彦根市北端に位置する佐和山城跡は、南北約4kmに渡って連なる佐和山丘陵の南側に存在する。往時、東麓には東山道が南北に縦貫しており、東山道から分かれて佐和山城の北端にかもう坂通り往還(龍潭寺越え)、南端に彦根道(朝鮮人街道)が東西に横断していた。また、現在は埋め立てられているが、佐和山城の西麓には松原内湖が広がっており、清涼寺(彦根市古沢町)の門前まで湖水が湛えられ、北方にも入江内湖が広がっていた。石田三成(みつなり)の時代に最大規模となり、佐和山丘陵の最高所である佐和山(標高233m)の山頂に本丸を置き、尾根筋に二の丸、三の丸、西の丸、太鼓丸、法華丸などの曲輪が連なる連郭式山城であった。山下には東麓の東山道に面して大手門を開き、2重に巡らされた水堀の内には侍屋敷、足軽屋敷、町屋などの城下町が建設された。また、琵琶湖に面した西麓にも侍屋敷や米蔵、松原湊に繋がる百間橋が敷設されていたことが『佐和山城絵図』から読み取れる。山頂の本丸は、東西約100m、南北約45mの規模であった。享保12年(1727年)彦根藩普請方が佐和山城についての聞き取りをおこなった『古城御山往昔咄聞集書』に「石田治部少輔殿城郭天守普請」「本丸之上石垣壱丈五尺其上に五重の天守」と記されている。また「本丸之天守茂只今之より高ク御拝領之後御切落シ被遊候由、九間御切落とも云又七間とも申候実説相知レかたく」とも記されており、井伊家の破城により天守台を9間(約18m)もしくは7間(約14m)切り落としたとされる。佐和山城は徹底的に破壊されたが、近年の調査で本丸を囲む土塁や虎口、櫓跡と思われる遺構などが確認されている。現況から本丸の天守は東側にあったと想定される。本丸跡を大手方面に下ると、岩盤上に僅かに残る本丸隅石垣の基底部を確認することができる。石垣は2段しか残存していないが、巨大な切石を用いた算木積みの隅石である。往時は高さ10mにおよぶ本丸東壁であったと考えられる。本丸の外周では、このような石垣の基底部が7か所で残存している。本丸の北側斜面には栗石とともに多量の瓦片が散乱しており、これらから総石垣造りの本丸には瓦葺建物が存在していたことは間違いない。本丸の南東側に一段下がった削平地が月見櫓跡である。本丸の南西側の山腹には千貫井という井戸が穿たれている。山城の井戸は千貫にも値する貴重な水源であった。二の丸と三の丸は山頂から北東に延びる尾根に築かれる。有事の際、二の丸は三成の次兄・石田正澄(まさずみ)が守備し、三の丸は重臣・島左近が守備することになっていた。二の丸と西の丸に挟まれた谷筋を水の手といい、谷を堰き止めるように両尾根から竪土塁が延びている。三の丸の北側、奥の谷の山側には、馬冷池という溜池がある。西の丸曲輪群は、現在の龍潭寺(彦根市古沢町)のある搦手口(かもう坂通り往還)を見下ろす位置にある。『佐和山古図』には、西の丸に南北方向に3段の曲輪が描かれ、上段に「焔硝櫓」、下段に「塩櫓」と記される。ただ、現在は下段を塩硝櫓と通称しており、名称の混乱が見られる。その下段曲輪から、地下室を備えた瓦葺建物の遺構が見つかっている。本丸から南へ派生する尾根は、北東部と南西部に分岐する。この北東部の尾根上に設けられた曲輪群が太鼓丸で、千畳敷と呼ばれる城内最大の曲輪がある。大手口からの正式な登城路はこの太鼓丸に入り、本丸へ至るものであったと推定される。そして、南西部の尾根上に法華丸があり、浅井氏時代には法華宗の祈祷所があったので法華丸という。現在の妙源寺(彦根市河原)と蓮成寺(彦根市栄町)はこの法華丸から移したものと伝わる。
