鞆の浦(とものうら)は、JR福山駅から南方約14km、瀬戸内海に突き出た沼隈(ぬまくま)半島の南東部に位置する。西側に急峻な山が連なり、東側は海岸線を成し、南側が鞆港に面している。瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦は、潮待ちの港として利用された海上交通の要衝であった。鞆港の近くにある標高24m、比高22mの独立丘陵に鞆城が築かれ、その城域は南は鞆港、東は福禅寺、北は沼名前(ぬなくま)神社の参道まで達する平山城(海城)であった。東西に伸びる丘陵の東側の最高所に約55m×約40mの本丸があり、その西側に約8mほど下がって約50m×約25mの二の丸が隣接し、一段下がった西側に三の丸が階郭式に存在した。本丸には3層3階の天守も造営されたという。鞆城の北麓は武家地、南麓から東麓にかけては町人地とされた。現在、城跡の丘陵部が鞆城山公園となっており、本丸跡に鞆の浦歴史民俗資料館が建っている。その他の大部分は住宅地となった。本丸跡の東側を中心に石垣が積まれているが、これは発掘調査の時に出土した石垣を再利用して模擬的に復元したものである。資料館の北西側には、本丸の石垣の一部を保存展示しており、石材には丸印などの刻印が残されている。また搦手門の跡や、二の丸の石垣が寺院などの石垣に転用されている。戦国時代になるまで鞆の陸地側に城砦は築かれず、鞆港の南東に隣接する大可島(たいがしま)という小島に大可島城(福山市鞆町鞆)が築かれていた。南北朝時代の興国3年(1342年)に南朝勢力によって築かれたと伝わる。その後は因島村上氏によって村上水軍の拠点のひとつとして利用された。応仁の乱から戦国時代にかけて、備後は守護である山名氏が掌握していたが、度重なる内訌により弱体化していった。山名氏の衰退により北から出雲の戦国大名・尼子詮久(あきひさ)が、西から周防の戦国大名・大内義隆(よしたか)が勢力拡大を図って備後に侵攻してきた。尼子詮久とは、天文10年(1541年)10月に室町幕府12代将軍・足利義晴(よしはる)から偏諱を賜って改名する尼子晴久(はるひさ)のことである。『福山志料』には中世古文書の写し文書が記載されており、天文8年(1539年)から天文9年(1540年)頃に詮久が備後南部の鞆にまで支配力を浸透させていたことが分かる文書が含まれる。詮久は山名氏の被官・渡辺源三こと渡辺越中守兼(かね)に、「安国寺(福山市鞆町)役の事に伴い、先々の如く仰せ付け」と、鞆の支配者が山名氏から尼子氏に代わっても、旧来の慣例をそのまま踏襲させている。その特異な一字名で知られる渡辺氏は、嵯峨源氏の渡辺綱(つな)を祖とし、『平家物語』で「渡辺の一文字名ども」と呼ばれた摂津国渡辺を本拠とした渡辺党の一族である。足利尊氏に備後国山田荘の地頭職を賜って、始め下山田城(福山市熊野町)、中山田城(福山市熊野町)を居城としていたと考えられる。渡辺兼のときに常国寺(福山市熊野町)を建立し、一乗山城(福山市熊野町)を築いて居城とした。入城したのは文明年間(1469-87年)とも永正年間(1504-21年)ともいわれ、沼隈半島に勢力を持つ国衆であった。天文9年(1540年)9月、尼子詮久は3万の大軍を率いて、大内義隆に属していた安芸の有力国衆・毛利元就(もとなり)の安芸吉田郡山城(広島県安芸高田市)を攻めている。渡辺兼も尼子軍に従っていた。この吉田郡山城の戦いは、元就の徹底した籠城作戦と、天文10年(1541年)1月に援軍として駆けつけた陶隆房(すえたかふさ)率いる大内軍1万によって、大敗を喫した詮久が出雲に撤退している。これ以後は尼子詮久の勢力は後退し、代わって大内義隆が勢力を伸ばした。
