高田城(たかだじょう)

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外様大名を中心とした13名の天下普請で築城した越後の国都にふさわしい巨城

復元された本丸南西の三重櫓
復元された本丸南西の三重櫓

高田藩の藩庁が置かれた高田城は、高田平野の菩提ヶ原に築かれた輪郭式の平城である。朝日が昇るがごとく輝く城ということで、高陽城(こうようじょう)という雅名を持つ。本丸を中心に、その周りを二の丸、北の丸、卍曲輪、八幡丸、人質曲輪などで囲み、南西側には濁堀(にごりぼり)を隔てて三の丸を付け足した。他にも、虎乱郭、陽戦曲輪、瓢箪曲輪、勝曲輪などの曲輪が配置された。築城の際、蛇行していた関川(せきがわ)の流れを変え、旧流路を大規模な外堀に利用して内郭を造るなど、天然の地形を効果的に利用している。古絵図によると、外堀は幅の広い所で70間(約130m)以上もあった。城地の形が法螺貝に似ているため螺城(らじょう)とも呼ばれる。現在の本丸跡は、東西215m、南北228mの広さがあり、ほとんどが上越教育大学附属中学校に占められている。往時は静真郭御殿と呼ばれる本丸御殿が置かれ、南西隅の土塁上に「御三階」と呼ばれる3層3階の三重櫓や、多門櫓2基、矢倉台、御茶屋台などが設けられた。高田城に天守はなく、三重櫓を代用とした。築城当初は2層の櫓であったが、松平光長(みつなが)時代に高田地震で倒壊し、寛文5年(1665年)新たに三重櫓を築いている。三重櫓の往時の外観は不明だが、武蔵江戸城(東京都千代田区)の富士見櫓に似た外観であったと伝わる。明治19年(1886年)に取り壊されたが、平成5年(1993年)に復元された。三重櫓の再建にあたり、規模は稲葉正往(まさみち)時代の『高田城図間尺』を基にして、外観は松平光長時代の『本丸御殿絵図』を参考とし、さらに発掘調査の成果を踏まえて復元された。東西5間(9.1m)、南北6間(10.9m)を基底とし、高さ14.5mの望楼型の櫓で、1層と3層は入母屋、2層は寄棟形式で、1層と3層に切妻屋根の出張りを付けている。本丸を囲む高い土塁は、高さ10m前後で全長約1000mあった。本丸の虎口は、通常出入りする本城御門(南門)と、使用されない東不明(あかず)門(東門)、北不明門(北門)の3箇所あり、南門と東門は内枡形門、北門は内鉤形の平門であった。高田城の築城当時、二の丸から本丸の本城御門に架けられた極楽橋は、史料に「御橋幅三間に弐拾三(にじゅうさん)間」と記される見事な太鼓橋であった。平成14年(2002年)この極楽橋が発掘調査をもとに木造で復元された。内堀は薬研堀(やげんぼり)で、現在は40mから50mの幅があり、水深の平均は5m程である。本丸に入るには、内堀に架かる極楽橋を渡って、一の門の蹴出門(けだしもん)から枡形に進む。左右の土塁には、かつて多門櫓があった。枡形内の右手にある2層櫓門の本城御門(二の門)をくぐると左手に本丸御殿が現れた。二の丸には武具蔵、火薬庫、番所などが、三の丸には米蔵などが置かれた。現在は市営球場になっているが、三の丸の突端から南堀に突き出した場所が瓢箪曲輪跡である。外郭は、東に関川、南に百間堀、西に青田川などに囲まれている。そして、すべての曲輪には土塁が採用され、近世城郭ながら石垣は築かれなかった。石垣を用いなかった理由として、近郊から石材が調達できないという説があるが、他の理由としては、低湿地の軟弱な地盤が石垣の重量を支えられない、大砲の発達により土塁の方が防御上有利、工事を急いだため石垣を省略したなどの諸説がある。しかし、明治初年に本丸付近を撮影した写真(絵葉書)が発見され、これに石垣が写っていることから、少なくとも本丸には石垣が築かれたのではないかとの見方もある。高田の城下町は西側に発展しており、春日町や善光寺町、直江町など、その由緒を春日山城下や福嶋城下に求める町も少なくない。

