鳴海城跡は、鳴海丘陵西端部の標高10mから15m程に存在する。鳴海丘陵の西側を天白川が南へ流れ、南側には扇川が西へ流れて合流しており、3方向が断崖となる地形である。かつて、この辺りの海岸線は現在と異なり、伊勢湾の入り江が内陸部に深く入り込み、熱田・大高・鳴海まで海が迫っていた。この入り江を年魚市潟(あゆちがた)や鳴海潟と呼んだ。桶狭間合戦の引き金となる鳴海城や大高城(名古屋市緑区大高町城山)は海に面しており、満潮時には城のすぐ下まで潮に浸かったといわれるように、鳴海・大高両城は船溜り(港)を持つ水城であった。鳴海潟は満潮時には海となり、干潮時には浜路が現れる交通の難所として有名である。弘安5年(1282年)頃の阿仏尼(あぶつに)の紀行文『十六夜日記』には、鳴海潟の様子を「なるみのかた(鳴海潟)をすぐる(過ぎる)に、しほひ(潮干)のほどなれば、さはり(障り)なくひがた(干潟)を行、折しも浜千鳥いとおほく(多く)さきだち(先立)て行も」と記し、干潮時の干潟の浜路を、浜千鳥の群れを見ながら無事通過したことが分かる。また、南北朝時代の建徳元年(1370年)南朝方の宗良(むねよし)親王が美濃より尾張に入って鳴海を通る際、潮が満ちてきて「なるみがた(鳴海潟)しほ(潮)のみちひ(満干)のたびごとに、道ふみ(踏み)かふる(変わる)浦の旅人」と詠んでいる。中世の京都と鎌倉を結ぶ鎌倉往還では、この鳴海潟を渡るのに3つの経路があり、海側から下ノ道・中ノ道・上ノ道といった。その後、河川の沖積作用により海岸線が次第に後退していく海退(かいたい)が進み、鎌倉往還が浜から隔たり、干潟が野に変じていく。戦国時代においては、上ノ道は満潮時にも通行できる内陸路だったようである。鳴海城は鎌倉往還から南西側の海沿いに位置した。鳴海城の城域は、『尾張志』によると「東西七十五間半ばかり南北三十四間」とあり、1間を1.82mで換算すると東西約137m、南北約62mで、「四面に堀あり本丸・二之丸境にも堀あり」と記される。大高城の2.5倍の規模があり要害性も高かった。正保年間(1644-48年)頃に尾張藩によって作成された『愛知郡鳴海村古城絵図』から往時の鳴海城を推測することができる。現在の鳴海城跡公園付近が本丸跡となり、東西両側の南寄りに土橋が造られ、東側が二之丸跡となる。本丸の規模は「東西四捨三間(約78m)、南北弐拾五間(約46m)」、二之丸の規模は「東西弐拾六間半(約48m)、南北三拾四間(約62m)」と記載され、二之丸の東側、現在の天神社(名古屋市緑区鳴海町矢切)付近にも「東西九間半(約17m)、南北拾三間(約24m)」の曲輪があり、本丸の西側にも「東西弐拾四間(約44m)、南北拾八間(約33m)」の曲輪が記載される。本丸は東側から北側、さらに西側へと内堀を巡らせ、南側を高さ四間(約7m)の切岸と両土橋の南側に堀を造り、四方を堀でほぼ囲む形状になっている。本丸から二之丸に至るには、東側土橋の先にある馬出しの役割を果たす区画を経ることになる。二之丸は、東側から北側を外堀で囲み、内堀と近接する付近で堀が途切れている。二之丸の東側に「巾弐間(約3.6m)、高四尺(約1.2m)」の土塁(土居)が南北に築かれ、二之丸の南側にも土塁が築かれる。また、二之丸の北西寄りには、井戸の記載がある。現在の天神社付近の東側から北側に総堀が巡り、東福院(名古屋市緑区鳴海町花井町)の南側を通過して、本丸や二之丸の北側を囲むように総構えが構築された。鎌倉往還に沿う方向である東側と北側の防備を意識した縄張りであり、この総堀の南側(内側)に「此内鳴海村在家」と記載される。
