岡山県の南部中央に位置する岡山市は、旭川が市の中央部を南流して瀬戸内海の児島湾に注いでいる。この旭川の西岸、JR岡山駅の東方に岡山城跡がある。中世において、旭川河口部の広大な沖積平野である大洲原(おおずはら)の中央に「岡山」という丘があり、西隣に「石山」、その北西に「天神山」という丘陵が並んでいた。これら標高20mに満たない3つの丘は、古くから城砦として利用されていた。石山にあった石山城(岡山市北区丸の内)に宇喜多直家(なおいえ)が居城して、のちに嫡子の秀家(ひでいえ)が隣接する岡山に新たな本丸を築き、石山城や天神山を取り込む形で巨大な城郭を築城した。これが岡山城である。本丸の西側に二の丸内郭(西の郭)と西の丸を置き、本丸の南側に二の丸内郭(東南の郭)、それらの南西側に二の丸、さらに西側に三の曲輪、三の曲輪の内、三の外曲輪の内を配置した梯郭式平山城である。南北3.5km、東西1.3kmにおよぶ5重の堀に囲まれた大城郭であった。岡山城の天守は、2層の大入母屋造りの基部に2層の大入母屋造りの基部を乗せ、さらに2層の高楼を重ねた複雑で珍しい構造をしている。初期の天守にみられる「望楼型」という様式で、2層の付櫓(塩蔵)を伴った3層6階の複合式望楼型天守である。外観は、外壁に黒漆塗りの下見板を張った黒い姿をしており、金箔瓦が象徴的であった。下見板張りも初期天守の特徴で、「烏城(うじょう)」や「金烏城」という雅称はこれらに由来する。宇喜多秀家が築いた岡山城天守は、慶長2年(1597年)頃の竣工といわれており、関ヶ原の戦いの前に造営された天守が使われ続ける例は少なかった。岡山城の天守台は、地形に合わせて造られたため不等辺五角形であり、1階平面も天守台のままに五角形であるが、上階にいくにつれて徐々に四角形に修正している。五角形の天守台は全国唯一のものであり、四角形以外の天守台でも、他に八角形の近江安土城(滋賀県近江八幡市)ぐらいしか存在しない。往時、岡山城には天守以外に、35基の櫓、6基の多聞櫓、21棟の城門が存在した。このうち、3層以上の高層櫓が11基もあったという。岡山城の本丸は一二三(ひふみ)の段で構成され、東側の天守が建つ最上段の「本段」、その西側に一段下がった「中の段(表向)」、これら両段を南側から西側に低く取り囲む「下(しも)の段」である。本段には天守の他に、本段御殿、三階櫓(3層)、干飯(ほしいい)櫓(2層)、長屋続櫓(2層)、不明(あかずの)門、六十一雁木(がんぎ)上門(要害門)などがあった。本段は藩主の日常生活の場(勝手方)であり、一般の藩士の出入りは厳しく禁止された。このため、本段と中の段を隔てる不明門は常時閉鎖されていた。本段御殿へ行くには、藩主は廊下門の櫓内部の渡り廊下を使い、御殿勤めの下働きの者は六十一雁木を使用した。中の段は藩主公邸と藩政をおこなう表書院が建ち並ぶ政庁の場(公事方)で、それら表向御殿の他、大納戸(おおなんど)櫓(3層)、伊部(いんべ)櫓(2層)、数寄方(すきかた)櫓(2層)、月見櫓(2層)、小納戸(こなんど)櫓(2層)、廊下門、鉄(くろがね)門などがあった。大納戸櫓は城内最大の櫓で、慶長6年(1601年)小早川秀秋(ひであき)が沼城(岡山市東区沼)の天守を移築したと伝わる。下の段には、花畑御殿、隅櫓(2層)、油蔵櫓(2層)、修覆(しゅうふく)櫓(2層)、太鼓櫓(3層)、舂屋(つきや)櫓(2層)、宍粟(しそう)櫓(3層)、旗櫓(3層)、槍櫓(2層)、弓櫓(2層)、花畑隅櫓(2層)、小作事請(こさくじうけ)旗櫓(2層)、大手門(内下馬門)、馬場口門などがあった。
