東条城(とうじょうじょう)

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吉良上野介を輩出する東条吉良氏の居城

復元された城門と井楼櫓
復元された城門と井楼櫓

東条城は、茶臼山から伸びる尾根の平野部に突き出た先端部を利用して築かれ、矢崎川と支流の炭焼川を天然の堀とし、前面に沼田を配した要害の地であった。城の規模は大きいものではなく、城域の最高部に本丸を置き、北東の一段下がったところに二の丸、その他に三の丸や帯曲輪など、いくつかの曲輪を置いた。現在は古城公園として整備されており、本丸の周囲には土塁が残り、大手虎口に城門と、その脇に井楼形式の物見櫓が復元されている。物見櫓から西方を望むと、徳川家康が東条城を攻めたおりの小牧本陣跡や、激戦地となった藤波畷(ふじなみなわて)が一望できる。この藤波畷には「藤波畷古戦場」の石碑が建てられている。八幡社の境内が二の丸跡で、ここにも境内を囲むように土塁がわずかに残る。また、城跡の脇を通る県道は、尾根の堀切跡であるという。東条城は、天正18年(1590年)に廃城となり、その後に城郭として利用されることがなかったため、現在の遺構は天正年間(1573-92年)の姿を伝えるものである。かつて、東条城には高名な文人や武人が多く訪れている。室町時代に公卿で歌人の冷泉為和(れいぜいためかず)が立ち寄り、連歌師の宗長(そうちょう)はここで連歌会を催した。また武人では、織田信長や徳川家康が鷹狩にことよせて訪れている。貞応元年(1222年)鎌倉幕府の有力御家人である足利義氏(よしうじ)は、承久の乱の戦功により三河国守護職に任ぜられる。義氏は、三河国幡豆郡吉良荘の西条に西条城(西尾市)を築いて長男の長氏(おさうじ)を、東条に東条城を築いて三男の義継(よしつぐ)を配置し、次男の泰氏(やすうじ)には下野国足利郡足利荘で足利宗家を継がせた。

この長氏の系統が西条吉良氏となり、長氏の次男である国氏(くにうじ)が今川氏の祖となった。また義継の系統が東条吉良氏となり、泰氏の系統が後に室町幕府を開く足利尊氏(たかうじ)を輩出する。元弘3年(1333年)後醍醐天皇によって新政権(建武政権)が樹立すると、東北から関東にかけての支配力を強化するため、側近の北畠親房(ちかふさ)・顕家(あきいえ)父子を陸奥に派遣し、足利尊氏の弟である足利直義(ただよし)を鎌倉に派遣した。北畠親房・顕家父子は義良(のりよし)親王を奉じて陸奥国国府の多賀城(宮城県多賀城市)に下向して陸奥将軍府を設置、北畠顕家は陸奥守・鎮守府将軍に任命され、国司として陸奥・出羽の両国を管轄した。また、足利直義は成良(なりよし)親王を奉じて相模国鎌倉に下向して鎌倉将軍府を設置、足利直義は相模守に任命され、執権として関東十ヶ国の経営に着手した。建武元年(1334年)鎌倉将軍府に関東廂番(ひさしばん)が設けられた。関東廂番とは鎌倉将軍である成良親王と足利直義を補佐するために置かれた軍事・検断組織で、この廂番の三番頭人に吉良貞家(さだいえ)、六番頭人に吉良満義(みつよし)が選ばれ、吉良氏から2人の頭人を出している。吉良貞家は東条吉良氏の4代当主で、吉良満義は西条吉良氏の4代当主であった。建武2年(1335年)北条氏の残党による中先代の乱が発生すると、その討伐に向かった足利尊氏がそのまま建武政権から離反、後醍醐天皇の軍勢との戦いが始まり、南北朝の争乱に突入する。吉良貞家は足利尊氏に従って転戦しており、因幡・但馬両国の守護職に任じられ、さらに幕府評定衆も歴任した。貞和2年(1346年)吉良貞家は畠山国氏(くにうじ)とともに、足利尊氏が新しく設けた奥州管領に就任しており、本拠である東条城から一族を挙げて陸奥に移住し、多賀城を拠点として、南朝方で鎮守府将軍の北畠顕信(あきのぶ)が勢力を振るう東北地方の平定に努めた。この吉良義継から始まる東条吉良氏を特に前期東条吉良氏(奥州吉良氏)と呼んでいる。吉良貞家・満家(みついえ)父子が陸奥に去った後、東条の地は惣領家である西条吉良氏のものとなり、吉良満義が東条城を接収した。観応元年(1350年)観応の擾乱が勃発すると、吉良満義・満貞(みつさだ)父子は足利直義派として各地を転戦、足利尊氏から「吉良荘の凶徒」と呼ばれる。そして、直義の死後は南朝に属してまで尊氏に敵対し、一時は京都を制圧するほどの勢いをみせた。延文元年(1356年)吉良満義が没すると、時流を読んだ東条の被官層が、満貞の弟で9歳の尊義(たかよし)を奉じて足利尊氏派に転じ、新たに東条吉良氏として独立した。これを押領とする満貞との間で合戦に発展するが、その後に満貞が北朝に帰順したこともあり和睦が成立して、吉良尊義は正式に東条の地の相続を認められる。この尊義から始まる東条吉良氏を特に後期東条吉良氏(下吉良)と呼んで、前期東条吉良氏と区別している。室町時代において、吉良氏は「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」といわれるほどの名家であった。しかし応仁の乱では、後期東条吉良氏5代当主の義藤(よしふじ)が西軍の山名宗全(そうぜん)につき、西条吉良氏8代当主の義真(よしざね)が東軍の細川勝元(かつもと)について互いに戦ったように、後期東条吉良氏の家祖である尊義が独立する際の争いは長く禍根を残し、室町時代を通じて事あるごとに東条吉良氏と西条吉良氏は対立・抗争しており、両者の争いは絶えなかった。

