高槻城跡は、西方800mを流れる芥川が形成した扇状地の末端に位置する。南方3kmに淀川を擁し、北方1kmに西国街道を控えた水陸交通の要衝にあたり、現在の高槻市の中心部に位置する。往時は京都と大坂の中間に位置する重要な場所を占めていた。北摂唯一の近世城郭であった高槻城は、真っ白な天守が聳え、要所には櫓が配置されていた。元禄4年(1691年)長崎から江戸を目指すオランダ商館のエンゲルべルト・ケンペルは、枚方から淀川の向こうに見えた高槻城について『江戸参府旅行日記』に「左手の川向うには、城が水中に築かれているように見えた。この城は高槻という小さい大名の居城で、遠くから大へん美しく野原の中に際立って見えていた」と記している。当時の高槻藩主は永井直種(なおたね)で、徳川譜代の3万6千石の大名であった。高槻城の立地する芥川扇状地には、古くから集落が営まれ、高槻城跡の調査でも弥生土器や須恵器が出土している。平安時代以降になると、いくらかの遺物は得られるものの明確な遺構は掴めておらず、引き続き構築された中世高槻城も、その姿などは明らかでない。一方、近世高槻城については『高槻城絵図』が現存しており、また現在の町割りからも全体像を窺うことができる。すなわち、近世高槻城は連郭式平城の形態で、本丸と二ノ丸が並列となり、これらを中心に、東側に厩郭、南側に弁財天郭を細長く配して内郭とし、外郭は帯郭、蔵屋敷、三ノ丸(北郭・東郭)からなり、内郭を取り囲んでいる。そして最外郭にあたる出丸が城地の西辺にあって、南北に細長く設けられている。高槻城の規模は東西約510m、南北約630mで、北側中央が少し突き出た凸字形を呈している。この周辺の標高は約7.5mを測る。本丸の南西隅に3層天守がそびえ、北西隅と南東隅に2層櫓が設けられた。18世紀前半頃の城下町を描いた『町間入り高槻絵図』によれば、天守1階の規模は6間(約12m)×7間(約14m)と徳川時代の大坂城(大阪市)の本丸三重櫓と同じ規模である。天守と櫓は、白漆喰総塗籠造りの層塔型であった。現在、本丸跡は大阪府立槻の木高等学校の校舎エリアになっており、その北東側に隣接して、「高槻城跡」と刻まれた石碑が立つ。その脇には石垣石が展示されている。二ノ丸には藩庁である御殿が建ち、北西隅に2層櫓があった。厩郭には厩舎があり、弁財天郭は空き地であった。三ノ丸北郭の北西隅に2層の乾櫓、東側に2層の丑寅櫓があり、北東部に北大手門の枡形があった。三ノ丸東郭の南東隅に2層の巽櫓があり、東側に東大手門、南西部に南大手門の枡形があった。石垣は城門や櫓などの要所に築かれ、その他の部分は土塁であった。三ノ丸東郭跡は高槻城公園などになっており、園内には高山右近像や、城下町の商家(旧笹井家住宅)を移築した高槻市立歴史民俗資料館、外堀跡の段差などが見られる。高麗門形式の城門が本行寺(高槻市大手町)に移築され、伝二ノ丸隅櫓が民家に移築現存する。平安時代中期の正暦年間(990-95年)近藤阿刀連忠範(あとうのむらじただのり)という人物が久米路(くめじ)山の小丘を開発して高月殿という館を築いたのが高槻城の始まりとされる。しかし、『摂津名所図会』所収の類話なので確証はない。野見神社(高槻市野見町)の摂社である小島神社は、粂治(くめじ)山付近の瀧ヶ淵にいた大蛇を龍神として祀ったのが始まりで、かつて高槻城は久米路山龍ヶ城とも呼ばれていた。ちなみに、野見神社の歴史はさらに古く、9世紀後半の宇多天皇の時代にまで遡り、この地域に流行った疫病を鎮めるために久米路山に牛頭天王を祀ったのが始まりで、明治時代より前は牛頭天王社と呼ばれた。