天文20年(1551年)9月、大内義隆は陶隆房の謀反により自刃して果てた。この政変で大内氏の支配力も急速に衰え、この間隙を縫って毛利元就が勢力を伸ばした。沼隈半島の渡辺氏が毛利氏に臣従した時期について、『渡辺系図』には「元就公山口御下向に付き御供仕り其れより御家来に罷り成り候」と記録されており、元就が山口に赴き大内義隆に閲した年は天文18年(1549年)3月であるから、この頃に家臣に加わったと考えられる。大内義隆の横死は備後の国衆たちに動揺を与えた。天文21年(1552年)尼子晴久は13代将軍・足利義輝(よしてる)から、出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆の山陰山陽8か国の守護および幕府相伴衆に任ぜられており、これを契機に尼子氏に走る者も出ている。天文21年(1552年)陶隆房は晴賢(はるかた)と名を改め、毛利元就に備北地方の尼子氏に転じた国衆の討伐を命じた。一方、尼子晴久も2万の軍勢を率いて味方の救援に向かい、天文22年(1553年)恵蘇郡向泉の荻の瀬に新宮党が5千余騎で陣を張った。毛利軍は荻の瀬橋を挟んで対岸に吉川元春(もとはる)ら2千余騎の第一陣を対陣させ、毛利元就、毛利隆元(たかもと)、小早川隆景(たかかげ)ら2千余騎の第二陣は後方の大月という小高い丘に陣を布いて対峙した。同年5月10日、その陣中で毛利元就と嫡子の隆元は、鞆要害の完成について労をねぎらう連署状を書き送っている。宛先は一乗山城主・渡辺兼の嫡子である渡辺出雲守房(ふさ)であった。その陣中に渡辺房から鞆要害が完成した事を報告する書状が届いたと考えられる。渡辺房は毛利元就の命により、鞆の中心部の丘陵に鞆要害を築城したのである。それは、天文22年(1553年)頃であり、尼子氏への抑えとして築かれたものであった。従来、鞆要害の起源については、毛利氏が足利義昭(よしあき)を鞆に迎え入れた時と考えられていたが、この書状により、築城時期が23年も遡る事になった。因島村上氏が毛利氏に臣従した時期については、弘治元年(1555年)に起こった厳島の戦いの際とする説が有力なので、この頃の鞆には、大内方の因島村上氏の大可島城と、毛利方の山田渡辺氏の鞆要害の2つの城が並存していた事になる。鞆要害の規模・構造はよく分っていないが、発掘調査の結果などから鞆要害の城域は鞆城山公園の一帯であったと推定されている。城郭の規模は東西約200m、南北約100m程度で、南方の地蔵院のあるあたりまでが範囲であったようである。室町幕府15代将軍の足利義昭は、元亀4年(1573年)織田信長によって京都を追放されると、諸国を流浪の末、天正4年(1576年)2月に何の連絡もなく毛利氏を頼って鞆に動座してきた。毛利氏にとっては、織田氏との同盟関係上、義昭の受け入れは避けなければならない事態であり、毛利輝元(てるもと)はその対応に苦慮している。この頃、毛利氏と織田氏は同盟関係にあったものの、信長が西方に進出してきており関係は悪化していた。毛利氏は3か月間の熟慮のすえ、同年5月に足利義昭を受け入れることとし、織田氏との同盟は破綻した。義昭は毛利氏の庇護の下、渡辺氏が築いた鞆要害(鞆城)で亡命政権を樹立した。いわゆる鞆幕府と呼ばれるものである。幕府としての実態は伴っていなかったというのが定説であるが、義昭が信長追討のために将軍の権威のみで大名間の停戦や大名の寝返りを実現するなど、全国の戦国大名に与えた影響は相当なものがあった。実際、足利義昭が豊臣秀吉の斡旋により朝廷に将軍職を返上するのは天正16年(1588年)のことであり、それまでは形式的にも幕府は存続していたことになる。
