躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)

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信虎、信玄、勝頼と3代続いた甲斐武田氏の居館

中曲輪に残る天守台
中曲輪に残る天守台

永正16年(1519年)に造営された躑躅ヶ崎館は、天正9年(1581年)に新府城(韮崎市)へ移転するまでの62年間、信虎(のぶとら)、信玄(しんげん)、勝頼(かつより)と続いた武田氏3代の居館である。相川のつくり出した扇状地の扇頂部に位置した館は、西に湯村山、東に大笠山、夢見山、愛宕山が張り出し、北は帯那山(おびなやま)の深山に囲まれた天然の要害であった。現在、武田信玄を祀る武田神社の境内と、その周囲が館跡となっている。約200m四方におよぶ城域を有する館の内郭は、周囲に土塁と堀をめぐらし、東曲輪と中曲輪、西曲輪(人質曲輪)から構成される。また北側に北(隠居)曲輪、稲荷曲輪、味噌曲輪、南側に梅翁(ばいおう)曲輪を付設している。もっとも、永禄年間(1558‐69年)の古図によると、当初は東曲輪と中曲輪のみの単郭形式で、武田信玄の時代から除々に拡張されたものと考えられる。中曲輪は本丸にあたる場所で、ここに主殿、本主殿を庭園とともに構え、甲斐国守護職の居館と政庁の役割を果たした。また中曲輪の南側には楼閣の亭建築が築かれていたことが各種古図から分かる。東曲輪には大手口である東門が開かれ、角馬出が存在、発掘調査により角馬出の外側に全長約25m×幅約5m×深さ2m以上と推定される三日月堀の存在も明らかになっている。武田流築城術の象徴ともいうべき三日月堀は、武田氏が侵攻した信濃国や駿河国では多く見つかっているが、山梨県内では新府城で確認されているのみであった。西曲輪は信玄の長男義信(よしのぶ)の御座所として、今川義元(よしもと)の娘との婚礼に合わせて造営したと『高白斎記』にみえ、義信夫妻の居所であったが、それ以前もしくは義信自刃後は人質曲輪として利用されたと伝わる。また北(隠居)曲輪は、信虎駿河退隠に従わなかった大井夫人が除髪して住居したところであり、これによって大井夫人は御北様と呼ばれた。躑躅ヶ崎館の周囲には武田氏の有力家臣団の屋敷が区画されて立ち並び、躑躅ヶ崎館の北東2.5kmにある要害山に詰の城である要害山城(甲府市上積翠寺町)が築かれた。現在、武田神社の社殿が鎮座する場所が中曲輪跡で、宝物殿のあたりが東曲輪跡、甲府市藤村記念館のあたりが西曲輪跡である。武田神社への参道として朱塗りの橋が架かる南側には当時入り口はなく、橋を渡った両側にある石垣も後世のもので、躑躅ヶ崎館の遺構ではない。

永正4年(1507年)甲斐源氏嫡流で甲斐国守護職の武田信縄(のぶつな)が没すると、嫡男の信虎が14歳で武田家18代当主となった。このとき、信虎の叔父である勝山城(甲府市上曽根町)の油川信恵(あぶらかわのぶよし)は、郡内の小山田弥太郎らと共に反旗を翻した。翌永正5年(1508年)信虎は勝山城を奇襲して油川信恵を討ち取り、さらに小山田弥太郎をも討ち、郡内地方の反乱軍を掃討している。永正16年(1519年)信虎は山梨郡古府中に躑躅ヶ崎館を築いて、川田館(甲府市川田町)から本拠を移した。居館の周辺に家臣団屋敷を配し、外側には商人町や職人町を置いて、中世城下町の建設を目指したものであった。ところが、家臣や有力国人に対して、居城を廃して城下町に屋敷を移すように命じたところ、この施策に有力国人は激しく反発した。永正17年(1520年)西郡(にしごおり)の豪族で上野城(南アルプス市)の大井信達(のぶさと)、信業(のぶなり)父子、東郡(ひがしごおり)の豪族で栗原氏館(山梨市)の栗原信友(のぶとも)、峡北の豪族で獅子吼城(北杜市)の今井信是(のぶこれ)が反旗を翻す。いずれも武田氏の庶族である。信虎は軍勢を3隊に分けて鎮圧に向かった。東郡に進軍した部隊は、都塚で栗原氏を破り、栗原氏館を焼き払った。峡北に向かった部隊も今井氏を降し、西郡の部隊も今諏訪で大井氏を破った。このとき信虎は、大井氏との和睦の条件として、信達の娘(大井夫人)を正室として迎えた。甲斐国の統一を果たし、守護大名から戦国大名へと成長した信虎は、国外の強敵と戦っていくことになる。大永元年(1521年)駿河国の今川氏親(うじちか)は甲斐国に軍勢を侵攻させた。総大将の福島正成(くしままさなり)率いる1万5千の大軍は、大島の戦いで武田軍を破り、富田城(南アルプス市)、勝山城を攻略して躑躅ヶ崎館に迫った。信虎は懐妊中の大井夫人を躑躅ヶ崎館の詰の城である要害山城(甲府市上積翠寺町)に移して今川軍との決戦に臨んだ。このとき山麓の積翠寺で産んだ太郎が、のちの武田信玄である。世継ぎ誕生に沸く武田軍は、飯田河原の戦いに続いて、上条河原の戦いでも圧勝、福島正成をはじめ600余を討ち取り、今川軍を撃退した。この福島乱入事件によって、信虎は国内での支配権を確固たるものにし、本格的な信濃国への侵攻を開始する。

