高島城(たかしまじょう)

[MENU]

日本三大湖城のひとつで、諏訪の浮城と呼ばれた高島藩主諏訪氏の累代の居城

高島城の復興天守と冠木橋
高島城の復興天守と冠木橋

高島城は諏訪湖畔に突き出した小島に築かれた水城(みずき)で、城郭のみが湖上に浮いて見えたことから「諏訪の浮城(うきしろ)」と呼ばれた。「諏訪の殿様よい城持ちやる、うしろ松山前は海」と謡われ、日本三大湖城のひとつに数えられている。小規模ながらも諏訪湖と河川、低湿地に囲まれた要害で、釜口をふさいで湖面の水位を高めると難攻不落の堅城になった。しかし、江戸時代初期の諏訪湖の干拓によって湖面の水位は下がり、水城の面影は失われた。現在は諏訪湖と1kmも離れている。本丸、二之丸、三之丸、衣の渡郭(えのどぐるわ)の4つの郭をほぼ一直線に配置した連郭式平城である。城下町からは泥深い沼沢地の中の縄手という約400mの一本道だけが通じており、弓なりに曲げて作られた縄手は山本勘助による防御の知恵と伝わる。大手門は2層の櫓門であったが、明治維新の際にどこにいったのか分かっていない。常光寺(塩尻市大字片丘北熊井)の山門は維新の際に高島城門を移したと伝わる。寺には過分な門といわれ、櫓門を切り縮めて単層にした跡がみえ、村人たちが運搬に出たという記録は残るが、高島城のどの門であったかは伝えていない。この門が大手門であった可能性も残る。大手門を入ると突き当たりが衣の渡郭で、周囲を取り囲んだ石垣の上には2層の内海御櫓が建っていた。その先は三之丸で、御殿、2層櫓、御勘定所、三之丸家屋敷、八詠楼、2棟の常盈倉(じょうえいそう)などがあった。常盈倉とは、天保7年(1836年)に勝田鹿谷(ろっこく)の献策により実現した、飢饉に備えた貯米倉庫である。個人宅に移築されていた三之丸御殿裏門が現存しており、現在は本丸川渡門跡に保存されている。三之丸の先は二之丸で、御作事屋、新馬場、大蔵、二之丸家屋敷などがあった。二之丸騒動で二之丸家が取り潰しになると、その屋敷跡に藩校の長善館が建てられた。その先が本丸で、本丸の北西隅には独立式望楼型3重5階の天守があり、その南に2層と想定される小天守があった。天守台の周囲には犬走りが設けられ、そのため石落しは存在しない。屋根は柿(こけら)葺きで、天守には珍しいが、これは諏訪の寒さに耐える瓦が手に入らなかったということらしい。さらに東側の石垣には3基の櫓があり、北から角櫓、持方月櫓、富士見櫓といった。他に多門が7基あったが、簡単なものは廊下に屋根のついた程度であったという。高島城の石垣は金子城(諏訪市大字中洲)の石垣を崩して運んだといい、有賀の石船渡から西山方面の石を集めたという伝承が残る。天明6年(1786年)の修理では、梃子(てこ)の原理を使って7か月余も天守を持ち上げておき、石垣をもとから築き直し、天守をそのまま石垣に戻す難工事を成し遂げた。石垣の稜線は天明の修理により算木積みになっているが、それ以外は野面積みである。本丸には冠木門、土戸(どと)門、川渡門の3つの城門があった。冠木門は正式な門で、土戸門は勝手口、川渡門は湖水に面したところにあり、ここから舟に乗ることができた。本丸には他に郡方、御用部屋、御殿、能舞台などがあった。本丸の南側には南之丸が続き、ここで幕府の流人を預かった。現在、本丸跡が高島公園として整備され、昭和45年(1970年)現存する天守台に3層の天守が外観復興されている。また、角櫓、冠木門、長塀、冠木橋なども復元され、現存する石垣や水堀と併せて往時の高島城が再現された。高島城の復興天守は、城郭建築の権威であった大岡博士の設計による。史実に基づいた設計とし、明治初期に撮影された古写真と異なる部分は、藩政時代の修理記録等から復元の意味で採用されたものである。

