多聞山城(たもんやまじょう)

[MENU]

松永久秀が築城した近世城郭の原型となる画期的な城郭

若草中学校にある城址碑
若草中学校にある城址碑

北条早雲(そううん)、斎藤道三(どうさん)とともに戦国三梟雄(きょうゆう)に数えられる松永久秀(ひさひで)は、『常山紀談』に「東照宮信長に御対面の時、松永弾正久秀かたへにあり。信長、此老翁は世人のなしがたき事三ッなしたる者なり。将軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大仏殿を焚たる松永と申す者なり、と申されしに、松永汗をながして赤面せり」と記述されている。これは、徳川家康が織田信長に対面した時、信長は側にいた松永久秀のことを「人のできないことを三つもおこなった老人で、足利将軍を殺し、主家の三好氏を滅ぼし、東大寺の大仏を焼いた者」と紹介したので、久秀は汗を流して赤面したという話である。現在、多聞山と呼ばれる場所は、もとは眉間寺山と呼ばれ眉間寺と墓地が存在したが、戦国時代に松永久秀がこれらを破壊して画期的な城郭を造った。城内に多聞天(毘沙門天)が祀られていたため多聞山城と呼ばれたという。東には京街道の奈良坂を押さえ、南東に東大寺、南に興福寺を見下ろす要地に位置し、南都(奈良市街)を威圧した。奈良市立若草中学校の正門を入ったところに「多聞城跡」の石碑が建っている。この若草中学校が多聞山城の主要部で、東側の大堀切を隔てた若草中学校グラウンドも善勝寺山と呼ばれ城域だった。西側にある聖武天皇陵、仁正皇太后陵まで破壊して城域に取り込んでいた。南側には佐保川が流れており、この内側に侍屋敷が建てられ、佐保川より南に城下町が広がっていたと考えられている。また、生駒郡安堵町にある環濠の中に2軒の屋敷が並び、一方は重要文化財の中家住宅で、もう一方に多聞山城の城門が移築現存している。これは多聞山城を破却する際、筒井順慶(じゅんけい)の一族である石田氏が譲り受けたものという。多聞山城は城郭建築史において重要な城とされる。ポルトガル人医師ルイス・デ・アルメイダの永禄8年(1565年)の書簡が、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの『日本史』に引用されている。この書簡にはアルメイダが松永久秀の家臣の招待により多聞山城を見学した時の様子が記されており、白く光沢のある城壁、芳香を放つ杉材(実際は檜)で造られた建物、歴史物語を題材にした金地の障壁画、上下に金属製の装飾が施されて中央に大きな薔薇が配置された柱というように、およそ戦闘用の城郭とは思えない豪華な城であった。「予は都に於て美麗なるものを多く見たれども殆ど之と比すべからず、世界中此城の如く善且美なるものはあらざるべしと考えふ」とも記される。この書簡にある「塔」とは天守もしくは多層櫓のことで、「宮殿」とあるのは本丸御殿のことと推察されている。また、末尾に「日本全国より只之を見んが為来る者多し」とあり、薩摩国の島津家久(いえひさ)が訪れていることも知られる。『興福寺旧記』や『享禄天文之記』によると、永禄5年(1562年)多聞山城の「四階ヤクラ」の棟上げ式があり、南都の住民を招待したという記録もある。本来、機密事項である城の縄張りを、権威の象徴として積極的に公開していたようである。また多聞山城の塁上には、松永久秀が考案した長屋状に連なる櫓が取り巻いており、これが後に全国の近世城郭で定番として用いられる「多聞櫓」の最初で、この城が多聞櫓の語源になっている。このように、多聞山城は近世城郭の原型といわれ、近江安土城をはじめとする織豊系城郭に少なからず影響を与えたと考えられている。松永久秀は、興福寺、東大寺という宗教権力、主家三好氏、足利将軍家、織田信長という存在も恐れない破天荒な人間であるがゆえ、独創的な城郭を生んだとも想像できるという。

