米原市の東部、岐阜県との県境には、かつて寝物語(ねものがたり)という趣のある地名が存在した。近江と美濃の国境となる溝を挟んで2軒の宿が建ち、寝ながらにして壁ごしに会話できたことに由来する。小説家の司馬遼太郎(しばりょうたろう)も『街道をゆく』の取材に訪れており、現在は幅50cmに満たない細い溝があるのみだが、横に「近江美濃両国境寝物語」と刻まれた石碑が建つ。その滋賀県側が米原市長久寺で、かつては長久寺村といった。この辺りには「たけくらべ」という地名があった。周囲の山々が背丈を比べているためとも、寺の僧侶たちが「己がたけくらべ」と勉学を競ったためともいう。古くから、長比・長競・長久羅辺などと記されてきた。文明5年(1473年)一条兼良(かねよし)がこの地を通過した際に詠んだ歌が『藤川記』に記されている。「たけくらべといふは、あふみ(近江)とみの(美濃)との山を左右に見て行所なり」として「右ひだりみて過行はあふみみの(近江・美濃)、二の山ぞたけくらべする」と詠んでおり、当時この辺り一帯が「たけくらべ」と呼ばれていたことが分かる。他にも『大乗院寺社雑事記』の文明11年(1479年)7月26日条に、「タケクラヘ」関の関銭は50文であったことが記されており、「タケクラヘ」の地に関所が設けられていたことが分かる。大正2年(1913年)に編纂された『近江国坂田郡志』にも、昔は野瀬山一帯を長比(たけくらべ)と称したとある。長比城跡および須川山(すがわやま)砦跡は、滋賀県米原市と岐阜県不破郡関ケ原町にまたがる野瀬山に築かれた戦国時代の山城跡である。長比城は野瀬山の山頂一帯に位置し、須川山砦は山頂から北西方向に派生する尾根上に位置している。開発による破壊を受けておらず、遺構の残存状況は良好である。近江・美濃の国境に位置し、北近江の戦国大名である浅井(あざい)氏の領国防衛のための陣城であった。山麓には主要街道である東山道が通過する要衝の地である。標高約390m、比高約220mの野瀬山の最高所に長比城の東曲輪が位置し、そこから西へ約35mの位置に西曲輪がある。東曲輪と西曲輪の比高差は約10mである。そして、鞍部を挟んだ北尾根の頂上に須川山砦が存在する。長比城の西曲輪と須川山砦は直線距離で約230m、比高差は約30mである。東曲輪は長辺約73m、短辺約58mの四角形の曲輪である。周囲を高さ1.5mの土塁が囲み、東側に折れを備え、横失が掛かる仕組みとなる。東曲輪の虎口は、西・南・東の3方向に開口する。西虎口と南虎口は内枡形状の虎口が採用され、東虎口は喰い違い虎口が採用される。また、南虎口の前には堀切が1条設けられる。西曲輪は東西約61m、南北約32mの三角形の曲輪である。周囲を高さ1.3m前後の土塁が囲み、南と東に虎口が開口する。南虎口は土塁に開口部を設けた平虎口で、東虎口は虎口内で通路がクランクする喰い違い虎口が採用される。また、東虎口の前面に堀切が1条設けられ、西側斜面と南側斜面には竪堀が1条ずつ設けられる。東曲輪と西曲輪の間には自然地形が残り、あたかも別々に独立しているような構造となる。江戸期の軍学にいう「別城一郭」の構造に相当する。標高約352mの須川山砦跡の主郭は、東西約22m、南北約29mの三角形の曲輪である。周囲を高さ1.2mの土塁が囲み、南と北に虎口が開口する。南虎口と北虎口は土塁に開口部を設け、前面に一段低い土塁を設けることによって外枡形状の虎口となる。両虎口の前面には高低差のある切岸が設けられる。主郭の北西側に2つの曲輪を備え、南東側には帯曲輪を備える。主郭の北側に堀切があり、堀切の北側には高さ1.5mの土塁が設けられた。
