍に加わった。岩屋城は山名政清に代わって山名忠政が守備したが、周防の大内政弘(まさひろ)に乞われて忠政も上京したため、赤松政則(まさのり)によって岩屋城は陥落した。山名氏と赤松氏の攻防戦が繰り広げられる中、美作にも多くの山城が築かれたという。文明5年(1473年)美作国守護職は山名政清から赤松政則に交代となり、山名氏の勢力が衰えると鶴山城は放棄され一旦廃城となっている。山名忠政の死後、鶴山城跡には鶴山八幡宮が勧請されたという。美作国は古くから「境目の地域」といわれており、戦国時代になっても美作を基盤とする強大な戦国大名は出現せず、浦上氏、尼子氏、毛利氏、宇喜多氏など周辺の大勢力に相次いで進攻された。天正5年(1577年)以降は織田信長が羽柴秀吉に中国攻めを命じて、毛利輝元(てるもと)と中国地方を舞台に激突する。天正10年(1582年)本能寺の変を経て、羽柴氏と毛利氏による中国国分の協議は難航したが、天正13年(1585年)宇喜多秀家(ひでいえ)が備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4千石を領することになった。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで、宇喜多秀家は西軍に属して改易になってしまう。宇喜多氏に代わり、関ヶ原の戦いで東軍に寝返った小早川秀秋(ひであき)が備前・美作など55万石を領したが、2年後に死去して小早川家も改易となった。その跡を受けて、慶長8年(1603年)森忠政が美作18万6千5百石を領した。忠政は、織田信長の家臣・森可成(よしなり)の六男である。可成は、元亀元年(1570年)浅井・朝倉連合軍3万に対して、わずか1千の兵で応戦して戦死、長男の可隆(よしたか)も同年に戦死していたため、家督は次男の長可(ながよし)が継いだ。三男・蘭丸成利(なりとし)、四男・坊丸長隆(ながたか)、五男・力丸長氏(ながうじ)は信長の小姓を務めた。天正10年(1582年)千丸こと忠政も小姓として出仕するが、同僚のちょっかいに腹を立てて同僚の頭を扇子で叩いた。これを見ていた信長は、まだ側仕えできそうにないと判断して千丸を母の元へ返した。ところが、その3か月後に本能寺の変が起きて森蘭丸・坊丸・力丸は討死し、千丸のみ難を逃れる。

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで鬼武蔵こと森長可も戦死したため、忠政が美濃国金山7万石と森家の家督を継いだ。慶長5年(1600年)信濃国川中島13万7千余石を経て、慶長8年(1603年)美作一国の国持ち大名として入国する。この時、入国を阻止しようと宇喜多・小早川の旧臣を中心とした大規模な一揆が発生するが、忠政は調略を用いて一揆勢を内部崩壊させて鎮圧した。忠政は美作守護所であった院庄構城跡に入り、ここに築城を開始した。しかし、普請奉行を務めた重臣・井戸宇右衛門と、忠政の義兄である名古屋九右衛門が口論のすえ斬り合いとなり、両者とも命を落とした。この事件によって院庄での築城は中止し、新たな城地を探した。候補地は、天王山(津山市日上)と鶴山の2か所で、最終的に鶴山が選定された。慶長9年(1604年)より津山城の築城に着手するが、その間に江戸城、駿河駿府城(静岡県静岡市)、丹波篠山城(兵庫県篠山市)、丹波亀山城(京都府亀岡市)、尾張名古屋城(愛知県名古屋市)の天下普請や、大坂の陣に駆り出されている。津山城が一応の完成を見たのは13年の歳月を経た元和2年(1616年)のことであった。しかも、これは予定どおりの完成ではなく、元和元年(1615年)の武家諸法度による工事中止命令を受けたものである。津山城の石垣の積み方は、野面積みに近いものから、打込み接ぎ、切込み接ぎへと変化しており、忠政が各地の普請の中で築城技術を進歩させていったと推測できる。その後の森氏は、2代長継(ながつぐ)、3代長武(ながたけ)、4代長成(ながなり)と約100年続いたが、森長成が実子なく没した。2代藩主・森長継の十二男で、長成の叔父にあたる関衆利(あつとし)が末期養子を認められたものの、江戸へ向かう途中で幕政を批判して乱心したという。森家は生類憐れみの令による中野村の犬屋敷の普請総奉行であったが、この犬屋敷に収容された犬たちが浪人によって殺される事件が起き、家臣の若林平内が責任を取って切腹させられたことに森衆利が憤慨したからという。元禄10年(1697年)森家は改易となったが、このとき隠居の長継がまだ存命だったので特別に備中西江原藩2万石を与えられ、長継が西江原藩の初代藩主として存続した。その後、津山城は幕府の預かりとなり、広島藩浅野家が在番として入った。翌元禄11年(1698年)越前松平家の分家である松平宣冨(のぶとみ)が津山藩津山松平家の初代藩主として10万石で入封した。『作州記』によると、この頃の美作一国の石高はおよそ25万9千石で、津山藩領と幕府領、諸藩の飛び地が混在する状況であった。その後、2代藩主である子の浅五郎が早世したため、本来ならば改易となるところを、家柄を理由として5万石を特別に与えられた。以降、津山藩は3代長熙(ながひろ)、4代長孝(ながたか)、5代康哉(やすちか)、6代康乂(やすはる)と5万石の時代が続くが、文化14年(1817年)7代藩主・斉孝(なりたか)の時、津山藩は徳川将軍家から11代将軍・家斉(いえなり)の十五男・銀之助を養子に迎えることが決まり、幕府から5万石の加増を申し渡された。これにより津山藩は10万石に復帰した。文政7年(1824年)銀之助は元服、実父・家斉より偏諱を受けて斉民(なりたみ)と名乗り、天保2年(1831年)養父・斉孝の隠居により8代藩主となる。安政2年(1855年)松平斉民は、養子の慶倫(斉孝の四男)に家督を譲って隠居、この9代藩主・慶倫のときに明治維新を迎える。明治6年(1873年)の廃城令により天守も櫓も全てが破却された。旧士族の間で津山城の保存運動を起こそうとする動きもあったが、残念ながら実現しなかった。(2025.08.17)

本丸の西側に現存する天守台
本丸の西側に現存する天守台

巨大な櫓門であった表中門跡
巨大な櫓門であった表中門跡

総石垣造りが見事な津山城跡
総石垣造りが見事な津山城跡

移築現存する二の丸の四足門
移築現存する二の丸の四足門

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