鳶ケ巣山砦(とびがすやまとりで)

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長篠・設楽ヶ原の戦いの勝敗に影響を与えた鳶ケ巣山攻防戦の舞台となった砦

鳶ケ巣山砦の主郭跡の慰霊碑
鳶ケ巣山砦の主郭跡の慰霊碑

鳶ケ巣山砦は、天正3年(1575年)武田勝頼(かつより)が長篠城包囲のために築いた砦のひとつ。武田軍の補給・物資の基地として武田兵庫頭信実(のぶざね)が守備した。標高およそ150mに設けられた鳶ケ巣山砦の主郭跡には、「長篠之役鳶ケ巣陣戦歿将士之墓」が建てられている。その隣に横たわる「天正の杉」は、明治7年(1874年)の台風によって倒れた杉の残骸で、樹齢300年以上と推定されており、長篠の戦いの当時に存在していたことから、天正の杉と呼ばれている。かつて鳶ケ巣山には、武田信実を祀ったものか「兵庫塚」と呼ばれる塚があったというが、現在は破壊されて残っていない。設楽原歴史資料館から連吾川沿いに下ると織田・徳川連合軍の馬防柵が100mほどに渡り再現されている。実際は全長2kmにおよび三重に構築されていたという。この馬防柵の出入口は織田軍式と徳川軍式で異なる。武田軍の侵攻に対し、徳川家康は織田信長に援軍要請している。到着した織田の援軍は、織田信長をはじめ、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀、羽柴秀吉、佐久間信盛、前田利家、佐々成政という総勢3万の主力部隊であった。簡潔な手紙として有名な本多作左衛門重次(しげつぐ)の「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は、設楽原の陣中で書いたものである。お仙とは嫡子の仙千代で、後に初代丸岡藩主となる本多成重(なりしげ)のこと。長篠の戦いにおいて、武田勝頼(かつより)率いる武田軍は、長篠城の攻略のため1万5千の大軍で城を包囲した。長篠城の北方に位置する医王寺山陣地を本陣とし、その周囲に天神山陣地、大通寺陣地、岩代陣地を配置、滝川を挟んだ対岸には有海(あるみ)陣地、篠場野(しのばの)陣地を配置した。さらに、長篠城の南を流れる大野川を挟んだ対岸の丘陵地帯には、鳶ケ巣山砦を主軸に、久間山(ひさまやま)砦、中山砦、姥ガ懐(うばがふところ)砦、君ケ臥床(きみがふしど)砦といった5つの砦が築かれた。これらは乗本五砦とも呼ばれ、長篠城の包囲網の一翼を担い、長篠城を見下ろして城内の監視に当たった。長篠城の北方800mに位置する医王寺のある小高い山に構築された医王寺山陣地は、総大将の武田勝頼、武田信友(のぶとも)・信光(のぶみつ)父子、望月信雅(のぶまさ)ら3千の軍勢が布陣した。天神山陣地は、医王寺山陣地のすぐ南側の小山で、一条信龍(のぶたつ)、真田信綱(のぶつな)・昌輝(まさてる)兄弟、土屋昌次(まさつぐ)ら2千5百の軍勢が布陣、この陣地から盛んに長篠城を攻め立てた。長篠城のすぐ北側に位置する大通寺陣地には、武田信豊(のぶとよ)、馬場信春(のぶはる)、小山田昌行(まさゆき)ら2千の軍勢が布陣、搦手を守る瓢(ふくべ)曲輪を攻略して兵糧庫を奪取している。岩代陣地は、長篠城の大手口西側で、内藤昌豊(まさとよ)、小幡信貞(のぶさだ)の率いる西上野衆など2千の軍勢が布陣、有海陣地には、山県昌景(まさかげ)、高坂昌澄(まさずみ)ら1千の軍勢が布陣、篠場野陣地には、武田信廉(のぶかど)、穴山信君(のぶただ)、原昌胤(まさたね)ら1千5百の軍勢が布陣した。そして、甘利信康(のぶやす)、小山田信茂(のぶしげ)ら2千の部隊が後詰として本陣後方に控えていた。鳶ケ巣山砦には主将の武田信実、小宮山隼人助信近(のぶちか)ら300騎が陣を張った。鳶ケ巣山からは長篠城だけでなく、設楽原方面の織田・徳川連合軍の動きが手にとるように分かり、長篠の戦いにおける要地であった。武田信玄(しんげん)の異母弟である武田信実は、武田信虎(のぶとら)の七男として生まれ、甲斐河窪村を領したことから河窪氏を称した。

