佐土原城(さどわらじょう)

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野戦で3人もの大名を討ち取った戦上手、島津四兄弟の末弟・島津家久の居城

復元された書院と奥の大広間
復元された書院と奥の大広間

佐土原藩の藩庁である佐土原城は、宮崎県中部を東西に流れる一ツ瀬川と支流・三財川の合流地点の南西にある鶴松山(かくしょうざん)に築城された山城である。本丸などの山上部と、二の丸の山麓部から成り立っている。山上部は、馬蹄形を呈する丘陵を巧みに利用しており、大きく分類して本丸・南の城・松尾丸の曲輪で構成される。標高70mとなる鶴松山の山頂に本丸があり、山頂から北に向かって連続する3段の曲輪で構成される。南の城は本丸の南東側の曲輪で、標高68mとなる。松尾丸は最南端の離れた曲輪で、標高58mとなる。本丸中段の北側には、石垣造りの天守台跡が残されており、『天正年中佐土原絵図』に描かれた3層天守の遺構と考えられている。かつて「南九州の城には天守は存在しない」と考えられていたが、平成8年(1996年)の発掘調査で10m×12mの天守台跡と金箔鯱瓦の破片が見つかり、佐土原城には日本最南端の天守が存在したことが確実となった。天守の建造時期は不明で、伊東氏全盛期にあたる伊東義祐(よしすけ)の時代という説に始まり、江戸時代に入ってからの佐土原藩時代という説まである。この天守台は石積みの特徴などから、慶長年間(1596-1615年)後半のものと推測される。一方の金箔鯱瓦は、全国各地で豊臣大名の居城跡から多く出土していることが知られるため、豊臣家が権力の座にあった島津豊久(とよひさ)時代の天守に使用されたものとの説もある。そうなると天守台の時期とは異なるが、この天守台が構築される以前に、既に天守が存在していた可能性もある。本丸上段の西側の曲輪と南の丸の奥には櫓台跡も残る。主な曲輪のうち、本丸上段、本丸中段、南の城の3箇所に枡形虎口跡が認められる。一方、松尾丸は直線的に入る平虎口で、佐土原城が発展していく過程による時代的な差異が見られる。佐土原藩の2代藩主・島津忠興(ただおき)の時代に、山麓部に二の丸御殿を建てて藩庁とした。これは明治3年(1870年)に破却され、建物の絵図等は残っていないが、平成5年(1993年)発掘調査による遺構の柱穴や礎石に基づいて、寛永期の武家屋敷の木割りで二の丸御殿の一部が復元された。復元された二の丸御殿は、大広間、書院、数寄屋から構成される。これらは佐土原歴史資料館の鶴松館として公開されている。二の丸御殿跡からは14世紀から19世紀にかけての陶磁器や瓦などが出土していることから、室町時代から戦国時代にかけて山麓居館として機能していたことが分かる。鶴松館の近隣にある出土文化財管理センターのある場所は御普請所があったところである。また二の丸跡からは、堀底の幅が約15mの堀跡や井戸なども確認された。北東側には宝塔山があり、防御線を形成するものであったと考えられる。佐土原は、日向五郡のうち那珂郡に属した。那珂郡は、田島(たじま)、新名(にいな)、夜開(やけ)、於部(おごおり)の4郷からなり、田島は佐土原、新名は新名爪(にいなづめ)、夜開は新富、於部は高鍋あたりと考えられている。平安時代中期に編纂された『延喜式』の「諸国駅伝馬」にある日向十六駅の当麻(たいま)とは、「たじま」が転化したもので田島郷のことである。この田島郷を開発したのは宇佐八幡宮(大分県宇佐市)であり、寛治7年(1093年)宇佐八幡宮の荘園として田島庄が成立した。建久元年(1190年)鎌倉幕府御家人の工藤祐経(すけつね)は、源頼朝(よりとも)より日向に地頭職を賜った。それは、縣庄80町、田島庄30町、富田庄80町、諸県庄300町、児湯郡のうち240町という広大なものであった。しかし、祐経は日向に下向せず、所領には庶子を代官として派遣した。