12代東条吉良持広(もちひろ)は松平清康(きよやす)の妹を娶っており、天文4年(1535年)守山崩れで清康が討たれると、持広は清康の遺児である仙千代(後の松平広忠)の親代わりとなって松平家の復興を援けている。具体的には、天文4年(1535年)仙千代が松平一族の紛争で居城の岡崎城(岡崎市)を追放されると、吉良持広が放浪する仙千代を保護したといわれ、『三河物語』等では、持広の所領のあった伊勢国神戸に招き入れたという。天文5年(1536年)仙千代は元服し、持広の一字をとって松平二郎三郎広忠(ひろただ)と改めた。また、吉良持広の「御肝煎」で、今川義元(よしもと)に松平広忠への助力の申し入れがなされた。松平広忠は駿河国に赴いて今川義元の加勢を得ている。そして、吉良持広の計らいで東条吉良氏の家老である富永万五郎忠安(ただやす)の室城(西尾市室町)に招き入れている。天文6年(1537年)松平惣領家の譜代衆は広忠の帰城を企て、叔父の松平信孝(のぶたか)・康孝(やすたか)の協力を得て、岡崎城への復帰がかなった。『岡崎領主古記』によれば、天文8年(1539年)吉良持広は織田氏と結び今川義元と断交した。これに対し、持広の弟である荒川義広(よしひろ)は、義元に味方し、今川軍を居城である荒川城(西尾市八ツ面町)に入れたため、荒川城近くの荒川山(八ツ面山)付近で、たびたび合戦が起こった。そして、その合戦において、吉良持広と富永忠安は揃って戦死したという。富永氏の墓がある大通院(西尾市吉良町寺嶋)の過去帳にも、富永一族が荒川山の合戦で討死したことが記されている。西条吉良義尭(よしたか)の次男である義安(よしやす)は東条吉良持広の養子になっていたが、天文6年(1537年)兄の義郷(よしさと)が今川氏との戦いで討たれると、西条吉良氏の家督を継いだ。しかし、ほどなく東条吉良持広も没したため、義安はあらためて東条吉良氏の家督を継ぎ、弟の義昭(よしあき)が西条吉良氏を継いだ。尾張の織田氏と駿河の今川氏の勢力から圧力を受けていた吉良氏は、織田信秀(のぶひで)に与したため、天文18年(1549年)今川義元(よしもと)の軍勢に攻められ、捕らえられた義安は、織田氏の人質となっていた松平竹千代(後の徳川家康)とともに駿府に連行された。これにより、西条吉良義昭が東条吉良氏も合わせて吉良氏の統一を図った。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いにおいて今川義元が敗死すると、松平元康(後の徳川家康)は織田信長と同盟を結び、岡崎城を拠点として三河平定を開始する。