絵図に記載される鳴海城が完成した時期は、最後の城主となる織田家重臣・佐久間信盛(のぶもり)の頃と推定される。江戸時代になると、尾張藩では藩内の街道筋周辺に位置する古城跡を把握する目的から、その詳細な絵図を作成している。対象となる古城跡は残存状態が良好な城郭であり、他国からの侵攻に備える軍事的な施設として再利用することを目的とし、その残存状況だけでなく街道や尾張藩の府城・名古屋城(名古屋市中区本丸)との関係等が詳しく記載される。また、有事に備える観点から寺院や神社、屋敷跡、さらに古井戸などの位置も記載されたと考えられ、古城跡の土塁や堀跡についての記述は測量の成果に基づいた正確なものであったと推測される。鳴海城の場合は『愛知郡鳴海村古城絵図』が作成されており、鳴海城跡の西側および南側に東海道が整備され、街道沿いに新たな町屋が増えていったが、尾張藩にとって重要な古城跡のひとつとして鳴海城跡は保存され続けた。しかし、現在の本丸跡は、ただの都市公園となり遺構は存在しない。公園の西側と北側が低地となり鳴海城の面影が若干残る。天神社の境内には「史蹟鳴海城阯」や「鳴海城址之碑」の石碑が立つ。なお、東福院の山門は鳴海城の廃材を利用して造られたものといい、現在では薬医門の梁(冠木)のみが天正年間(1573-92年)の鳴海城の遺材として残されている。鳴海城周辺の城砦として、現在の鳴海町内の丹下砦(鳴海町清水寺)、善照寺砦(鳴海町砦)、中島砦(鳴海町下中)、大高町内の大高城、丸根砦(大高町丸根)、鷲津砦(大高町鷲津山)が知られ、これらは桶狭間の戦いに際して重要な役割を果たした。古代、日本武尊(やまとたける)が東征の際、天神山から鳴海潟の対岸となる火高(大高)丘陵の尾張氏館を遠望して「鳴海浦を見やれば遠し火高地に、この夕潮に渡らへむかも」(熱田大神縁起)と詠んでいる。成海神社はこれを由縁として、朱鳥元年(686年)天神山に創建された。中世においては愛知郡に鳴海荘が成立しており、鎌倉時代の承久の乱以前から存在していた事が窺える。承久3年(1221年)承久の乱において、鳴海荘の地頭は京方に組して没落し、代わって幕府軍の大将のひとりとして軍功を立てた小笠原長清(ながきよ)の十一男である清時(きよとき)が鳴海荘地頭職を得て入部した。清時は鳴海余一と称し、この鳴海氏の在地支配は南北朝時代初期まで続いた。建武3年(1336年)足利尊氏(たかうじ)方の吉良貞経(さだつね)軍と南朝軍による「尾州鳴海合戦」が起こるなど不安定であったが、南北朝時代中期から15世紀後半まで、鳴海荘は醍醐寺三宝院(京都府京都市)の地行地となり、鳴海城の地域も鳴海荘の西端に含まれていたと考えられる。応永年間(1394-1428年)足利義満(よしみつ)の配下である安原備中守宗範(むねのり)が、成海神社を乙子山(名古屋市緑区鳴海町乙子山)へ移して、天神山に鳴海城を築城した。根古屋城とも呼ばれる平山城であった。安原宗範は剃髪して瑞松居士と称し、応永3年(1396年)平部(ひらぶ)の諏訪山に瑞松寺を創建する。現在の瑞泉寺(名古屋市緑区鳴海町相原町)である。宗範の没後、鳴海城は一旦廃城になったと伝えられる。鳴海荘は15世紀前半に守護不入の特権を認められ、領家である醍醐寺三宝院は在地の武家勢力から距離を置くことができたが、その後の戦国の動乱の中で鳴海荘は存立できなくなった。天文年間(1532-55年)頃、尾張の実力者である織田備後守信秀(のぶひで)が今川氏との国境を固めるため、鳴海の古城跡を取り立てて山口左馬助教継(のりつぐ)を城主とした。