久間山砦も長篠城包囲を目的とした砦であり、和気善兵衛宗勝(むねかつ)、大戸民部直光(なおみつ)、倉賀野秀景(ひでかげ)、浪合備前守胤成(たねなり)ら200騎が配置された。急峻な崖に守られた中山砦は、乗本五砦の中で長篠城に一番近く監視には絶好の場所で、長篠城の全体を見渡すことできる。遺構としては削平地がある程度だが、「鎧掛の松」と伝わる松の切り株が存在する。しかし、第二東名高速道路の工事により中山砦跡は消滅するという。この中山砦には、牢人衆組頭の名和無理之助宗安(むねやす)、五味与惣兵衛高重(たかしげ)、飯尾与四郎右衛門助友(すけとも)の3名と、飯尾祐国(すけくに)、名和田清継(きよつぐ)ら200騎が配置された。名和無理之助とは縄無理介とも書き、姓にかけて縄で編んだ陣羽織を身にまとって、どんな無理でも通す無理之助と豪語する豪傑であった。無理之助には逸話が残っており、かつて武田信玄が存命の頃、武田軍が駿河花沢城(静岡県焼津市)を攻め、武田勝頼、長坂長閑斎、諏訪越中守頼豊(よりとよ)、初鹿野伝右衛門、名和無理之助が城門の手前に取り付いたが、敵の攻撃が激しくそれ以上進めなかった。伝右衛門は無理之助に城門の錠をあげるように言ったが、敵の矢弾が激しく降り注ぐ中そんなことはできないと答えた。それを聞いた伝右衛門は城門に向かって飛び出し、諏訪越中もそれに続き、城門の錠をあげることに成功している。戻ってきた両者は無理之助の縄の陣羽織を剥ぎ取り、もう無理之助とは名乗らせないと言い放った。その場は勝頼がとりなしたが、のちに「無理之助、道理之介に名はなれや、無理なることをする身でもなし」という落首まで出たという。鳶ケ巣山の山麓に位置する姥ガ懐砦には、三枝勘解由左衛門尉守友(もりとも)と、その弟である源左衛門守義(もりよし)、甚太郎守光(もりみつ)、そして草刈隼人助、宍戸大膳ら200騎が配置された。三枝守友は武田二十四将のひとりで、主将の武田信実を補佐する副将としてその任に当たっている。君ケ臥床砦には、和田業繁(なりしげ)・信業(のぶなり)父子、長竹昌基(まさもと)、反町大膳ら200騎が配置された。一方、長篠城の救援に到着した織田・徳川連合軍3万8千は、長大な三重の馬防柵を構築し、設楽原を流れる連吾川を挟んで武田軍と対峙した。そして、茶臼山の織田信長の本陣では、織田・徳川の諸将が集められ軍議が開かれた。この時、徳川家康の重臣である酒井左衛門尉忠次(ただつぐ)は、設楽原に進出した武田軍の後方を衝き、兵糧を焼いて退路を断つため、鳶ケ巣山砦への奇襲を献策したが、信長に怒鳴られて採用されなかった。しかし、これは情報が敵方に漏れるのを防ぐための手段で、後ほど信長に呼び戻された忠次は、軍勢を与えられて鳶ケ巣山砦への奇襲作戦の決行を命じられた。この軍勢は、長沢松平康忠(やすただ)、牧野新次郎康成(やすなり)、深溝松平伊忠(これただ)、東条松平家忠(いえただ)、竹谷松平清宗(きよむね)、本多彦三郎広孝(ひろたか)、菅沼新八郎定盈(さだみつ)、奥平美作守貞能(さだよし)ら3000余の東三河衆に加え、道案内に近藤石見守秀用(ひでもち)、豊田藤助秀吉(ひでよし)、織田信長から派遣された金森五郎八長近(ながちか)、佐藤六左衛門秀方(ひでかた)ら検使役、青山新七郎幸忠(ゆきただ)、加藤市左衛門景村(かげむら)の鉄砲頭と500挺の鉄砲隊で構成された。奇襲部隊は夜陰に紛れて鳶ケ巣山砦に向けて移動を開始、広瀬の渡しで大川を渡河し、日吉から久間山砦に近い樋田に設楽越中守貞通(さだみち)の軍勢500を配置して退路を確保した。

