滝沢本陣(たきざわほんじん)

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会津戦争において松平容保が白虎隊に戸ノ口原への出陣を命じた会津藩の本陣

現存する滝沢本陣横山家住宅
現存する滝沢本陣横山家住宅

幕末の白虎隊の悲劇で有名となる飯盛山の北側には、会津若松と白河を結ぶ白河街道が通過しており、滝沢本陣はこの白河街道沿いの滝沢峠の登り口にあたる滝沢口に存在する。もともと、会津藩の参勤交代には下野街道が使われていたが、天和3年(1683年)に起きた天和日光地震により山崩れが発生して、下野街道は不通となった。このため参勤交代の経路は、会津若松と奥州街道を結ぶ脇往還である白河街道に変更された。滝沢本陣といっても、もともとは民家であった。住人である横山家は16代を数える旧家で、滝沢組11ヵ村の郷頭を幕末まで務めたという。この民家が白河街道に臨んでいたので、延宝年間(1673-81年)会津藩から本陣の指定を受け、東側に座敷が追加建築された。滝沢本陣は休憩が目的の休息本陣で、歴代会津藩主の参勤交代をはじめ、領内巡視、藩祖・保科正之(ほしなまさゆき)が祀られる猪苗代の土津神社(猪苗代町見禰山)への参拝の際などに使用され、会津藩主が旅装を整える場所という具合に、およそ軍事施設ではなかった。しかし、幕末の戊辰戦争の際には会津藩の大本営となり、前藩主である松平容保(かたもり)が陣を敷き、前線の藩兵を激励した。建物には当時の戦いによる弾痕や刀傷などが無数に残っており、会津戦争の激しさを物語っている。現存する滝沢本陣の建物は、幕末に会津藩に提出された指図控えとほとんど一致する。街道沿いに御入御門が構えられているが、これは藩主が出入りするための門で普段は閉じられている。一方、御入御門の左手にある冠門が一般の出入口であった。西側には高札場があり、名子(なご)が居住した名子屋も残っている。そこから前庭を挟んで主屋があり、御座之間、御次之間、湯殿などがそのまま保存されている。現存する主屋は、文禄4年(1596年)に建てられた茅葺書院造の建物で、本陣座敷は19世紀初め(文化文政期)に建て替えられたが、東北地方の民家としては最古のものとされる。滝沢本陣は会津藩の本陣跡として国の史跡に指定されており、現存する建物のうち、主屋および座敷が「旧滝沢本陣横山家住宅」として、昭和46年(1971年)国の重要文化財に指定されている。慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いの敗戦により、江戸幕府15代将軍の徳川慶喜(よしのぶ)や会津藩主の松平容保は朝敵となったが、新政府に対して恭順の意を示したい慶喜は、長州藩に目の敵にされている容保を江戸城(東京都千代田区)へ登城禁止として遠ざけた。薩長の会津藩への要求は、容保の斬首・城の明け渡し・領地没収で、到底受け入れられるものではなかった。会津に戻った容保は、家督を養子の喜徳(のぶのり)へ譲り、謹慎して恭順の意を示している。しかし、長州藩の私怨によって、この武装恭順は認められず、新政府は東北の雄藩に会津藩の追討を命じた。一方、朝敵となった会津藩や庄内藩の赦免嘆願のため、陸奥・出羽・越後の31藩によって奥羽越列藩同盟が成立し、新政府軍との戦い(東北戦争)に発展していく。そして会津藩と庄内藩は、会庄同盟により連携している。この頃、「都見たくばここまでござれ、今に会津が江戸となる」と唄われるほど、戦いを前に会津は賑わっていたという。4月20日、会津藩は、奥州街道の要衝である元白河藩の白河城(白河市)を占拠して新政府軍の侵攻に備えたが、4月25日から約100日間におよぶ新政府軍との白河口の戦いに敗退した。さらに、7月29日には二本松城(二本松市)が陥落し、二本松藩は新政府軍に降伏する。「会津攻めよか、仙台とろか、ここが思案の二本松」と唄われるように、新政府軍は東北平定の攻略方針で意見が分かれていた。