現在、岡山城跡には2基の現存櫓があり、いずれも国の重要文化財に指定されている。そのひとつが本丸中の段の北西隅に建つ月見櫓である。寛永年間(1615-32年)2代藩主の池田忠雄(ただかつ)が岡山城の改修をおこなった際、本丸搦め手の備えとして築いた隅櫓であった。城外側から見ると2層の望楼型だが、城内側は3層の層塔型に見える構造である。城内側は窓を大きく開け放って月見を楽しむことができるなど、和戦両用の特徴を持つ。この月見櫓は岡山城の中で最も美しい櫓であったという。もうひとつの現存櫓が西の丸西手櫓で、池田輝政(てるまさ)の次男で、岡山藩の初代藩主となった幼年の池田忠継(ただつぐ)に代わって、執政を代行した兄・利隆(としたか)が、慶長8年(1603年)西の丸の防御のために築いたものである。当時の池田家は、本拠地の播磨姫路城(兵庫県姫路市)を築城していたため、この西手櫓は姫路城の建築物と似通っている。池田利隆は石山・西の丸を整備したといわれている。旧内山下小学校(岡山市北区丸の内)の跡地一帯が西の丸にあたり、西手櫓はその西側にある。近年、電車通り沿いのビルが撤去され、城外側からも西手櫓が見えるようになった。明治時代になると、天守を除きほとんどの建物が取り壊され、堀についても内堀の一部を除いてほとんどが埋められた。さらに第二次世界大戦において、昭和20年(1945年)の岡山大空襲により天守、石山門を焼失した。この櫓門形式の石山門は、富山(とみやま)城(岡山市北区矢坂東町)の大手門を移築したものであったと伝わる。昭和41年(1966年)天守・塩蔵が鉄筋コンクリートで再建されると、不明門、廊下門、六十一雁木上門も同時に再建されている。他にも京橋御門が岡山市南区小串の民家に移築され現存している。また、二の丸屋敷の対面所跡に建つ林原美術館の正門は、岡山藩の支藩・生坂(いくさか)藩(倉敷市)の岡山屋敷向屋敷の長屋門を移築したものである。岡山城の前身となる石山城には、南北朝期の上神高直(うえかみたかなお)による築城伝承や、応仁元年(1467年)西備前の松田一族による築城の可能性もあるが史料面で定かではない。通説では在地領主である金光備前(かなみつびぜん)が築いた城砦を起原とし、元亀元年(1570年)2代城主の金光宗高(むねたか)のときに主人である宇喜多直家に謀殺され城を奪われた。直家は毒殺・暗殺・謀殺といった非情な手段を多用した梟雄で、これらの手段を駆使して備前・美作および備中の一部を支配する戦国大名にまでのし上がっている。悪逆暴戻、逆臣、獅子身中の虫、資性奸佞などと悪く呼ばれおり、弟の宇喜多忠家(ただいえ)でさえ兄を恐れて、直家の前に出る時は着衣の下に鎖帷子を用意するほど警戒したという。天正6年(1578年)直家は安芸毛利氏とともに播磨に進出し、織田信長の命により中国地方攻略に乗り出した羽柴秀吉と激戦を展開するが、さすがに信長の勢いにはかなわず、翌年(1579年)毛利氏と手を切って信長の旗下に属している。そして、天正9年(1581年)直家は息子の八郎を秀吉に託して病没した。天正10年(1582年)八郎は秀吉の仲介により、わずか10歳ながら信長から遺領相続を許された。幼少の八郎に代わって叔父の宇喜多忠家が陣代として、秀吉の備中高松城水攻めや、その後の戦いに宇喜多家の総力を挙げて加勢している。八郎が14歳で元服した際、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗った。秀吉の寵遇を受けて、その猶子となり、天正16年(1588年)頃に秀吉の養女の豪姫を正室としている。