徳川家康の六男に生まれた松平忠輝(ただてる)は、慶長15年(1610年)改易された堀忠俊(ただとし)に代わって福嶋城(上越市港町)に入る。ところが、福嶋城は直江津の湊に近く、関川と保倉川に挟まれた立地のため、水害に悩まされた。慶長19年(1614年)忠輝は新城を築いて居城を移すこととし、3月15日から高田城の本格的な工事が始まった。福嶋築城が堀家の単独事業だったのに対し、高田築城は江戸幕府の事業として、出羽国米沢の上杉景勝(かげかつ)、加賀国金沢の前田利常(としつね)、信濃国上田の真田信之(のぶゆき)など、東北・北陸・信濃の13名の大名に助役を命じて、天下普請で築城された。忠輝の舅である陸奥国仙台の伊達政宗(まさむね)が普請総裁として指揮をとり、高田城の縄張りをおこなっている。政宗をはじめ工事に参加した者のほとんどは外様大名で、徳川家康は大名たちの財力を弱めさせ、その態度を見ようとした。そのため、大名たちは総力を挙げて、競うように築城に取り組み、作業がほぼ完了したのは、同年7月5日のことであった。豊臣右大臣家との決戦を控えていたため、幕府をあげての大工事となり、わずか4か月という短い期間で竣工させている。天守と石垣がない特徴を持ちながらも、越後一国と北信四郡の石高75万石を治める巨大な城郭が完成した。7月26日、家康は高田城の工事終了を待っていたかのように、方広寺(京都府京都市)の鐘銘(しょうめい)をめぐって豊臣秀頼(ひでより)を断罪、10月には大坂冬の陣が始まることになる。高田城の築城は、豊臣家との戦いに臨もうとする家康が打った最後の布石だったといえる。当時の高田藩は、親藩の大藩である越前国福井藩とともに、加賀藩前田氏を両側から押さえ込む配置となり、江戸幕府にとっても重要な位置付けとされていた。また、佐渡の金銀を輸送する北国街道の確保の目的もあったと考えられている。ところで、松平忠輝は父・家康に冷遇されていた。生母・茶阿局(さあのつぼね)の身分が低かったため、家康は忠輝の誕生を素直に喜ばず、同じく母親の身分が低かった次兄の結城秀康(ゆうきひでやす)と同様に、生涯を通じて嫌われた。とりわけ忠輝については、その容貌を嫌ったという記録が多い。『藩翰譜』は「世に伝ふるは介殿(忠輝)生れ給ひし時、徳川殿(家康)御覧じけるに色きわめて黒く、まじなりさかさまに裂けて恐しげなれば憎ませ給ひて捨てよと仰せあり」と伝える。さらに『藩翰譜』は、慶長3年(1598年)7歳の忠輝と面会した家康が「恐ろしき面魂かな、三郎(松平信康)が幼かりし時に違ふところなかりけり」と語ったとも伝える。『野史』にも「面貌怪異、三郎ノ稚顔ニ似タリ」と言ったという記述がある。家康は忠輝に対して、切腹を命じた長兄・信康(のぶやす)の面影を見いだしていたようである。元和2年(1616年)4月、家康が死去した。家康は最期の時に、2代将軍秀忠(ひでただ)、義直(よしなお)、頼宣(よりのぶ)、頼房(よりふさ)ら息子たちを枕元に呼びながら、忠輝だけは呼ばなかった。拝謁を望む忠輝は駿府まで馳せ参じたが、家康は最後まで面会を許さなかった。『徳川実紀』は「忠輝、いそぎ発途して駿府へ参られ、宿老もて御気しき伺はれしに、家康は以の外の御いかりにて、城中へも入るべからざる旨仰下され、御対面も叶はざれば、少将(忠輝)せんかたなく御城下の禅寺に寓居して、御気のひまを伺ひて、謝し奉られんとする内に薨去」と伝えている。そして、同年7月6日、25歳の忠輝は三兄の秀忠により改易、伊勢国朝熊(あさま)に配流を命じられた。高田城の築城からわずか2年後であった。