建久4年(1193年)富士の巻狩りの際、工藤祐経は曾我十郎祐成(すけなり)・五郎時致(ときむね)兄弟に討たれた。『曽我物語』で知られる日本三大仇討ちのひとつ「曾我兄弟の仇討ち」である。祐経の跡は嫡男の祐時(すけとき)が継ぎ、曾我兄弟の祖父・伊東祐親(すけちか)に横領されていた伊豆国伊東荘を取り戻して、伊東氏を名乗った。伊東祐時の子らは各地の所領を分与され、多くの庶子家が生まれた。日向では、七男・祐景(すけかげ)が富田庄と縣庄門川を領して門川伊東氏を、八男・祐頼(すけより)が諸県郡木脇および八代を領して木脇伊東氏を称し、建長4年(1252年)前後に田島庄に下向した四男・祐明(すけあき)が田島伊東氏を称した。古文書によると、田島伊東氏の4代当主・祐聡(すけふさ)や5代当主・祐直(すけなお)が国府留守所役になっており、役職にふさわしい権力を持っていたと考えられる。建武2年(1335年)足利尊氏(たかうじ)から児湯郡都於郡300町を与えられた惣領家の伊東祐持(すけもち)が鎌倉から日向に下向、都於郡城(西都市)を築いて本拠にした。一方、佐土原城の前身となる田島城は、都於郡城の惣領家との抗争のなかで、14世紀半ば頃に田島伊東氏の8代当主・田島休祐(きゅうすけ)によって鶴松山に築城されたといわれる。この当時の城構えは、のちに松尾丸と呼ばれる部分のみであったと考えられている。日向国内で勢力を伸ばしていた伊東惣領家の5代当主・祐尭(すけたか)は、弟である祐賀(すけよし)を田島休祐に婿入りさせた。休祐は婚姻の前に急死しており、応永34年(1427年)娘婿として田島城に入った祐賀は田島一族を放逐、城を奪って佐土原氏を名乗った。こうして田島城は佐土原城と呼ばれるようになった。文明12年(1480年)伊東祐尭の嫡子・祐国(すけくに)が、形式的に佐土原祐賀の養子となり、惣領家の6代当主を継いだ。こうして伊東氏が正式に佐土原城を支配することとなった。伊東惣領家はこれよりも先に木脇伊東氏と門川伊東氏を滅ぼしたり従属させているので、伊東祐国の代で日向における伊東氏の分家は一掃された。文明17年(1485年)飫肥城(日南市)攻めで祐国が戦死すると、伊東氏の家督をめぐる内部抗争が繰り返されるが、天文5年(1536年)に伊東義祐が11代当主を継承し、伊東氏の本城である都於郡城ではなく佐土原城に入城している。天文6年(1537年)失火により佐土原城が焼失したため、義祐は宮崎城(宮崎市池内町)に移るが、天文11年(1542年)から翌年にかけて鶴松山に新たな城を築いて鶴松(かくしょう)城と名付け、通称として佐土原城とも呼ばれた。のちに南の城と呼ばれる部分で、それまでの城地も再利用され、松尾の城または高尾の城と呼ばれた。南九州では、曲輪を「丸」ではなく「城」と呼んだ。永禄年間(1558-70年)頃は義祐の隠居所となり、12代当主となった嫡子・義益(よします)が都於郡城に在城していた。義祐は飫肥城をめぐって島津氏と激しく対立していたが、永禄11年(1568年)ついに飫肥城を奪うことに成功する。これにより日向をほぼ手中に収めるとともに、領内各地に伊東四十八城と呼ばれる支城網を整備して支配体制を固めた。こうした支城網の中心となったのが佐土原城と都於郡城であった。日向国内を安定させたことで京風文化を積極的に取り入れ、本拠である佐土原は文化的に発展していき、九州の小京都と呼ばれる程であった。城下には金閣寺(京都府京都市)を模した金柏(きんぱく)寺(佐土原町上田島)も建てられている。贅沢に溺れた義祐は、武将としての覇気が失われていった。