天文10年(1541年)信虎が駿河国の今川義元の館に赴いた際、重臣の板垣信方(のぶかた)や甘利虎泰(とらやす)らに擁立された長男の晴信(はるのぶ)は、甲駿国境の万沢口に足軽を出して封鎖し、信虎の帰国を阻止した。のちの武田信玄(しんげん)である。このクーデターによって父を追放した晴信は、甲斐武田氏の19代当主となり、信虎の信濃国侵攻事業を引き継いだ。信虎追放の理由は、信虎に疎まれた晴信が廃嫡を恐れての事だけでなく、信虎の独裁に対する国人衆の不満によるものでもあった。天文12年(1543年)躑躅ヶ崎館は、城下の道鑑屋敷より出火した大火によって全焼してしまう。晴信は家臣である駒井高白斎政武(まさたけ)の屋敷を臨時の館として、躑躅ヶ崎館を再建したという。当時、甲斐国内の国人領主たちは武田家と主従関係にあったが、絶対的なものではなく、うまく統制が取れていなかった。それどころか、若い晴信を家臣どもが軽んじている傾向もあった。天文16年(1547年)武田晴信は『甲州法度之次第』を制定する。それには「晴信行儀に於て、その外の法度以下に相違の事あらば、貴賎を選ばず目安を以て申すべし、時宜に依り、その覚悟を成すべし」とあり、主君が自らも従うべきと定めた法律は、戦国時代に極めて珍しいものであった。「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という名言に象徴されるように、武田信玄は人心の掌握に長けており、ばらばらであった家臣団をまとめ上げ、武田二十四将を始めとした家臣達が信玄のために卓越した能力を発揮した。特徴的なことに武田二十四将の24人のなかに武田信玄も数えられており、絶対的な君主として君臨していた訳ではないことが窺える。そして、群雄割拠の戦国時代において、北方の上杉謙信(けんしん)、東方の北条氏康(うじやす)、南方の今川義元といった強大国に囲まれながらも、破竹の勢いで勢力を拡大し、甲斐、信濃、駿河の3国に加え、上野、遠江、三河、美濃、飛騨、越中の一部にまで版図を広げ、推定120万石の領国を形成した。また、信玄はその生涯のうち、一度も甲斐国に攻め込まれたことがなく、甲斐国内に新たな城を築城する必要もなかったため、堀一重の躑躅ヶ崎館を本拠とし続けた。元亀元年(1570年)室町幕府15代将軍の足利義昭(よしあき)は、織田信長との関係が悪化すると、信長討伐の御内書を諸国に乱発し、武田信玄、朝倉義景(よしかげ)、浅井長政(ながまさ)、毛利輝元(てるもと)、三好三人衆、さらに比叡山延暦寺、石山本願寺などの寺社勢力にも呼びかけて信長包囲網(反信長同盟)を形成した。元亀3年(1572年)信長包囲網の中心的存在だった信玄は、戦国最強と恐れられる武田軍団を率いて躑躅ヶ崎館を出陣し、織田信長を討つべく上洛を開始した。信濃国伊那郡から遠江国に侵入し、三方ヶ原合戦で徳川家康を壊滅させて、三河国に侵入した。ところが、翌元亀4年(1573年)三河野田城(愛知県新城市)を攻略した直後から信玄の持病が悪化し、武田軍団の進撃が止まった。信玄は鳳来寺(愛知県新城市)で回復を待ったが、病状はいっこうに良くならず、躑躅ヶ崎館に帰陣することを決意する。しかし甲斐国に引き返す途中、信濃国伊那郡駒場にて53歳で病没した。

