仲山城(なかやまじょう)

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神孫の名族である三田井氏の居城で、高千穂四十八塁と呼ばれた城砦群の本城

主郭跡に建つ仲山城址の石碑
主郭跡に建つ仲山城址の石碑

宮崎県の北端部、九州山地に位置する高千穂町は、西部から南東部に向かって五ヶ瀬川(ごかせがわ)が貫流する。阿蘇山の火山活動と五ヶ瀬川の浸食によって造られたのが、柱状節理の峡谷として知られる高千穂峡である。高千穂町は、日本神話における瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨の地とされ、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が隠れたとされる天岩戸が鎮座する神話の里である。日向三代(ひむかさんだい)といわれる天皇家の祖神は、天照大御神の孫で日向国高千穂に降臨した瓊瓊杵尊から、山幸彦こと彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)までの3代をいう。瓊瓊杵尊は笠狭宮(かささのみや)を宮居としたが、彦火火出見尊から高千穂宮(たかちほのみや)を築いて高千穂で暮らしたとされる。かつての高千穂郷は、現在の高千穂町、日之影町、五ヶ瀬町、諸塚村にまたがる範囲で、高千穂郷十八ヶ村といった。石高は6千石程度の寒村であった。ここを治めていた領主が三田井氏である。戦国時代の三田井氏は領国を守るために高千穂四十八塁と呼ばれる城砦を各地に配置した。そして、五ヶ瀬川南岸の丘陵端部に築いた仲山城が三田井氏の本城であった。五ヶ瀬川を天然の外堀として、高千穂峡の深い峡谷によって三田井方面から隔絶し、背後は丸山、鞍掛山などの山地が迫るという守りに適した立地であった。主郭部とその東側に数段の削平地が見られる。古老の伝えでは、城址碑のある曲輪の入り口脇に矢倉があったという。主郭部の北および南東側には深い谷が入り、南側の谷を挟んだ向かいに城主の館(御内の御所)があったらしい。三田井氏の領国経営の中心は御内(みうち)の御所であった。主郭の北西方向には「三毛入命五十二代高千穂太郎政次之墳墓」と説明された石碑の建つ平坦地があり、この場所も城域内と考えられている。谷と谷に挟まれた丘陵地を階段状に削平した城郭遺構は、現在は棚田として利用されている。東端の長い平地は騎乗の訓練をおこなう立馬場(たてばば)という馬場に改良し、狭い土地を有効活用している。仲山谷とその西側の宿ノ谷に挟まれた緩やかな北側斜面に宿(しゅく)という宿屋が立ち並ぶ宿場町があった。かつての賑わいを伝える「宿千軒」の地名が残る。宿千軒の後方が主郭部となる。宿千軒から姫落としの難所を通り高千穂峡の御汐井に下る道に豊後門という城戸があった。仲山谷を中心とした仲山城は、長福寺や城屋敷までを含む東西約1.5km、南北2kmと広大な城域であった。地の利を生かした縄張りで、内部からの夜襲さえなければ正攻法では攻略できない堅城であったと考えられる。付近には義雲寺、引地、城やしき、御内の御所、親貞やしき、重武士やしき、立馬場、西ノ馬場などの地名も残る。高千穂郷を治める三田井氏は、三毛入野命(みけいりののみこと)の子孫と伝えられる。鵜葺草葺不合尊の4人の皇子である彦五瀬命(ひこいつせのみこと)、稲飯命(いないのみこと)、三毛入野命、神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこ)は、高千穂の四皇子峰(しおうじがみね)で生まれ育ち、兄弟で東征に出発するが、四男の神日本磐余彦尊のみが大和国の平定に成功して初代・神武天皇に即位した。記紀では三毛入野命は暴風に遭い常世の国に渡ったとあるが、高千穂の伝承では三毛入野命は兄弟とはぐれたため途中で高千穂に帰還したとされる。そして、正一位様と呼ばれて高千穂郷一帯で悪行を働く鬼八(きはち)を退治した。その後、鬼八は生き返り再び暴威を振るったので、三毛入野命は鬼八の神体を切断して3箇所に分けて埋葬した。