忠輝の改易理由として、通説では大坂夏の陣での怠戦と秀忠の旗本斬殺事件が挙げられるが、改易の根拠としては乏しい。忠輝がキリスト教の布教とヨーロッパとの通商貿易に積極的であったことなど、江戸幕府の基盤を確立するうえでの不安材料に見られたと考えられる。元和4年(1618年)忠輝は飛騨国高山の金森重頼(しげより)に預けられた後、寛永3年(1626年)信濃国諏訪の諏訪頼水(よりみず)の元に移され、天和3年(1683年)92歳で死去するまでの57年間、高島城(長野県諏訪市)の南の丸を配所とした。すでに5代将軍綱吉(つなよし)の時代であった。家康と忠輝の溝は埋まっていたという説もある。それが「野風の笛」の逸話である。この笛は、信長・秀吉・家康が所有した名物とされており、家康は天下人の象徴であるその笛を、茶阿局を通して忠輝に形見として渡したといわれている。現在も、忠輝の菩提寺である貞松院(長野県諏訪市)に保存されている。忠輝の後任は、元和2年(1616年)酒井家次(いえつぐ)・忠勝(ただかつ)父子の2代が高田藩10万石を治め、元和4年(1618年)松平忠昌(ただまさ)が25万9千石で入った。その後、高田城には御三家に次ぐ家格をもつ松平光長が25万9千石で入城し、高田藩最大の繁栄を迎える。光長は、元和元年(1615年)越前国北庄(福井県福井市)で生まれ、幼名を仙千代といった。父は結城秀康の長男・松平忠直(ただなお)、母は徳川秀忠の三女・勝姫(かつひめ)で、父方も母方も曽祖父が家康という血統である。父の配流により仙千代はわずか9歳で家督を継いだ。寛永元年(1624年)北庄城主であった10歳の仙千代は高田へ転封を命じられ、寛永6年(1629年)元服して、3代将軍家光(いえみつ)の一字を与えられて光長と名乗った。幕府は光長に尾張・紀伊・水戸の三家に次ぐ待遇を与えたので、四家と称され、また越後中将家とも呼ばれた。寛永元年(1624年)から延宝9年(1681年)までの57年間の在封は、歴代の高田藩主の中で最も長い。「アーラみごとや高田のお城、城は白壁八ッ棟(やつむね)造り、おおきはしらに、ほうき橋(扇橋)」という手鞠歌は、松平光長時代の繁栄を表した歌である。延宝2年(1674年)光長の嫡子・綱賢(つなかた)が病没したことから、重臣たちは協議の末、光長の異母弟の永見長頼(ながみながより)の子・万徳丸(15歳)を養子と定めた。しかし、これが発端となり首席家老の小栗美作を中心とした越後騒動と呼ばれるお家騒動に発展し、最終的には、延宝9年(1681年)6月21日、江戸城内で5代将軍綱吉がこの事件を裁いた。異例の将軍直裁により、長年続いた越後騒動にも終止符が打たれた。綱吉は最後に「これにて決案す、はやまかり立て」と大声を発し、皆を震えあがらせたという。6月26日には高田藩主松平光長の改易が発表され、翌日には越後国村上藩主の榊原政倫(まさみち)に高田城本丸、越中国富山藩主の前田正甫(まさとし)には二の丸、越後国長岡藩主の牧野忠辰(ただとき)には三の丸の受取が命じられた。榊原家の記録によると、高田城受取の指示を受けた政倫は、7月2日に江戸を出発して11日に村上に到着している。この間、村上城では高田城受取に向けた準備が進められていた。江戸時代においても、城郭の受取は合戦を想定しておこなわれた。高田城受取に際して榊原家は10万石の軍役を命じられたが、本来15万石の藩であるため、藩士は留守番を嫌がってクジ引きで決めたという。5組に分けた陣立てのうち、14日には一番立が村上を出発、15日には二番立が、16日には政倫と旗本隊が出発するなど、榊原家の軍勢は高田に向けて順次出発した。