松永久秀の前半生には不明な点が多い。出自についても阿波国や、山城国など諸説あり、山城出身説では、斎藤道三と同郷で旧知の仲であったという。天文9年(1540年)細川氏の被官である三好長慶(ながよし)に右筆として仕える。主人の三好長慶は、応仁の乱後に事実上の天下人となっていた細川氏の最有力重臣にまでのし上がり、天文18年(1549年)細川晴元(はるもと)と室町幕府13代将軍の足利義輝(よしてる)を近江国に追放、細川政権は崩壊して、新たに三好政権が誕生した。三好長慶は松永久秀の才能を早くから見抜いていたようで、久秀を三好家の家宰とし、長慶に従って幕政に関与するようになった。天文22年(1553年)長慶が畿内を平定すると、久秀を摂津滝山城主に任じている。戦国時代の大和国では、大和国守護職たる興福寺の勢力が衰えると、台頭してきた国人領主たちが離合集散を繰り返して絶え間なく抗争を続けていた。しかし、永正3年(1506年)細川政元(まさもと)の家臣である赤沢朝経(ともつね)の侵攻に対しては大和国人一揆を結成して戦った。このように大和国を狙う外敵に対しては団結して戦うのだが、一枚岩になれず、赤沢朝経に敗れて大和を制圧されている。その後も、永正4年(1506年)赤沢長経(ながつね)の侵攻、享禄元年(1528年)から続く柳本賢治(かたはる)の侵攻があり、次々と国外の勢力に蹂躙された。天文5年(1536年)木沢長政(ながまさ)が信貴山城(生駒郡平群町)を築城して、これを足掛かりに大和に侵攻した。しかし、天文11年(1542年)木沢長政が太平寺の戦いで三好長慶らに討ち取られると、大和国人一揆は再び崩壊し、これを機に筒井城(大和郡山市)の筒井順昭(じゅんしょう)が大和国の統一に成功する。『多聞院日記』には「一国悉以帰伏了、筒井ノ家始テヨリ如此例ナシ」と記される。ところが、天文19年(1550年)筒井順昭は病に侵され、2歳の藤勝(のちの順慶)に家督を譲り28歳で病没してしまう。永禄2年(1559年)三好長慶の命により大和国に侵攻した松永久秀は、大和侵略の足掛かりとして木沢長政の築いた信貴山城を修築、さらに翌年には東大寺大仏殿の北にある眉間寺山に多聞山城の築城を開始した。松永久秀は、まず筒井党に属する国人衆の諸城を攻略して筒井城の孤立を狙ったようで、大和の大部分の制圧に成功した。久秀は信貴山城を軍事拠点として、多聞山城を大和の政庁として機能させたようで、この2つの城を中心に大和国の二元支配を開始する。永禄7年(1564年)最盛期には畿内と四国の9ヶ国を支配した日本最大の戦国大名である三好長慶が世を去った。三好長慶は、三弟の十河一存(そごうかずまさ)、長弟の三好義賢(よしかた)、嫡男の三好義興(よしおき)と、相次ぐ一族の死によって心身に異常を来たし、晩年は松永久秀に実権を操られるようになる。そして、永禄7年(1564年)久秀の讒言を受けて次弟の安宅冬康(あたぎふゆやす)を誅殺したのち、後を追うように病死した。三好家は養子の義継(よしつぐ)が継ぐと、永禄8年(1565年)松永久秀の嫡男である右衛門佐久通(ひさみち)と三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)は、三好義継とともに二条御所の室町幕府13代将軍足利義輝(よしてる)を急襲する。足利義輝は、鹿島新当流の塚原卜伝(ぼくでん)から剣術の指南を受け、剣聖といわれた新陰流の上泉伊勢守信綱(のぶつな)にも兵法を伝授される剣豪であった。二条御所を襲撃されたとき、義輝は凄まじい剣技を披露、秘蔵の太刀を十数本畳に刺し並べ、切れなくなると新しい刀に取り替えて敵兵を切り伏せ続けたという。