つまり、野見神社は高槻城が築城される以前から存在し、10世紀末の築城後は城内守護として歴代の高槻城主に崇拝されている。野見神社の場所は、近世高槻城の三ノ丸北郭にあたる。近藤忠範の後も近藤氏がこの地に続き、鎌倉時代末期には近藤三郎左衛門宗光(むねみつ)が高槻城主であった。この近藤宗光は、詳細は不明だが尾張沓掛城(愛知県豊明市)の初代城主でもあった。正中2年(1325年)沓掛の住人・近藤宗光は後醍醐天皇に召し出されるが、元弘元年(1331年)後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒のために挙兵し、幕府軍との笠置山の戦いで宗光は討死した。近藤宗光の死後、足利尊氏(たかうじ)に仕えた入江左衛門尉春倫(はるとも)の次男・駿河守春則(はるのり)が、宗光の娘婿となって高槻城を継承したとされる。熊本藩細川家に仕えた入江氏が伝える系図によれば、高槻入江氏は源満政(みつまさ)を祖とし、5代・相模守重時(しげとき)の註に「源義朝(よしとも)に従って右馬大夫入道と号す、駿河国入江荘に住する故に入江を以て氏とす」と記されている。観応元年(1350年)から始まる観応の擾乱に際して、入江春倫・春則父子は尊氏方に属し、文和元年(1352年)武蔵野合戦において春倫が戦死している。室町時代から戦国時代にかけて、入江氏は高槻一帯を支配した。『細川両家記』の大永7年(1527年)の記事に「高槻入江城」とあり、この頃は高槻入江城と呼ばれていた事が分かる。阿波で細川高国(たかくに)に挙兵した三好元長(もとなが)らは、和泉国堺(大阪府堺市)から摂津国中島(大阪市淀川区)に進軍、これに連携した丹波の波多野元清(はたのもときよ)・柳本賢治(やなぎもとかたはる)兄弟が、摂津守護代・薬師寺国長(やくしじくになが)の守備する山城山崎城(京都府乙訓郡大山崎町)を攻撃、敗走した薬師寺氏は高槻入江城に逃げ込んだという。これが高槻城の文献上の初見である。細川氏が衰え、三好長慶(ながよし)が台頭すると、入江氏は三好氏に従った。天文18年(1549年)三好長慶に擁立された細川氏綱(うじつな)と細川晴元(はるもと)の戦いに、入江駿河守春正(はるまさ)は嫡子の元秀(もとひで)を氏綱方として参戦させている。戦いは氏綱方の勝利となり、氏綱が管領になると春正は在京して氏綱に仕えたという。入江春正の跡はこの左近将監元秀が継いでいる。永禄7年(1564年)三好長慶が急逝すると、北摂は三好三人衆の筆頭・三好長逸(ながやす)が支配した。永禄11年(1568年)織田信長が足利義昭(よしあき)を奉じて上洛すると、入江元秀は義昭の陣に参じて所領を安堵された。信長は摂津に出陣して抵抗する三好党を掃討し、和田惟政(これまさ)、池田勝正(かつまさ)、伊丹親興(いたみちかおき)を摂津守護に任じて(摂津三守護)、摂津の支配に当たらせた。翌永禄12年(1569年)三好三人衆は15代将軍・足利義昭の住む京都六条堀川の本圀寺を襲撃、この事態に池田勝正と伊丹親興は3千余騎の兵を率いて義昭の救援に向かった。この時、高槻の入江元秀は三好三人衆に寝返って、池田・伊丹勢を迎撃するため5百余騎の兵を率いて出陣、西国街道で阻んだ。池田・伊丹勢は入江勢との戦闘を避けて迂回したため、元秀はこれを追撃した。ところが、池田勝正、池田周防守、荒木摂津守村重(むらしげ)らが反転して突撃して来た。その勢いに呑まれた元秀は兵を退いて高槻城に籠城したという。岐阜にいた信長は電撃的に入京しており、その軍勢は8万に及んだ。当然、三好三人衆は撤退して姿を消した。入江元秀は高槻城を包囲されることになり、信長に降服したが許されず、京都で自害させられる。