現在の古城山に残る石垣は、ほとんどは慶長6年(1601年)から慶長14年(1609年)にかけて福島正則(まさのり)が築いた鞆城の遺構であるが、一部でそれよりも古い石垣が確認できる。これは鞆要害のもので、毛利氏が義昭のために普請した御所の遺構と考えられる。毛利輝元は鞆要害に御所を造営して義昭に提供したらしく、鞆城跡から義昭が使用した家紋である九七桐紋の鬼瓦が出土している。天正4年(1576年)義昭に随行した者は、奉公衆、奉行衆、同朋衆、猿楽衆、侍医、女房衆など50人以上いた。義昭のもとに集まった大名衆としては、伊勢国司家の北畠具親(ともちか)、伊賀守護家の仁木義政(よしまさ)、若狭守護家の武田信景(のぶかげ)、近江守護家の六角義治(よしはる)、丹波守護代家の内藤如安(じょあん)など、かつての国司や守護大名、守護代であった。その一族や家臣団も含めると総勢100人以上の幕府関係者が、御所やその周囲に居住した。義昭に近侍し、義昭の御内書の添状を作成したり、使者の役割を果たした側近は、真木島昭光(まきしまあきみつ)を筆頭に、一色昭秀(いっしきあきひで)と上野秀政(ひでまさ)の3名であり、いずれも京都から義昭に従ってきた者たちであり、出自は奉公衆であった。副将軍に任じられた毛利輝元は、義昭の発する御内書の添状を発給し、義昭の命令を反信長派の戦国大名や毛利氏家臣団に取り次いで、上洛戦に向けての行動を開始した。輝元の添状発給数は、真木島昭光に次いで多い。輝元は義昭を推戴して信長に対抗することで、かつてないほどの広大な勢力圏を形成することができた。足利義昭は将軍として各地の大名に信長追討の御内書を発給している。その結果、従来からの本願寺、紀伊の雑賀衆に加え、新たに安芸の毛利輝元、越後の上杉謙信(けんしん)、備前の宇喜多直家(うきたなおいえ)、播磨の別所長治(ながはる)、丹波の赤井直正(なおまさ)、波多野秀治(はたのひではる)などが応じた。それだけでなく織田家中からも大和の松永久秀(ひさひで)、摂津の荒木村重(むらしげ)などの重臣が謀反を起こしている。いわゆる第三次信長包囲網であった。時系列に列挙すると、天正4年(1576年)1月、織田家の明智光秀(みつひで)が波多野秀治の裏切りにより第一次黒井城の戦いで敗走する。同年5月、信長と同盟関係にあった上杉謙信は、足利義昭からの要請により本願寺と和睦した。これにより、毛利輝元・上杉謙信・本願寺の同盟が成立し、謙信と信長の同盟は破綻した。同年7月、毛利水軍・村上水軍の攻撃により織田水軍を壊滅させ、摂津石山本願寺(大阪府大阪市)への補給を成功させている。この第一次木津川口の戦いには、大可島城主の村上亮康(すけやす)も従軍していたという。天正5年(1577年)2月、信長は雑賀衆を滅ぼすために紀州征伐をおこなった。同年7月、上杉謙信が能登七尾城(石川県七尾市)に侵攻したため、織田家の柴田勝家(かついえ)が救援に向かうが、謙信はすみやかに七尾城を攻略して勝家を迎撃、この手取川の戦いで織田軍は惨敗している。同年8月、織田家の松永久秀が謀反を起こすが、10月に居城の大和信貴山城(奈良県生駒郡平群町)が陥落して自害した。同年12月、尼子家の再興を図る尼子勝久(かつひさ)・山中鹿介(しかのすけ)が織田家の傘下に入り、播磨上月城(兵庫県佐用郡佐用町)の守備に就いた。天正6年(1578年)2月、播磨三木城(兵庫県三木市)の別所長治が信長から離反して、織田家の羽柴秀吉との三木合戦が始まる。同年3月、「越後の龍」と呼ばれた上杉謙信と、「丹波の赤鬼」と呼ばれた赤井直正が病没してしまう。