冠木門は古写真がないため、大岡博士の考案である。もとは一重の棟門あるいは薬医門であったと思われるが、櫓門に設計された。角櫓は元禄の修理図など簡単な絵図が残るだけなので、こちらも大岡博士の設計による。天守以外は木造である。なお、中世の天神山砦跡に建つ温泉寺(諏訪市湯の脇)の山門は、高島城の城門を移築したもので、本堂も高島城の能舞台を移築したものである。高島藩主諏訪家の菩提寺である温泉寺は、明治3年(1870年)火災で焼失し、その復興のために高島城から移された。城門はどこの門か分からないが、能舞台は文政10年(1827年)に本丸に建てられたものである。温泉寺にある梵鐘は、天正10年(1582年)織田信忠(のぶただ)の率いる織田軍団が伊那郡市田村の安養寺(下伊那郡高森町下市田)から略奪して、諏訪大社上社の神宮寺(諏訪市大字中洲)まで引きずってきて捨てていったもので、その鐘銘は摩滅しておりほとんど読めない。高島城は、慶長3年(1598年)日根野織部正高吉(たかよし)によって築かれた。この場所は、応永4年(1397年)の『御渡注進状』に「桑原浜浮島」とある島である。当初、この浮島には諏訪氏によって築城された極めて小規模な島崎城があった。諏訪氏は代々、諏訪大社の大祝を務めてきた一族である。戦国時代には出来星大名が多かったが、この諏訪氏は鎌倉どころか、国初(こくしょ)以来の領主であるから、家臣も被征服者ではなくて一族がそのほとんどを占めていた。その家臣団が分かる確かなものでは、天文年間(1532-55年)の『諏訪頼重公一族家臣名面』というものがある。天文11年(1542年)武田信玄(しんげん)の諏訪攻略によって、この諏訪頼重(よりしげ)が自刃させられ、諏訪惣領家は滅亡した。諏訪氏の家臣団は解体され、千野氏を中心とする諏訪五十騎として武田軍団に組み込まれている。武田氏の諏訪地方の政庁が上原城(茅野市ちの上原)から茶臼山のふもとにある岡本の地に移ったのは、信玄の晩年のことである。永禄8年(1565年)の『諏訪上下宮祭祀再興之次第』に高島城という記述が何度も出てくる。これが近世高島城の前身となる茶臼山高島城(諏訪市上諏訪)である。浮島の島崎城は茶臼山高島城(以下、茶臼山城)の出丸のような位置付けとなった。武田信玄は山本勘助と手長丘から島崎城を眺め、その防備を考えさせた。勘助は2日のあいだ展望して、東にあった大手を北に改め、縄手を造ったという伝承が残る。天正10年(1582年)織田信長の武田討伐によって、武田氏旗下として茶臼山城を守っていた諏訪頼量(よりかず)父子が殺されたといい、40年間にわたる甲斐武田氏の諏訪支配は終った。このときの様子は『小平物語』に、泥沼の中の一本道を上方勢が攻めてきたが、左右の泥水の中に落されて3千8百騎が溺死したとある。『小平物語』とは、小平向右衛門という者が天文以来の聞いた話を83歳になった貞享3年(1686年)に書き記したもので、あまり良い史料でないとされるが、人数はともかく泥沼の中に一本道の縄手があったことは信用しても良さそうである。『信長公記』には、諏訪のうみばたに高島という小城があり、伊那郡の大島城(下伊那郡松川町)を守備していた安中春隆(はるたか)が逃げてきて、しばらく立て籠もったが防ぎがたく、津田源三郎に明け渡して本領の上州に逃げていったとある。この戦いで活躍した河尻秀隆(ひでたか)が甲斐国の大部分と諏訪郡をもらい、諏訪郡はその部下の弓削重蔵(ゆげじゅうぞう)に統治させた。諏訪郡代となった重蔵は茶臼山城にいたが、その期間が3か月とあまりに短かったので、史料は何一つ残していない。

