志苔館(しのりだて)

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道南十二館のひとつであるコシャマインの戦いの引き金となった城館

志苔館跡の西側に残る二重堀
志苔館跡の西側に残る二重堀

津軽海峡に面した標高25mの海岸段丘南端部に位置する志苔館は、函館市の中心部から東に9kmほど離れた場所にあり、函館空港の滑走路のすぐ南側に隣接する。城館の西側は志海苔川が海に注ぎ、南面となる直下には志海苔漁港が存在、津軽海峡の向う側には下北半島が一望できる。この辺りの海岸線一帯には天然の良港が多く、宇賀(うが)の昆布と呼ばれた良質な昆布の産地として知られている。志苔館は単郭の平城で、土塁に囲まれた主郭部は、東西70m、南北50mの規模である。西側と東側の中央部は土塁が途切れており、往時は城門を設けて虎口としていた。土塁の外側にあたる北側と西側には空堀が掘られ、この断面は薬研または箱薬研の形状であった。特に大手口となる西側は、中央に土塁を設けた二重堀の構造となり、外側の空堀には木橋が架かり、内側の空堀は土橋で繋がれていた。昭和56年(1981年)に実施された発掘調査の成果により、掘立柱建物5棟、柵跡などが平面表示されている。この内部では、郭内に存在した唯一の井戸跡が見つかり、発掘調査に基づいて木製井戸枠が復元された。この井戸枠は、鎌倉時代末期に流行した方形隅柱横桟式という形式であったという。また、出土品では、15世紀前半ごろを主体とする陶磁器が出土しており、『新羅之記録』に記された長禄元年(1457年)のコシャマインの戦いにおける志苔館の陥落時期と矛盾しない。しかし、この周辺からは武器などの出土はないという。昭和43年(1968年)志苔館下の国道278号線の拡幅工事の際に、3つの大甕に入れられた膨大な量の古銭が見つかった。発見の際にかなりの枚数が持ち去られたが、それでも残された枚数は37万4千枚にものぼり、これは日本国内で1ヶ所からまとまって発見された古銭としては過去最多の量である。古銭が詰められていた3つの大甕は室町時代前期から中期に作られており、2つは福井県の越前古窯のもので、もう1つは石川県能登半島の珠洲窯であった。そして、古銭は93種類の一文銭で、そのほとんどは中国からの渡来銭であった。鋳造年がもっとも古いのは、紀元前175年に造られた前漢の四銖半両と呼ばれる銭で、次に、新、後漢、隋、唐、前蜀、南唐、後周、北宋、南宋、元の時代の銭が続き、もっとも新しいのは、1368年から1408年まで鋳造された明の洪武通宝という銭であった。このように、およそ1500年間にわたり鋳造された銭で構成されている。中でも鋳造年代が960年から1119年までの北宋銭が、34種類、約31万枚と全体の約85%を占め、もっとも多かった。日本の皇朝銭では皇朝十二銭のうち8種類が存在し、和同開珎(飛鳥)、万年通宝(奈良)、神功開宝(奈良)、隆平永宝(平安)、富寿神宝(平安)、承和昌宝(平安)、貞観永宝(平安)、延喜通宝(平安)と、飛鳥時代から平安時代のものが含まれている。中国周辺の貨幣としては、安南(ベトナム)、遼(モンゴル)、高麗(朝鮮)、金(中国北部)、西夏(中国北西部)の銭も含まれていた。この備蓄古銭の埋設時期は、洪武通宝に後続する永楽通宝が1枚も発見されなかったことから、少なくとも洪武通宝の初鋳年である1368年以降であって永楽通宝の初鋳年の1408年以前に求めることができ、明銭の割合が極めて少ない点から14世紀の段階で埋設が完了していたと考えるべきという。発見当初は、アイヌとの戦いのための軍資金ではないかと考えられたが、アイヌとの最初の大規模な武力衝突であるコシャマインの戦いまで50年以上も隔たりが指摘され、現在ではこの説は否定されている。発見された古銭は国指定重要文化財として、市立函館博物館に展示されている。

