高月城(たかつきじょう)

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武蔵国守護代として活躍した大石氏の滝山城に移る前の居城

秋川越しに見た高月城の遠景
秋川越しに見た高月城の遠景

多摩川と秋川の合流点の近く、秋川の南岸に位置する高月城は、加住(かすみ)丘陵の先端部を利用した天然の要害で、周囲は急峻な崖に囲まれている。現在、秋川の流れは北側に寄り、城址の北西部を洗って曲輪を削り、浸食が進んでいるが、かつては南西側から大きく蛇行して流れていたものとみられる。城址の西方に続く崖は、この秋川の浸食によるものである。南側はその支流が深い谷をつくっており、高月城の残る台地は、南西に細い尾根を残して独立丘陵状になっている。中世城郭の占地としては典型的で、この丘陵伝いの南東1.5kmの地点には、国指定史跡の滝山城跡も存在する。かつて多摩川は、北の秋留台地の東端から南に、高月城跡と滝山城跡のすぐ東を流れており、特に滝山城の東側にある崖は、多摩川の浸食によるものである。これらの地形的条件から考えると、この高月城は渡河地点を押さえるための砦として築かれたように思えるが、この城は、長禄2年(1458年)大石顕重(あきしげ)が築いて居城とし、大永元年(1521年)嫡子の大石定重(さだしげ)が滝山城(八王子市高月町)を築いて移るまで、大石氏の本城であった。多摩地方から入間郡にかけて所領を持っていた大石氏の本城としては、偏った場所のようであるが、戦力であった武州南一揆を統率する都合なのかもしれない。滝山城に比べると築城年代が古いため、全体的に規模が小さく、城郭の構造も単純である。高月城の遺構はよく残されているが、城跡は私有地になっているため雑草が生い茂り、一曲輪や二曲輪は畑と化している。約100m四方の一曲輪は他の曲輪に比べても、かなりの広さである点が大きな特徴となっており、周囲には土塁などの遺構が残っている。しかし、高月城の石碑や案内板といったものは全く存在しない。発掘調査により、土中から柱穴が数間にわたって出土し、青磁器なども発掘された。さらに、1間×2間の方形の浅い池のような跡も発見されたという。一曲輪の南側には空堀と折りをつけた土塁の一部が残っており、南西の峰つづきには谷を利用した竪堀や、かつては3本あった堀切のうち2本が現存して、尾根を切断している。そして、一曲輪の東側の斜面には水の手とともに、5本の縦土塁群(畝形阻障)および、その間の堀が存在し、斜面の横の移動を阻止している。縦土塁群は全国的に存在し、戦国時代の一時期に多用された防御施設のひとつである。一曲輪から北側の斜面には、何段かの削平地を設けて曲輪としており、枡形の初期のものが2箇所ほど存在する。三曲輪は「ホテル高月城」の敷地になっており、かつては石塁が確認できたというが、ホテル建設にともない消滅した。その横の街道に繋がる道は、昭和初期に開いたものである。秋川が大きく蛇行する半島状の断崖に位置するため西側斜面の崩落が激しく、特に北西部分は秋川に流されており、かつて広かった曲輪は秋川によって激しく崩壊しているのが実態のようである。ここから坂を登る所にある平地は重臣達の屋敷跡で、さらに登ると、その途中にいくつかの削平地があり山頂に至る。この山頂の一曲輪の平地に、御殿や高閣などが建っていた。三曲輪から二曲輪、一曲輪へ向かう切通しの道が大手道といい、山麓の圓通寺(えんつうじ)は、かつての居館跡であると伝わっている。城址の北東の低地部にも柵などの防御施設があったと考えられるが、現在は集落となっており旧状は分からない。高月城の全体的な縄張りや、当時の武蔵国の状況から考えて、多摩川から北へ進出しようとしていた北条氏綱(うじつな)によって、大永年間(1521-28年)の前半頃に改修か新造されていると考えられる。

