都於郡城(とのこおりじょう)

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日向一円を240年余にわたり支配した戦国大名・伊東氏の伊東四十八城の本城

二ノ丸側から見た本丸の全景
二ノ丸側から見た本丸の全景

宮崎県のほぼ中央に位置する西都市は、九州山地を源流とし日向灘に注がれる一ツ瀬川の中流域に位置し、南部は一ツ瀬川とその支流である三納川と三財川が造り出した西都平野となっている。都於郡台地の北西端には都於郡城の主体部が存在する。山城様式に構築されたこの城は、平地に孤立した自然の山丘を城取りしたもので、標高は100m前後である。周りを急峻な断崖に囲まれ、北から西の裾部には三財川が流れて外堀の役目を果たしている。「春は花、秋は紅葉に帆をあげて、霧や霞に浮舟(うきふね)の城」と詠われたように、遠くから見た様は舟が浮いているように見えたことから別名「浮舟城」とも呼ばれている。都於郡城の主体部は、本丸、二ノ丸、三ノ丸、奥ノ城、西ノ城(斥候城)の5つの曲輪からなっており、通常は「五城郭」と称している。本丸を東端に置き、西に向かって二ノ丸、三ノ丸が並び、本丸の北側に奥ノ城、三ノ丸の南側に西ノ城を配している。各曲輪は巨大な空堀によって仕切られ、独立している点が大きな特徴となる。県央地区の宮崎平野外縁部や県南地区では、入戸火砕流堆積物(シラス)を基盤とするシラス台地が大半を占め、多くの中世城館はその端部に築かれている。シラス台地は上面の起伏こそ少ないが、水質による浸食作用を受けやすく、縁辺部は崩落によって急崖となる。このような地形を利用した城郭の特徴は、曲輪のひとつひとつが非常に大きく、その曲輪を区切っている空堀も深くて幅が広い。これらの城郭は「南九州型」、「九州館屋敷型」、「群郭式」と称される。典型例として都之城(都城市都島町)や山之口城(都城市山之口町)、櫛間城(串間市)、穆佐城(宮崎市高岡町)が挙げられる。都於郡城の周辺は厳密にいえばシラス台地ではないが、類似する台地上に立地した素晴らしい南九州型城郭である。五城郭の規模は、東西約400m、南北約260mにもおよぶ。また、東西約1.5km、南北約1.0kmの範囲には、向ノ城、東ノ城、日隠(ひがくれ)城、南ノ城、中尾城などの出城跡や、大用寺、岳惣寺、一乗院などの寺院跡が分布している。これらの寺院は、戦闘時における戦力の担い手として位置付けられていたと考えられ、五城郭の周辺を防衛する役割を果たしていた。周囲を土塁に囲まれた本丸は、東西約90m、南北約130mの平坦地だが、埋蔵金伝説による盗掘で遺構が攪乱されていた。本丸からは16世紀前半頃に輸入されたと思われる中国製の磁器片が多数出土しているが、伊東氏の家伝『日向記』の天文12年(1543年)の記事に「日向ノ津々ニ唐船十七艘入来故異国、珍物数不知浦々大ニニギハヒケリ」とある。この時期は11代当主・伊東三位入道義祐(よしすけ)の全盛期に相当する。二ノ丸は本丸と比較して古い時期に構築されており、規模は東西約95m、南北約85mとなる。北側と東側には巨大な土塁が残存している。二ノ丸の南側東部と南側中央部の2箇所に虎口が存在したことが判明しているが、そのほとんどが崩落している。最高所は標高105mの三ノ丸で、その北から西にかけて急崖をなし、比高は80m程ある。伊東四十八城と呼ばれた支城網と連絡するための狼煙台があった場所と推測されている。奥ノ城は城主の家族が生活した場所である。伊豆国の伊東荘を本貫地とする藤原南家の伊東氏と日向国との関係が生じるのは、建久元年(1190年)源頼朝(よりとも)により、鎌倉幕府御家人の工藤左衛門尉祐経(すけつね)が日向730町歩の地頭職に補されたことに始まる。その子・祐時(すけとき)が伊東氏を名乗り、伊東祐時から曾孫・貞祐(さだすけ)までは伊豆に住み、鎌倉時代を通じて庶子を代官として日向に派遣した。