旧東山道側に展開する大手口には、谷筋を堰き止めるように幅約13m、高さ約2m、総延長約165mの巨大な土塁が巡っており、中央に開口する虎口が大手門跡である。宗安寺(彦根市本町)の赤門は、佐和山城の大手門を移築したものと伝わる。大手門跡から佐和山に向かうあぜ道は、当時の大手道がそのまま残ったものという。大手土塁の外側には幅22mの内堀が存在し、現在の佐和山東麓に流れるおまん川が内堀の痕跡とされる。そこから城下町を挟んでさらに東に外堀があり、現在の小野川が外堀の痕跡とされる。発掘調査により、文禄5年(1596年)の石田三成による「佐和山惣構御普請」で設けられたとされる大規模な外堀跡の一部が見つかっている。城下町の大通りである百々町筋と本町筋は田んぼのあぜ道として残る。龍潭寺、妙源寺、高源寺(多賀町)の山門は佐和山城の移築城門である。佐和山城の築城時期は定かでないが、鎌倉時代初期に佐々木定綱(さだつな)の六男・佐保六郎時綱(ときつな)が佐和山の麓に館を構えたのが始まりと伝えられる。その後、佐々木氏は江南の六角氏と江北の京極氏に分かれて勢力を拡大、坂田郡の佐和山城は犬上郡との郡境に近く、言い換えれば江北と江南の中間にあって、両勢力の境目の城であった。戦国時代に入ると、江北では京極氏に代わって浅井氏が台頭し、六角氏・京極氏・浅井氏の三つ巴の争いが佐和山城を中心に繰り広げられたが、長くは六角氏の城として機能した。浅井久政(ひさまさ)は六角氏に従属していたが、永禄2年(1559年)家督を継いだ浅井長政(ながまさ)が六角氏から独立して佐和山城を奪った。そして、百々(どど)内蔵介を佐和山城代として六角氏と対峙した。しかし、永禄4年(1561年)六角義賢(よしかた)が佐和山城を急襲し、城代の百々内蔵助は討死した。この戦いには伊賀流忍術の名人である楯岡ノ道順こと伊賀崎道順(いがのさきどうじゅん)が関わっていた。道順は妖者(ばけもの)の術を使い、伊賀・甲賀の48人を率いて佐和山城に忍び込み、城内に火をかけ混乱させて落としたといい、難攻不落の城も「伊賀崎入れば落ちにけるかな」といわれた。救援に駆け付けた浅井長政が佐和山城を奪還すると、磯野丹波守員昌(かずまさ)を城主として配置している。永禄10年(1567年)美濃を平定した織田信長は、浅井長政に妹・お市(いち)を嫁がせて姻戚関係を築く。永禄11年(1568年)足利義昭(よしあき)を奉じての上洛戦を控えた信長は、磯野員昌の佐和山城に7日間滞在し、上洛のための江南の通行について六角氏と交渉している。しかし、三好三人衆と通じていた六角義賢は応じず、交渉は決裂した。美濃国岐阜を発った信長は、6万の軍勢を率いて六角氏を撃破して上洛を果たし、義昭を室町幕府15代将軍に就任させた。ところが、元亀元年(1570年)4月、浅井長政が反旗を翻し、越前で朝倉氏と交戦中の信長に襲い掛かった。いわゆる元亀争乱の始まりである。金ヶ崎の退き口を経て、体勢を立て直した織田・徳川連合軍は、同年6月の姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍と激突した。この時、浅井軍の先鋒・磯野員昌の率いる精鋭部隊が、織田軍の先鋒・坂井政尚(まさひさ)、続く池田恒興(つねおき)、木下秀吉、柴田勝家(かついえ)の陣を次々に突破、13段備えのうち11段までを撃破する猛攻を見せた。しかし、朝倉軍を破った徳川軍の救援もあり、浅井軍は総崩れとなり撤退した。この猛将・磯野員昌の織田本陣に迫る攻撃は「姉川の十一段崩し」という逸話として残る。浅井・朝倉連合軍を破った織田軍は、横山城(長浜市村居田)を奪取して、木下秀吉を城番に置いた。