酒井忠次の率いる奇襲部隊は、そのまま船着山の西を通り、吉川を経由して松山峠を目指した。そして、武田軍の鳶ケ巣山守備隊が警戒していなかった尾根伝いに背後へ迫り、翌朝になると5つの砦に一斉に攻め掛かった。特に姥ガ懐砦だけが山頂や尾根に構えられた砦ではなかったため、敵襲の察知がもっとも遅れたといわれる。奇襲部隊の本多広孝の軍勢に、高所から猛攻を受けた三枝守友たちであったが、少ない兵力での奮戦は凄まじかったという。しかし、次第に劣勢に立たされていき、君ケ臥床砦を壊滅させた松平清宗の軍勢が応援に加わったため、三枝兄弟はついに討死した。三枝守友が討ち取られた姥ガ懐には、三枝兄弟の墓碑が存在する。5つの砦は相互連携できるような機能的な構造でなかったため、個別に防戦しなければならない。それでも、武田信実は小宮山隼人助とともに善戦し、酒井忠次指揮下の松平伊忠や菅沼定盈などを相手に3度も押し返したという。しかし、東条松平勢に防衛線を突破されると乱戦に陥った。そして、君ケ臥床、姥ガ懐などの支砦を陥落させた松平清宗、本多広孝などが加勢に加わり、鳶ケ巣山砦も陥落した。一説によれば、武田信実は松平家忠の家臣である平岩権太夫に、小宮山隼人助は菅沼定盈の家臣である小坂井弥兵衛に討ち取られたという。鳶ケ巣山砦の守備隊は、他に名和宗安、五味貞成、飯尾助友、和田業繁などが討ち取られ、乗本五砦は全て陥落、火を放たれて炎上した。武田の残兵は本隊への合流を図って山を降り、長走りの瀬を渡河して有海方面に逃れたが、奇襲部隊に猛追されて、有海陣地の高坂昌澄までが討ち取られた。しかし、深入りしすぎた松平伊忠は、退却する小山田昌行に反撃されて戦死している。奇襲部隊の快勝により、長篠城に籠城していた奥平勢も城門を開いて出撃した。これにより、設楽原に展開していた武田本隊は、織田・徳川連合軍に挟撃される形となり、もはや武田勝頼にとっては乾坤一擲の勝負に出るしかなかった。こうして、連吾川に沿って構築された織田・徳川連合軍の馬防柵に向かって、武田軍団の無謀な突撃が始まる。武田軍は右翼隊、中央隊、左翼隊をそれぞれ五手ずつに分け、先手、二番、三番、四番、五番とし全15隊の編成であった。これを順次入れ替えて繰り出していく。先手の3隊は前面の敵を目指して突き進んだ。すなわち、左翼の山県隊は徳川陣、中央の内藤隊は織田陣の滝川一益(かずます)隊、そして右翼の馬場隊は織田陣の佐久間信盛(のぶもり)隊をめざして突進していった。迫りくる武田軍の迫力に、前進していた織田・徳川連合軍は馬防柵の柵内に逃げ込んだ。しかし、これは馬防柵に武田軍を引き付けるための作戦である。武田軍左翼隊の中核を担った先手の山県三郎兵衛尉昌景は、戦国最強を誇る赤備えの軍勢を率いて、攻め太鼓を打ち鳴らしながら徳川陣の大久保忠世(ただよ)隊への突撃をかける。さらに、二番手の武田逍遙軒(信廉)、三番手の小幡信貞、四番手の武田典厩信豊も続いて突撃した。一方、馬場美濃守信春を先手とする武田軍右翼隊も壮絶な突撃を敢行した。そして、二番手の真田源太左衛門尉信綱、真田兵部丞昌輝、三番手の土屋右衛門尉昌次、四番手の一条右衛門大夫信龍、五番手の穴山陸奥守信君らの諸隊が、順に新手を繰り出して突撃している。勝頼本陣の前面に布陣した武田軍中央隊も、内藤修理亮昌豊を先手とし、和田氏、安中氏、五味氏らの西上野の諸隊が相次いで突撃した。しかし、織田・徳川連合軍が3千挺の鉄砲を3挺1組で連続射撃することによって、武田軍は馬防柵にたどり着くこともできず、死体の山を築くばかりであった。