しかし、二本松に駐留する土佐藩参謀の板垣退助(たいすけ)と薩摩藩参謀の伊地知正治(いぢちまさはる)は「根っ子(会津藩)を刈って、枝葉(奥羽越列藩同盟)を枯らす」作戦を主張し、新政府軍は会津への侵攻を決定する。会津藩が新政府軍に備えて防御を固めたのは、会津西街道(日光口)、勢至堂峠(白河口)、中山峠(二本松口)であった。8月20日、新政府軍は中山峠に囮部隊800名を差し向け、陽動作戦によって会津藩の主力部隊を引きつけると、新政府軍の本隊2200名は母成(ぼなり)峠(石筵口)へ押し寄せた。この時の新政府軍は、薩摩藩と土佐藩を主力とし、他に長州・佐土原・大垣・大村藩を加えた6藩で編成されていた。一方、会津藩の母成峠の守備隊は、守将である田中源之進が率いる200名ばかりであったが、旧幕府脱走軍の大鳥圭介(けいすけ)が率いる伝習隊(でんしゅうたい)400や、仙台藩兵100、二本松藩の残兵100、新選組が加勢して総勢800名となり、峠から山麓にかけて築いた3段の台場と、勝岩の台場で守備していた。母成峠の戦いは、21日午前9時頃から砲撃戦で始まるが、大鳥圭介は兵力を縦深陣地に配備し、配下の伝習隊は大軍を相手に善戦した。しかし、木製の木砲(もくほう)のみの第一台場(萩岡)が緒戦で陥落し、大砲2門を置いた第二台場(中軍山)も新政府軍の四斤山砲(よんきんさんぽう)による攻撃と、長州藩兵の側面攻撃で炎上する。さらに、勝岩の台場も土佐藩兵に攻略され、頂上に残った第三台場(勝軍山)で大砲5門をもって反撃するが、新政府軍が第二台場から大砲20余門で砲撃、さらに第三台場の背後から新政府軍に襲われると総崩れとなり、午後4時過ぎに勝敗は決した。母成峠を突破し、会津領に侵入した新政府軍が、猪苗代城(猪苗代町古城跡)へ向けて進軍すると、猪苗代城代の高橋権大夫は兵力不足のため、城と土津神社に火を放って若松城へ撤退した。22日に猪苗代に到着した新政府軍は、そのまま十六橋(じゅうろっきょう)へ向けて進軍を続けた。会津藩が日橋川に架かる石橋を破壊する前に、橋頭堡を確保する必要があったのである。一方、会津藩は猪苗代湖の北西岸にある戸ノ口原で新政府軍をくい止めるため、薩長から「鬼の官兵衛」と恐れられた会津藩一の猛将・佐川官兵衛が、会津領民(義勇兵)で構成された奇勝隊(きしょうたい)、敢死隊(かんしたい)や、旧幕府脱走軍の回天隊(かいてんたい)、誠忠隊(せいちゅうたい)など700余を率いて出陣した。また前藩主である松平容保もみずから陣頭指揮を執るため滝沢本陣へ出馬した。会津藩の主力部隊は、日光口や越後口など国境の戦いに出払っており、若松城に残っていたのは老兵や少年兵、義勇兵だけだった。そして、容保の護衛のために同行したのが、白虎隊の士中一番隊と二番隊の80名である。滝沢本陣には戸ノ口原の前線から援軍を求める急使が到着、容保から白虎隊のうち士中二番隊の戦線投入が命令され、士中二番隊は滝沢本陣から死地に向って勇躍出陣した。そして新政府軍は、僧侶で構成された奇勝隊が十六橋を爆破する前に到着し、十六橋の戦いで橋を占領すると、これを突破して、22日夜には戸ノ口原に進出した。会津藩にとって、頼みとしていた猪苗代城や十六橋が容易に敵の手に落ちることは想定外であった。佐川官兵衛は戸ノ口原・強清水・大野ヶ原に陣地を築いて防戦するが、会津藩の装備は旧式で、槍や火縄銃を使用しており、白虎隊のみがヤーゲル銃と称する前装式(先込め式)の洋式銃を使っていたが、新政府軍が使用する元込め式の新式銃との性能差は比べ物にならなかった。

