津久井城(つくいじょう)

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北条家臣団の津久井衆筆頭である内藤氏の居城

本城曲輪の「築井古城記」碑
本城曲輪の「築井古城記」碑

津久井湖の南側にそびえる城山、かつて宝ヶ峰と呼ばれたこの山に津久井城跡があり、山麓に屋敷地を設けた典型的な根小屋式山城であった。北に相模川、南に串川という天然の外堀を巧みに利用し、山頂部から中腹、山裾の根小屋部とその周辺に遺構が広がる。山頂部には数段の削平地を造って曲輪とし、城山の山頂である西峰には、本城曲輪、米曲輪、土蔵(どぞう)、米蔵(こめぐら)、タイラク主水、松尾米蔵、太鼓曲輪、家老屋敷などと呼ばれる曲輪があった。また天狗山とも呼ばれていた飯縄(いいづな)神社のある東峰には、飯縄曲輪、鐘撞堂(かねつきどう)、さらに東には鷹射場(たかうちば)、十兵衛山があり、各尾根には小曲輪が階段状に連続して配置されている。これらの曲輪には土塁や一部石垣の痕跡も残る。また山頂尾根には3ヶ所の大堀切があり、山腹には「とば堀」をはじめとする長大な竪堀が放射状に大小10本も穿(うが)たれている。地元では竪堀を「たつぼり」とも呼び、160mにおよぶものもある。本城曲輪、土蔵と太鼓曲輪、剣先(けんさき)の間には幅10m、深さ5mほどの堀切がある。往時はここに引橋が掛けられ、敵に攻められれば、この橋を引いて堀切を渡れなくした。飯縄神社の東下にある宝ヶ池と呼ばれる水の手は、『新編相模風土記稿』には「内藤在城の頃は日用の井水と見たり、浅うして底をみる、水を湛えて清渫、土人是を御手洗神水と唱ふ」と記され、昔から水が涸れたことがないという。また、ここで刀を研いだという伝承が残る。太鼓曲輪の南下段には家老屋敷と呼ばれる三角形の曲輪がある。ここには若干の土留めの石垣が現存している。さらに下段にも曲輪が続く。いずれも、下方の車坂(曲輪坂)からの攻撃に対する防御施設である。城山中腹の「おくまん平」と呼ばれる場所には、築井城趾の石碑が立つ。根小屋部は、城山南西麓の根本・城坂(しろさか)、北西麓の小網、南麓の荒久・西荒久、南東麓の馬込一帯に広がっていたと考えられる。城坂地区には御屋敷と呼ばれる大きな曲輪があり、これは津久井城主の居館跡で、古図によると内藤左近屋敷と記されている。また御屋敷を取り巻くように馬場、左近馬屋、馬屋小屋、しんでんと呼ばれる曲輪が配置される。牢屋の沢は津久井城の貴重な水源のひとつで、陣屋跡と御屋敷の間を流れる。陣屋の水牢があった場所なので、牢屋の沢といわれる。そして御屋敷の北側の尾根筋に山頂まで続く坂道が大手道である。他にも、西麓の小峰山にも小規模の曲輪がみられ、さらに西方の功雲寺境内と周辺に残る平場や、北麓の大蔵寺周辺の平場も、津久井城に関連する施設遺構と考えられている。内藤家の菩提寺である功雲寺(相模原市緑区根小屋)は、応永15年(1408年)宝ヶ峰北西麗の小網に創建された耕雲庵(こううんあん)が前身となる。天文3年(1534年)戦国期の津久井城主であった内藤左近将監景定(かげさだ)が耕雲庵を現在地に移して功雲寺と改めた。功雲寺には内藤景定夫妻の墓や、城代家老の馬場佐渡らの墓が残る。津久井城の周囲には、前陣馬、奥陣馬、勝どき畑、首塚(富士塚)など合戦にまつわる地名が残されている。津久井城は、三浦半島を本拠として勢力を拡大した三浦氏の一族である津久井氏の居城から始まった。三浦氏は桓武平氏良文流の大族であり、坂東八平氏のひとつに数えられ、鎌倉幕府では御家人の筆頭として北条得宗家に次ぐ勢力を保持した。平安時代末期の三浦氏4代当主の三浦大介義明(よしあき)の弟である津久井次郎義行(よしゆき)を祖とする。三浦半島の津久井を領した津久井氏は、築井氏とも書き、後に愛甲郡北部を領した。

