根城(ねじょう)

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元弘の変から南北朝の統一まで勤皇を貫き通した根城南部氏の19代300年の居城

本丸中心に構える根城の主殿
本丸中心に構える根城の主殿

根城跡は八戸市街地の西端にあり、馬淵(まべち)川南岸の河岸段丘上に存在する。本丸の北東側に中館(なかだて)と東善寺館、国道を挟んで南東側に岡前館と沢里館の5つの館(8つの曲輪)を配置した連郭式の平山城である。東善寺館、岡前館の東側から沢里館にかけて三番堀が巡らされ、本丸の西側に西ノ沢、北側の馬淵川が天然の外堀となる。昭和16年(1941年)根城跡は国指定史跡となり、昭和53年(1978年)から11年間におよぶ発掘調査と、その成果に基づく9年間の復元整備によって中世城郭が出現している。調査では、掘立柱建物跡が354棟、竪穴式建物跡が82棟をはじめ門、塀、柵跡など多数が見つかった。根城は大規模な建て替えだけで16回おこなわれており、17の時期に分けることができる。史跡の主要部分は、平成6年(1994年)に史跡公園として整備されており、本丸跡の復元は、建物跡がもっとも良好に残っている第16期(安土桃山時代)を対象におこなわれた。当時の根城の城主は、根城南部氏18代当主の政栄(まさよし)や19代当主の直栄(なおよし)の頃に該当する。現在、館跡の礎石、曲輪、空堀、土塁が遺構として認められ、本丸には主殿を中心に板蔵(いたくら)、上馬屋(かみのうまや)、中馬屋、工房、鍛冶工房、納屋、番所(ばんどこ)、東門、北門、西門、野鍛冶場、木橋などが建つ。これらは、発掘調査による建物跡や出土品に基づき、学術的な検討のうえで復元されている。塁上をめぐる木柵列も、丸太材の太さまで再現している。また、常御殿(つねごてん)、奥御殿、物見、下馬屋などは柱位置を平面表示している。主殿は当主が来客と接見したり、さまざまな儀式を執りおこなった本丸の中心的な建物で、板蔵は衣類や道具などの収納目的の建物である。上馬屋には当主の馬を繋ぎ、中馬屋には来客の馬を繋ぎ、下馬屋は夜間や冬期に使用された。鍛冶工房は90cm掘り下げた竪穴式の建物で、鎧や刀の部品など金属製品が作られた。工房は竪穴式だが床張りで、弓や鎧など武具の製作・修理をおこなっていた。納屋は茅葺きの屋根が地面近くまで葺きおろされた竪穴式の建物で、工房や鍛冶工房と異なって全て本丸の端に寄せて建てられており、米・味噌などが蓄えられたと想定される。縄文・弥生時代の竪穴式住居は、関東でも奈良・平安時代までみられるが、北東北では戦国時代末期まで多く使用されていたという。本丸には門が3棟あるが、棟門形式の東門が本丸に入る正式な門で、冠木門形式の西門が搦手門となる。根城は八戸を本拠として北奥羽地方に影響を与えた根城南部氏の居城である。甲斐源氏の南部氏の嫡流である三戸南部氏は、建保7年(1219年)2代当主の実光(さねみつ)が一族を率いて糠部(ぬかのぶ)郡三戸に本拠を移した。このとき、弟の実長(さねなが)を甲斐に残して波木井(はきい)郷(山梨県南巨摩郡身延町)に置いた。この南部実長が、波木井南部氏(後の根城南部氏)の祖となる人物で、波木井実長とも称した。実長は熱心な日蓮宗の信者で、文永11年(1274年)日蓮(にちれん)が流罪を解かれて佐渡島から鎌倉に戻った際、身延山中に草庵を造営して日蓮上人を波木井へ迎え入れた。その後、十間四面の大きな坊舎を寄進しており、これが日蓮の開山、実長の開基による身延山久遠寺(山梨県南巨摩郡身延町)の始まりとなった。陸奥国津軽で安藤氏の乱が起きると、嘉暦元年(1326年)鎌倉幕府より波木井南部氏2代当主の実継(さねつぐ)に鎮圧の命令が下り、実継の嫡子である長継(ながつぐ)が息子の貞継(さだつぐ)と共に、幕府追討軍の一員として糠部郡へ下向した。