この戸ノ口原の戦いでも死傷者が相次ぎ、会津藩は後退を余儀なくされた。新選組は会津藩の指揮下に入っており、白河口の戦いや、母成峠の戦いにも参加した。新選組と会津藩の関係は深く、文久3年(1863年)治安の悪化した京都の状況を見かねた江戸幕府が、身分を問わず腕の立つ者を京都に派遣した。それが新選組の前身となる壬生浪士組で、受入先は会津藩であった。松平肥後守御預となった壬生浪士組は、八月十八日の政変などで活躍し、会津藩の軍制から新選組という隊名を賜っている。その後、鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦いに参加するが敗れている。下総国流山で捕縛された新選組局長の近藤勇(いさみ)が斬首となり、副長の土方歳三(ひじかたとしぞう)が宇都宮で負傷すると、新選組は斎藤一(はじめ)が率いた。土方歳三は会津で療養しており、その間に天寧寺(会津若松市東山町)に近藤勇の墓を建て、松平容保に戒名をもらった。そして、全快した土方歳三は、滝沢本陣にて容保と対面したという。その後、土方歳三は援軍を求めて庄内藩へ向かった。大鳥圭介ら旧幕府脱走軍は仙台に転戦していき、新選組も仙台に向かった。しかし、斎藤一ら新選組の一部は会津に残留しており、最後まで新政府軍への抵抗を続けている。23日朝、滝沢本陣の松平容保は、新政府軍が戸ノ口原の会津軍を破って滝沢峠に迫っているとの報告を受けると、一夜の宿とした本陣を引き払い、若松城へ撤退した。容保は退却中に敵の銃弾で馬を撃たれ、やむなく徒歩で帰城したというので、新政府軍は目前まで迫っていたことになる。滝沢本陣は会津藩にとって重要な拠点であったため、すんなり退去したとは考えられず、滝沢本陣に残された多数の弾痕や刀傷が会津藩と新政府軍の戦闘を物語っている。若松城の北方には甲賀町口郭門(こうかまちぐちかくもん)跡(会津若松市栄町)がある。これは、城下の16箇所に設けられた郭門のうちのひとつで、石垣が現存する唯一の郭門となる。特に甲賀町口郭門は、若松城への正門にあたる大手門として高石垣が造られ、他の郭門より厳重な構えになっていた。会津藩はすべての郭門を閉じて守備していたが、滝沢峠を越えてきた新政府軍が甲賀町口に殺到し、家老の田中土佐の指揮のもと白虎隊の士中一番隊が銃で応戦するも、ついに突破されてしまう。そして、田中土佐と神保内蔵助はこの責任を取って自刃している。勢いに乗る新政府軍は若松城の北出丸まで押し寄せたが、別名「鏖(みなごろし)丸」と呼ばれていた北出丸から先に攻め込むことはできなかった。ひとまず退却した新政府軍は、若松城を包囲して、長期戦に作戦変更している。戸ノ口原で生き残った白虎士中二番隊の隊士らは、敵の目を逃れながら退却し、戸ノ口堰(とのぐちせき)の洞門(どうもん)をくぐり抜け、飯盛山の中腹にある厳島神社(会津若松市一箕町)の境内までたどり着いた。そこから山腹をたどって飯盛山の南面に迂回してみると、若松城の城下町が炎上し、一面が火の海になっている光景を目の当たりにした。8月23日、ここで白虎隊の17名全員が自刃を決行し、一命を取り留めた飯沼貞吉(さだきち)を除く16名が死亡した。一般に白虎隊は、若松城周辺の火災を落城と誤認したとされている。しかし、飯沼貞吉が生前に残した史料によれば、落城していないことを認識しながらも、敵に捕まり生き恥をさらすことを恐れて飯盛山で自決したという。この日から約1か月に渡る籠城戦が始まった。若松城の籠城戦では、中野竹子(たけこ)を筆頭とする娘子軍(じょうしぐん)という女性だけの部隊が活躍している。