しかし衆寡敵せず、足利義輝は三好勢によって討ち取られた。また松永久秀らによって、義輝の次弟である鹿苑寺院主の周嵩(しゅうこう)も殺され、長弟である興福寺一乗門跡の覚慶(かくけい)は幽閉された。その後、幕臣の細川藤孝(ふじたか)らの活躍によって覚慶は脱出に成功、この覚慶がのちに織田信長の力を借りて室町幕府15代将軍に就任する足利義昭(よしあき)である。こうして松永久秀が畿内に君臨するようになると、畿内の主導権をめぐって三好三人衆と対立するようになる。筒井藤勝は三好三人衆と密かに同盟を結び松永久秀に備えたが、永禄8年(1565年)久秀は筒井城を襲撃した。筒井城は落城し、筒井藤勝は東山内に逃れることになる。これが松永久秀と筒井順慶の長い戦いの始まりであった。永禄9年(1566年)山城国や摂津国において、松永久秀は三好三人衆とたびたび戦っているが、松永軍の敗北が続き、筒井藤勝も筒井城を奪還することに成功している。松永久秀が劣勢を強いられる中、永禄10年(1567年)三好義継が三好三人衆から寝返り、久秀に保護を求めたため、松永軍は再び勢いを取り戻した。激怒した三好三人衆は、筒井藤勝とともに多聞山城へと攻め寄せた。いわゆる南都対陣の始まりである。この時、筒井藤勝は春日大社にて陽舜房順慶と改名し、正式に興福寺官符衆徒となった。三好三人衆・筒井順慶連合軍は東大寺などに布陣して多聞山城との間合いを詰め、松永久秀は敵軍に陣地として利用されないように付近にある多くの寺院を焼き払った。緊張状態の中で小競り合いは半年間続いたが、兵力で劣る松永軍は不利な状況が続き、ついに久秀は三好三人衆の本陣が置かれた東大寺を夜襲した。この東大寺大仏殿の戦いで松永久秀は大勝利するが、東大寺大仏殿をはじめ、多くの堂宇が焼失、大仏の頭も焼け落ちてしまった。永禄11年(1568年)三好三人衆・筒井順慶連合軍は信貴山城を襲撃して落城させ、再び多聞山城に攻め寄せた。しかしこの頃、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始、尾張・美濃・伊勢・三河の軍兵を率い、南近江の大名である六角氏を壊滅させて京都に入った。これにより畿内の形勢は一変してしまう。松永久秀は信長の実力に驚き、名器とうたわれた「九十九髪茄子(つくもなす)」の茶入れを信長に献上して、いち早く恭順の意を示した。織田信長は三好義継に河内上半国守護と河内若江城(大阪府東大阪市)を与え、松永久秀・久通父子には「手柄次第切取ヘシ」と大和国を武力で奪い取るよう命じた。一方、大和国人衆も足利義昭のもとへ向かい、織田信長の配下に属すことを求めるがこちらは拒否されている。織田信長は、細川藤孝、佐久間信盛(のぶもり)、和田惟政(これまさ)らに松永久秀の支援を命じ、この精鋭部隊2万の援軍を引き連れ、信貴山城の奪還に成功した。さらに筒井城も攻め落とし、翌年にかけて大和国の平定をほぼ完了している。元亀元年(1570年)織田信長との関係が悪化した足利義昭は、反織田勢力に呼びかけて義昭を盟主に団結させ、信長包囲網を結成した。この包囲網には、浅井長政(ながまさ)、朝倉義景(よしかげ)、石山本願寺、雑賀衆、比叡山延暦寺、三好三人衆、六角承禎(じょうてい)などが参加しており、織田信長は四方を敵に囲まれて人生最大の危機に苦しんだ。元亀2年(1571年)この状況を見た松永久秀は、信長もこれまでと判断、反旗を翻して信長包囲網の一角に加わった。一方、筒井順慶は辰市城の戦いで久秀に大勝すると、織田信長に実力を認められ、明智光秀(みつひで)の仲介により信長への帰服を許されて筒井城を回復している。