その堀切の外側斜面には、遮断線として北斜面に3条、東斜面に2条の連続竪堀群が設けられた。野瀬山北西麓の須川の集落内に須川城(米原市須川)という遠藤喜右衛門直経(なおつね)の居館跡が存在する。遠藤直経とは、浅井氏の譜代の家臣である。かつて須川山砦には、この須川城の詰の城とする説があった。しかし、集落との比高差が185mもあり詰の城としては高所で、近年の発掘調査により詰の城でなく陣城として機能したことが判明している。長比城と須川山砦は、分厚い土塁が曲輪の塁線を全周している点や、小規模な曲輪にも関わらず虎口が2つ以上ある点など共通点が多く、同時期に築城された可能性が指摘される。須川山砦も長比城と一体に捉えるべきで、往時は両方を合わせて長比城と呼ばれた可能性が高いという。長比城跡と須川山砦跡の中間にある鞍部に東西約50m、南北約40mの平坦面がある。明確な城郭遺構は確認できないが、広域な面積を有することから、軍勢の野営地である駐屯部と考えられている。陣城に野営地が設けられる事例は多く、基本的に陣城は曲輪部と駐屯部の二重構造で成り立つという。山上から街道を見下ろす城砦は、状況に応じて街道への出撃・退却を繰り出すことができ、さらに籠城するなど戦闘を有利に展開できる。防御力を犠牲にしてまでも曲輪に複数の虎口を設けたのは、複数方向への出撃を想定していたためと考えられている。また、堀切の使用が限定的なのは、尾根上からの出撃を意識していたからとされる。地理的な状況から、長比城は東山道を、須川山砦は須川集落への間道を押さえるために築かれたと考えられている。両城砦の土塁の上幅が広い理由は、城兵による土塁上からの迎撃を意図したものとされる。土塁上には柵か塀の構築が想定できるが、土塁上からは遺構が検出されないので、例えば土塁上に楯を立て並べて塀とし、その内側に城兵が移動できるスペースを確保したとも考えられる。一方でこれらの土塁には改修された痕跡がないことから、両城砦が機能したのは一時期のみであった。長比城について記された文献として『信長公記』が挙げられる。『信長公記』の元亀元年(1570年)6月19日条に「去程に、浅井備前、越前衆を呼越(よびこ)し、たけくらべ・かりやす両所に要害を構え候」とあるが、この「たけくらべ」の要害を当城跡に比定し、浅井氏が越前の戦国大名・朝倉氏の力を借りて築城したとされる。事実、長比城は朝倉氏が築城した城郭と共通性が認められるという。類似する虎口として、朝倉氏が築いたとされる小谷城(長浜市小谷郡上町)の大嶽(おおづく)・福寿丸・山崎丸を例に挙げ、元亀年間(1570-73年)における朝倉氏の虎口の典型であるとされる。『信長公記』に「朝倉左京大夫、人数一万五千ばかりにて、七月廿九日、浅井居城大(小)谷へ参着、然りといへども、此表の為躰見及び、抱へ難く存知、高山大づく(大嶽)へ取上り居陣なり」とある。元亀3年(1572年)7月、朝倉義景(よしかげ)は1万5千の兵を率いて小谷城の救援に到着したが、小谷城での防戦は難しいと判断して大嶽を本陣としている。このため、現存する小谷城跡の大嶽の遺構は朝倉氏によって改修されたものと考えられている。大嶽の構造上の特徴は分厚い土塁であり、これは長比城や須川山砦の土塁に共通している。さらに大嶽より南西に伸びる尾根上に福寿丸、山崎丸と呼ばれる独立した出城が築かれ、これらも元亀3年(1572年)の朝倉氏による改修と考えられている。一方、『信長公記』にある「たけくらべ」と「かりやす」の要害は、浅井・朝倉氏によって同時期に築城・改修された可能性が指摘されている。