元亀3年(1572年)島津氏との木崎原(きざきばる)の戦いで大敗北した伊東氏は、これを契機に衰退していく。天正5年(1577年)島津氏の攻勢に耐えられなくなった伊東義祐は、本拠である佐土原を捨てて豊後に逃亡した。翌天正6年(1578年)豊後の大友宗麟(そうりん)は、伊東氏を日向に復帰させるために大軍を率いて攻め寄せるが、この耳川の戦いでも島津氏が勝利した。島津氏が日向を掌握すると、重要拠点である佐土原城には、島津四兄弟の末弟・島津家久(いえひさ)が、天正7年(1579年)に日向方面担当として配置された。佐土原では家久の系統を「前島津」と呼ぶ。勇猛で名を馳せた島津四兄弟であるが、中でも四男・中務大輔家久の武勇は優れており、祖父・日新斎忠良(ただよし)も「家久は軍法戦術に妙を得たり」と評している。家久といえば『中務大輔家久公御上京日記』という自身で記した旅日記が残されており、戦国時代の旅の様子や交流が分かり興味深い。天正3年(1575年)2月20日、家久は当時の居城である薩摩串木野城(鹿児島県いちき串木野市)から家臣を連れて、伊勢神宮(三重県伊勢市)などを巡る上洛の旅に出た。4月21日、家久は大坂から帰陣してきた織田信長の軍勢を京都でたまたま見物した。信長は河内の三好康長(やすなが)や大坂天王寺の三好一党を討った帰路である。まず幟(のぼり)が9本通過し、黄礼薬(黄永楽)という永楽銭の形を紋としている。次に母衣衆の20騎が通過、母衣の色は様々であった。次の馬廻衆は100騎ほどで、家久は織田軍団の派手な軍装に興味を持っている。そして、いよいよ信長が通過するが、毛皮をまとった信長は馬上で居眠りをしていたという。信長の軍勢は17ヶ国から集められ、総勢で何万騎になるか見当も付かないとある。5月15日には明智光秀(みつひで)に招待され近江坂本城(滋賀県大津市)を訪れており、城中で茶会となったが、家久は「茶湯の事不知案内」と白湯(さゆ)を所望した。6月5日には大和多聞山城(奈良県奈良市)の城内を見学して、6月8日に古田織部に下鳥羽まで送ってもらい帰国の途についた。天正12年(1584年)肥前日之江城(長崎県南島原市)の有馬晴信(はるのぶ)が北九州を支配する戦国大名・龍造寺氏から離反、島津氏に援軍要請した。16代当主・島津義久(よしひさ)はこれを受け、「五州二島の太守」と呼ばれた龍造寺隆信(たかのぶ)との対決に踏み切った。龍造寺氏は島津氏・大友氏と九州を三分する大勢力である。肥前国島原への遠征を志願したのは、方面が異なる島津家久だった。家久は八代海を渡り島原半島に上陸、総勢3千余の軍勢である。有馬晴信の軍勢と合わせても5千余だった。対する龍造寺軍は2万5千という大軍である。兵数に劣る家久は一帯の地勢を視察して、肥前森岳城(長崎県島原市)の北方に広がる沖田畷と呼ばれる湿地帯を戦場に想定した。この地は大軍の進退には極めて困難な地形だった。家久はここに龍造寺軍を引きずり込もうと考えたのである。家久は決戦に臨んで場定(ばさだめ)という軍令を発した。それは「持ち場より前進していたら良し、左右にずれたり後退しても正面の敵を撃破していたら良し、それ以外は大将も士卒もすべて死罪」という苛烈なものである。この戦いでは、龍造寺軍が沖田畷の湿地帯に入り込んで動きが鈍ったところを、島津軍の伏兵が襲い、総大将の龍造寺隆信まで討ち取るという大勝利を得た。他に龍造寺四天王のうち木下昌直(まさなお)を除く、江里口信常(えりぐちのぶつね)、成松信勝(のぶかつ)、百武賢兼(ひゃくたけともかね)、円城寺信胤(えんじょうじのぶたね)も討ち取っている。