建武2年(1335年)中先代の乱に際して、伊東貞祐の子・祐持(すけもち)は、北条一族の残党に与したが、足利尊氏(たかうじ)に敗れて降伏する。そして、足利氏に属して新田義貞(よしさだ)と戦い勝利に貢献した。尊氏は新田軍を追撃して京都を制圧したが、建武3年(1336年)北畠顕家(あきいえ)・楠木正成(まさしげ)軍と戦って敗れ、京都を追われて九州に落ち延びた。九州を平定した尊氏は、再び京都を目指して東上した。このとき伊東祐持は足利軍に加わり、湊川の戦いに従軍して戦功があったという。祐持は尊氏から児湯郡都於郡300町を与えられた。この頃、九州では宮方(南朝)の動きが活発であったことから、尊氏の命により祐持は日向に下向した。それは『日向記』によると建武2年(1335年)の事で、『日向纂記』によると延元2年(1337年)の事とされる。建武4年(1337年)祐持は高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ)の伝承地に都於郡城を築城して本拠とし、宮方と対峙した。高屋山上陵とは、初代・神武天皇の祖父にあたる山幸彦こと彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の御陵であり、現在は鹿児島県霧島市に治定されているが、都於郡城の本丸の地が高屋山上陵であると考えられていた。築城の際に高屋山上陵を掘り、出土品は近くにあった一乗院に移したと伝えられる。貞和4年(1348年)上洛した祐持が京都で亡くなると、一族の伊東祐熙(すけひろ)が家督を継いで日向に下った。ところが、途中の周防国で祐熙が遭難死したため、祐持の嫡子・伊東祐重(すけしげ)が家督を継いで日向に下向している。この時、一族の守永祐氏(もりながすけうじ)に奪われていた都於郡城を奪還するとともに、大規模な改修をおこない現在の都於郡城の原形を築いた。日向伊東氏の3代当主・祐重は、足利尊氏の「氏」の一字をもらって氏祐(うじすけ)と改名している。明徳3年(1392年)南北朝の合一が実現して、半世紀以上にわたった南北朝の争乱も一応の終息をみた。すると、これまで武家方として活躍してきた伊東氏、島津氏、土持氏の間で日向をめぐる争いが勃発するようになる。康正2年(1456年)日向伊東氏6代当主・伊東祐尭(すけたか)は、縣土持宣綱(のぶつな)と財部土持高綱(たかつな)の連合軍と戦闘におよび、この小浪川(こなみがわ)の戦いに勝利して、高綱をはじめ多くの将兵を討ち取った。長禄元年(1457年)財部土持氏は伊東氏の軍門に降っている。文明16年(1484年)伊東祐堯は嫡子・祐国(すけくに)と島津氏の飫肥城(日南市)を攻撃した。ところが、この陣中で祐堯は急死してしまう。翌文明17年(1485年)跡を継いだ伊東祐国は弟・祐邑(すけむら)とともに、再び飫肥城を攻めたが、乱戦のなかで祐国は討死、伊東軍は敗北してしまう。こうして、日向伊東氏を強大にした祐堯・祐国と相次いで知勇兼備の当主を失っている。野村氏の乱という内訌を経て8代当主となった尹祐(ただすけ)は、父の復仇を期して三俣院に進出しており、明応4年(1495年)島津氏は三俣院千町を割譲して和睦した。大永2年(1522年)には北郷(ほんごう)氏の都之城を攻めたて、翌大永3年(1523年)北原氏と同盟して北郷氏の支城である野々美谷(ののみだに)城(都城市野々美谷町)を落城させたが、その陣中で尹祐は没してしまう。家督は長男の祐充(すけみつ)が継いだが、幼かったため、外戚の福永祐炳(ふくながすけあき)ら福永一族が実権を握った。それは「威勢国中に肩を並ぶる人もなし」とまで評されるほどであった。これに伊東氏の譜代家臣らが反発して内紛が続いた。

