田城城(たじょうじょう)

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九鬼水軍惣領家の居城

森の中の田城城跡
森の中の田城城跡

鳥羽市を流れる加茂川と、その支流の河内川の合流点にある大きな森の丘陵上に田城城は築かれ、これらの河川が天然の外堀として機能した。現在、城跡には九鬼岩倉神社が祀られている。これは九鬼嘉隆に暗殺された九鬼澄隆の怨霊を鎮めるため、嘉隆の子守隆が創祀したものである。

田城城は、波切城(大王町)より進出してきた九鬼家4代当主泰隆(やすたか)によって、穀倉地帯であった岩倉に築城された。その以前に田城左馬之助が築いたとも伝わる。のちに織田水軍の大将として名を馳せた九鬼嘉隆(よしたか)は、天文11年(1542年)5代当主定隆(さだたか)の次男として生まれる。兄浄隆(きよたか)が田城城を継ぎ、嘉隆は支城の波切城主となった。志摩は地勢が険しかったため、わずか2郡の土地に海賊や豪族が割拠していた。橘宗忠(たちばなむねただ)の鳥羽衆を筆頭に、小浜民部の小浜衆、荒島左門の安楽島(あらしま)衆、浦豊後の浦衆、千賀志摩の千賀衆、国府大膳(こうだいぜん)の国府衆、甲賀雅楽(こうかうた)の甲賀衆、三浦新助の安乗(あのり)衆、青山豊前の和具(わぐ)衆、越賀隼人の越賀衆、的矢美作の的矢衆、九鬼浄隆の田城衆、九鬼嘉隆の波切衆であり、これらを志摩地頭十三人衆と呼ぶ。兵力は九鬼一族が断然多く、他の地頭達は九鬼氏の勢力拡大を危惧していた。

永禄3年(1560年)伊勢国司北畠具教(きたばたけとものり)の援軍を受けた志摩の地頭連合は九鬼一族の攻撃を開始し、九鬼浄隆、嘉隆兄弟は田城城に籠城して対抗する。しかし、浄隆は病没し、惣領を継いだ幼い甥の澄隆(すみたか)を嘉隆が補佐して善戦するが、戦況は不利となり、伊勢朝熊山へ逃れる。このときに嘉隆は、滝川一益(たきがわかずます)を通じて織田信長の幕下に入った。永禄11年(1568年)信長の伊勢侵攻の際、嘉隆は水軍を率いて従軍。九鬼水軍は北畠水軍を破り、大淀城(明和町)を海上から攻撃し、これを陥落させる。織田軍は阿坂城(松阪市大阿坂町)、船江城(松阪市船江町)と次々に落とすが、具教父子の籠る大河内城(松阪市大河内町)は落ちなかった。信長は和睦を申し入れ、具教を三瀬館(大台町)に隠居させ、信長の次男茶筅丸(のちの織田信雄)を養子とし、これに国司を譲らせた。その間、嘉隆は信長の武威を借りて、志摩の地頭達を攻め、小浜景隆や千賀志摩は敗れて三河に逃亡、浦豊後や的矢美作は自刃、越賀隼人、青山豊前らは降って九鬼氏の家臣となる。橘宗忠は娘を人質に出して降伏、嘉隆はその娘を妻として、志摩の統一に成功。澄隆は田城城を回復する。

その後の嘉隆は、伊勢長島一向一揆の鎮圧、第二次木津川口海戦において鉄甲船で毛利水軍を壊滅させる等の戦功により、志摩一国、摂津野田・福島など3万5千石を領する大名となる。このため、志摩の国主は嘉隆だが、九鬼家の惣領は澄隆という複雑な関係になった。天正10年(1582年)澄隆は田城城で暗殺される。嘉隆による毒殺と伝わる。その後、田城城は廃城となった。関ヶ原合戦において、嘉隆の子守驕iもりたか)が徳川家康に従って会津上杉征伐に出陣してる留守をみて、隠居していた嘉隆が西軍に与して守驍フ鳥羽城(鳥羽市鳥羽)を奪った。守驍フ軍が奪還に戻ったとき、嘉隆は戦火で鳥羽城下を焼くのを忍んで、この田城城跡に陣を移し、ここで父子の戦闘を展開している。(2003.8.25)

城跡の九鬼岩倉神社
城跡の九鬼岩倉神社

田城城の主郭跡
田城城の主郭跡

田城城の説明板
田城城の説明板

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