この出来事が、波木井南部氏の奥州進出の糸口となった。元弘元年(1331年)元弘の変が起こり、後醍醐天皇が山城国笠置山で倒幕のため挙兵する。しかし、鎌倉幕府から派遣された軍勢により、すぐさま笠置山は攻め落とされた。後醍醐天皇は河内赤坂城(大阪府南河内郡千早赤阪村)に逃れようとして捕えられてしまうが、後醍醐天皇の第一皇子である尊良(たかよし)親王は赤坂城に入城することができた。このとき、齢70歳を超えていた南部実継も尊良親王に随従して赤坂城に籠城している。朝廷方は奮戦したが落城、実継らは幕府軍により捕縛された。『藻原寺文書』によると、元弘2年(1332年)倒幕に加担して捕えられた武士たちは京都の六条河原にて斬刑に処されるが、実継が尊良親王をそそのかした張本人であるとして、一番最初に首を刎ねられたと記されている。実継の最期は日蓮宗の僧侶達によって、波木井南部家に伝えられたという。3代長継は、嫡子の貞継が戦死していたため、婿養子の師行(もろゆき)に家督と波木井郷の地頭職を譲った。長継は隠居後も朝廷方として、後に南朝方として働いた。正平7年(1352年)後醍醐天皇の皇孫である興良(おきよし)親王が、北朝方に寝返った赤松則祐(のりすけ)との摂津国の甲山(かぶとやま)麓の合戦で敗れているが、この戦いで長継は討死したと伝わる。一方、4代当主となった南部師行は、三戸南部氏4代の政光(まさみつ)の弟・政行(まさゆき)の次男である。師行には娘しかいなかったので、実弟の政長(まさなが)を婿養子としている。元弘3年(1333年)新田義貞(よしさだ)の鎌倉攻めの際、師行は本領の甲斐を動かず、政長を義貞の軍勢に加えて武勲を立てた。鎌倉幕府が滅びて後醍醐天皇による建武の新政が始まると、元弘3年(1333年)師行・政長父子は陸奥守に任じられた北畠顕家(あきいえ)に従い、後醍醐天皇の第八皇子の義良(のりよし)親王(後の後村上天皇)を奉じて国府である陸奥多賀城(宮城県多賀城市)に下向した。陸奥は広大な国であったため、陸奥国司の顕家は遠隔地に国司の代官(国代)を置くこととし、北奥羽地方の国代として師行を糠部郡奉行に任命した。糠部郡は現在の青森県東部から岩手県北部の広大な地域であった。建武元年(1334年)師行は南朝の拠点として八戸の石懸村八森に根城を築いた。根城とは、支城に対する根の城(本城)と使われたものが、そのまま名称になったと考えられる。元弘3年(1333年)津軽に逃れた北条一族の名越時如(ときゆき)と安達高景(たかかげ)が、北条氏残党や安東一族と結託して大光寺城(平川市)に籠城して抵抗した。南部師行は、多田貞綱(さだつな)や工藤貞行(さだあき)と共に鎮圧にあたり、大光寺城から石川楯(弘前市石川)、持寄城(弘前市相馬)と逃れる北条勢を追い詰めた。長寿院(黒石市)の延命地蔵尊の胎内から、この大光寺合戦で大将である師行が動員した武将の名が記された文書が見つかっている。建武元年(1334年)北条氏残党は名越時如、安達高景を将として持寄城で最後の決戦を挑むが、ついに朝廷方に降伏している。師行は根城を本拠に北奥羽の平定に尽力し、その勢力範囲は糠部郡だけでなく、南は岩手県の久慈・閉伊(へい)・遠野地方、西は秋田県の鹿角・比内・仙北地方、北は青森県の津軽・外ヶ浜地方といった広い範囲であった。この初代実長から始まり4代師行に続く系統は根城南部氏と呼ばれており、三戸南部氏の分家の立場にあったが、その勢力は三戸南部氏を凌いでいた。建武2年(1335年)足利尊氏(たかうじ)が後醍醐天皇に叛旗を翻すと、後醍醐天皇から尊氏追討の命が下った。