鎌倉時代初期に津久井義行の子である太郎次郎義胤(よしたね)が宝ヶ峰に築城したと伝えられる。そして、この城を津久井城としたのが津久井の地名の起源という。これは「築井古城記」碑の碑文や『新編相模国風土記稿』などに基づくが、鎌倉時代に津久井氏の勢力がこの地域まで及んでいたとは考えにくく、伝承の域を出ないという。かつて奥三保と呼ばれたこの地方は、山林資源が豊富なことから、鎌倉時代後期には北条得宗家の支配下に置かれ、南北朝期以降は足利将軍家の直轄領である御料所(将軍家領)となった。応永年間(1394-1428年)は長山修理亮忠好(ただよし)という者が津久井の領主であった。鎌倉時代中期の文暦元年(1234年)に創建された真覚寺(東京都八王子市散田町)の寺伝によると、応永18年(1411年)津久井城主の長山忠好が中興開基となり、京都醍醐寺報恩院(京都府京都市)より隆源(りゅうげん)を招いて観音堂を創建している。そして、真覚寺は長山忠好の祈祷所であった。一方で、これは長山氏ではなく長井氏の間違いではないかとという指摘もある。文明10年(1478年)長尾景春(かげはる)の乱において、太田道灌(どうかん)の弟・資忠(すけただ)が率いる軍勢が、奥三保に陣取った景春方の本間氏、海老名氏、甲州住人(山梨県上野原市)の加藤氏と戦い、これを撃退したという記録がある。永正7年(1510年)の『上杉顕定書状写』に「伊玄(いげん)相背キ、帯刀左衛門尉・吉里(よしさと)一類津久井山ニ移リ候、早瑞ニ一味候哉」とあり、長尾景春は相模平定を目論む北条早雲(そううん)と同盟を結び、山内上杉顕定(あきさだ)に再び叛旗を翻して、吉里一族らと津久井山で挙兵したことが分かる。しかし、顕定に味方する扇谷上杉朝良(ともよし)と三浦義同(よしあつ)の軍勢に敗れて津久井山から撤退している。津久井城主の内藤氏が初めて史料に現れるのは、青山光明寺(相模原市緑区青山)所蔵の大永4年(1524年)12月9日付『内藤大和入道寄進状』である。内藤氏の出自は不明だが、戦国時代の初め頃は鎌倉公方足利氏や扇谷上杉氏の国人衆として津久井領を治め、北相模に北条氏の勢力が伸びてくるなかで従ったものと考えられている。『妙法寺記』の大永5年(1525年)の条に「此年武田殿ト新九郎殿ト合戦ヒマナシ」や「津久井ノ城未ダ落ズ」というくだりがある。大永4年(1524年)北条氏2代当主の氏綱(うじつな)が扇谷上杉朝興(ともおき)の武蔵江戸城(東京都千代田区)の攻略を開始すると、北条氏と敵対していた甲斐国の武田信虎(のぶとら)は、扇谷上杉氏に呼応して北条氏の背後を脅かすべく津久井に侵入して津久井城を攻めている。このことから津久井城主の内藤氏は北条氏に従う存在であったことが分かる。相模国の北西部に位置する津久井城は、北方に武蔵国、西方に甲斐国と接した交通の要衝であったため、大永5年(1525年)まで合戦が続き、その後も武田氏による侵攻をたびたび受けた。これまでの研究により、津久井城主の内藤氏は、大和入道から、朝行(ともゆき)、康行(やすゆき)、綱秀(つなひで)、直行(なおゆき)まで5代続いたと考えられる。また、正保4年(1647年)の『相州津久井領青山村光明寺領改帳』では、内藤大和守入道−法讃(ほうさん)−綱秀−左近将監直行となっている。一方、「築井古城記」碑の碑文や『新編相模国風土記稿』をはじめ、いくつかの史料に津久井城主として内藤景定・景豊(かげとよ)父子の名前が現れる。城下の功雲寺は内藤景定を開基としているし、その墓や寄進状なども残されるが、先の内藤氏5代との関連については解明されていない。