高月城を築城した大石氏の出自は詳らかではないが、『大石氏系図』によれば信濃藤原氏の後裔といい、信濃国佐久郡大石郷に住んだことから大石氏を名乗ったといわれる。大石氏が武蔵国に進出したのは南北朝時代の頃であった。関東管領の上杉憲顕(のりあき)に仕えた大石為重(ためしげ)には男子がなかったため、正慶3年(1334年)木曽義仲(よしなか)の後裔である木曽讃岐守家教(いえのり)の三男の源左衛門尉信重(のぶしげ)を婿養子として迎え、源姓木曾氏の庶家となった。大石信重も上杉憲顕に仕え、北朝方に味方して武蔵国比企郡津下郷に3百貫文を与えられた。観応2年(1351年)南朝方の新田義宗(よしむね)が挙兵すると、信重は北武蔵の笛吹峠の合戦で先陣を務めた。その戦功として、延文元年(1356年)に武蔵国入間・多摩の両郡内に13郷を与えられており、武蔵国目代職、武蔵国守護代、伊豆国守護代を歴任した。この時、信重は二宮城(あきる野市)を構えて本拠としている。この二宮城の位置については、現在の二宮神社が建つ地か、もしくは二宮神社から線路を越えた「おおやしき」という地であるかは、はっきりしない。この地域は、かつて武蔵七党のひとつ西党が猛威を振るい、八王子は横山党が領していた所であったが、新興勢力である大石氏が入る頃には、西党も横山党も弱小な武士団に成り果てており、何の抵抗もなく入部できた。『大石氏系図』によると、至徳元年(1384年)二宮城から松竹城(八王子市下恩方町)に居城を移している。二宮城は要害ではなかったため、八王子の北、浅川に沿う和田峠の松竹に険しい山城を築いたものと考えられている。城は浄福寺(八王子市下恩方町)の裏山にそびえる千手山に構えられ、山頂を中心に数段の削平地を築いて曲輪とし、麓に居館を築いている。これは松竹城とか、千手山城、浄福寺城と呼ばれていた。大手にあたる虎口には小さな枡形が現存している。また、松竹城の支城として、案下城(八王子市下恩方町)も築いている。案下城は陣場山の支脈を利用した山城で、松竹城とともに大石氏の詰の城であった。信重の勢力は次第に大きくなり、その妻は花園城(埼玉県大里郡寄居町)の藤田小三郎義行(よしゆき)の娘であったという。源左衛門尉は大石氏の嫡流の名乗りで、信重は遠江入道ともいう。大石信重の跡を継いだのは遠江太郎憲重(のりしげ)である。憲重は関東管領の上杉憲実(のりざね)に仕えて「憲」の字を賜っている。憲重と、その子の石見守憲儀(のりよし)の2代の活躍はめざましく、上杉憲実の麾下にあって上杉禅秀の乱の鎮圧軍に加わった。永享の乱では足利持氏(もちうじ)の軍勢を攻め、永享10年(1438年)には永楽寺に幽閉した持氏の監視にあたっている。憲儀の代には武蔵国で勢力を拡大し、その所領も広くなり、多摩郡だけでなく入間郡から柳瀬川流域、新座郡にも達している。武蔵国守護代を3代にわたって務めた大石氏は、関東管領山内上杉氏の重臣筆頭に数えられる武士団に成長していた。そのころ、千手山の松竹城があまりにも山奥にあったため、平時の城館として由木城(八王子市下柚木)を築いた。この城は由木の丘陵の先端を利用し、南西方向の峰続きを掘り切ったもので、丘陵上の平地に数郭を設けて縄張りした城郭であった。憲儀の次は、源左衛門尉房重(ふさしげ)が当主となるが、康正元年(1455年)山内上杉氏の旗頭として古河公方の足利成氏(しげうじ)の軍勢と合戦し、分倍河原で大石駿河守重仲(しげなか)とともに討死してしまった。この時代は、古河公方と山内上杉氏・扇谷上杉氏の争乱期で、関東は戦国時代に突入していた。