天文2年(1533年)伊東祐充が24歳の若さで病没すると、祐充の叔父である伊東祐武(すけたけ)が伊東武州の乱というクーデターを起こし、福永祐炳と3人の息子を自害させて、さらに祐充の弟である次男・祐清(すけきよ)と三男・祐吉(すけよし)を追い出して都於郡城を占拠した。伊東祐清・祐吉兄弟は財部に留まり叔父・祐武と対峙して、再び家中を2つに分けた内紛となる。重臣・荒武三省(あらたけさんせい)の活躍で、伊東祐武は自害に追い込まれ、義清たちは都於郡城を奪回することに成功した。伊東氏10代当主は、重臣たちの決議により弟の祐吉が継ぐことになり、居城を宮崎城(宮崎市池内町)に定めた。このため、兄の祐清は出家を余儀なくされる。ところが、天文5年(1536年)伊東祐吉が20歳で病没したため、祐清が還俗して伊東氏11代当主を継ぎ、佐土原城(宮崎市佐土原町)へ入った。この伊東祐清が、のちに日向全域に版図を広げ、戦国大名・伊東家の最盛期を築くことになる伊東義祐である。佐土原城に入ったのは、本城の都於郡城が焼失していたためだが、翌年には佐土原城も焼失したため、宮崎城に移っている。天文6年(1537年)祐清は従四位下に叙せられ、12代将軍・足利義晴(よしはる)の偏諱を受けて義祐と改名する。『日向記』によると、天文15年(1546年)には従三位に叙せられ、2年後に長男・歓虎丸の早世により出家したことから「三位(さんみ)入道」を称した。義祐は南方に所領拡大を図り、島津豊州家(しまづほうしゅうけ)が守備する飫肥城を攻撃、天文10年(1541年)から28年間にわたって島津氏を相手に8度にわたる戦いを繰り返し、ついに永禄11年(1568年)に念願の飫肥城を手に入れた。飫肥城には三男・祐兵(すけたけ)を配備している。この結果、都於郡城と佐土原城を本城として日向国内に伊東四十八城と呼ばれる支城網を整備して、伊東氏の最盛期を迎えた。永禄3年(1560年)に義祐は次男・義益(よします)に家督と都於郡城を譲っており、自らは佐土原城を居城として二頭政治をおこなったが、永禄12年(1569年)義益が急逝してしまい、再び義祐が采配を振るうことになった。元亀3年(1572年)義祐は3千の軍勢で加久藤(かくとう)城(えびの市)を攻めさせたが、島津義弘(よしひろ)が率いるわずか300人の軍勢に大敗してしまう。この九州の桶狭間と呼ばれる木崎原の戦いで、伊東家の名だたる武将が悉く討死してしまい、伊東氏は急激に衰退していくことになる。天正4年(1576年)伊東方の高原城(高原町)の降伏に始まり、小林・須木・三ツ山・野首・岩牟礼の諸城が島津氏に降伏した。さらに、天正5年(1577年)日向北部からは縣土持親成(ちかしげ)が侵攻したため、義祐は北と南から挟撃されることになる。この苦境に際し、義祐は家督を嫡孫である伊東義賢(よしかた)に譲るが、福永氏・野村氏・米良氏など家臣の離反が続出、義祐の苛政に耐えかねた家臣や農民が島津軍を引き込む事態に至る。このため、義祐は日向を放棄して義益の正室である阿喜多(おきた)の叔父・大友宗麟(そうりん)を頼って豊後に亡命することとした。これを伊東崩れと呼ぶ。島津軍に追われた義祐一行の100人余は、西に迂回して米良山中から高千穂を越えて、猛吹雪の中で自害する者も出て、豊後に辿り着いた人数は80人を割っていたとも伝わる。義祐は豊後国国東郡に屋敷を与えられ丁重に扱われた。一方、日向に侵攻した島津氏は、都於郡城に家臣の鎌田政近(まさちか)を城代として置いている。天正6年(1578年)大友宗麟は伊東氏を日向に復帰させるために大軍を率いて南下した。