山口氏は系図によると周防大内氏の一族とされ、故郷の周防国山口の地名から山口氏を称したとある。山口教継は笠寺(名古屋市南区笠寺町)付近の土豪で、織田家に従って小豆坂の戦いなど今川義元(よしもと)との戦いで軍功を挙げ、嫡子の九郎二郎教吉(のりよし)とともに信秀から重用された。しかし、天文21年(1552年)3月、信秀が病没すると、大うつけ者と評判の上総介信長が19歳の若さで織田家を継ぐことになるが、これに織田家中は動揺した。同年、尾張南東部で今川氏との最前線を任された鳴海城の山口教継・教吉父子が、織田信長を見限り今川方に寝返った。教継は信長の報復に備えて、鳴海城に教吉を入れ置き、笠寺に砦(場所不明)を構えて今川家から葛山長嘉(かずらやまながよし)、岡部五郎兵衛元信(もとのぶ)、三浦左馬助義就(よしなり)、飯尾豊前守顕茲(あきしげ)、浅井小四郎らの駿河衆を引き入れ、自身は桜中村城(名古屋市南区元桜田町)に立て籠った。天文21年(1552年)4月17日、信長は山口氏討伐のため兵800で那古野城(名古屋市中区二の丸)を出陣し、中根村を駆け抜け、小鳴海(古鳴海)に移動して三の山(三王山)へ登った。すると、山口教吉が三の山東側の赤塚に兵1500で出陣して来た。これを受けて信長も赤塚に前進し、両者は先陣を繰り出して戦闘に突入した。緒戦は矢戦となり、織田方の荒川与十郎が額を射ち抜かれて落馬、山口方の兵が首を取ろうと殺到し、織田方の兵はそうはさせじと遺体を引っ張り、敵味方で与十郎の引っ張り合いになったが、織田方が引き勝って遺体を収容できた。乱戦の中、山口方の将である萩原助十郎、中島又二郎、祖父江久介、横江孫八、水越助十郎などを討ち取ったが、あまりの接近戦のため首を取ることもできなかった。織田方も30騎が討死したが、この赤塚の戦いで勝敗は付かなかった。日が暮れて休戦となり、敵味方が旧知の間柄であったため、敵陣に逃げ込んだ馬はお互いに返し合い、生け捕りになった者も交換して帰陣している。信長は主家筋である織田大和守家や小守護代・坂井大膳らとの抗争が続き、鳴海城を攻略できずにいた。そのため鳴海城は、織田領に深く食い込んだ今川方の前線拠点となった。弘治3年(1557年)頃、戸部城(名古屋市南区呼続)の戸部政直(とべまさなお)が織田方から今川方に寝返った。すると信長は、祐筆に政直の筆跡を真似させ、戸部氏が信長に内通するという書状を偽造して、義元の手に渡るように仕向けた。結果、裏切りを信じた義元は三河国吉田で政直の首を刎ねた。永禄2年(1559年)山口教継は、織田方の水野忠守(ただもり)が拠る大高城を攻略し、近藤景春(かげはる)の沓掛城(豊明市沓掛町)も調略した。これに対して信長は、戸部政直の時と同様に山口氏の裏切りの噂を駿河国府中(駿府)で流したとされる。義元は功労者である山口教継・教吉父子を駿府に呼び出して自害させ、山口氏に代わり鳴海城には岡部元信、大高城には鵜殿長照(うどのながてる)といった今川家の重臣を配置した。一方、信長は鳴海城を包囲するように丹下砦、善照寺砦、中島砦を築き、大高城と鳴海城の連絡を断つため丸根砦と鷲津砦を築いた。鳴海城の北方の丹下砦は、信長が「たんけと云古屋しき」(信長公記)を砦にしたもので、水野帯刀、山口海老之丞、柘植玄蕃頭らが守った。『尾張志』は砦の規模を東西四十五間(約82m)、東西四十三間(約78m)と伝える。光明禅寺(名古屋市緑区鳴海町丹下)北側の丘が丹下砦とされるが遺構はない。永禄3年(1560年)5月12日、今川義元は鳴海城と大高城を救援するため2万5千の大軍を率いて駿府を出陣した。