同年(1582年)本能寺の変で信長が死ぬと、その報せは数日のうちに信濃・甲斐にも伝わった。甲府では一揆が起こり、河尻秀隆は土民に殺されている。諏訪では千野昌房(まさふさ)が蜂起した。昌房は武田時代に諏訪五十騎の筆頭として働き、金子城を本拠としていた諏訪氏の旧臣で、同じく旧臣の沢氏、両角氏、小沢氏、牛山氏などと兵を挙げ、茶臼山城の弓削重蔵に城の明け渡しを迫った。当初、重蔵は相手にしなかったが、やがて京都の事情を知ると、やむなく兵をまとめ退いた。戦わずして茶臼山城を回復した千野氏らは、諏訪頼重の従弟である諏訪頼忠(よりただ)が主筋であるため大将として迎えることとし、頼忠も諏訪氏再興のため起ちあがった。しかし、相模国小田原の北条氏政(うじまさ)が上野国に軍勢を入れ、碓氷峠を越えて佐久郡を侵し、川中島を入手しようと大軍を催してきた。一方、徳川家康も信濃・甲斐を取ろうとし、保護していた依田信蕃(よだのぶしげ)を旧領の佐久に帰して真田氏と手を握らせた。甲斐へは穴山氏の部将をつかわし、酒井忠次(ただつぐ)には信濃十郡の計略を任せた。忠次はまず諏訪に手をつけるべく、信濃七将と呼ばれた大須賀康高(やすたか)、大久保忠世(ただよ)、石川康道(やすみち)、本多広孝(ひろたか)父子、岡部正綱(まさつな)等と八ヶ岳山麓の乙骨原に布陣した。茶臼山城の諏訪頼忠は、北条氏、徳川氏の両方から帰属を迫られ、北条氏に従うことで決心する。忠次は茶臼山城を包囲し、忠次に属する小笠原信嶺(のぶみね)を先鋒として攻撃を仕掛けた。逆に頼忠は、夜の風雨に乗じて諏訪湖に舟を浮かべ、500名ほどの手勢で松平家信(いえのぶ)の陣を襲ったりした。その後、北条氏4万3千の大軍が救援に来ることを知った徳川勢は、茶臼山城の囲みを解いて乙骨原の陣を固めた。北条軍と対峙した徳川勢はわずか3千に過ぎなかったため、中の棒道を使って撤退するが、北条軍は上の棒道を追った。徳川勢は鉄砲隊をうまく使い、乙骨退口(おっことのきぐち)と呼ばれる見事な退却戦を演じている。無傷で甲斐に逃れた徳川勢は、新府の石川数正(かずまさ)と合流し、若御子の北条軍と80日も対峙した。その間、北条氏規(うじのり)が甲斐国郡内に攻め込むが徳川勢に敗れ、依田信蕃と真田昌幸(まさゆき)が手を結んで北条氏の碓氷の糧道をおびやかしたこともあり、北条氏が甲斐国都留郡、信濃国佐久郡を家康に渡し、代わりに上野国を取ることで両軍の和睦が成立した。そして、諏訪氏は大久保忠世を通じて徳川家康に属している。諏訪頼忠は千野氏の居城であった金子城を改修し、新たな拠点としたが、天正18年(1590年)徳川家康の関東移封にともなって武蔵国奈良梨に転封となった。諏訪には豊臣秀吉の武将である日根野高吉が2万7千石で配置され、茶臼山城に入城する。文禄元年(1592年)から慶長3年(1598年)にかけて、高吉は諏訪湖畔に新城を築いた。高吉は織田信長の近江安土城(滋賀県近江八幡市)や、豊臣秀吉の摂津大坂城(大阪府大阪市)の築城にも携わっており、高島城はこれらの経験を活かして築かれた。日根野氏の築城には、領民に七公三民の重税や労役が課せられ、多くの農民が逃散しており、なかには村をあげて逃散した例もある。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利をおさめると、慶長6年(1601年)日根野氏は下野国壬生に転封となり、諏訪頼忠の長男である頼水(よりみず)が2万7千石で旧領の諏訪に返り咲いている。2代藩主の忠恒(ただつね)は、慶長20年(1615年)大坂夏の陣において、若江の戦いや天王寺の戦いで奮戦して5000石を加増された。