7月21日、政倫は今町(直江津)へ到着して本陣を置いた。二の丸担当の前田正甫は木田に、三の丸担当の牧野忠辰は春日新田に本陣を置いている。受取日となる26日早朝、鳴り響くほら貝を合図に、政倫は今町を出発、高田に向かって進軍し、辰の中刻(午前8時)頃には高田城大手前へ到着した。政倫は旗を立て、陣幕を張り巡らして威儀を正し、大手門から数人の供を連れて入城して役目を果たしている。高田藩は幕府直轄領となり、幕命を受けた大名が高田城の守衛をおこなう勤番時代が4年5か月続いた。その後、高田藩は再び立藩されるが、稲葉家、戸田家、久松松平家と、石高の低い大名が続く。松平忠輝の改易や越後騒動など相次ぐ事件の舞台になったことで高田藩には悪い印象が残り、江戸中期以降は親藩・譜代で不始末を犯した大名の懲罰的な転封先という位置付けが強くなった。稲葉家や久松松平家もそうである。播磨国姫路藩主の榊原政岑(まさみね)は、才気豊かで諸芸にも通じる反面、幕府の質素倹約令を無視した派手好みで浪費家の側面も持っていた。寛保元年(1741年)政岑が吉原で豪遊し、女郎・高尾大夫を妻として身請けする際、派手な行列で出迎えて祝宴を催した。このことが享保の改革を断行する8代将軍吉宗(よしむね)の怒りを買った。吉宗は政岑に隠居謹慎を命じ、跡継ぎとなった9代政永(まさなが)は高田への転封を命じられることになる。これ以降、榊原氏の統治は、6代130年続いた。幕末の第二次長州征討において、榊原政敬(まさたか)は幕命により4千5百余人の藩兵を引き連れて出陣し、慶応2年(1866年)長州藩との戦闘が始まる。幕府軍先鋒である高田藩と彦根藩は、6月7日に岩国との国境である小瀬川において長州藩と交戦状態に入った。しかし、約束されていた援軍や艦船の援護砲撃はなく、長州藩に挟み撃ちにされて惨敗、大潰走する。戦線は大きく後退し、7月30日に安芸国宮内付近で再び交戦する。高田藩兵は約1週間にわたって善戦したが、この宮内の戦いでも支えきれず撤退した。慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いが勃発、戦火は東に拡大して戊辰戦争へ発展した。このうち越後を舞台とした戦いを、特に北越戊辰戦争と呼ぶ。慶応4年(1868年)4月、古屋作左衛門が率いる旧幕府軍の歩兵隊570余名が、会津から高田へ兵を進めてきた。高田藩はこれを素通りさせたが、信州へ進んだ古屋隊は新政府軍に従う尾張藩・松代藩と交戦し、敗れて高田へ戻ってきてしまう。追撃する尾張藩・松代藩は高田藩を詰問し、新政府軍に従うのか、奥羽越列藩同盟軍に味方するのか決断を迫られた。高田藩は川浦代官所(上越市三和区)で休憩中の古屋隊を急襲して、敗走させることで新政府側への恭順を示した。この川浦戦争が北越戊辰戦争の緒戦となり、続々と北上してくる長州・薩摩を中心とした新政府軍は、高田や今町を中継・後方支援基地として、河井継之助が率いる長岡城(長岡市)へ向けて進軍、高田藩もこれに従った。長岡城や中下越地方における列藩同盟軍との攻防は熾烈を極めた。一度落城しながらも列藩同盟軍に奪還された長岡城は、7月29日に新政府軍によって再び落城、高田藩の諸隊は下越方面の掃討戦と会津戦争にも加わり、延べ72回にもおよぶ戦闘に参加した。高田藩はこれらの戦いで、家老上席の榊原若狭を始め、59名の戦死者を出した。明治41年(1908年)旧陸軍第13師団が高田城を駐屯地として使用するために大規模な土塁の撤去、水堀の埋め立てがおこなわれ、城地の東半分は旧状をとどめていない。本丸を含めた西半分には水堀、土塁の一部が比較的良好に残されており、現在は高田公園として整備されている。(2015.05.05)

内堀に架かる復元された極楽橋
内堀に架かる復元された極楽橋

本城御門の枡形を形作る土塁
本城御門の枡形を形作る土塁

わずかに残された二の丸土塁
わずかに残された二の丸土塁

南堀に突き出した瓢箪曲輪跡
南堀に突き出した瓢箪曲輪跡

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