横山城を攻略された浅井氏は、領国が南北に分断してしまい、磯野員昌の佐和山城は孤立した。『嶋記録』には磯野氏とともに嶋氏、河口氏、井戸村氏など、坂田郡の土豪たちも籠城していたことが記されている。信長は佐和山城に対して、東の鳥居本に丹羽長秀(ながひで)、北の物生山に市橋長利(ながとし)、南の里根山には水野信元(のぶもと)、西の彦根山に河尻秀隆(ひでたか)を布陣させた。『信長公記』には「七月朔日(さくじつ)、佐和山ヘ御馬を寄せられ、取詰め、鹿垣(ししがき)結はせられ、東百々屋敷御取出(とりで)仰付けられ、丹羽五郎左衛門置かれ、北の山(物生山)に市橋九郎右衛門、南の山(里根山)に水野下野、西彦根山に河尻与兵衛、四方より取詰めさせ諸口の通路をとめ」とあり、佐和山城の周囲に取出(付城)と鹿垣(柵列)を構築しての包囲戦であった。横山城の木下秀吉は磯野氏内通の流言を広め、浅井氏からの物資の補給を途絶えさせた。磯野員昌は佐和山城に3千余の城兵で籠城して約8か月に渡り抵抗を続けたが、元亀2年(1571年)信長に降伏している。信長は佐和山城に城代として丹羽長秀を配した。安土城(近江八幡市)の築城までの間、佐和山城が岐阜と京都の中継地という機能を持ち、信長は頻繁に利用している。元亀4年(1573年)5月には信長が佐和山城へ赴き、全長30間、幅7間、櫓百挺の大型軍船を建造するため、2か月間も在城している。領民はこの見たことのない軍船の巨大さに驚いたという。天正10年(1582年)本能寺の変が起こると、丹羽長秀は摂津国大坂に居たため、明智光秀(みつひで)に通じた若狭の武田元明(もとあき)が佐和山城を攻め落としており、明智方の荒木氏綱(うじつな)が佐和山城に入城した。しかし、光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉・丹羽長秀らに敗れ、この報に接した荒木氏は丹波に逃れて、丹羽長秀が佐和山城を回復している。同年の清洲会議の結果、堀久太郎秀政(ひでまさ)が9万石で佐和山城主となった。天正13年(1585年)堀秀政が佐和山16万石から越前国北ノ庄18万石へ転封になると、代わって羽柴秀次(ひでつぐ)が蒲生・野洲・甲賀・坂田・浅井郡などに43万石で入封し、佐和山城には5人の宿老のひとりである堀尾吉晴(よしはる)が4万石で入城した。天正18年(1590年)豊臣秀吉が小田原征伐で北条氏を滅ぼして天下統一を果たすと、豊臣秀次は尾張国・伊勢国北部5郡など100万石で転封し、空いた近江の所領は豊臣家の蔵入地となった。天正19年(1591年)秀吉は豊臣家の蔵入地代官として石田三成を佐和山城代に命じた。そして、文禄4年(1595年)豊臣秀次が高野山で自害した後、三成に北近江4郡(犬上・坂田・浅井・伊香)19万4千石が与えられ、城代から城主へと昇格した。三成は佐和山城を総石垣造りに大改修して、本丸に5層天守を築いた。また、佐和山西麓の「モチノ木谷」という谷筋に石田三成屋敷が存在したという伝承から、大手が東麓から西麓に変えられた可能性もあるという。当時の落首に「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と唄われたほど、佐和山城は質素であるが立派なものであった。ただし、三成は豊臣政権の中枢で忙殺され、ほとんど佐和山城にはおらず、領国経営の実務は父・石田正継(まさつぐ)が務めた。天正2年(1574年)の長浜城主になったばかりの秀吉は、鷹狩に出かけた際に休息のため寺に立ち寄った。すると、坂田郡石田村(長浜市石田町)の地侍の三男・佐吉こと三成がその寺で修学しており、気の利いた淹れ方で三杯の茶を出し、秀吉は気に入って近習に取り立てたという。いわゆる「三献の茶」の逸話である。