この「かりやす」こと苅安城であるが、北近江に勢力を持っていた京極氏の本拠である上平寺城(米原市藤川)が苅安城の前身とされている。京極氏館(米原市上平寺)が廃絶した後、詰の城である上平寺城跡を利用して新たに苅安城を築き、浅井・朝倉氏の陣城として機能させたと考えられている。永禄4年(1561年)織田信長は浅井長政(ながまさ)と同盟を結び、美濃斎藤氏を攻略、さらに永禄11年(1568年)には、亡命していた足利義昭(よしあき)を奉じて上洛を果たした。ところが信長は、元亀元年(1570年)4月、長政との盟約を破り朝倉氏の攻撃を始めた。朝倉氏とも同盟関係にあった長政は、義兄である信長を見限って織田軍に襲い掛かったため、信長は越前からの撤退を余儀なくされた(金ヶ崎の退き口)。信長は朽木を抜けて京都に逃れ、5月に千種街道(千草越え)で伊勢に抜けて、本城の美濃岐阜城(岐阜県岐阜市)に帰還した。元亀争乱の始まりである。信長を討ち果たすことのできなかった浅井長政が、信長の近江侵攻を防ぐために江濃国境に築いた要害が長比城と苅安城であった。美濃国岐阜から大軍を率いて北近江に進攻する場合、関ヶ原から西に進む東山道と、北西に進む越前道(北国脇往還)の2択しかない。東山道を押さえる長比城に対し、苅安城は越前道の押さえであった。このように長比城・苅安城は、臨時的に築かれた陣城として位置付けできる。陣城とは城を攻めるために築かれたものや、合戦に備えて築かれたものもあるが、長比城・苅安城は街道を監視して封鎖する目的で築かれた陣城であった。『信長公記』に記されるように朝倉氏の力を借りて長比城・苅安城を築城して備えている。長比城には朝倉式部大輔景鏡(かげあきら)の軍勢3千余が加勢として守備した。長比城からは、浅井長政の居城・小谷城の置かれた小谷山と、当時の織田信長の居城・岐阜城の金華山が両方とも目視できる。岐阜城と長比城は直線距離で35km程である。一方、信長は浅井氏攻めの体制を整えて、6月19日に近江国境へ出馬した。このとき、木下藤吉郎の軍師・竹中半兵衛の調略によって、長比城・苅安城を守備していた鎌刃城主・堀次郎秀村(ひでむら)とその家老である樋口三郎兵衛直房(なおふさ)が織田方に内応したため、長比城と苅安城の城兵はことごとく城から退散し、両城は戦うことなく開城となった。浅井方の史料として『嶋記録』が残されており、「去程に、元亀元年の春の比、織田信長、浅井下野守久政(ひさまさ)・同備前守長政無許に及しかハ、小谷より美濃口をおさへとして、野瀬・刈(安)堀次郎、同家子樋口三郎兵衛尉を入置けるか、其比堀ハいまた若年なりしか、三郎兵衛か所存にて忽心替し、野瀬の要害へ信長の勢を引入、をのか居城かまのは(鎌刃城)へ引退しかハ、刈安を始近辺の城々、悉ク明退けり」と記されている。「野瀬の要害」とは長比城と推測できる。樋口氏が織田方に内応して長比城に織田軍を引き入れ、堀・樋口氏は居城である鎌刃城(米原市番場)へ退去、そのため苅安城をはじめとする美濃口の諸城から浅井・朝倉方が退却したことが記されている。堀・樋口氏の本城はあくまでも鎌刃城であり、織田軍の侵攻時は美濃口守備の責任者として長比城に在番していた。このことからも長比城が居城ではなく、浅井氏主導で築かれた江濃国境を守備するための陣城であったことが分かる。また、長比城が堀・樋口氏が在番する主城で、苅安城はそれに従う城だったことも分かる。『嶋記録』の最後に附属する「従是本書之覚書」に、坂田郡加田村(長浜市加田町)の地侍とみられる加田治介の物語がある。