南北朝時代末期から室町時代前期の成立とされる『庭訓往来(ていきんおうらい)』には全国の名産品が紹介され、このなかに蝦夷地の宇賀の昆布と夷の鮭が掲載されている。宇賀の昆布は、津軽海峡に面した志濃里(志海苔)およびその周辺地で生産された昆布を指すもので、この昆布だけが真昆布といわれた。室町時代には多くの北陸の商船が宇賀昆布の取引のために訪れており、日本海を交易ルートとして若狭国小浜に搬ばれて加工され、若狭昆布として京都・大阪方面に流通している。この蝦夷地の特産品の出荷拠点が志濃里および宇須岸であった。志苔館はこれら宇賀昆布の交易に無関係ではないと思われる。宇賀昆布の取引では莫大な利益を生み出したはずで、発見された備蓄銭もこれに関すると考えられる。志苔館の築城時期は、一説によると上野国の住人である小林次郎重弘(しげひろ)が、徳治元年(1306年)に津軽から蝦夷地に渡って築いたという。しかし、小林重弘は、長禄元年(1457年)の館主(たてぬし)であった小林太郎左衛門尉良景(よしかげ)の祖父であるため、年代的に合わない。やはり、徳治元年(1306年)ではなく、14世紀末ごろの築城と思われる。小林氏は上野国緑野郡小林邑(群馬県藤岡市)が発祥の地といわれ、桓武平氏良文流高山党の分かれで、後醍醐天皇の側近である万里小路藤房(までのこうじふじふさ)に仕えたという。室町時代、蝦夷管領を世襲した安東氏は、十三湊(とさみなと)を本拠として成長した豪族で、蝦夷地の渡島半島沿岸部に築かれた道南十二館を支配した。志苔館も道南十二館のひとつで、他に箱館(宇須岸館)、茂別館(もべつだて)、中野館、脇本館、穏内館(おんないだて)、覃部館(およべだて)、大館、禰保田館(ねぼただて)、原口館、比石館(ひいしだて)、花沢館が存在した。康正2年(1456年)安東政季(まさすえ)は、茂別館(北斗市矢不来)の安東八郎式部大輔家政(いえまさ)を下国守護、大館(松前町神明)の下国山城守定季(さだすえ)を松前守護、花沢館(上ノ国町勝山)の蠣崎修理大夫季繁(すえしげ)を上国守護に任じ、道南十二館の他の館主たちを統率させたとある。康正2年(1456年)志濃里の鍛冶屋村において、和人の鍛冶屋と客のアイヌ少年の間で口論が発生、原因は注文した小刀(マキリ)の品質と価格であった。当時、和人は渡島半島から道南にかけて進出しており、製鉄技術を持たなかったアイヌと鉄製品などの交易をしていた。ところが、経済的優位を誇る和人はアイヌに対して横暴であったため、アイヌの不信感はかなり蓄積されていた。そしてこの時、鍛冶屋は口論の末、アイヌ少年を刺殺してしまった。この事件がきっかけとなり、アイヌの大規模な武装蜂起が起こる。いわゆる、コシャマインの戦いである。この志濃里での出来事が発端となり、胆振の鵡川から後志の余市までの広い範囲でアイヌが和人を襲撃する事件が多発した。殺されたアイヌ少年は乙孩(オッカイ)といい、近くの集落(コタン)の首長の子であったともいう。志濃里においては鍛冶屋村が襲われ、女子供問わずに虐殺された。その後、政庁である志苔館までもが攻撃されている。しかし、その年の秋には鎮静化した。これは和解ではなく、アイヌにとって秋は狩りの季節なので、一時的に停戦していただけであった。翌康正3年(1457年)長万部(オシャマンベ)周辺のコタンの首長で、東部アイヌの大族長であった胡奢魔犬(コシャマイン)を総大将としたアイヌ同盟軍が蜂起、東部アイヌ4千余、北部アイヌ2千余、西部アイヌ3千余の合計1万の兵力で南下して志苔館に襲い掛かった。