津久井城は甲斐武田氏などに対する境目の城として北条領の最前線にあっただけでなく、周囲の田代城(愛甲郡愛川町田代)、細野城(愛甲郡愛川町半原)や、多くの烽火台を束ねる北条氏の有力支城でもあった。北条氏は小田原城(小田原市)を本城とし、有力支城には北条一門を置いたり、各地の有力な国人領主を取り立てて城を任せるとともに、家臣団として組織した。津久井城主の内藤氏もそのうちの一人で、内藤氏を中心に津久井衆という支配体制が組織されていた。北条氏は他の戦国大名に先駆けて検地をおこなっており、貫高(かんだか)制のもとで家臣を小田原衆、津久井衆、玉縄衆、江戸衆というように、本城・支城単位に組織化した。貫高とは、土地面積を貫文単位の銭貨にて表示したもので、北条氏の領国では、1反あたり田は500文、畑は150〜200文とされた。そして家臣は、知行地の貫高に応じた軍役などを負担することが義務付けられた。永禄2年(1559年)の『小田原衆所領役帳』には、各衆別に全ての家臣の知行地とその貫高、軍役として動員すべき人数などが記載されており、その津久井衆の項には、津久井城主内藤左近将監を筆頭に、内藤兵部少輔、井上加賀守などの重臣らしき名前と、あとは村ごとに家来衆の名前が記されている。当時の津久井地方は、北条氏と武田氏の勢力圏が複雑に入り組んでおり、武田氏の知行地も多く存在し、半分は武田氏の重臣である小山田氏を盟主とする郡内衆の勢力下だった。また、敵知行半所務(てきちぎょうはんしょむ)と呼ばれる村々では、北条氏と武田氏の領主に半分ずつ年貢を納めることで紛争を回避しており、半手(はんて)とも呼ばれて、北条氏と武田氏の双方から支配を受けた。永禄11年(1568年)甲斐国の武田信玄(しんげん)は、相甲駿三国同盟を破棄して駿河国へ侵攻、今川氏真(うじざね)を追放して駿府を占領した。しかし、北条氏3代当主の氏康(うじやす)が氏真を支援して駿河に出兵したため、一旦駿河を放棄して甲斐に撤退する。上洛を目論む信玄は駿河に再侵攻するため、北条氏に対して陽動作戦を仕掛けた。永禄12年(1569年)碓氷峠を越えて北条氏邦(うじくに)の武蔵鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)を取り囲んだ信玄は、そのまま南下して北条氏照(うじてる)の武蔵滝山城(東京都八王子市高月町)を攻めて落城寸前まで追い込み、続いて北条氏康・氏政(うじまさ)父子の小田原城を2万の兵で包囲した。信玄は小田原城下に放火するなどして挑発したが、氏康は籠城策を固持したため、長期戦になることを不利と考えて帰国の途についた。相模川沿いに甲斐に向かう武田軍が、津久井城の南方3kmにある三増峠(みませとうげ)を越えようとした際、退路を断とうと待ち伏せしていた北条氏照・氏邦兄弟ら2万の軍勢と合戦になる。この三増峠の戦いは大規模な山岳戦として戦国史に残る大激戦となった。武田軍の後方からは北条氏康・氏政父子の北条本隊1万の軍勢が挟み撃ちすべく迫っていたため、信玄は氏照・氏邦兄弟との対戦を即断した。まず後詰の遮断と帰路の確保を目的に小幡重貞(しげさだ)隊に津久井城を牽制させて、城主の内藤大和守を津久井城内に釘付けにさせた。そして内藤昌豊(まさとよ)の小荷駄隊を守りながら馬場信房(のぶふさ)隊、武田勝頼(かつより)隊、浅利信種(のぶたね)隊が中央突破をはかる。はじめ武田軍は苦戦を強いられ、武田二十四将の浅利信種が討ち取られるが、潜行していた別働隊の山県昌景(まさかげ)隊が北条軍の側面に襲いかかったため戦局は一転して圧勝となる。この頃の信玄は老練であり、若輩の氏照や氏邦らの敵ではなかった。