北畠顕家は、師行に多賀国府の留守を守らせ、師行の孫の信政(のぶまさ)ら5万余騎の奥州軍を率いて南下した。このとき根城では、政長が北奥羽の守りを固めていた。建武3年(1336年)北畠顕家の軍勢が京都に到着し、楠木正成(まさしげ)、新田義貞らと共に足利尊氏と戦い、尊氏を九州に敗走させて凱旋している。しかし、尊氏は九州で体勢を立て直しており、西国の武士団を傘下に吸収しながら、京都を目指して進軍してきた。これに対して、楠木正成、新田義貞らは湊川で迎え撃つが大敗、足利勢は京都を制圧して室町幕府を開いている。一方、後醍醐天皇は京都を脱出、大和国吉野へ逃れて南朝を樹立した。南北朝時代の始まりである。建武4年(1337年)北畠顕家は尊氏を討伐するため、義良親王を奉じて再び南下した。『太平記』によると、このときの軍勢は奥州54郡から動員され、その兵力は10万余騎であったという。今回の遠征には南部師行が糠部の精鋭2千余騎を率いて出陣している。この配下には大光寺合戦で敵対した武士が多く含まれていることから、師行が人徳のある人物だと分かる。暦応元年(1338年)顕家・師行率いる奥州軍は、北朝軍と戦いながら伊勢・大和・河内・和泉と転戦し、堺浦で高師直(こうのもろなお)の軍勢と激突した(石津の戦い)。奥州軍は善戦したが、連戦の疲労もあり、ついに総崩れとなって潰走した。顕家は供廻り2百騎とともに和泉国石津で北朝軍に包囲されて討死している。随行していた南部師行も配下108名と共に戦死した。師行が不在の間、政長は根城を拠点に津軽の曽我氏をはじめとする北朝勢力と戦い、師行が戦死すると5代当主の家督を継いだ。楠木正成、北畠顕家、新田義貞の死後、南朝の頽勢は覆いがたいものとなった。奥羽の豪族の多くが北朝に恭順していったが、南部政長は南朝方として奮戦した。三戸南部氏は早い段階で北朝方に転じていたが、同族同士で争うことはなかった。足利尊氏は、政長に書状を送って「所領の事望みに任すべし」と帰順を促したが、政長はこれを拒絶しており、奥州における南朝勢力の中核として活躍し続ける。根城南部氏は師行から5代に渡って、かたくなに南朝への忠誠を守り続け、後に「南部勤皇五世」と呼ばれるようになる。興国3年(1342年)政長が常陸国に出陣中、尊氏は相模国の曽我師助(もろすけ)に命じて根城を攻めさせた。留守を預かる信政は根城を死守し、政長が戻ると数十回に渡る激戦のすえ、敵将の曽我師助を討ち取って撃破した。正平5年(1350年)6代信政が父の政長より先に没していたため、政長は信政の長男である信光(のぶみつ)に八戸郷と家督を譲り、信政の未亡人である加伊寿(かいず)御前に七戸郷を与えて、信政の次男である政光(まさみつ)が成人したら七戸郷を譲るよう指示して没した。しかし、奥州の南朝勢力が根城南部氏だけになると、正平20年(1365年)頃に7代信光は八戸の所領を三戸南部氏に委ねて、本領の甲斐国波木井へ引き上げた。天授2年(1376年)信光は嫡子の長経(ながつね)が幼少であったため、七戸に残った弟の七戸政光に家督を譲った。甲斐に移った8代政光は、たびたび幕府軍の攻撃を受けたが、これを防いでいる。明徳3年(1392年)南北朝の統一がなり、南朝方の武士たちは室町幕府に帰順していくなか、南部政光だけは南朝への忠義を貫いていた。明徳4年(1393年)室町幕府3代将軍の足利義満(よしみつ)に仕える三戸南部氏13代の守行(もりゆき)が政光を説得すると、本領である波木井を放棄して、後醍醐天皇から拝領した八戸に移ることで承諾した。甲斐の所領は合計すると5万石はあったと推定される。