もともと狩猟民族であるアイヌ軍は、毒を塗った附子矢(ぶしや)や短弓で武装していた。館主の小林良景は300の兵で防戦するが、圧倒的な兵力差により志苔館は攻め落とされた。小林良景は箱館(函館市弥生町)に逃れるが、アイヌ軍はこれを追撃した。箱館とは宇須岸館のことで、遠くから見るとこの城館が箱のように見えることから箱館と呼ばれ、現在の函館の地名の由来となっている。背後を箱館山に守られた方形の城館で、周囲に土塁と空堀を巡らせた。館主は河野加賀右衛門尉政通(まさみち)である。しかし、この箱館もアイヌ軍の攻撃を防ぐことができずに陥落、小林良景と河野政通は茂別館に逃げ込んだ。茂別館は難攻不落の要害で、主郭を大館といい、小館と呼ばれる副郭を伴った城館である。アイヌ軍は箱館を占拠し、西へ進軍して茂別館を攻撃するが、ここを攻めあぐねたため、攻撃を続けながら別働隊を編成してさらに西へ進軍させた。茂別館の館主は下国守護の安東家政である。西に進んだアイヌ軍は、佐藤三郎左衛門尉季則(すえのり)の中野館(木古内町中野)、南条治部少輔季継(すえつぐ)の脇本館(知内町湧元)、蒋土(こもつち)甲斐守季直(すえなお)の穏内館(福島町吉岡)、今泉刑部少輔季友(すえとも)の覃部館(松前町東山)を次々と陥落させ、松前の大館を包囲した。松前守護で大館館主の下国定季は、花沢館の蠣崎季繁に援軍を求めた。上国守護の蠣崎季繁はこの援軍要請を受けて大館に派兵するが、アイヌ軍の伏兵の攻撃により撃退されている。孤立した大館はアイヌ軍に攻め落とされ、下国定季は捕らえられて捕虜となった。勢いに乗ったアイヌ軍は、副将格のタケナシに2千の軍勢を与えて大館から海岸沿いに北上させ、コシャマインは3千余の軍勢を率いて茂別館の攻撃のために引き返した。残りの兵士は大館をはじめ、奪取した館の守備に当らせている。タナケシの軍勢は、近藤四郎右衛門尉季常(すえつね)の禰保田館(松前町館浜)、岡部六郎右衛門尉季澄(すえずみ)の原口館(松前町原口)、厚谷左近将監重政(しげまさ)の比石館(上ノ国町石崎)を攻め落としており、道南十二館で落城を免れているのは、蠣崎季繁が守備する花沢館と、攻撃を防ぎ続けている茂別館の2ヶ所だけとなった。花沢館には各館から逃れてきた館主や兵士が集結していた。そして、館主たちの協議の結果、花沢館の客将である武田彦太郎信廣(のぶひろ)に戦いの総指揮を委ねることになったという。武田信廣は松前藩主松前氏の始祖となる人物で、清和源氏武田氏流の傍流である若狭武田氏の出身とされる。『新羅之記録』によると武田信廣は、若狭国守護職である武田信賢(のぶかた)の子とするが、『若狭武田系譜』に信廣の名はなく出自には疑問点が多い。宝徳3年(1451年)武田信廣は家子の佐々木三郎兵衛門尉繁綱(しげつな)、郎党の工藤九郎左衛門尉祐長(すけなが)ほか侍3名を連れて若狭国を出奔する。しばらくは関東の鎌倉公方足利成氏(しげうじ)の御所に身を寄せていたが、北上して三戸の南部光政(みつまさ)のもとへ移った。南部氏は「奥州十三湊日之本将軍」として威勢を振るった安東氏の下国家との抗争に勝利しており、下国家の直系は断絶、捕虜となっていた庶流の安東政季を傀儡として下国家を再興させている。安東政季は陸奥湾東岸の田名部(むつ市)を知行地として与えられることになった。この時、武田信廣も田名部のうち蠣崎を知行地として与えられたという。享徳3年(1454年)南部氏から独立するため、安東政季は蝦夷ヶ島に渡り、武田信廣もこれに従って上之国の花沢館に客将として滞在したという。

