波切城(なきりじょう)

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九鬼大隅守嘉隆の最初の居城

曲輪と土塁の跡
曲輪と土塁の跡

波切城は、現在の伊勢志摩国立公園の南端に位置する大王崎に存在した。大王崎灯台の付近一帯が城跡であり、城山と呼ばれている。遠州灘と熊野灘を分ける志摩半島の先端に位置する波切は潮流も速く、また伊勢湾の入口に位置しているため、戦国時代に活躍した九鬼水軍の根拠地であった。

南北朝時代、藤原北家熊野別当流の藤原薬師丸隆真(りゅうしん)は、足利尊氏の軍勢から後醍醐天皇を助けた功により九鬼性を賜る。貞治年間(1362-1367年)九鬼隆真の子隆良(たかよし)は紀伊九鬼浦から志摩波切村に移住して、志摩九鬼氏の初代となった。九鬼氏は波切城を本拠とし、海賊衆の棟梁として勢力を拡大していく。天文11年(1542年)九鬼嘉隆(よしたか)は、5代当主定隆(さだたか)の次男として生まれる。兄浄隆(きよたか)が九鬼惣領家の本城であった田城城(鳥羽市)を継ぎ、嘉隆は支城の波切城主となった。

永禄3年(1560年)志摩の地頭連合に攻められ伊勢に逃れた嘉隆は、滝川一益を通じて織田信長の幕下に入った。永禄11年(1568年)信長の伊勢侵攻の際、嘉隆は水軍を率いて志摩の地頭達を攻め、志摩の統一と波切城の回復に成功した。その後の嘉隆は織田水軍の大将として活躍していく。天正2年(1574年)伊勢長島の一向一揆鎮圧に九鬼水軍も参加、嘉隆は安宅船(あたけぶね)とよばれる巨大な軍船10余艘を率いて伊勢浦から攻撃を加えた。このとき、安宅船で願証寺本陣に接近し、大型の長鉄砲で城門を打ち砕いたとある。ところが、天正4年(1576年)石山本願寺の海上補給路を断つため毛利方の水軍と戦って敗北している。織田軍は九鬼水軍の約300隻に対して、毛利軍は毛利水軍、小早川水軍、能島村上水軍、来島村上水軍を中心とした約800隻の大船団で大坂湾に突入した。戦国最強といわれた村上水軍の強さの秘密は、村上水軍の戦法を記した史料『舟戦以律抄(しゅうせんいりつしょう)』に残されている。村上水軍の陣形図によると、指揮官の乗った本船という大型船を中心に一糸乱れぬ動きによる集団戦法を得意としていた。機動力のある船団で敵船を取り囲み、集中攻撃を掛け、すばやく敵船を乗っ取るといった戦法で無敵を誇っていた。九鬼水軍は安宅船が中心であり、大勢の兵が乗り込んで鉄砲の一斉射撃がおこなえた。一方、毛利方の水軍は小早船(こばやぶね)という小型の船が主力で、スピードが速く、小回りが利いた。毛利方の小早船は潮の流れに乗り、合図によって動きの遅い九鬼水軍の安宅船を素早く取り囲み、焙烙火矢(ほうろくひや)という爆弾を投げつけて九鬼水軍の船を爆破・炎上させた。この第一次木津川口海戦では、毛利方の水軍が放つ焙烙火矢により軍船を焼かれ、九鬼水軍は壊滅してしまう。この敗戦に激怒した信長は、嘉隆に対して船が燃えないよう鉄張りの軍艦の建造を命じた。当時の織田水軍の安宅船の長さは約20mであった。この安宅船の櫓部に薄く延ばした鉄板を張り付けると、鉄の重量が船体の上部に掛かり、重心が安定せず転覆してしまう。この問題を解決するために、船体を大きくする方法が採られた。船体を大きくすることによる鉄板の重量の増加は面積に比例するが、浮力の増加は体積に比例する。そのため、船体の重量の増加を浮力の増加が上回ることになる。計算によると船の長さを30m以上にすると船は沈まないということである。天正6年(1578年)九鬼水軍の旗艦「鬼宿(きしゅく)」を含む鉄甲船6隻と、滝川一益の鉄甲船1隻は伊勢大湊で完成し、堺に向けて出航した。これらは大型の安宅船で、木造の外壁や甲板、屋根などを鉄板で覆っており、毛利水軍の焙烙火矢の攻撃に備えて鉄板の装甲で武装している。この鉄甲船は巨大なもので、記録によると全長32.4m、幅10.8mもあったといい、『多聞院日記』によると「人数五千人程ノル」とある。途中、紀州の一向一揆の拠点であった雑賀浦で雑賀水軍500隻の攻撃を受けるが、群がる敵の船団を十分に引き付けておいて、鉄甲船に搭載された西洋式大砲3門の艦砲射撃でこれらを壊滅させた。嘉隆の艦隊が堺に入港すると、信長は雑賀浦での勝利を喜び観艦式を挙行する。旗指物、幟(のぼり)、幔幕(まんまく)などで鉄甲船を飾り、その周囲を飾り立てた小船が取り巻いて圧巻であったという。九鬼水軍によって大阪湾を海上封鎖された石山本願寺の顕如は毛利水軍に出陣の要請を促し、同年(1578年)11月6日、第二次木津川口海戦となった。毛利水軍、村上水軍の約600隻が大坂湾に現れ、7隻の鉄甲船に襲い掛かった。重量の重い鉄甲船の動きは遅く、すばやく動く毛利方の水軍に囲まれて焙烙火矢による攻撃を受けるが、鉄甲船には効かなかった。そして、鉄甲船は敵の船団を至近距離まで引き付けて大砲の一斉射撃をおこなった。嘉隆は艦砲射撃の目標を指揮船に集中させたため、毛利方の水軍は混乱に陥った。敵が撤退を始めたところで追撃戦に移り、敵船を追い散らし、毛利水軍、村上水軍を壊滅させている。この海戦により制海権を織田水軍が掌握し、石山本願寺の補給ラインは陸海とも完全に断たれ、信長の勝利は決定的となった。この戦功により嘉隆は、従五位下大隈守に叙任、7千石を加増され、志摩一国、摂津野田・福島など3万5千石を領する大名となる。

天正10年(1582年)本能寺の変で信長が自刃すると、嘉隆は豊臣秀吉に仕えることになる。秀吉は水軍の重要性を認識しており、嘉隆は重用された。そして、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦い、天正13年(1585年)紀州征伐、天正15年(1587年)九州征伐、天正18年(1590年)小田原の役などに九鬼水軍を率いて従軍し、活躍する。文禄3年(1594年)鳥羽城(鳥羽市)を築いて移ると、波切城は廃城となった。(2003.8.25)

大王崎灯台一帯が城跡
大王崎灯台一帯が城跡

波切城の石垣跡
波切城の石垣跡

波切城の城址碑
波切城の城址碑

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