この伏兵戦術は、島津氏の得意とする「釣り野伏(つりのぶせ)」という三面包囲戦法で、正面の備えが敗走を装い後退すると(釣り)、それを追撃するため敵は前進する。その敵を左右両翼から伏兵に襲わせ(野伏)、正面の備えが反転・逆襲することで三面包囲が完成する。龍造寺氏が島津氏に降伏したことで、島津軍は九州制圧のために北上を続け、追い詰められた大友宗麟は天下統一を進める豊臣秀吉に助けを求めた。天正14年(1586年)10月下旬、豊臣政権の惣無事令を拒絶し、島津軍は肥後口と日向口から豊後に攻め入った。肥後口の大将は島津義弘(よしひろ)、日向口の大将は島津家久である。12月、大野川沿いを下った家久勢は豊後鶴賀城(大分県大分市大字上戸次)を1万8千で包囲した。その頃、大友氏救援のため仙石秀久(ひでひさ)を軍監に、長宗我部元親(もとちか)や十河存保(そごうまさやす)ら四国勢を中核とした豊臣軍の先発隊が豊後府内城(大分県大分市荷揚町)に入っており、その主力6千が鶴賀城の後詰のために出陣してきた。ここに戸次川を挟んで対陣した。戸次川の戦いである。功を焦った仙石秀久は周囲の反対を押し切って渡河、家久は得意の釣り野伏で仙石勢を敗走させた。続いて第二陣の十河存保と長宗我部信親(のぶちか)を包囲して壊滅させている。野戦において龍造寺隆信・長宗我部信親・十河存保と3人もの大名を討ち取った武将は他に例を見ない。家久は類い稀なる戦上手であった。天正15年(1587年)秀吉による九州征伐が始まり、豊臣軍の本隊20万が九州に上陸すると、さすがの島津軍も敗戦が続いた。5月になり佐土原城を包囲した藤堂高虎(たかとら)の説得により家久は降伏・出頭した。家久の軍才を高く評価していた秀吉も家久の帰順を喜び、佐土原城とその周辺の知行を与えると述べている。ところが、豊臣秀長(ひでなが)の本陣から佐土原に戻ってほどなく、家久は急死する。享年41歳であった。あまりに突然の死だったので、島津方では秀長による毒殺説がささやかれた。佐土原城は嫡子・豊久が継いでいる。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、島津豊久は、伯父である島津義弘に従って西軍として参戦した。西軍となった佐土原城は、東軍の伊東氏家臣・稲津重政(いなづしげまさ)の軍勢に攻められたが、留守を守る家臣の知略で撃退している。本戦で西軍が敗れると、島津義弘隊は「島津の退き口」といわれる敵中突破をおこなった。東軍の追撃から「捨て奸(すてがまり)」の戦法で脱出を図り、豊久も義弘を逃すために殿軍となり、井伊直政(なおまさ)隊の槍ぶすまの前に討死した。義弘は薩摩に帰還して家康に謝罪するも、戦後交渉は長期化した。城主を失った佐土原は徳川氏の直轄領となり、家康の家臣である庄田安信(しょうだやすのぶ)が佐土原城番を務めた。慶長8年(1603年)島津氏と家康の戦後交渉が終わり、佐土原3万石は島津以久(ゆきひさ)に与えられることになった。島津宗家の許しを得た以久は、独立した大名となって、佐土原藩の初代藩主になる。以久は、島津氏15代当主・貴久(たかひさ)の弟・忠将(ただまさ)の子で、島津四兄弟の従兄弟にあたる。こちらの系統を「後島津」という。寛永2年(1625年)2代藩主・忠興は、山上部の曲輪を廃止して山下の二の丸に居館を移した。藩政期は、松木騒動・真実講(しんじつこう)・天明の騒動・鴫之口(しぎのくち)騒動等の内紛があったが薩摩藩の力を借りて乗り越えている。明治3年(1870年)藩庁を広瀬に移転したため、佐土原城は破却された。移転先の広瀬城(佐土原町下田島)も廃藩置県のため未完のまま取り壊された。(2015.03.14)

本丸中段に現存する天守台跡
本丸中段に現存する天守台跡

本丸上段に繋がる枡形虎口跡
本丸上段に繋がる枡形虎口跡

南方面の防御となる南の城跡
南方面の防御となる南の城跡

山上部への登城路となる大手道
山上部への登城路となる大手道

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