元亀3年(1572年)戦国最強と恐れられた武田信玄(しんげん)が織田信長を滅ぼすために上洛を開始、三方ヶ原の戦いで徳川家康を壊滅させて西上した。ところが、元亀4年(1573年)包囲網の要であった武田信玄が西上途中で病死すると、最大の脅威がなくなった織田信長の反撃が開始され、浅井氏・朝倉氏・三好氏などを滅ぼし、足利義昭を追放して室町幕府を滅亡させた。天正元年(1573年)松永久秀は多聞山城を差し出すことで信長に降伏、久秀は信貴山城に退き、ここに松永久秀の大和支配は終わりを告げる。多聞山城は、明智光秀、柴田勝家(かついえ)などが一時的に駐屯したが、天正2年(1574年)信長が多聞山城に入城しており、正倉院に伝わる東大寺宝物「蘭奢待(らんじゃたい)」の香木を信長が切り取ったのはこの時である。天正3年(1575年)原田直政(なおまさ)に山城国・大和国守護の兼務を命じて多聞山城を与えた。しかし、天正4年(1576年)石山本願寺攻めに出陣した原田直政は、雑賀鉄砲衆頭領の鈴木孫市(まごいち)に討ち取られる。このため、信長は大和一国の統治を筒井順慶に任せた。松永久秀にとって長年の宿敵である筒井順慶に対するこの処置は我慢しがたいもので、怒りは収まらなかったようである。筒井順慶は信長の命を受け、天正4年(1576年)から多聞山城の破却作業を始め、翌天正5年(1577年)『多聞院日記』に「多聞山四階ヤクラ壊了」とあり、四階櫓も取り壊されたようである。多聞山城を解体した資材は京都の二条御新造(二条殿御池城)の築城に使用されたようで、四階櫓も二条御新造に移築されたと考えられている。天正4年(1576年)第一次木津川口の戦いで織田方の九鬼水軍が、毛利方の村上水軍に壊滅的な敗戦を喫し、天正5年(1577年)手取川の戦いで織田家筆頭家老の柴田勝家が、加賀国で上杉謙信(けんしん)に惨敗した。天正5年(1577年)松永久秀は佐久間信盛に属して石山本願寺攻めをおこなっていたが、突如として詰めていた天王寺砦を焼き払い、反旗を翻し信貴山城に立て籠もった。これに対し、討伐軍の先陣として筒井順慶、明智光秀、細川藤孝らが法隆寺に布陣して片岡城(上牧町)を攻撃、激しい戦闘のすえ片岡城を落として信貴山城に迫った。この時、松永久秀が頼りにしていた上杉謙信が上洛せず越後国に戻っており、織田信長は本格的な久秀討伐に着手する。北陸戦線に出ていた佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽氏勝(うじかつ)らの軍勢も先陣に合流、織田信忠(のぶただ)を総大将とした総勢4万の大軍で信貴山城を包囲した。信長は名器「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)」の茶釜を差し出せば助命すると言ったようだが、松永久秀はこれを拒絶、久秀の人質であった孫2名は京都六条河原で処刑され、信貴山城の戦いは始まった。久秀はよく防いだが、城内に潜入していた筒井勢が織田軍の総攻撃に合わせて火を放ったため、城兵は混乱状態に陥った。久秀は落城に際して、蓄えてあった火薬に火をつけ、平蜘蛛の茶釜とともに天守ごと爆破して自害した。裏切りを繰り返し、梟雄といわれた男の壮絶な最期である。松永久秀が爆死したのは天正5年(1577年)10月10日で、久秀が東大寺大仏殿を焼いた永禄10年(1567年)10月10日からちょうど10年目にあたるため、この因果応報に当時の人々は仏罰が下されたと恐怖したという。天正7年(1579年)筒井順慶は筒井城の修築のため、多聞山城跡に残された石垣などの石材を運び出した。現在の多聞山城の跡地には、壮麗な城であったことを偲ぶものは何もなく、周辺に多聞山城の石垣として使われた石仏が幾つか残されるのみである。(2009.07.29)

主郭部東側の大堀切跡
主郭部東側の大堀切跡

移築された多聞山城の城門
移築された多聞山城の城門

復興された東大寺大仏殿
復興された東大寺大仏殿

[MENU]