豪姫は前田利家(としいえ)の四女で、乳飲み子のときに秀吉がもらい受けて養女とした。八郎と豪姫はねね(北政所)に育てられ、兄妹のような仲であった。秀吉の天下統一戦に従った宇喜多秀家は、秀吉が天下を制すると備前・美作・備中東半国を領国にして57万4千石を知行する大大名となり、それにふさわしい城が必要になった。天正18年(1590年)秀家は秀吉の指導を受けて岡山城の築城を開始、8年の歳月を費やして、慶長2年(1597年)に完成した。西を警戒した城構えのため、本丸の北側と東側の防御が弱い。それを補うために旭川の流れを、岡山の北麓から東麓までを沿うように変更し、天然の外堀としている。秀家は、秀吉の推挙で参議、権中納言に昇り、備前宰相、備前黄門とも呼ばれて、豊臣政権で五大老にも列した。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、西軍の副大将となり、1万7千の軍勢を率いる主力として兒文字の軍旗をなびかせて参戦、東軍先鋒の福島正則(まさのり)隊と激突して死闘を演じた。しかし、この戦いは、秀家と同じく秀吉の猶子であった小早川秀秋の裏切りによって勝敗が決してしまう。1万5千の大軍を率いた西軍の小早川秀秋は、味方の大谷吉継(よしつぐ)の陣へ攻めかかった。この裏切りが東軍の徳川家康に勝利をもたらすことになる。宇喜多秀家隊は壊滅してしまい、秀家は伊吹山中に逃げ込むが、落武者狩りに遭遇してしまう。しかし、落武者狩りの矢野五右衛門は秀家の威に打たれて、42日間も自分の屋敷(岐阜県揖斐郡揖斐川町)に匿った。その後、秀家は大坂の備前屋敷へ移って豪姫と再会、備前屋敷にとどまることが困難になると、薩摩国の島津氏を頼った。島津氏は秀家主従を厚遇するが、徳川家康への配慮から本拠の薩摩鹿児島城(鹿児島県鹿児島市)へ迎え入れることはなく、牛根の平野氏に預けている。秀家は平野氏の上屋敷(鹿児島県垂水市)に2年3か月も潜伏した。そして、島津家が秀家を匿っているという噂が広まり、家康は島津忠恒(ただつね)に秀家を差し出すように迫るが、忠恒は古来より島津家を頼み来た人物を差し出した例はなく、不審を被ることになっても受け入れられないと断った。これを知った秀家は、自分のせいで島津家に害がおよぶのは本意ではないとし、すみやかに出頭することとした。慶長8年(1603年)島津忠恒は秀家の身柄を家康に引き渡すが、このとき秀家の助命を条件としており、豪姫の実家である加賀前田家も助命嘆願した。このため家康は秀家の死罪を免じ、駿河国久能山で2年間の幽閉後、慶長11年(1606年)宇喜多秀家と、長男・孫九郎秀高(ひでたか)、次男・小平次秀継(ひでつぐ)の息子2人を、家来他10人とともに伊豆諸島の八丈島へ流刑とした。こうして宇喜多父子は前田家や旧臣の花房氏の支援を受けながら、八丈島で暮らし続けた。あるとき、広島藩福島家の船が嵐で八丈島へ漂着した。船員が島に上陸した時、みすぼらしい格好の男が現れ、酒を少し分けて欲しいという。不審に思った船員が素性を聞くと、なんと宇喜多秀家と名乗った。気の毒に思った船員は、酒一樽と干魚を置いていった。その報告を聞いた福島正則は「でかした、一樽とはでかしたり!」と膝をたたいて喜んだという。結局、秀家は許されることなく、83歳で没するまで49年間の流刑生活を送っている。秀家の子孫も、明治3年(1870年)に赦免されるまで、八丈島で代々暮らし続けた。慶長5年(1600年)宇喜多秀家に代わって小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として岡山城に入城した。小早川秀秋は、秀吉の正室・ねねの兄である杉原家定(いえさだ)の五男として生まれる。