高千穂町には鬼八塚として首塚・胴塚・手足塚の3箇所が存在する。古来、霜を降らせる鬼八荒神の霊を慰めるため毎年16歳の処女が人身御供として捧げられたが、天正年間(1573-93年)三田井氏の家老・甲斐宗摂(かいそうせつ)の娘がくじに当たり、宗摂の命により身代わりに猪を奉納するようになった。この神事は高千穂神社(高千穂町三田井神殿)の猪掛祭(ししかけまつり)として現在に伝わる。三毛入野命と鬼八の妻・鵜目姫命(うのめひめのみこと)の子孫である三田井氏が高千穂郷を治めていたが、天慶年間(938-947年)男子なく家系が絶えるため、豊後国大野郡で勢力を広げていた大神惟基(おおがこれもと)の長男を高千穂太郎政次(まさつぐ)として養子に迎えたという。しかし、政次が長男であるにも関わらず養子に入った経緯は判っておらず、一説に高千穂は大神氏の侵略を受けて、その支配下に置かれたとするものもある。大神惟基には祖母岳大明神の神体である蛇が人間と交わって生まれたとの蛇神婚伝説があり、『平家物語』や『源平盛衰記』などにも記されている。政次の子孫は代々、高千穂太郎を通称したと伝わる。鎌倉時代前期、高千穂政信(まさのぶ)の代になると庶子が多くなり、高千穂の各地に配置して地域の開発をさせた。この頃に岩戸氏、河内氏、田原氏、芝原氏などの武士団が発祥している。これら諸氏の分出により、惣領家である高千穂氏の支配地域は三田井に限定されるようになった。高千穂郷は水利に恵まれず、建久8年(1197年)の『嶋津建久図田帳』に高千穂郷全体の水田はわずか8町歩とあり、全て神に奉げる御供田であった。三田井は高千穂郷の中心地であり、高千穂政信の孫・武政(たけまさ)の頃から再び三田井と名乗るようになった。これは鎌倉時代後期のことと推定される。三田井氏の居城は、奈留基(成木)、田向、高久保、淡路と移転しているが、戦国時代には三田井右京大輔右武(すけたけ)が向山に要害堅固な城を築いて居城を移している。その時期は永正年間(1504-21年)頃か大永年間(1521-28年)頃に始まり、嫡子・越前守親武(ちかたけ)の代まで続いたと考えられる。また『日州高千穂古今治乱記』に「諸国浪人右武へ仕える事」とある。三田井右武は「表裏無双の秘術を得たる良将にて其上情深き人なれば三田井の幕下に属する者其数を知らず」とあり、諸国の浪人・落人を多数召抱えた。扶持を与える財力はないので、土地を与えて開拓させた。天正6年(1578年)日向を北上して耳川の戦いで豊後大友氏に勝利した薩摩島津氏は、大友氏の勢力下にあった肥後国に侵入した。肥後の国衆(地侍)が次々と島津氏に降る中で、孤軍奮闘したのは阿蘇氏家臣の高森氏である。天正12年(1584年)島津軍は3千の兵で肥後高森城(熊本県阿蘇郡高森町)を攻めるが、城主の高森惟直(これなお)は知略によって島津軍を退けた。高森城攻めの困難さを知った島津氏は、隣接する高千穂の三田井氏に出陣を求めた。それまで大友氏の傘下にあった三田井氏だが、島津氏と大友氏という強大な勢力の狭間で難しい舵取りを迫られ、天正13年(1585年)島津氏に人質を送って勢力下に入った。この状況の中で頭角を現したのが甲斐長門入道宗摂であった。宗摂の出自は定かではないが、知行地であった岩井川大人(おおひと)の地蔵堂の棟札の写しには、肥後御船城(熊本県上益城郡御船町)の甲斐宗運(そううん)の次男とある。甲斐氏の発祥は肥後菊池氏の庶家で、菊池武村(たけむら)が宗家との争いから甲斐国に逃れた。その子の重村(しげむら)が足利尊氏(たかうじ)に見いだされ、甲斐重村と改めて九州に下向する。