天正6年(1578年)7月、毛利輝元は尼子氏が籠もる上月城を包囲するが、織田軍は三木城攻めに専念するため勝久らを見捨てた。降伏した尼子勝久は自刃、山中鹿介は生け捕りとなって鞆に送られる途上、備中で謀殺された。その首級は義昭のもとに運ばれ首実検されたといい、静観寺(福山市鞆町後地)の山門前に山中鹿介の首塚が残り、同寺には位牌も安置されている。同年10月、織田家の荒木村重が謀反を起こして摂津有岡城(兵庫県伊丹市)に籠城した。同年11月、第二次木津川口の戦いが勃発するが、織田水軍の7隻の鉄甲船が毛利水軍・村上水軍の約600隻を粉砕する。これにより石山本願寺の補給ラインは陸海ともに完全に断たれ、織田軍が優勢になる。天正7年(1579年)6月、明智光秀が波多野秀治の丹波八上城(兵庫県丹波篠山市)を開城させ、同年8月に赤井氏の丹波黒井城(兵庫県丹波市)も落城させた。同年9月に荒木村重は有岡城を放棄して逃亡、同年10月には宇喜多直家が織田家に寝返った。天正8年(1580年)1月に三木城が陥落して別所長治が自害すると、閏3月に顕如(けんにょ)が講和を申し入れて石山本願寺を明け渡した。こうして第三次信長包囲網は瓦解した。毛利輝元は信長との戦いを継続したが戦況は悪化、天正10年(1582年)羽柴秀吉の軍勢が備中に侵攻し、来島村上通総(みちふさ)が秀吉に寝返り、織田水軍が塩飽諸島を制圧する。義昭は6年滞在した鞆に危険が迫ると、天正10年(1582年)常国寺に避難したが、同年5月に本能寺の変で信長は横死した。天正13年(1585年)常国寺から津之郷(つのごう)の御殿山(福山市津之郷町)に御所を移して2年を過ごすが、この毛利氏に庇護された11年間を鞆幕府と呼んでいる。天正16年(1588年)1月、将軍職を辞した義昭は朝廷から准三后という位を受け、出家して昌山道休(しょうざんどうきゅう)と号した。義昭の料所は帰京後も維持されたようで、天正19年(1591年)の『毛利家八ヶ国御配置絵図』の沼隈郡のところに「昌山(義昭)様領、千参百五拾石」の文字が確認できる。晩年は秀吉の御伽衆となり山城国槇島に1万石を与えられ、慶長2年(1597年)8月に摂津国大坂で死去した。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、毛利輝元に代わって安芸・備後に福島正則が49万8千石で入封すると、慶長6年(1601年)鞆要害の地に鞆城の築城が開始された。この時、鞆城の城域を拡張するための埋め立てをおこない、大可島が陸続きとなり、大可島城は廃城となった。慶長12年(1607年)朝鮮通信使が寄港した際、「岸上に新しく石城を築き、将来防備する砦のようだが未完成である」との記述があり、この時点でまだ未完成であったことが分かる。鞆城代には重臣の大崎玄蕃が置かれた。鞆城の築城は、慶長14年(1609年)まで続けられたが、徳川家康が鞆城の大規模な築城を知って激怒し、これに驚いた福島正則は築城を中止して家康に謝罪することになった。鞆城の天守は三原城(三原市)へ移されたという。元和5年(1619年)福島氏は改易となり、代わって水野勝成(かつなり)が「西国の鎮衛」の任務を負って10万石で福山藩を立藩すると、海防を目的として鞆城の三の丸跡に長男・勝俊(かつとし)の陣屋を置いた。このため勝俊は鞆殿と呼ばれた。『水野記』によれば、宝永8年(1711年)に大手門と矢倉屋敷が焼失したとあり、この頃は鞆城の建築物が現存していたようである。勝俊が2代藩主に就任すると、鞆の陣屋を鞆奉行所に改めて、初代鞆奉行に重臣・荻野新右衛門重富(しげとみ)を配置した。萩野重富は鞆港と陸続きになった大可島に船番所を設置して、船の出入りを取り締まっている。(2024.02.21)