田丸城(たまるじょう)

[MENU]

伊勢国司北畠氏を継いだ織田信雄の本城

現存する田丸城の天守台
現存する田丸城の天守台

田丸城は南北朝時代に築城された平山城で、南勢地方随一の古城である。玉丸山の山頂部にある城跡は、伊勢国司北畠氏を継いだ北畠(織田)信雄(のぶかつ)の本城であっただけに見事で、信雄時代の縄張りのまま、野面積みの高石垣、天守台、水堀などの中世城郭の遺構が良く残されている。南から北に二の丸、本丸、北の丸を直線上に連ねた連郭式であり、三の丸(現在の玉城中学校)を東側に配している。田丸城の建物遺構としては、城内八ヶ所の門のうち三の丸にあった「富士見門」が移築現存し、紀伊徳川家領有時代に造営された三の丸御殿御書院の一部である「奥書院」が復元されている。現存する天守台は、信雄時代の大修築により建てられた三層天守のものだが、天守自体はわずか5年で焼失してしまった。南西面に「ハの字」形の石段が設けられているのが特徴である。

南北朝時代の延元元年(1336年)後醍醐天皇の意向を受けた北畠親房(きたばたけちかふさ)と次男の北畠顕信(あきのぶ)は、宗良(むねよし)親王を奉じて伊勢国に下向した。この北畠親房とは、後醍醐天皇から皇子の世良(よよし)親王の養育を託されるほど信任が厚く、吉田定房(さだふさ)、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)と共に「後の三房(のちのさんぼう)」と呼ばれた人物である。元亨3年(1323年)には従来まで北畠氏に許されなかった源氏長者に任命され、正中元年(1325年)には大納言に任命されている。伊勢神宮外宮の禰宜(ねぎ)である度会家行(わたらいいえゆき)や、愛洲(あいす)氏などの支援を受けた北畠親房・顕信父子は、伊勢国度会郡の玉丸山の丘陵に砦を築いた。これが田丸城の前身である玉丸城の始まりとされ、南朝方の南勢地方の拠点となった。北畠親房は、玉丸城を本拠として水軍を掌握し、大湊から尾張国宮崎にかけてを支配した。玉丸山の東側には、京都と伊勢を結ぶ初瀬(はせ)街道と南から通じる熊野街道がおち合い、伊勢神宮へと続く交通の要衝であった。また、伊勢神宮の外港大湊から南朝の本拠地である吉野へ物資を運ぶ通商路としても利用されため、南北両朝はこの城を中心に争奪戦を繰り返した。北朝方の足利尊氏(たかうじ)は畠山高国(たかくに)、高師秋(こうのもろあき)、仁木義長(にっきよしなが)らを伊勢国守護職に任命して次々と伊勢に向かわせた。興国3年(1342年)玉丸城は仁木義長により陥落するが、北畠親房の三男で初代伊勢国司の北畠顕能(あきよし)は霧山城(一志郡美杉村)に拠点を移し、南伊勢5郡などに勢力を張った。南北朝合一後は再び北畠氏領有となり、伊勢国司北畠氏の支城として再建され、伊勢志摩支配の拠点として北畠一族が居城し玉丸御所と呼ばれた。

永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで勝利をおさめた織田信長(のぶなが)は近隣諸国を次々と攻め、永禄10年(1567年)伊勢国司北畠氏への攻撃を開始した。北畠家8代当主の北畠具教(とものり)は信長に対して徹底抗戦し、長期戦となった。具教は文武両道に秀でた大名で、剣豪としても名高い。塚原ト伝(ぼくでん)に剣の腕前を認められ、鹿島新当流の秘伝「一の太刀」を授けられる程の達人であった。伊勢侵攻に時間が割けない信長は、永禄12年(1569年)次男の信雄と具教の娘雪姫の婚姻を結び、信雄を具教の長男具房(ともふさ)の養嗣子とすることで和睦する。はじめ信雄は大河内城(松坂市大河内町)を居城としていたが、天正3年(1575年)大河内城を廃して、北畠氏の本城を田丸城へ移した。このとき、田丸城は大改修され、本丸に三層の天守を築いて、外城田川の流れを変えて城下町を取り囲む外堀に利用した。天正4年(1576年)家督を譲り隠居していた具教は、信長の命を受けた旧臣に三瀬館(多気郡大台町)において謀殺された(三瀬館の変)。具教は鞘に細工を施され、抜刀できなかったと伝わる。この時、北畠一族のほとんどが粛清され、名族北畠氏は滅亡してしまう。天正8年(1580年)北畠信雄の同朋衆で、金奉行の玄智(げんち)が金銀を盗み、証拠を隠すために焔硝蔵に放火する。ところが、この火が燃え広がり、田丸城の天守を始めとして城の建物をことごとく焼き尽くした。玄智は捕らえられ処刑、北畠信雄は松ケ島城(松坂市松ケ島町)を築いて本拠を移した。

天正12年(1584年)蒲生氏郷(がもううじさと)が松ケ島城に入封すると、田丸城は氏郷の持城となり、氏郷の妹婿の田丸直昌(なおまさ)が城代として入った。氏郷が陸奥黒川城(福島県会津若松市)に転封となると、田丸氏も氏郷に従い陸奥三春城(福島県田村郡三春町)に移った。田丸城は、岩出城主牧村利貞(としさだ)の預りとなり、利貞の父稲葉重通(しげみち)が城代として城を預った。文禄2年(1593年)文禄の役に舟奉行として出陣していた牧村利貞は朝鮮にて病没、実子の牛之助が産まれたばかりの赤子であったため、牛之助が成長するまでの代行という立場で弟(稲葉重通の四男)の稲葉勘右衛門道通(みちとお)が跡を継いだ。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦にて道通は西軍の九鬼嘉隆(よしたか)と戦って勝利し、この戦功により4万5千石に加増されて田丸城に入る。しかし、慶長12年(1607年)長兄の遺児である牧村牛之助が15歳になっても家督を譲ろうとせず、実子の紀通(のりみち)に譲ろうとしたため、これに不満を抱いた牛之助が徳川家康に訴えようとしたところ、それを知った道通によって刺客を送られて暗殺された。事件から間もなく道通も伏見で死去し、嫡男の紀通(のりみち)が継いだ。その死は牛之助の呪いと言われている。元和3年(1617年)伊賀伊勢27万石の藤堂高虎(とうどうたかとら)が田丸領5千石の加増を受け、高虎の家臣が田丸城に入った。元和5年(1619年)徳川御三家である紀州和歌山藩の徳川頼宣(よりのぶ)が田丸領を所領し、家老の久野宗成(くのむねなり)が城代として田丸城に入り、その後は久野氏が明治維新まで8代続く。(2004.08.12)

田丸城の城址碑
田丸城の城址碑

現存する富士見門
現存する富士見門

復元された奥書院
復元された奥書院

[MENU]