清洲城(清須市)を出撃した信長は、熱田神宮(名古屋市熱田区)から鳴海方面に向かうが、鳴海潟の潮が満ちており、引き潮の際に通行できる最短経路が使えず、鎌倉往還の上ノ道を迂回して丹下砦に入っている。織田軍はすぐに鳴海城と同じ丘陵に築かれた善照寺砦に移った。ここで信長は鳴海城を攻めるのではなく、東方の今川軍の動向を確認していた。情報収集により義元本陣の場所を掴んだ信長は、精鋭2千を率いて「おけはざま山」(信長公記)に急行、天候の急変を味方に付け、本陣に突入して義元を討ち取っている。奇跡的な勝利を得た信長の許に、敵将の首を持った若武者が次々と駆け付けてきた。信長は「何れも清洲にて御実検」と言い置いたが、義元の首と対面した時はさすがに喜びを隠せなかったという。翌20日、清洲城で首実検がおこなわれ、集められた今川方の首級は3千余にも上った。この時、敵将の名前を特定したのは、義元の同朋衆の林阿弥(りんあみ)だった。林阿弥は義元愛用の鞭(むち)と弓懸(ゆがけ)を持っていたため、織田軍に生け捕りにされていた。『信長公記』によると、信長は林阿弥に義元の首を持たせ、駿府に帰したとある。しかし、義元の首を巡っては別の逸話も存在する。『武徳編年集成』によると、義元の敗死後、敗走する今川軍の中にあって鳴海城を守備する岡部元信だけは踏みとどまって奮戦し、織田軍を退けていた。そして、信長に対して鳴海城の開城と引き換えに義元の首級の返還を要求したのである。元信の決死の覚悟に、信長は要求を受け入れる形で義元の首を授けた。元信ら鳴海城兵は、義元の首級を乗せた輿と織田家から付けられた僧侶たちを伴って駿府へ向かって退去した。駿河に引き上げる途中、元信は三河刈谷城(刈谷市)を攻め、城主の水野藤九郎信近(のぶちか)を討ち取って、刈谷城を焼き払うという戦果を残している。桶狭間合戦の後、鳴海城は織田家重臣の佐久間信盛が城主を務めた。かつて「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に退き佐久間」といわれ、佐久間信盛は撤退戦の巧みさから「退き佐久間」と称された人物である。一方で、信長の天下統一を支えた重臣でありながら、信長の不興を買って晩年に失脚という悲運に見舞われた武将でもある。織田家は、元亀元年(1570年)から摂津石山本願寺(大阪府大阪市)と全面戦争に突入し、天正4年(1576年)戦死した塙直政(ばんなおまさ)の後任のとして信盛が石山本願寺戦の司令官に就任した。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊といった7か国の与力を付属され、当時の織田家中で最大規模の軍団を指揮したが、包囲戦を4年も続け、積極的な攻勢に出ることなく戦線は膠着した。天正8年(1580年)業を煮やした信長は、朝廷を動かして石山本願寺と和睦している。同年8月、信盛は信長から「19ヶ条の折檻状」を突き付けられる。その内容は辛辣で、私腹を肥やして十分な家臣を召し抱えず、そのため一廉の働きもできていないなど、過去の戦功も全て否定する内容であった。そして「どこかの敵を平らげて恥をすすいで帰参するか、又は討死するか」と「頭を丸めて高野山で隠居して赦しを乞い続けるか」のいずれかの決断を迫った。信盛・信栄(のぶひで)父子は後者を選び、剃髪して高野山に出奔する。同様に林秀貞(ひでさだ)、安藤守就(もりなり)、丹羽氏勝(うじかつ)などの老将も追放された。鳴海城の廃城時期は不明だが、天正8年(1580年)佐久間信盛の改易時か、天正18年(1590年)織田信雄(のぶかつ)の改易時と考えられている。現在でも鳴海城跡南西の城下に佐久間氏の名にちなむ作町(さくまち)という地名が残る。(2026.02.16)