「大ていは地に任せて肌骨好し、紅粉を塗らず自ら風流」、これは信玄の辞世の句である。死に際した信玄は、後継者の勝頼に喪を3年のあいだ隠すように命じ、義理に厚い上杉謙信を頼りにするよう告げたという。家督を相続した武田勝頼は、信玄の時代よりも版図を拡大するものの、天正3年(1575年)長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に致命的な惨敗を喫し、多くの宿将を失った。躑躅ヶ崎館の門前には、「信玄のあとをやうやう四郎殿、敵のかつより名をはなかしの」、「勝頼と名乗る武田の甲斐なくて、軍(いくさ)に負けて信濃わるさよ」という落首が立てられていた。無敵であった武田氏の勢力は衰え、躑躅ヶ崎館では織田氏の攻撃に耐えられないと判断した勝頼は、天正9年(1581年)躑躅ヶ崎館よりも要害の地である七里岩の断崖上に新府城の築城を始め、普請半ばで入城した。そして躑躅ヶ崎館は、府中の移転に反対する家臣達への圧力のため徹底的に破却された。天正10年(1582年)織田・徳川連合軍による甲斐・信濃侵攻によって、名門武田家は滅亡する。織田信長はその論功行賞として、穴山梅雪(あなやまばいせつ)の巨摩郡を除いた甲斐国と信濃国諏訪郡を河尻秀隆(ひでたか)に与え、上野一国と信濃国小県郡・佐久郡を滝川一益(かずます)、信濃国高井郡・水内(みのち)郡・更科郡・埴科郡を森長可(ながよし)、信濃国木曽谷2郡および安曇郡・筑摩郡を木曽義昌(よしまさ)、信濃国伊那郡を毛利秀頼(ひでより)、駿河一国を徳川家康に与えた。他にも美濃岩村城(岐阜県恵那市)を団平八、美濃国兼山と木曽川対岸の米田島(よなだじま)を森蘭丸(らんまる)に宛がっている。しかし同年、織田信長が本能寺で討たれると、甲斐国は天正壬午の乱を経て徳川家康の領土となった。この頃、躑躅ヶ崎館には仮御殿が造営され、甲斐の統治を任された家臣の平岩親吉(ちかよし)が居城した。天正18年(1590年)徳川家康が関東に移封すると、甲斐国には羽柴秀勝(ひでかつ)が入封して甲府城の築城を開始し、天正19年(1591年)続いて入封した加藤光泰(みつやす)が甲府築城を引き継いだ。武田神社の北西には石垣の天守台が現存している。この天守台と主郭内部を区画する石垣等は、武田氏滅亡後に築かれたもので、躑躅ヶ崎館は羽柴秀勝、加藤光泰、浅野長政(ながまさ)らが甲府築城の期間に居城としており、その頃のものである。梅翁曲輪も加藤光泰の家老の井上梅雲斎(ばいうんさい)の屋敷であったことによる。江戸時代、武田二十四将の土屋右衛門昌次(まさつぐ)の屋敷跡は、魔縁塚(まえんづか)と呼ばれ、里人は恐れて近づかなかった。安永8年(1779年)甲府代官の中井清太夫が魔縁塚を発掘したところ、「法性院機山信玄大居士 天正元年癸4月12日薨」と刻まれた石棺が出土し、中から骨片や灰などが出てきた。この報告を受けた幕府によって、この場所が武田信玄の墓と定められ、現在も甲府市岩窪町に存在する。(2006.10.09)

東曲輪の大手口跡
東曲輪の大手口跡

躑躅ヶ崎館の水堀
躑躅ヶ崎館の水堀

武田信玄の墓
武田信玄の墓

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