中野竹子・優子(ゆうこ)姉妹は「会津名物業平式部、小町はだしの中野の娘」と唄われるほど、在原業平(ありわらのなりひら)と紫式部(むらさきしきぶ)の才気に、小野小町(おののこまち)の器量を足した才色兼備の姉妹で、薙刀の達人であった。中野姉妹と母親の孝子(こうこ)は、女性20名ほどの仲間と懇願して衝鋒隊(しょうほうたい)の一員として加えてもらい、後に娘子軍と呼ばれる女性ばかりの部隊を編成した。8月25日、娘子軍を含む衝鋒隊は、城下めざして進軍、その途中で新政府軍と遭遇した。最新装備を持たない衝鋒隊は、新政府軍の銃撃をかいくぐり、抜刀して白兵戦に持ち込む。ここで娘子軍の筆頭である中野竹子は薙刀を振るって活躍した。しかし、新政府軍の激しい銃撃を前に敗色が濃くなり、ついに先頭に立つ竹子は銃弾で胸を貫かれた。まだ意識のあった竹子は、駆け寄った妹の優子に介錯を頼んでいる。優子は何度も刀を振るうが、思うように姉の首が斬れず、やむなく竹子の首級を残して、母とともに退却している。なんとか高久陣屋(場所不明)までたどり着いた母子であったが、姉のことを想うと悔しさで涙が止まらなかった。そこへ吉野吉三郎という衝鋒隊の農兵がやってきた。戦場で優子の様子を見ており、介錯ができなかった無念を察して、竹子の首級と薙刀を回収して持って来てくれたのである。遺品となった薙刀には、「武士(もののふ)の猛(たけ)き心にくらぶれば、数にも入らぬ我が身ながらも」という竹子の辞世の句が結びつけてあった。享年22歳である。8月24日から25日にかけて、国境に出ていた会津藩兵は続々と帰城を果たしている。朱雀隊(すざくたい)を率いる山川大蔵は日光口に宿陣していたが、母成峠が破られて、新政府軍が城下になだれ込んだため帰城命令を受ける。すでに若松城は新政府軍によって完全包囲されていたため、大蔵は一計を案じた。8月26日、会津伝統の彼岸獅子の姿に着替え、囃子隊を先頭に太鼓と笛を鳴らし堂々と敵陣の中を進む。あっけに取られた新政府軍は、ただ茫然と見送るだけだった。この離れ業によって朱雀隊など1000名は、1人の損失もなく西追手門から入城し、籠城戦を戦うことになる。山川大蔵は佐川官兵衛とともに「智恵山川、鬼佐川」と称された。若松城の籠城戦では、板垣退助が率いる土佐藩兵が何度も強襲を掛けたが、城内へ突入できなかったのは、城内からの正確な射撃に阻まれたことが大きい。この射撃で大きな戦力となっていたのは、山本八重(やえ)のスペンサー騎兵銃(連発銃)と、中軍護衛隊(ちゅうぐんごえいたい)の高木盛之輔が持っていた元込め銃だったという。9月14日より新政府軍は、若松城の包囲網を縮めるべく総攻撃を開始した。また、奥羽越列藩同盟の各藩は続々と降伏していき、援軍の望みを失った会津藩は完全に孤立してしまう。しかも、9月17日の城南の戦い、および18日の高田攻撃戦によって、若松城は外部との連絡がいっさい遮断されてしまう。これにより食糧・武器弾薬の補給は途絶えた。鳥羽・伏見の戦い以降、会津藩の戦死者は3000人を数え、城下の3分の2は焼け野原となった。また、砲弾でひどく損傷した若松城天守の古写真は有名である。松平容保は、「予一人のために数千の子弟人民が苦しむ様子はもはや見るにしのびない」として、明治元年(1868年)9月22日ついに会津藩は降伏した。阿弥陀寺(会津若松市七日町)にある東軍墓地は周囲よりも高く、胸の高さまである。最初は穴を掘って1300の遺体を埋めようとしたが収まらず、遺体を積み重ねたためと伝わる。しばらくの間、滝沢本陣は新政府軍の屯所として使われたという。(2013.10.15)

白河街道沿いに立つ御入御門
白河街道沿いに立つ御入御門

唯一残る甲賀町口郭門の石垣
唯一残る甲賀町口郭門の石垣

白虎隊が逃れた戸ノ口堰洞門
白虎隊が逃れた戸ノ口堰洞門

天寧寺にたたずむ近藤勇の墓
天寧寺にたたずむ近藤勇の墓

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