この本圀寺の変で城主不在となった高槻城は、三好三人衆との戦いで功のあった芥川山城主・和田伊賀守惟政に与えられた。摂津守護の惟政は北摂の統治を担当、島上・島下郡の2郡を管轄した。惟政の家臣には高山飛騨守・彦五郎父子がおり、惟政が高槻城に拠点を移すと、高山飛騨守に芥川山城(高槻市原)を預けた。高山父子は、永禄7年(1564年)にキリシタンの洗礼を受けており、洗礼名は飛騨守がダリヨ、彦五郎がジュストである。このジュストとは、キリシタン大名として世界的に有名な高山右近のことである。高山氏は宇多天皇の皇子・敦実親王を祖する地頭職の家柄で、父・飛騨守は、元々は三好氏の家宰として京都の実権を握っていた松永弾正久秀(ひさひで)の与力であった。松永久秀は熱心な法華信徒であり、キリスト教が邪宗であることを示すため、永禄6年(1563年)結城忠正(ただまさ)、清原枝賢(しげかた)、高山飛騨守に命じて、奈良で盲目の修道士・ロレンソ了斎(りょうさい)に宗論を持ちかけた。初めは嘲笑して悪意に満ちた3人だったが、数日間におよぶ激しい論争の末、ついにロレンソに論破され、キリスト教を受け入れるに至った。結城氏・清原氏はすぐさま受洗、飛騨守も神父を招いて一族・家臣150人で受洗した。反キリシタンの3人が揃って入信したので京都では大きな波紋を呼んだ。元亀2年(1571年)荒木村重は、中川清秀(きよひで)らを誘って主君である池田勝正を追放し、三好三人衆と結んだ。このため、足利義昭・織田信長方の和田惟政、茨木重朝(いばらきしげとも)の軍勢500騎が出撃して、荒木村重、中川清秀の2500騎と激突、この白井河原の戦いで和田惟政は中川清秀に討ち取られ、茨木重朝も戦死、大将を2人とも失った和田・茨木連合軍は壊滅した。和田惟政の跡は嫡子・惟長(これなが)が継ぐ。『兼見卿記』によると、元亀4年(1573年)和田惟長は、家中で信望を集めつつあった高山飛騨守・右近父子の暗殺を計画、高槻城の天主で斬り合いとなり、惟長は深手を負って逃亡した。この時、右近も首を半分ほど切断されるという瀕死の重傷を負うが、奇跡的に回復している。高槻城は高山飛騨守が城主となり、翌年には嫡子・右近に高槻城を譲っている。なお、和田氏時代の高槻城の「天主」の記録は、足利義昭の山城二条古城(京都府京都市)、明智光秀(みつひで)の近江坂本城(滋賀県大津市)に続く日本で3番目に古い事例になっている。ルイス・フロイスの書簡や『兼見卿記』には、この高山飛騨守・右近父子によって和田惟長が追放されるという政変劇に際して高槻城が炎上したと伝えている。ルイス・フロイスの書簡に「(炎上のため)城には門の上に在る稜堡二ヶ所及び小塔一ヶ所の外存せず」とあり、城内は櫓2か所と小塔1か所を残すだけになるほど大きな被害であったことが分かる。一方、荒木村重は、元亀4年(1573年)に信長へ臣従しており、摂津の支配も認められた。高山右近は摂津の旗頭である荒木村重に属して、高槻城主として4万石を領した。宣教師の記録によれば、高槻城下には花々が咲き誇る教会を建設し、貧者の葬儀では高山父子が棺を担ぎ周囲を驚かせた。城内にあった牛頭天王社(野見神社)は破壊され、社領は没収されたといい、その場所に高槻天主教会堂が建てられたと推定される。教会に隣接した27基のキリシタン墓地も発掘されている。教会に接する二ノ丸跡では、高山右近時代の内堀跡が発掘されている。長さ約140m、幅約16m、深さ約4mの規模を持ち、鉤の手に屈曲して、土塁の基底部には石垣を築いていた。また、近畿地方で最古級の障子堀だったことも判明している。
