寺尾城(てらおじょう)

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小田原北条氏に仕えた諏訪氏累代の居城で、各地にある諏訪氏の寺尾城のひとつ

住宅地にある寺尾城址の石碑
住宅地にある寺尾城址の石碑

現在、横浜市内において遺構が確認されている中世城郭は6件ある。横浜市の中世城郭は、丘陵や台地の地形を巧みに利用した丘城と呼ばれる形式ばかりで、14世紀末から16世紀の後半にかけて築城されたと考えられている。これらの中世城郭からは、空堀や土塁を中心とした遺構が見つかっている。空堀の傾斜角は30度から40度の緩やかなものから、茅ヶ崎城(横浜市都筑区茅ケ崎東)にみられるような、ほぼ垂直にあがる急斜面なものまであるが、おおむね60度から70度のものが多い。空堀の底面部は平坦で、小田原北条氏の築城で特徴的といわれる障子堀(しょうじぼり)などの堀底に障壁がみられるものは見つかっていない。また、これまで見つかっている土塁は、板を渡した内側に土質の異なった土砂を突き固める版築土塁(はんちくどるい)などはみられず、堀を掘った土砂をそのまま積み上げる掻き上げ土塁(かきあげどるい)であった。寺尾城跡は、JR鶴見駅の西方2kmほどの位置にある。入江川によって作られた南北に伸びる舌状台地の先端部を利用しており、標高38m、比高20mほどの通称「殿山」と呼ばれる丘陵に築かれた丘城である。かつては、東側を馬場谷、西側を池谷、南側を入江川およびキガクボと呼ばれる小谷に守られ、この三方が低湿地帯に囲まれた天然の要害であった。さらに舌状台地の主脈から続く北側の台地基部を、堀切によって寺尾城の北端で切断していた。この堀切は、現在の水道道(県道鶴見・三ッ沢線)の位置である。山からの湧き水を水源とした入江川は、かつて建功寺川と呼ばれていた。戦国時代には武士が武具や身体を洗い流したことから血の川と呼ばれていたというが、上流の土壌が赤かったため川に流れ込んで川底が赤く染まったという説もある。建功寺(横浜市鶴見区馬場)の向かいには水門番が置かれ、戦時には入江川を堰き止めて、寺尾城の南側一帯を水没させて攻め難くしたと伝わる。殿山の住宅地の一角に「寺尾城址」の石碑があるが、現在は城域のほとんどは市街化されて遺構の多くが消滅している。これまで3回の発掘調査(1993年、2010年、2015年)がおこなわれ、空堀(竪堀)や土塁が見つかっている。寺尾城の空堀は、上面幅が2.5mから5m、底面幅が1mから1.5m、深さが1mから3m、傾斜角が55度から75度となる逆台形の形状である。殿山公園の上部では、竪堀と両側の土塁がわずかに確認できる。この竪堀の北側には小さな平場があり、曲輪跡であるという。殿山公園にある東西に延びる竪堀は、上面の幅が約5m、堀底の幅が約1m、深さは3mで逆台形をしていた。堀の中には土塁の崩落によると推測されるローム土が多量に堆積し、その上位からは江戸時代中期にあたる宝永4年(1707年)に発生した宝永大噴火の富士山の火山灰が発見された。このことから、この竪堀は18世紀初頭には大部分が埋まっていたことが明らかとなった。また、殿山公園の南側からも舌状台地を東西に分断する形で深さ約1mの逆台形をした空堀と、その東側にL字状に幅4mから5m、高さ60cmほどの土塁が見つかった。寺尾城の堀にみられるような逆台形の堀が中世・戦国期を通して一番多い堀の形である。角度のある塁壁面をもち、堀底を狭い平場にすることにより敵を堀底で一旦食い止め、内側の土塁から攻撃を加えることが可能となる。キガクボ谷と城域の境にも土塁が築かれ、その一部となる長さ20mの土塁がマンション内の文化財保存地に保存されている。ここは私有地のため立入禁止であり、イベント以外では見学することはできない。かつて寺尾城の南東側には、観音山と呼ばれる一段高い丘があった。

