難波田城(なんばたじょう)

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扇谷上杉氏の重臣であった難波田氏の本拠

主郭跡に建つ城址碑
主郭跡に建つ城址碑

難波田城は、新河岸川と荒川に挟まれた自然堤防上に築かれ、周囲は蓮田や葦の覆い茂る湿地帯となり、それらを最大の防御としていた。当初は小さな館であったが、戦国時代には三重の堀を巡らせた大規模な平城に改修される。城跡は主郭を中心に同心円状に郭を配していたと見られ、主要な郭は帯郭と木橋によって連絡した。城跡の北東部に約4mの高さで物見櫓台が残る。主郭南の馬出郭では堀内に橋脚列が発見された。難波田城の馬出郭、三の郭、島郭、五輪塚部分が難波田城公園として保存されている。

難波田氏は、金子小太郎高範(たかのり)を祖とする一族といわれている。金子氏は、平安時代末期に武蔵国を本拠として勢力をふるった武蔵七党(むさししちとう)と呼ばれる武士団の一つ村山党に属する一族で、保元・平治の乱などで活躍している。承久3年(1221年)後鳥羽上皇は朝廷の権威回復を図るため、鎌倉幕府三代将軍の源実朝(さねとも)死後の将軍後継者問題を衝いて鎌倉幕府打倒の兵を挙げ、執権北条義時(よしとき)討伐の院宣を全国に下した。しかし東国の御家人はこれに応じず、強大な幕府軍として京都に攻め上り朝廷を破った。この戦いで高範は幕府側として参戦して討ち死にする。その恩賞として子孫に入間郡難波田(南畑)の地が与えられたようで、難波田氏を名乗り、この地に城館を構えて代々居住した。

南北朝時代の観応元年(1350年)室町幕府の初代将軍足利尊氏とその弟直義(ただよし)の勢力争いが起こった(観応の擾乱)。京都から鎌倉に逃れた直義を討つため、観応2年(1351年)尊氏は関東に向けて出兵し、直義軍を駿河薩た峠の戦いで打ち破った。この争いの中、尊氏に合流するため府中に向かう高麗経澄(こまつねずみ)の軍勢と、それを迎え撃つ直義方の難波田九郎三郎の軍勢が、現在の志木市宗岡の羽根倉橋付近で戦った。武蔵国鬼窪で挙兵した高麗氏は、鎌倉街道上道(かみつみち)と中道(なかつみち)を結ぶ羽根倉道を通って府中を目指した。その途中の羽根倉は荒川を渡る要所の一つであり、羽根倉を渡ったところが難波田氏の本拠があった難波田の地である。この合戦を羽祢蔵(はねくら)合戦といい、難波田氏の軍勢は破れ、九郎三郎は討ち取られた。

関東地方の戦国時代前期は、扇谷上杉氏と小田原北条氏との争いを中心に展開し、武蔵国の支配をめぐる両者の戦いは23年間にも及んだ。その間、難波田弾正善銀(よしかね)は扇谷上杉氏の重臣として、北条氏との一連の戦いの中心人物として活躍している。天文2年(1533年)善銀は扇谷上杉軍の大将として江戸・品川に出陣し、妙国寺(東京都品川区)に制札を発給している。また天文6年(1537年)には深大寺城(東京都調布市)を修復したと伝えられる。しかし、天文15年(1546年)善銀は河越夜戦で古井戸に転落死してしまい、主家の上杉朝定(ともさだ)も討死して扇谷上杉氏は滅びてしまう。その後の難波田氏一族は北条氏の家臣となり、宗岡(志木市)や池辺(川越市)に領地を与えられた。そして難波田城は北条氏の持城となり、北条氏の家臣・上田周防守が居城した。天正18年(1590年)の小田原の役では、難波田憲次(のりつぐ)をはじめ難波田氏一族の多くは武州松山城に籠城したが、前田利家(としいえ)らの北国軍に攻められ降伏開城し、憲次らは北国軍の先鋒に加わった。このとき難波田城も降伏開城し、そのまま廃城となる。このあたりは平坦な低地のため荒川の氾濫に悩まされ、水害のひどい土地であった。城跡に残る小さな丘(物見櫓台)は洪水の時に大事な物を避難させるために作った丘ともいう。その後、地名がよくないということになり「難波田」という地名を「南畑」に改めた。(2003.12.13)

難波田城の水堀
難波田城の水堀

棟門形式の復原追手門
棟門形式の復原追手門

橋脚から復原した木橋
橋脚から復原した木橋

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