三増峠の戦いで両軍の死者は4千人を超えたとされる。『甲陽軍鑑』によると、小幡重貞隊が長竹村の囲い沢(隠し沢)に布陣して津久井城を牽制したため、内藤氏が率いる津久井衆は出撃できなかった。囲い沢(隠し沢)という地名はこの時に由来し、武田軍が兵を隠したことによる。武田軍は撤退するとき光明寺(相模原市緑区青山)へ寄り、灯りを借りようとしたが断られたため、寺に火をつけて松明(たいまつ)代わりとし、その明かりで引き上げたという。同じように常念寺(相模原市緑区鳥屋)も焼き払われて廃寺となっている。三増峠の戦いのとき、武田軍は至るところで民家や神社、仏閣に放火した記録が残っている。それは敵の戦力を奪う戦略であり、戦果と見ることができるが、そのために地元では信玄の評価を大きく下げている。この付近の伝承によると、信玄は戦いに負けて逃げたことになっており、嫌がらせに各所に火をつけたのだと伝わる。永禄12年(1569年)三増峠の戦いの後、古河公方足利義氏(よしうじ)は小山秀綱(ひでつな)に津久井城の普請を命じているが、発掘調査により、この頃に御屋敷が拡張され、土塁や空堀、焔硝蔵(火薬庫)が構えられたことが分かっている。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原の役の際、津久井城主の内藤助右衛門直行は小田原城に籠城し、津久井城は内藤綱秀以下、津久井衆150騎で守備した。4月頃から徳川家康の家臣、本多忠勝(ただかつ)、平岩親吉(ちかよし)、戸田忠次(ただつぐ)、鳥居元忠(もとただ)、松平康真(やすざね)ら1万1千に津久井城は包囲された。内藤綱秀が中郡白根に駐屯する豊臣勢を攻撃したとされる白根の戦いで、内藤大和守が家臣に対して、天正18年4月17日発行の感状を与えており、青野原村の井上源三郎と佐藤伝左衛門豊成(とよなり)に宛てた2通の感状が現存している。内藤綱秀と内藤景豊は同じ大和守の官位で伝えられ、須賀湊の乗蓮寺(平塚市)には、江戸時代に佐藤伝左衛門の子孫が建立した内藤大和守景豊の墓がある。その由来に「大和守は津久井城主内藤景豊なり」と表記していることから、内藤綱秀と内藤景豊は同一人物であるとも考えられる。その後、井伊直政(なおまさ)の軍勢が津久井城から出撃してきた足軽を討ち取った等の史料があり、詳細は不明であるが、津久井城は6月25日に降伏開城した。小田原城に籠城していた内藤直行は、北条氏直(うじなお)に従い高野山に隠棲したとされる。天正18年(1590年)関東に入封した徳川家康は、代官頭制度のもとで各地に代官を置いて統治を始めた。津久井城は廃城となったが、代官が置かれて、御屋敷一帯が再整備され陣屋が設けられた。津久井一帯は代官頭の彦坂小刑部元正(もとまさ)や伊奈備前守忠次(ただつぐ)が治め、慶長13年(1608年)内藤氏旧臣の守屋左太夫行広(ゆきひろ)が赴任した。かつて、研修棟付近には「おじんや(御陣屋)」の屋号で呼ばれた旧家があり、守屋行広・行昌(ゆきまさ)父子の陣屋の跡とされるが、寛文4年(1664年)までに廃止された。津久井城の本城曲輪跡の土塁上には、文化13年(1816年)根小屋村名主の島崎得太郎律直(ただなお)が5万両もの私財を投じ、文化人たちの協力によって建立した「築井古城記」碑が現在も残っている。当時のそうそうたる著名人が関わっており、題字は江戸幕府の老中首座にあった松平定信(さだのぶ)、撰文は幕府最高の儒官である大学頭林衡(はやしたいら)、原文を書写したのが幕府奥祐筆で当代一の名筆家といわれた屋代弘賢(ひろかた)、刻字は江戸時代を代表する石刻家の広瀬群鶴(ぐんかく)という江戸時代の名碑である。(2006.02.11)

引橋が掛けられていた大堀切
引橋が掛けられていた大堀切

わずかに残る家老屋敷の石垣
わずかに残る家老屋敷の石垣

津久井城の中核となる御屋敷跡
津久井城の中核となる御屋敷跡

史跡三増合戦場に立つの石碑
史跡三増合戦場に立つの石碑

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