昭和48年(1973年)観音山の麓にある観音堂の地下から瀬戸灰釉刻文壺に入った約2千枚もの北宋銭が出土しており、15世紀前半に埋められた寺尾城の軍資金ではないかと考えられている。諏訪氏ゆかりの馬場稲荷(横浜市鶴見区馬場)は、城趾碑のある殿山の最高所から北西の中腹あたりの広く削平された城内に存在する。古くは寺尾稲荷といい、正一位相模国稲荷大明神ともいう。寺尾城の5代城主・諏訪馬之丞が夢で馬術の神託を受けて祈願成就したという稲荷社で、それ以来、馬術上達や馬上安全を祈願する寺尾稲荷社として有名になった。『新編武蔵風土記稿』の「馬場村稲荷社」の項には、「正一位相国稲荷と号す。相国の文字いかなる故と云ことを知らず。馬術を学ぶ人当社に祈誓して大いに感応ある由。いづれの頃か紀伊殿、厩を預かれるもの信仰して相国の号を与へしと云」とあり、江戸時代に紀州藩や江戸城(東京都千代田区)の馬回り役から信仰されていたことを裏付けている。鶴見村三家(さんや)の東海道との分岐点に「馬上安全寺尾稲荷道」の道標が建てられた。この道標は2度も建て替えられており、当時の寺尾稲荷に対する信仰の篤さをうかがい知ることができる。また、諏訪坂にも道標として「従是(これより)寺尾道」と建てられている。寺尾城の西方にある曹洞宗の建功寺は、正式名を徳雄山瑞雲院建功禅寺という。永禄3年(1560年)北条氏に仕えていた寺尾城の5代城主であった諏訪三河守右馬之助が開基した寺院で、諏訪家の家紋である「諏訪梶」が寺紋として伝えられている。相模小田原城(小田原市)の北条氏の勢力が東に拡大するのに同期して、曹洞宗の教線も東に伸びて寺院が造られていった。諏訪家の菩提寺を建立することにした右馬之助は、相模国愛甲郡東富岡村の龍散寺(伊勢原市)の和尚を迎えて建功寺を建てた。山号の徳雄山とは、右馬之助の武士としての勇ましさである徳勇がのちに徳雄に変わったものという。右馬之助が寺院としての伽藍を整える以前は、諏訪家の菩提処として瑞雲院と呼ばれていたが、これは北条早雲(そううん)の早雲庵宗瑞(そうずい)から瑞と雲の2字をもらい、瑞雲院として忠誠を誓ったものといわれる。寺号の建功寺は、開基である右馬之助の功績をもって建立した寺なので建功寺としている。寺尾城跡の東側に隣接して真言宗の宝蔵院(横浜市鶴見区馬場)がある。寺尾城跡の近辺には、建功寺、松蔭寺(横浜市鶴見区東寺尾)といった名刹があるが、宝蔵院はこの中で最も古くに創建されたと伝えられている。山門の板戸の作りが独特で、典型的な鎌倉期の造作であるという。昭和20年(1945年)本堂うしろの墓地造成工事中に板碑が数基と即身仏が発見されたが、そのうちの1枚の板碑には鎌倉時代の承元4年(1210年)と彫られていた。現在の宝蔵院との継続性は不明だが、鎌倉時代には何らかの仏教施設があったことは判る。寺尾城と関係が深いものとして、本殿裏の横井戸がある。ここは、かつては溜池であって、寺尾城主・諏訪右馬之助が過酷な乗馬の練習をここでおこない、馬の水飲み場として利用していたという伝承がある。寺尾城とは指呼の間なので、寺尾城の重要な水源(水の手)であったことは間違いない。本堂裏山では寺尾城の砦として使用された愛宕社の虎口を守るための土塁が発見されている。寺尾城は、15世紀前半に北条氏の家臣である諏訪氏により築城されたと伝わる。諏訪氏は、信濃諏訪大社(長野県諏訪市)の大祝を務めてきた諏訪一族の支流で、戦国時代になって鶴見の寺尾に移り住んだといわれる。諏訪氏と鶴見の関係としては、第二次鶴見合戦があげられる。