タケナシの軍勢は花沢館に迫り、南下した西部アイヌもこれに合流している。アイヌ軍の攻撃に対し、武田信廣は花沢館の柵列沿いにワラ人形を立て並べ、アイヌに附子矢を射たせて毒矢を確保、その矢をアイヌ軍に射ち返して損害を与えた。そして、タナケシの軍勢が潜む森のまわりに油を撒いて火を放ち、森の中から逃げ出してくるアイヌ軍を待ち伏せして、これを全滅させた。この花沢館の戦いの勝利によって、和人の反撃が始まる。タナケシの軍勢を破った武田信廣は、アイヌ軍が占拠する比石館、原口館、禰保田館には構わず、アイヌ軍の拠点となっている大館を奪還することにした。夜陰に紛れて花沢館を出撃した信廣軍は、1500名の軍勢を2隊に分けて、大館の正面からと裏山からの2方面より急襲する。大館に突入した信廣軍は、捕虜となっていた下国定季を救出して大館の回復に成功した。その後、禰保田館、原口館、比石館を順次奪還、武田信廣の率いる軍勢は東へ進軍し、茂別館に入城した。この時点でアイヌ軍に占拠されていた10館のうち8館までを奪還しており、残りは箱館と志苔館のみとなっている。コシャマインは形勢逆転となったことを知り、茂別館の攻略をあきらめて、箱館にアイヌ軍を集結させた。信廣軍は箱館の攻略に取り掛かるが、アイヌ軍に兵力で劣るため攻城戦は不利であった。城館からコシャマインを誘い出し、野戦に持ち込むために一計を案じた。信廣軍は箱館の正面から攻撃してアイヌ軍と戦い、負けを装って敗走する。アイヌ軍は勝機と見てこれを追撃、七重浜に誘い出された。信廣は七重浜そばの密林に伏兵を置いており、追撃を続けるコシャマイン父子を五人張の強弓で射殺した。総大将を失ったアイヌ軍は箱館を捨てて一斉に撤退したという。これら一連の戦いで、志苔館の館主であった小林良景は討死したといわれている。その後、良景の長男である小林彌太郎良定(よしさだ)が志苔館を回復して館主となり、次男の小林二郎季景(すえかげ)が支館の与倉前館(函館市高松町)を築いて館主となった。子のなかった蠣崎季繁は、安東政季の娘を養女としたうえで、武田信廣に嫁がせて家督を譲った。蠣崎家の入婿となった信廣は、花沢館から天ノ川を挟んだ対岸に洲崎館(上ノ国町北村)を構築した。天ノ川の両岸には擦文時代の遺跡があり、アイヌの集落が存在したことが分かっている。花沢館と洲崎館にて、これらを押さえていたと考えられている。蠣崎信廣は洲崎館を本拠として、建国の大礼をおこなった。長禄2年(1458年)信廣は佐々木繁綱と工藤祐長を東部に派遣してコシャマインの残党狩りをおこなうが、これ以降もアイヌと和人の戦いは1世紀に渡って続くことになる。永正9年(1512年)東部アイヌの首長である庶野(ショヤ)・匐時(コウジ)兄弟が蜂起、いわゆるショヤコウジ兄弟の戦いが始まる。この戦いで、志苔館は再び襲われて陥落、小林良定は討死して果てている。また、小林季景も与倉前館から打って出て、二本木でショヤコウジ軍と戦うが利あらず自害、箱館の河野季通(すえみち)も自害している。この戦いによって志苔館、与倉前館、箱館の3館はアイヌ軍に占拠されて、志濃里、宇須岸あたりは以後100余年に渡って荒廃したといわれており、蝦夷地の和人経済の中心は上之国、松前へと移っていった。永正11年(1514年)良定の子である小林三郎右衛門良治(よしはる)も、松前に移住して蠣崎信廣の長男である蠣崎光廣(みつひろ)に従属したため、志苔館は復興せず、そのまま廃館となった。幕末になると志苔館跡は台場として利用されており、土塁には砲座の跡が残るという。(2010.11.22)

史跡志苔館跡の石碑と土塁
史跡志苔館跡の石碑と土塁

大手口と二重堀の木橋と土橋
大手口と二重堀の木橋と土橋

志苔館の郭内と西方の函館山
志苔館の郭内と西方の函館山

河野氏の宇須岸館(箱館)跡
河野氏の宇須岸館(箱館)跡

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