大石房重の跡を継いだ信濃守顕重は、再び多摩川に沿った丘陵への進出をおこなっている。長禄2年(1458年)大石顕重は、西多摩から南多摩を制圧するために多摩郡高月に進出し、高月城を築いて本拠を移した。顕重は滝の城(埼玉県所沢市)や柏の城(埼玉県志木市)の城主であったことも知られ、扇谷上杉氏の家宰である太田道灌(どうかん)の江戸城(千代田区)、河越城(埼玉県川越市)、岩付城(埼玉県さいたま市)に対抗して、狭山丘陵から柳瀬川沿いの勢力網を確保して警戒するために、これらの城砦を築いたと考えられている。文明5年(1473年)山内上杉氏の家宰として活躍した長尾景信(かげのぶ)が陣没すると、関東管領の山内上杉顕定(あきさだ)は嫡男の景春(かげはる)ではなく、弟の忠景(ただかげ)を家宰職に任命した。これを不服とした景春は、古河公方足利成氏と結んで、文明9年(1477年)から文明12年(1480年)にかけて主家である山内上杉氏に対して反乱を起こした。世にいう長尾景春の乱である。この乱では、豊島一族をはじめ、武蔵・上野・相模の国人領主が一斉に蜂起して景春に味方した。高月城の大石顕重は、長尾景春と山内上杉顕定の間に立って調停に努めたが不首尾に終わった。大石顕重は山内上杉家の旗頭として、針谷原の合戦で長尾景春を攻めている。ところが、一族の大石駿河守という者が二宮城に籠城して景春に同心した。大石一族は顕重のもとに結集していた訳ではなかったのである。扇谷上杉家の太田道灌は反乱軍の鎮圧に転戦し、景春方の諸城を次々と陥落させた。そして、二宮城も道灌の弟である太田資忠(すけただ)によって落城している。『鎌倉大草紙』によると、文明11年(1479年)扇谷上杉定正(さだまさ)が河越から打って出て、大石駿河守が守る二宮城を攻撃し、これを破ったとある。大石顕重の軍勢は、道灌の麾下で景春党の討伐に従軍している。この乱の結果として、大石顕重は一門に対する統制力を強めることができたようである。文明18年(1486年)関白近衛房嗣(ふさつぐ)の三男で、京都聖護院(しょうごいん)の門跡である道興准后(どうこうじゅごう)が大石信濃守の館に訪れたことが、道興の著した紀行歌文集『廻国雑記(かいこくざっき)』に記述されている。この大石信濃守というのは、大石顕重を指すと解釈されている。そこには「あるとき、大石信濃守といへる武士の館に、ゆかり侍りてまかりてあそび侍るに、庭園に高閣あり、矢倉などを相かねて侍りけるにや、遠景すぐれて数千里の江山、眼の前に尽きぬとおもほゆ、あるじ、盃を取り出して、暮過ぐるまで遊覧しけるに」と記され、「一閑、興に乗じてしばらく楼にのぼる、遠近の江山分れること幾州、落雁は霜に叫んで風颯々(さつさつ)、白沙翠竹斜陽に幽(かす)かなり」と詠んでおり、大石氏の居館の状況が分かる。さらに、城内の御殿の庭では蹴鞠などを催して道興を接待している。この高閣とは、太田道灌の江戸城の「静勝軒(せいしょうけん)」を意識して築いたものと考えられ、山内上杉氏の重臣であった大石顕重は、扇谷上杉氏の太田道灌と、居城の立派さを競い合ったふしがある。この館は高月城であるとする説や、引又の館(柏の城)や滝の城であるとする説もあるが、『廻国雑記』の表現はどの城にも当てはまりそうであり、大石氏クラスの豪族は所領内にいくつもの城館をもっていたので、その中のどれかは分からない。特に現在に残る遺構をもとに検討することはできず、のちに北条氏によって大改修された滝の城などは、その点を考慮する必要がある。