建武2年(1335年)中先代の乱において諏訪惣家の諏訪三河守頼重(よりしげ)は、鎌倉幕府再興のため北条時行(ときゆき)を奉じて信濃国諏訪で挙兵、相模国鎌倉に向けて進軍する。諏訪氏ら反乱軍は各地で鎌倉将軍府の軍勢を破り、鶴見での合戦では佐竹一族を撃破している。反乱軍は一時的に鎌倉を支配したが、20日余りしか持たず諏訪頼重は鎌倉で自害した。その後、諏訪氏の支流が寺尾に築城するまでの記録はないが、足利尊氏(たかうじ)に仕官していた諏訪円忠(えんちゅう)の取り計らいにより、足利氏の家人になることで滅亡を免れて存続したものと考えられる。享保16年(1731年)に建功寺の火災で燃え残った過去帳を書き写した『霊簿(れいぼ)』および『新編武蔵風土記稿』によると、寺尾城の築城年代は、永享元年(1429年)から永享7年(1435年)頃と推察されている。『霊簿』には、「白幡大明神は足利尊氏将軍なり。尊氏将軍より十七代目足利義教(6代将軍)永享七年六月五日、寺尾城主諏訪勧請しまつるなり。享保十六年亥年まで二九八年。寺尾城主二代目諏訪参河守、三代目平三郎、四代目参河守、五代目馬之丞時」と寺尾城の歴代城主の名も記録されている。『新編武蔵風土記稿』の「馬場村城蹟」の項には、「小田原北条家に属せし諏訪三河守が居城の跡なりと云。今も村の中央にある丘の上なり。年歴しことなれば今は堀なども埋まりて只雑木のみをひ茂れり。『小田原家人所領役帳』二百貫文寺尾諏訪三河守とあり。又、『小田原記』に武州寺尾の住人諏訪右馬助のことをも載せ、西寺尾村の建功寺の旧記には、彼村に建る白幡明神は「永享七年六月五日寺尾の城主諏訪勧請す」とあり。是も三河守か祖先なるべし。是によれば永享の頃ははやたちし城なることも知らる」とあり、寺尾城は白幡神社(横浜市鶴見区東寺尾)より前に築かれていたと考えられている。永享11年(1439年)永享の乱では、諏訪氏は鎌倉公方ではなく室町幕府側に付いた。その際、扇谷上杉氏に加勢した縁で、河越城(埼玉県川越市郭町)の扇谷上杉氏の被官となった。このため、川越市にも寺尾城(埼玉県川越市寺尾)がある。諏訪氏および寺尾の名は武蔵各地に存在している。『新編武蔵風土記稿』の「入間郡寺尾村」の項には、「村内に諏訪馬之助居城せしなりと云へり。北条役帳に二百貫文寺尾諏訪三河守とあり、また小田原記に武州寺尾の住人諏訪馬之助とあり。されば彼諏訪当時この地を領せしこと知るべし。されど橘樹(たちばな)郡の支郷馬場村にも諏訪三河守が居城の跡ありて、彼人の馬場の旧跡なりといふ。また同郡西寺尾村建功寺の旧記に「村内白幡明神は永享七年寺尾の城主諏訪勧請す」とあり、また秩父郡寺尾村にも諏訪の旧跡ありといふ。諏訪が城跡四ヶ所まで寺尾と号するのも奇というべし」とある。諏訪氏の寺尾城は、横浜市や川越市だけでなく川崎市にも存在する。秩父市の寺尾城に関しては伝承も一切伝わっていないが、『新編武蔵風土記稿』にあるように諏訪氏に関係するのかも知れない。長野県長野市には寺尾氏の寺尾城があるが、この寺尾氏は諏訪氏の庶流である。どうして諏訪氏の城は寺尾と名付けられるのか興味深い。寺尾城の諏訪氏は武勇に優れた武将であったらしく、『北条記』や『鎌倉公方九代記』などの軍記物語にしばしばその名を見ることができる。明応4年(1495年)北条早雲が扇谷上杉氏と和睦の交渉をおこなった際の使者が「武州寺尾の住人諏訪右馬之助」である。文亀元年(1501年)同じく扇谷上杉氏の被官であった小田原城の大森氏が山内上杉氏に寝返った。