ところが、大友軍は島津氏との耳川の戦いに惨敗してしまい、大友氏までも衰退してしまう。このため義祐は厄介者と見られるようになり、屋敷の前には「のみしらみ、鼠となりて三位殿、田原の下を這い回りけり」という落首まで立てられた。豊後に居られなくなった義祐・祐兵父子ら20人余は、伊予国の河野氏を頼って海を渡った。当主の河野通直(こうのみちなお)には保護を断られるが、河野一族の大内次郎左衛門信孝(のぶたか)という者が知行地である久保田の寿王庵に迎えてくれた。義祐一行には三峰(みつみね)という山伏も同行しており、天正9年(1581年)三峰は羽柴秀吉が拝領していた播磨国姫路を見物に行った。その際、秀吉の黄母衣衆のひとり伊東掃部助という者と出会い、掃部助は日向伊東氏とは祖が同じであるため、秀吉への取り成しを約束してくれた。三峰は急ぎ伊予に戻って義祐に伝え、翌天正10年(1582年)一行は播磨に渡海した。そして伊東祐兵が、掃部助の一計で秀吉の目に止まり30人扶持で織田家に召し抱えられた。祐兵は六郎五郎を称していたが、掃部助の勧めで民部大輔と名乗ることになった。掃部助は義祐にも秀吉への謁見を勧めたが、義祐はたとえ流浪の身であっても、もとは日向の太守であり、三位に叙して、70歳を越えようとしているのに、どうして秀吉ごときに追従できようかと断った。ただし、子孫再興のためなので祐兵の件は別だと付け加えている。こうして伊東祐兵は織田家に仕官することになり、与力として羽柴秀吉の付属となる。本能寺の変のあとは、そのまま秀吉の家臣団に組み込まれた。都於郡城といえば、天正遣欧少年使節の伊東満所(マンショ)こと伊東祐益(すけます)の生誕地でもある。本丸跡には伊東マンショの銅像や顕彰碑が建てられている。天正遣欧少年使節とは、天正10年(1582年)九州のキリシタン大名である大友宗麟・大村純忠(すみただ)・有馬晴信(はるのぶ)の名代としてバチカンに派遣された伊東マンショ、千々石(ちぢわ)ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4名の少年を中心とした使節団である。大友宗麟の名代である伊東マンショが主席正使であった。伊東義祐の孫であり、宗麟の遠縁である。大村純忠の名代である千々石ミゲルも正使で、純忠の甥で有馬晴信の従兄弟である。中浦ジュリアンと原マルチノは副使であった。天正5年(1577年)都於郡城が落城した際、豊後への落人の中に8歳の伊東マンショも加わっていた。豊後から肥前国島原のセミナリオに入学し、天正10年(1582年)2月、少年使節はバチカンに向けて発ち、スペイン・ポルトガル国王のフェリペ2世やローマ教皇のグレゴリウス13世への謁見も果たしている。ヨーロッパ各地で歓迎を受けたあと、8年5か月の長旅を経て、天正18年(1590年)長崎に帰ってきた。天正19年(1591年)聚楽第(京都府京都市)で豊臣秀吉に面会して西洋音楽の演奏をしている。その間、九州制圧を目前にした島津氏は、天正15年(1587年)秀吉の九州征伐によって降伏している。伊東祐兵は豊臣軍の先導役を務めた功により、清武・曾井に2万8千石を与えられ大名として復帰、翌年には飫肥8千石を加増され3万6千石になっている。佐土原と都於郡は島津家久(いえひさ)に安堵されており、都於郡城は佐土原島津氏の領有となった。そして、佐土原城の支城としての役割を担っている。江戸時代になると、そのまま佐土原藩の管理となるが、慶長20年(1615年)江戸幕府による一国一城令により都於郡城は廃城となった。しかし、外城制度を重視していた佐土原藩の施策により、都於郡城の本丸跡に練武場と称する弓場(射場)を置いて存続させた。(2015.03.14)

本丸と二ノ丸間の巨大な空堀
本丸と二ノ丸間の巨大な空堀

二ノ丸東側に残る大きな土塁
二ノ丸東側に残る大きな土塁

奥ノ城の急峻な切岸と奥の本丸
奥ノ城の急峻な切岸と奥の本丸

西ノ城から望む三財川の流れ
西ノ城から望む三財川の流れ

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