翌年、道興が再び訪れた際に大石顕重は、古河公方足利成氏と扇谷上杉顕房(あきふさ)・犬懸上杉憲顕の連合軍が争った分倍河原の戦い(享徳の大乱)で戦死した父房重の33回忌の供養を依頼したところ、道興は冥福を祈る歌を添えた花一枝を贈っている。文明17年(1485年)から長享2年(1488年)までの間、漢詩人であり禅僧でもあった万里集九(ばんりしゅうく)は、太田道灌の招きにより江戸城に滞在していた。江戸城には「静勝軒」という望楼式の櫓建築が存在し、当時の戦闘本位の中世城郭の中で風雅と居住を兼ねた城郭として、日本城郭史において革命的な城であったといえる。この「静勝軒」は天守建築のはじまりとして他の守護・守護代クラスの武将に大きな影響を与えた。山内上杉顕定は鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)に「隋意軒(ずいいけん)」を建て、道灌の父である太田道真(どうしん)は太田氏館(埼玉県入間郡越生町)に「自得軒(じとくけん)」を建てた。大石顕重の子である源左衛門尉定重も居館に高閣を建て、万里集九を江戸城に立ち寄った帰りに高月城に迎えて、厚く接待している。この時、城中に建てた高閣を、万里集九に依頼して「万秀斎(ばんしゅうさい)」と命名してもらった。万里集九の漢詩文集『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』巻六の「万秀斎詩序」には、「武蔵の刺史(しし)の幕府に、爪牙(そうが)の英臣有り。是を大石定重と曰ふ。廼(すなわ)ち、木曽の、源義仲、十葉の雲孫(うんそん)なり。武(ぶ)の二十余郡、悉く指呼に属す。忠義、日を貫き、始終、節(せつ)を一にす。勝地(しょうち)を武野(ぶや)に規(はか)り、頗(すこぶ)る、塁壁の備へを設く。爾来(じらい)、亭子(ていし)を築く」とある。この詩は配列の位置からみて、文明19年(1487年)の作で、文明18年(1486年)太田道灌が扇谷上杉定正に暗殺され、翌年(1487年)に山内上杉顕定と扇谷上杉定正は決裂し、両上杉家が長享の乱と呼ばれる長期間の抗争を始めた頃である。「武蔵刺史之幕府」とは守護代と解釈され、「武蔵国の20余郡を指呼した」というのは、かなりの誇張がある。このように大石氏は、当時として最高の文化を取り入れていたことが分かる。これらの史料をもとに、大石氏の館の所在地を探る試みがなされ、高月城、柏の城、滝の城、滝山城が候補となった。『梅花無尽蔵』に西方に「富士千秋之積雪」とあり、厳密には富士山は南西方向であるが、大体西方と見てよく、どれも当てはまる。東方の「煙霞眇范(えんかびょうぼう)」もどれも当てはまり、南方の「平原松原」は柏の城のみが当てはまる。北東方の「湖水双村 筑波之数峯」は、滝の城の北側全てが台地で、湖水がないため当てはまらない。大石氏が滝山城を支城として築くのは30年ほど後なので、柏の城が一番当てはまりそうである。一方、道興が関東にいた時期と、万里集九が関東にいた時期がほぼ同時期であるため、『廻国雑記』の「あるじ、盃を取り出して」の「あるじ」が大石顕重でなくなる可能性がある。しかし、大石定重が柏の城にいて、大石顕重が高月城にいたとみることもできる。大石顕重は、扇谷上杉定正の娘を正室に迎えており、山内上杉氏に属していたけれども、扇谷上杉氏とも接近していた。永正11年(1514年)家督を相続した大石定重は武蔵国守護代を任され、大永元年(1521年)高月城から滝山城へと居城を移した。この時、高月城は廃城になったといわれる。その後の小田原北条氏の時代になると、高月城は滝山城の支城として機能し、甲斐武田氏に備えて秋川の渡河地点を監視するために整備されたと考えられている。(2006.07.27)

高月城の一曲輪跡に残る土塁
高月城の一曲輪跡に残る土塁

二曲輪の削平地と脇の登城路
二曲輪の削平地と脇の登城路

三曲輪から二曲輪への大手道
三曲輪から二曲輪への大手道

居館跡とされる麓の圓通寺
居館跡とされる麓の圓通寺

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