桶狭間の戦いの後、東条城の吉良義昭は西三河で今川氏に属する武将たちの旗頭的な存在となり、松平元康の三河統一に抵抗していた。永禄4年(1561年)善明堤(ぜんみょうつつみ)の戦いでは、深溝城(幸田町深溝)の松平又八郎好景(よしかげ)を討ち取り、その軍勢を全滅させている。松平元康はこの吉良義昭を降すため、東条城を囲むように小牧、津平(つのひら)、友国(ともくに)、平原に砦を築かせた。そして、小牧砦(西尾市吉良町小牧)に本多彦三郎広孝(ひろたか)の300騎を入れ、津平砦(西尾市吉良町津平)と友国砦(西尾市吉良町友国)に松井忠次(ただつぐ)の200騎、糟塚砦(西尾市平原町)に小笠原三九郎長茲の180騎を配置、西条城には酒井雅楽助正親(まさちか)の数百騎を備えさせた。吉良氏の頑強な抵抗により、攻城戦はおよそ半年におよんだ。しかし、松平元康がみずから出陣して小牧砦を本陣とし、東条城への総攻撃を準備し始める。吉良氏の家中には富永伴五郎忠元(ただもと)という勇将がおり、弱冠25歳にして吉良家の家老職を務めていた。富永伴五郎は富永忠安の子である。富永氏は3代資正(すけまさ)のときから吉良氏の被官となっている。富永氏の系図によると、4代正安(まさやす)、5代忠安、6代忠元と続く。伴五郎忠元は、居城の室城と共に岡山砦(西尾市吉良町岡山)も兼ね、駒場・永良・貝吹の三ヶ村を領有していた。富永伴五郎は状況を打開するために手勢の30騎を率いて東条城を出撃、藤波畷にて松平勢と激突した。この藤波畷の戦いでは富永伴五郎や富永氏の郎党である大力の喜三郎らの奮戦により、松平勢は劣勢となり多くの死傷者を出した。単騎で駆ける富永伴五郎に松平方の大久保大八郎、鳥居半六郎が挑むが切り伏せられている。しかし激戦のすえ、本多広孝の槍にかかって富永伴五郎は討死、広孝の家来である本多甚十郎に首級を挙げられてしまう。そして、富永氏の一族郎党の多くが討ち取られた。松平元康は本多広孝の武功をたたえ、富永伴五郎の所領であった室(西尾市室町)を与えた。本多広孝は富永伴五郎の死を惜しみ、戦死した場所に供養塚を築いた。この塚は伴五郎塚と呼ばれたが、いつしか地元民によって地蔵が置かれて、現在では伴五郎地蔵(西尾市吉良町寺嶋)と呼ばれている。何故か「眼病によく効く」といわれる。藤波畷の戦いの敗戦の直後、吉良氏の部将である大河内孫太郎秀綱(ひでつな)が使者として松井忠次の陣へ赴き、東条城を明け渡すことを条件に和睦が成立した。吉良義昭は富永伴五郎の死によって防戦の望みを失い降伏を決意したという。永禄6年(1563年)西三河に三河一向一揆の嵐が吹き荒れると、これに便乗して吉良義昭が再び松平元康に叛旗を翻した。吉良義昭は三河一向一揆と同盟を結び、東条城に籠って抵抗したが、松平軍の猛攻に耐えられず降状する。その後、東条城には青野松平家忠(いえただ)が入城して東条松平氏を名乗るが、天正18年(1590年)家康の関東移封にともない廃城となった。ところで、駿河国に幽閉された13代吉良義安の妻(俊継尼)は松平清康の娘であり、徳川家康の叔母という関係であった。義安が死ぬと子を連れてひっそりと暮らしていたが、天正7年(1579年)家康が吉良に鷹狩りに来たとき、子の取りたてを依頼した。家康は義安の遺児に義定(よしさだ)と名乗らせ、所領を与えた。この義定の曾孫が『忠臣蔵』で有名な吉良上野介義央(よしひさ)である。高家筆頭であった義央は、元禄15年(1702年)赤穂浪士の討ち入りによって討たれ、吉良氏は断絶となった。(2006.01.02)

本丸に建つ城址碑
本丸に建つ城址碑

現存する隅櫓の跡
現存する隅櫓の跡

藤波畷の古戦場跡
藤波畷の古戦場跡

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