幼少から秀吉の猶子となるが、文禄元年(1592年)小早川隆景(たかかげ)の養子となり、2年後には隆景の隠居に伴って家督を相続、筑前・肥前国のうち30万7千石を領有していた。秀秋は岡山城の本丸中の段を拡幅して、三の曲輪を拡張、その周囲に外堀を構えた。外堀の構築には領民だけでなく家臣まで動員しており、わずか20日間の突貫工事で完成したため、二十日堀(はつかぼり)と呼ばれた。ところが、慶長7年(1602年)秀秋は移封から1年10か月後に21歳の若さで急死した。関ヶ原の戦いで大谷吉継が自害する際、秀秋の陣に向かって「人面獣心なり、三年の間に祟りをなさん」と叫んで切腹しており、この祟りによって狂乱して死んだという逸話も残されている。小早川家が無嗣断絶により改易されると、慶長8年(1603年)池田忠継が備前国岡山28万石に封じられた。忠継の母は、徳川家康の次女・督姫(とくひめ)なので、忠継は家康の外孫にあたる。このとき、5歳の忠継の城代として、異母兄の池田利隆が岡山城に入っており、忠継は父・輝政の姫路城に留まった。慶長18年(1613年)池田輝政が死去すると、家督は長男の利隆が継ぎ、忠継には西播磨10万石が分与され、慶長19年(1614年)16歳で初めて岡山城に入った。同年の大坂冬の陣では徳川方として参戦したが、翌慶長20年(1615年)に岡山城で病没した。忠継に子はなく、同母弟の忠雄が跡を継いだ。忠継の若すぎる死には、次のような伝承が残っている。忠継の母・督姫が、実子の忠継を姫路城主にすべく、利隆の暗殺を企てた。岡山城内で利隆が忠継と対面した際、督姫は饅頭に毒を盛って利隆に勧めた。これを察した忠継は、利隆の毒入り饅頭を奪い取って食べ、利隆の代わりに死んだ。これには督姫も恥じ、自分も毒入り饅頭を食べて死んだという。ちなみに督姫は、関八州を治めていた北条氏直(うじなお)の正室であったが、氏直の死後に豊臣秀吉の計らいで池田輝政に嫁いでいた。2代藩主の池田忠雄は、もとは洲本藩6万石を治めていたが、元和元年(1615年)忠継の遺領38万石のうち10万石を3人の弟・輝澄(てるずみ)、政綱(まさつな)、輝興(てるおき)に分与し、自身は備前国28万石に備中国南部の3万5千余石を加えた31万5千余石を相続して岡山藩に入った。以後、岡山藩の石高は幕末まで変わることなかった。備前一国と備中4郡を領した忠雄は、岡山城と城下町の整備した。寛永9年(1632年)忠雄が31歳で死去すると、長男・光仲(みつなか)が継ぐが、幼少のため因幡国鳥取に移封された。入れ替わりで、鳥取から池田光政(みつまさ)が入封した。光政は池田利隆の長男である。以後、明治維新まで光政の家系(池田宗家)が岡山藩を治める。この頃、宇喜多秀家時代に岡山城の防備のため旭川の流路を不自然に変えた事が原因となり、たびたび甚大な水害を引き起こしていた。寛文6年(1669年)から貞享3年(1686年)にかけて、旭川の氾濫から岡山城下を守るため、池田光政の命により放水路として百間川が開削された。そして、元禄13年(1700年)光政の子・池田綱政(つなまさ)のとき、岡山城から旭川を隔てた対岸に後楽園が築庭された。当時は岡山城の後ろに作られた園として御後園と呼ばれた。非城郭施設ながらも周囲を土塁と竹垣で囲み、外郭としての役目を果たすことのできる曲輪が庭園として合法的に造成している。特別名勝・岡山後楽園は、兼六園(石川県金沢市)、偕楽園(茨城県水戸市)とともに、日本三名園として並び称される大名庭園である。明治6年(1873年)の廃城令により、岡山城の天守・月見櫓・西手櫓・石山門を除く建物は順次取り壊された。(2016.09.26)