天正6年(1578年)荒木村重が突如として織田家から離反した。高山右近は再考を促したが村重の意志は固く、やむなく助力を決断している。荒木村重は本城の有岡城(兵庫県伊丹市)に籠城し、高山右近は高槻城に籠城して織田軍と対峙した。この時、ジョアン・フランシスコの『耶蘇会士日本通信』によると「(高槻城が)水の充ちたる広大な堀と周囲の城壁に依り陥ること能わざる」であったという。すなわち高山右近は、天正6年(1578年)までに焼失した高槻城を再建していたことが分かる。一方、信長は宣教師のオルガンチノを使者として、すぐに開城しなければ修道士達を磔(はりつけ)にすると脅した。高槻城内では降伏開城と徹底抗戦で意見が割れ、隠居の高山飛騨守が信長に降伏するなら切腹すると言い出し、オルガンチノを監禁して収拾のつかない状況に陥った。極限状態に達した右近は、領地も家族も全て捨てることを決意、自らの髻(もとどり)を切って紙衣(かみこ)姿になり、オルガンチノを解放して単身投降した。この潔さに感じ入った信長は、城兵の助命と領地の安堵を約束し、出家を止めるよう右近を説得したという。『信長公記』では、この右近の姿を「伴天連沙弥(ばてれんしゃみ)」と表現している。なお、高山飛騨守は有岡城の荒木村重に合流して抵抗を続け、織田軍に捕縛されると、右近の助命嘆願により柴田勝家(かついえ)預かりとなって越前へ送られた。高槻城は高山右近の在城期間に広大な城郭に修築されたといわれている。天正10年(1582年)本能寺の変により近江安土城(滋賀県近江八幡市)が焼失すると、右近は安土セミナリヨ(伴天連神学校)を高槻に移している。現在の野見神社付近にあったとされる。豊臣秀吉の時代になると、右近は高槻城下に20を超える教会を建設して「きりしたんの大旦那」と呼ばれた。当時、高槻の人口2万5千人のうち、7割強がキリシタンであったという。高槻はキリスト教布教の一大拠点となっていた。また茶の湯の世界では、右近は千利休(せんのりきゅう)の弟子「利休七哲」の一人にも数えられた。天正13年(1585年)高山右近は播磨船上城(兵庫県明石市)に転封となり、高槻城は豊臣家の直轄領となった。羽柴小吉秀勝(ひでかつ)が城主となるが、同年末には丹波亀山城(京都府亀岡市)へ移った。その後、高槻城は豊臣家の代官統治が続くが、文禄4年(1595年)新庄直頼(しんじょうなおより)が3万石で城主となる。しかし、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍に応じたため徳川家の直轄領となり、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣で、高槻城は補給基地となって徳川方の勝利に貢献した。大坂の陣で豊臣右大臣家が滅亡すると、摂津・河内・和泉の大部分は江戸幕府の直轄地となり、混乱が残る畿内鎮撫のため、幕府は高槻城に有力な譜代大名を配置した。元和元年(1615年)近江国長浜から内藤信正(のぶまさ)が4万石で入部する。次いで、元和3年(1617年)土岐定義(ときさだよし)が2万石で入部すると、高槻城は公儀修築がおこなわれ、天守が造営されるなど近世城郭に生まれ変わった。元和5年(1619年)三河国形原から松平家信(いえのぶ)が2万石で入部、この時に牛頭天王社が再建された。その後、寛永13年(1636年)から5万石で岡部宣勝(のぶかつ)が、寛永17年(1640年)から3万6千石で松平康信(やすのぶ)が高槻藩主を務めた。そして、慶安2年(1649年)山城国長岡から永井直清(なおきよ)が3万6千石で入部、永井氏が13代続き明治維新を迎えた。明治7年(1874年)京阪間の鉄道建設に際して、石材調達のため高槻城は破却されることになった。(2024.10.19)