再び根城を本拠とした根城南部氏は、三戸南部氏と行動を共にして勢力を拡大させている。根城南部氏は、三戸南部氏を本家と仰いでいたが、あくまで独立した領主であった。南部政光は9代当主を甥の長経に譲っており、13代当主の政経(まさつね)以降は八戸氏を称するようになった。三戸南部氏24代の晴政(はるまさ)は、なかなか世継ぎに恵まれず、田子(たっこ)城(田子町)の石川高信(たかのぶ)の長男・信直(のぶなお)を婿養子に迎えた。元亀元年(1570年)晴政に待望の男子・晴継(はるつぐ)が生まれると、信直の存在が邪魔になり、暗殺を企てるようになった。身の危険を感じた信直は後継者を辞退して田子城に戻ったが、それでも晴政の家臣に何度も命を狙われた。三戸南部家の重臣である北信愛(きたのぶちか)は信直を不憫に思って匿うが、これを知った晴政は激怒し、両者は武力衝突の危機に陥った。これは根城南部氏18代の八戸政栄の仲裁により収まっている。その後、数年間は政栄が根城で信直を匿った。天正10年(1582年)晴政が没すると、晴継が25代当主に就くが、晴政の葬儀の帰りに何者かに暗殺された。三戸南部氏の当主が不在となったため、三戸で後継者を決める一族・重臣の会議が開かれた。候補者は田子信直と、実力者である九戸政実(まさざね)の弟・実親(さねちか)であったが、北信愛がその場を制して信直に決し、ただちに武装兵100人で警護して田子城から信直を迎えた。これを不服とした九戸政実は26代当主の南部信直と対立するようになり、後には豊臣秀吉と全国の大名を巻き込んだ「九戸政実の乱」へと発展することになる。天正17年(1589年)秀吉は諸大名に上洛を命じたが、信直は家中不穏のため三戸を留守にできなかった。翌天正18年(1590年)小田原の陣の頃には、九戸政実の離反も明らかであり、信直はまったく身動きできない状態に陥った。とはいえ、このまま参陣を引き延ばすことは討伐の対象となってしまう。このとき八戸政栄は、信直と共に小田原に参陣していれば、秀吉から独立した大名として認められることは間違いなかった。しかし、政栄はみずから近世大名の道を断って留守を守り、九戸政実の挙兵を阻止することに決している。こうして南部信直は小田原に参陣することができ、秀吉から南部内七郡の所領を安堵する朱印状を賜るが、参陣しなかった根城南部氏は、三戸南部氏の家臣と位置付ける他なかった。この時から政栄は信直の臣下に下り、三戸南部家の家老となって、八戸領1万5500石を安堵された。慶長19年(1614年)根城南部氏20代の八戸直政(なおまさ)が越後国高田からの帰国途中に病死してしまった。後継者となる男子もおらず、この断絶の危機に直政の未亡人である子々(ねね)が、叔父で三戸南部氏27代の利直(としなお)に根城南部氏の存続を認めさせて、21代の女当主が誕生した。利直は子々に婿を取らせて八戸の直轄支配を考えたが、これを察した子々は剃髪して清心尼(せいしんに)と名乗り、再婚する意志がない事を示した。次に利直は、清心尼の娘に婿を送り込もうとするが断られ、元和6年(1620年)一族の新田(にいだ)氏から22代当主として直義(なおよし)を迎えた。おもしろくない利直は、弱体化を理由に八戸直義に田名部3千石を返上させ、寛永4年(1627年)仙台藩伊達領との国境守備のため遠野に転封させている。これにより根城は廃城となり、約300年の歴史に幕を閉じた。以後、八戸氏は盛岡藩家老首座・盛岡城代家老を代々務めた。文政元年(1818年)盛岡藩の家格昇進を祝って、北氏、南氏、中野氏、東氏とともに南部の称号を許され、南部氏へ復姓している。(2014.09.06)

板葺き屋根に石を置く中馬屋
板葺き屋根に石を置く中馬屋

金属製品を製作した鍛冶工房
金属製品を製作した鍛冶工房

茅葺きで竪穴式建物の納屋
茅葺きで竪穴式建物の納屋

中館を2つに区画する空堀跡
中館を2つに区画する空堀跡

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