それでも土屋昌次は第二柵を破るが、鉄砲隊の威力は凄まじく、第三柵を越えられず大音声をあげて討死した。さらに、真田信綱・昌輝兄弟も第一柵を突破したところで、鉄砲隊の砲火に倒れた。山県昌景は鉄砲隊の絶え間ない轟音の中を駆け抜け、ついに馬防柵を突破するという所で、全身に無数の銃弾を浴びて壮絶な戦死を遂げている。被弾しても馬から落ちず、軍配を咥えたまま絶命したと言う。山県昌景の従者である志村又右衛門光家(みついえ)は、胴切山の中腹にある百姓の峰田家に山県昌景の遺体を運び込み、主人の首を敵に渡さないように、その首級を落として持ち去った。この時の様子は『長篠合戦図屏風』にも描かれている。供養を頼まれた峰田氏は、山県昌景の遺体を葬って塚を築き、その上に松を植えて、「胴切りの松」と名付けた。現在、この松はなくなったが、塚は「山県様」と呼ばれて大切にされている。はじめ山県昌景とともに左翼隊に属した甘利郷左衛門尉信康は、中央隊とも協力して第一柵を奪取、さらに第三柵をも破る勢いであったが、敵軍の猛火により天王山の麓まで押し戻された。甘利信康は、以前よりこのあたりの住民の宣撫工作をおこなっていたが、住民たちは武田軍を裏切って、織田・徳川連合軍の陣地構築に力を貸している。これに怒った信康は、「ダンドウ屋敷」と呼ばれた柳田の庄屋のあったところで、住民たちを恨みながら立ち腹を切った。信康の祟りを恐れた柳田の住民は、全員ここを立ち退いたという。その後、中央隊の穴山信君は勝手に撤退を開始、これに続いて、武田信豊、武田信廉も撤退を始めた。親類衆の撤退に動揺した武田軍の戦線は崩壊し、総崩れとなった。武田軍は鳳来寺方面に敗走するが、織田・徳川連合軍は全軍で追撃した。原隼人祐昌胤は陣馬奉行であるにも関わらず、戦死した山県昌景に代わって左翼隊を統率していた。陣場奉行とは、予定戦場とその地形を見定めて、味方が有利に戦える場所を選定する役目で、原昌胤は陣場奉行の立場から勝頼に決戦の回避を進言したが容れられなかった。通常であれば本陣の脇に控えるが、原昌胤は左翼隊に布陣し、そののち中央隊に合流、殿軍として120騎を率いて織田・徳川連合軍に向けて突撃、鉄砲の一斉射撃を受けて戦死している。中央隊で戦っていた内藤昌豊も、武田軍が潰走する中を家康本陣めがけて突入していった。これに対し、本多忠勝・榊原康政・大須賀康高の部隊がこれを阻止、内藤昌豊を討ち取っている。馬場信春は戦場を離れる勝頼を援護して、猿ヶ橋の辺りまで付き従ったが、ここで引き返して、追撃する織田・徳川連合軍を食い止めるため、激闘のすえ戦死している。『信長公記』に「馬場美濃守手前の働き比類なし」と評される最期であった。敗走する勝頼に最後まで付き従ったのは、初鹿野伝右衛門昌次(まさつぐ)と土屋惣蔵昌恒(まさつね)の他、わずか10数騎であったという。この長篠・設楽原の戦いで、歴戦の猛将のほとんどと、数千の兵士を失い、その後も勢力を回復できないまま、名門武田氏は滅亡することになる。毎年8月15日に設楽原の信玄塚にて、鉦や太鼓の囃子に合わせて巨大な松明を振り回して乱舞する、火踊り(ひおんどり)がおこなわれる。これは長篠の戦いで戦死した武田軍の霊を慰めるために始まったもので、山県昌景の供養を託された峰田氏がこの火踊りの火元を代々勤めており、400年以上も続いている。同じ日に乗本地区の万灯山では、鳶ケ巣山砦で戦死した武田軍を慰霊する乗本万灯(のりもとまんどう)という、縄のついた万灯に火をつけて振り回す火祭りがおこなわれる。当日の万灯山は女人禁制になるという。(2010.08.14)

長篠の戦いから残る天正の杉
長篠の戦いから残る天正の杉

長篠城の本丸跡に残る大土塁
長篠城の本丸跡に残る大土塁

設楽原に復元された馬防柵
設楽原に復元された馬防柵

山県昌景・昌次父子の墓所
山県昌景・昌次父子の墓所

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