秀吉の側近として台頭した三成は、天正13年(1585年)秀吉の関白就任に伴い、従五位下・治部少輔に叙任される。慶長3年(1598年)豊臣秀吉の死後、五奉行筆頭の三成は主家を守るために奔走し、慶長5年(1600年)徳川家康との対決におよぶ。この関ヶ原の戦いでは、正午過ぎに西軍諸隊が潰走を始め、約6千の石田三成隊が壊滅すると、三成は再起を図って戦場を脱出した。関ヶ原本戦から2日後、関ヶ原の寝返り組を主力とする1万5千の軍勢が佐和山城を包囲した。このとき佐和山城には石田正継を主将に2千8百余が籠城していたが、その多くは老兵か若兵であった。本丸は石田正継・正澄父子、正澄の長男・右近朝成(ともなり)、三成の義父・宇多頼忠(うだよりただ)と義兄・宇多頼重(よりしげ)、土田桃雲(どたとううん)、福島次郎作、尾藤善四郎、大坂からの援軍である赤松左兵衛、長谷川宇兵衛などが守備を固めた。また、二の丸には石田養寿院、西の丸には河瀬織部、太鼓丸には番頭格の山田上野介・隼人父子を配置した。包囲する東軍は、大手から小早川秀秋(ひであき)、脇坂安治(やすはる)、小川祐忠(すけただ)、朽木元綱(もとつな)、水の手から田中吉政(よしまさ)、松原内湖側の松原口から石川雅楽助、彦根道(太鼓丸下)より石川民部がそれぞれ攻撃を仕掛けた。徳川家康は佐和山の南側にある正法寺山に陣を置いたとされる。寡兵であったが佐和山城の守備は固く、執拗な攻撃によく耐えたが、太鼓丸の長谷川宇兵衛が東軍に内通して城内に小早川秀秋隊を引き入れたため形勢は一気に東軍に傾いた。精鋭を欠く石田勢の中で一人気を吐いたのは福島次郎作という老兵であった。弓の名手である次郎作は、攻め寄せる敵兵に次々と矢を命中させ、矢が尽きると山田嘉十郎の名が刻印された矢を用いて防戦を続けた。このため東軍では、城内に山田嘉十郎という恐ろしい射手がいると評判になったが、当の嘉十郎は既に逃亡していた。次郎作は焔硝櫓に火をかけて敵兵の足止めをして、大洞の経堂で自害したという。佐和山城は本丸を残して陥落、正継は石田一族の自刃と引き換えに、城内の者の助命を条件として降伏勧告を受け入れた。ところが翌日の開城を前に、田中吉政隊が城内に乱入して殺戮を始めた。石田正継・正澄・朝成と、宇多頼忠・頼重父子は天守で自害を遂げ、土田桃雲が三成の妻子を刺し殺し、石田一族の屍を集めて天守に火を放って殉死した。逃げ場を失った多くの婦女子が谷に身を投げたといわれる。この場所は女郎谷と呼ばれ、死にきれなかった者たちの苦痛な呻き声が三日三晩も続いたという。一方、越前を目指して敗走する三成は、伊香郡の山深い大蛇(おとち)の岩窟(長浜市木之本町古橋)にひとり身を隠した。「おとち」とはオロチの転訛である。ここ古橋の集落は三成の母の出身地で、この地の法華寺が「三献の茶」の舞台との説もある。しかし、関ヶ原本戦の6日後、三成はこの岩窟で田中吉政に捕縛された。石田三成は小西行長(ゆきなが)や安国寺恵瓊(えけい)とともに六条河原まで引き回され、敗軍の将として斬首に処された。論功行賞により井伊直政(なおまさ)に佐和山18万石が与えられた。直政が佐和山城に入城すると、二の丸には家老・木俣守勝(もりかつ)、三の丸には中野越後が詰めた。ところが直政は、関ヶ原で受けた鉄砲傷が悪化して佐和山城で死去する。慶長9年(1604年)佐和山城の西方約2qの彦根山において、長男・井伊直継(なおつぐ)による築城工事が始まった。その際、佐和山城は破城され、石垣や建物の多くがこの彦根城(彦根市金亀町)へと運ばれた。こうして佐和山城は廃城となる。(2026.02.15)