3代藩主の忠晴(ただはる)から3万石に定まり、高島城は高島藩の政庁として明治維新まで続いた。そして、江戸時代の265年のあいだ百姓一揆を起こさせるような暴政は一度もなかった。高島藩は幕府の罪人の配流地になったことが多いのも特色のひとつである。片山宗哲(そうてつ)、中川宗半(そうはん)、松平忠輝(ただてる)、吉良義周(よしまさ)、野沢半平(はんべい)、水野忠篤(ただあつ)など、いずれも錚々たる名士である。なかでも松平忠輝とは徳川家康の六男で、寛永3年(1626年)から58年間も預かった。天和3年(1683年)忠輝は93歳の生涯を閉じ、貞松院(諏訪市諏訪)に葬られた。貞松院には野可勢(のかぜ)という笛一管が伝わる。これは織田信長が愛用したもので、徳川家康が拝領し、忠輝が勘気を蒙ったときに家康から形見として与えられた名器である。他にも忠輝の陣羽織が残されており、裾の方に「うみゆかばみづくかばね やまゆかばくさむすかばね」と墨書がある。これは正室の五郎八(いろは)姫の筆であろうといわれている。五郎八姫は伊達政宗(まさむね)の長女であった。三河国岩津長沢の城主である松平源七郎は、天保15年(1844年)忠輝の赦免を幕府に訴えた。そして、弘化3年(1846年)赦免の上使が貞松院に遣わされることになったが、その前年に寺が火事で焼けたため上使の延期を願い出て、明治維新になり沙汰止みとなった。そして、吉良義周とは吉良上野介義央(よしひさ)の養嗣子である。義央は浅野長矩(ながのり)の刃傷事件によって隠居しており、義周が跡を継いでいた。赤穂浪士襲撃事件の評定によって、元禄16年(1703年)領地を召し上げられて高島藩に預けられた。11代将軍の徳川家斉(いえなり)の側用人であった水野美濃守忠篤も同様である。権勢並ぶものなしといわれた忠篤は、贅沢の限りを尽くした人物だが、家斉の没後罪に問われて、天保13年(1842年)高島に流されて南之丸に住んだ。6代藩主の忠厚(ただあつ)の時代、高島藩では二之丸騒動が発生した。藩主諏訪家には家老家が2家あり、ひとつは諏訪頼忠の再興における最大の功労者である千野氏で三之丸に住み、ひとつは初代藩主頼水の弟である頼雄(よりかつ)を祖とする諏訪氏で二之丸に住んだ。時代的にも家老政治が確立している頃で、藩主はすでに飾り物になっていた。世俗でうたわれた「御家老様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」という俚謡(りよう)からも当時の状況が窺える。この両家老はともに1200石の最高知行を持ち、上下の差は付けず、年長者筆頭という習慣であった。明和7年(1770年)先代の忠林(ただとき)が没すると二之丸家と三之丸家の勢力争いが表面化し、天明元年(1781年)二之丸家は政争に敗れて断絶となった。この争いにより千野氏は新たに一家を立てることになり、本丸東に御櫓脇家が成立している。9代藩主の忠誠(ただまさ)の母は、陸奥白河藩主の松平定信(さだのぶ)の娘で、幼時に外祖父の定信の前で草書の「寿」の字を大書したとき、紙中に最後の点をうつ余裕がなくなるや、躊躇することなく赤毛氈の上にうった。定信はこれを見て、諸侯たる度量と活用の才ありと賞したという。この諏訪忠誠は優秀な人物で、幕府の若年寄や老中などを務めている。しかし、幕末になると、忠誠が幕府の要職に就いていたことで、新政府側からは佐幕派の首領のように目を付けられていた。高島藩でもそれをひどく心配しており、後難を恐れて新政府の命令は必要以上に正直に受け止めていた。このため、明治6年(1873年)の廃城令を受けて、高島城の破却は急いだ感があったという。(2009.09.21)

本丸北東隅に復元された角櫓
本丸北東隅に復元された角櫓

櫓門形式で復興された冠木門
櫓門形式で復興された冠木門

移築現存する三之丸御殿裏門
移築現存する三之丸御殿裏門

温泉寺に移築された本丸能舞台
温泉寺に移築された本丸能舞台

[MENU]