扇谷上杉朝良(ともよし)は北条早雲の小田原城攻めを容認しており、諏訪氏は朝良の命により早雲に加勢した。永正7年(1510年)から永正9年(1512年)の間に、諏訪氏は北条早雲に被官したと考えられる。2代当主の北条氏綱(うじつな)は、大永3年(1523年)までに武蔵国南西部の久良岐(くらき)郡の一帯を攻略して国人を服属させている。諏訪氏は、早雲が西相模を統一する段階において北条氏のもとに参じた草創の譜代家臣として相模衆十四家に列し、御旗本備四十八番将衆にも数えられる。天文23年(1554年)駿河国で3代当主の北条氏康(うじやす)と武田晴信(はるのぶ)が戦った加島合戦のとき、諏訪右馬之助は北条方のひとりとして富士川を越えて一番槍の手柄を立てたことが『北条記』に記されている。永禄2年(1559年)の北条氏が全盛期を迎える頃の『小田原衆所領役帳』によると、諏訪三河守は2百貫文と北条家家臣の中では中堅クラスの武将で、久良岐郡寺尾を知行し、江戸城を中心とする江戸衆に所属することなどが記されている。現在の横浜市の大半は相模国ではなく武蔵国に属していた。武蔵国は21郡からなる大国で、郡域は時代によって変遷するが、横浜市が含まれていたのは久良岐郡、橘樹郡、都筑(つづき)郡である。横浜市の南西部は相模国の鎌倉郡に属していた。寺尾城は小机領内にあるものの、小机衆ではなく江戸衆に属している。攻めにくく守りやすい要害の地に築かれる城と異なり、館は城主一族の生活の場として平場に造られることが多い。平時の場といえども、堀や土塁で囲まれている。殿山から北東に約1.5kmの同丘陵上に遺構未確認であるが諏訪午之丞館(横浜市鶴見区諏訪坂)があったとされ、諏訪馬之助館や諏訪家屋敷とも呼ばれる。『新編武蔵風土記稿』の「橘樹郡鶴見村・諏訪家屋敷」の項に、「海道より右方へ五六丁ゆきて丘上にあり。一株の大松あり。是古へ諏訪午之丞居住ありしところにて、其頃の松なり。故に土人今も諏訪の松といへり。諏訪三河守某と云人北条家の家人にて、此辺寺尾を領せしことはかの家の所領役帳など云ものに出せり。午之丞は其の子などにや」と、寺尾城主であった諏訪氏の館が諏訪坂の中腹にあったことが記されている。諏訪氏は平時は鶴見市場を押さえるこの地に居住し、戦時のみ寺尾城に立て籠ったのではないかとの説もある。永禄12年(1569年)武田信玄(しんげん)の駿河侵攻に対し、4代当主の北条氏政(うじまさ)は今川氏を支援するため、駿河薩た峠まで進出して武田軍を一掃している。駿河侵攻を妨害をされた信玄は、陽動作戦として北条領を荒しまわる事とした。武田軍は碓氷峠を越えて鉢形・滝山に痛撃を加え、本隊は相模川沿いに南下して小田原城に向かい、別働隊は多摩川沿いに川崎・横浜方面を迂回した。別働隊の行軍ルートは、江戸の葛西へ入ると、池上(東京都大田区)から平間(川崎市)を通って、稲毛十六郷を荒らし、鶴見の寺尾から片倉・神大寺(横浜市神奈川区)の筋違いにある惟子(横浜市保土ケ谷区)に出て藤沢に進軍し、小田原城に向かった。武田軍が鶴見を通過したとき、5代城主の諏訪右馬之助は小田原城の守備に招集されていた。城主不在の寺尾城にはわずかな兵しかおらず、武田軍に攻められて落城したと伝えられている。『北条記』では、戦う意思がないのを見越した武田軍は「城を焼かずに通り過ぎた」と記している。一方、『霊簿』には、「五代目馬之丞の時、天正三年(1575年)に諏訪発(ほつ)落(没落)」とある。このため、寺尾城の廃城年は、永禄12年(1569年)または天正3年(1575年)のどちらかと考えられている。(2020.02.11)

殿山公園で発見された竪堀跡
殿山公園で発見された竪堀跡

キガクボ側に築造された土塁
キガクボ側に築造された土塁

殿山の中腹にある馬場稲荷
殿山の中腹にある馬場稲荷

諏訪氏の菩提寺である建功寺
諏訪氏の菩提寺である建功寺

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