それには、野瀬ノ要害(長比城)からの浅井方の退去、さらに苅安城からの退去が記される。内容としては「加田治介物語ニ野瀬ノ要害ヲ堀与力ニシテ罷在シニ、在候シニ、在夜樋口三郎東に忍ヒ行、暁帰与力衆ヘムホンノ段カタリ、扨刈安之在番ノ衆へモ同心歟トミツ/\ニコトハリケレハ、尤同心可申候ヘ共、小谷ノ妻子無丁簡候間、退可申候由ニテ、不浅小谷ヘ引取候由、治介語リシト也、刈安ハ中嶋日向子息宗左衛門三成ニ奉公ノヨシ、在番ト同名忠右衛門申候、其時、樋口人シチ壱人ナガシ申候、妙以被申候、樋口ケシヤク也」、「人質クシサシニ成トナリ」とある。これには樋口直房が東(織田方)へ行き調略により浅井家からの離反を決めたこと、それを苅安城の味方に語って同調させたこと、しかし苅安城の兵は小谷城に残した人質の身が案じられるので織田方にはならず小谷城へ引き取ったこと、苅安城は後に石田三成(みつなり)の家臣となる中島宗左衛門が守備していたこと、織田方に離反した樋口直房の人質は串刺しにされて処刑されたことなどが記されている。樋口直房は、若年(15歳)の堀秀村に代わって堀家中を取り仕切っており、兵法・軍略にも通じて、近江一の智謀の将といわれた。竹中半兵衛とは旧知であったといい、直房が主導して浅井家からの離反が決せられた。その後は木下藤吉郎の有力な寄騎として招かれる。『毛利家文書』に収められている毛利元就(もとなり)に宛てた織田信長の覚書に、「浅井備前元来少身ニ候間、成敗非物之数候処、信長在京中ニ越前衆相語、濃江堺目之節所を拘、足懸二三ヶ所拵、可禦支度候き、去十九日向彼地出馬候、同日敵城右之新所を初、彼是四ヶ所落居候、且得利本望候事」とあり、浅井長政が越前衆と相談して信長の在京中に濃江国境に2、3か所の城を構えて信長の侵攻を防ごうとしたこと、調略により4か所の城が味方に付いたことが記されている。「新所」と表現するほど新規築城に近かったことが分かり、落居した4か所の城は、長比城の東曲輪・西曲輪・須川山砦・苅安城とする考え方もある。また、『信長公記』には「信長公御調略を以て、堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり、六月十九日、信長公御馬を出だされ、堀・樋口謀叛の由承り、たけくらべ・かりやす取物(とるもの)も取敢(とりあ)へず退散なり、たけくらべに一両日御逗留なされ、六月廿一日、浅井居城大(小)谷へ取寄り」とあり、信長が奪取した長比城に一両日滞在したことが記されている。ところが、長比城跡と須川山砦跡の発掘調査では、建物遺構は見つからなかった。中世山城の発掘調査において、建物跡の検出が少ない傾向にあるのは、掘立柱建物や礎石建物よりも痕跡が残りにくい建物が主流を占めていたとも考えられる。元亀元年(1570年)から元亀2年(1571年)に織田信長は浅井氏の最前線である佐和山城(彦根市)攻めをおこなう。その後、信長から木下藤吉郎・樋口三郎兵衛に宛てた書状(織田文書)には「佐和山おさへの諸執出(砦)之道具共、両人かたへ預け置くべく候、小谷表之普請之用ニすべく候」とあり、佐和山城攻めの付城に用いた資材(道具)を藤吉郎と三郎兵衛に預けるので、速やかに小谷城攻めの陣を構築するのに用いよという内容である。資材の詳細は不明だが、建物などの資材と考えられており、このことから陣城内の建物が使い回しされていたことが分かる。この建物は解体して持ち運びができ、地上に据え置きの造りである可能性があり、そのため建物遺構が残らなかったとみられる。いずれにしても、長比城・苅安城を攻略した信長は、北近江や畿内方面への軍事展開が可能になったのである。(2026.02.14)