延元3年(1338年)甲斐重村は南朝方の菊池氏と戦うが敗れた。重村は縣(延岡)の縣土持氏を頼り、のちに三田井氏の客分として高千穂に土着して、高千穂地方に甲斐一族が広まった。鞍岡の甲斐親宣(ちかのぶ)は阿蘇大宮司家の内訌を収拾して阿蘇氏の筆頭家老となっている。甲斐宗運は親宣の嫡子である。甲斐宗摂が岩井川と諸塚の領主となり、三田井家の家老格になりえたのは、その背景があるとも考えられる。島津氏家臣の新納忠元(にいろただもと)による豊後入田氏の調略で宗摂は活躍している。武門の誇りもあり簡単に節を曲げない入田義実(にゅうたよしざね)を説得して盟約の起請文を書かせたのは甲斐宗摂、興呂木武富(こうろぎたけとみ)、馬原重昌(まはらしげまさ)である。天正14年(1586年)1月、新納忠元を総大将に第二次高森城攻めがおこなわれた。1回目の失敗もあり、周辺の高森方の諸城を攻め落とす作戦が採られ、甲斐宗摂と興呂木因幡が高千穂勢を指揮して従った。高森城の攻防は多勢に無勢、高森惟直を始め2百名が討ち取られ落城した。一方、三田井政利(まさとし)も高千穂勢を率い、島津軍の先陣を務めて日向口から豊後国に攻め入った。三田井政利とは筑前守政親(まさちか)と同一人物と考えられている。北上する島津氏に圧倒された大友宗麟(そうりん)は天下統一を進める豊臣秀吉に救援を要請した。秀吉は大友氏を支援するための先発隊として毛利氏4万を筑前方面へ進出させ、さらに四国勢を豊後に派遣した。四国勢6千は戸次川で島津軍1万余と対戦したが、仙石氏・長宗我部氏・十河氏等は島津軍に次々と破られ長宗我部元親(もとちか)の長男・信親(のぶちか)や十河存保(そごうまさやす)が討死するほどの大敗を喫した。この戸次川の戦いにおいて、四国勢に奇襲をかけて島津軍勝利の端緒を開いたのが三田井政利であった。天正15年(1587年)豊臣秀吉が率いる本隊20万が九州に上陸すると、島津軍は敗戦を重ねて降服した。九州を平定した秀吉は仕置きをおこない、九州諸侯の封地を定め、日向北部には高橋九郎元種(もとたね)を5万3千石で配置した。しかし手違いにより、三田井氏には高千穂を安堵するとも没収するとも沙汰はなく、高橋氏に与えられた宛行状にも高千穂は明記されていなかった。三田井氏としては、島津氏に属して秀吉と戦ったとはいえ、島津氏でさえ旧領を安堵されているので、所領没収の命令もないまま高千穂を手放すことはできない。一方の高橋氏も高千穂が明記されてない以上、所有権を主張する訳にいかなかった。『日州高千穂古今治乱記』によると高橋元種は、三田井氏に対しては秀吉への執り成しを請け負っておきながら、秀吉には三田井氏が逆心を企てていると讒言した。怒った秀吉は、元種に三田井氏の討伐を命じている。こうして元種は、三田井親武を討つために家老の甲斐宗摂をそそのかして裏切らせた。天正19年(1591年)9月下旬、縣を発った高橋元種の軍勢3千余が岩井川に到着、甲斐宗摂の手勢20名と高橋勢の中から屈強の兵士150名を選んで仲山城の夜襲を決行した。また800名は大野原の亀山城(高千穂町三田井大野原)に差し向け、残りの2千余名は淡路城(高千穂町三田井神殿)に向かったと考えられる。9月27日の夕刻、岩井川大人を発った宗摂の一隊は密かに御内の御所に近づいた。深夜のため番兵たちは静まり返り、難なく三田井親武の寝所に侵入した。宗摂は親武が障子にもたれている様子を確認して、手槍にてひと突きで討ち取り、親武の首級を挙げた。そして御内の御所に火を放ち、向かいの仲山城に駆け上がった。

御内の御所が炎上し、うろたえる仲山城の城兵に、親武の首を討ち取ったと叫ぶ高橋勢が激しく攻め立てた。居合わせた石山城(日之影町岩井川高城山)の有藤玄蕃頭信久(のぶひさ)の奮戦も虚しく仲山城は落城する。仲山城の搦手となる鞍掛山の山道の押さえに三田井氏の旗本・柳瀬備前が置かれていた。屋号も「山道」という。仲山城の落城時には大勢の落人がこの道を辿ったが、多くは落武者狩りで討ち取られたとの悲話も伝えられている。田原の天野家の文書『高千穂三田井越前守親武落城の事』に「さて又谷川對馬(つしま)という者を始め其外何れも越前守の御供にて三田井神橋(みはし)のあたりまで落ちけるとろに敵前後にみちみちて逃れたもうふことを終に神橋の瀧より飛び入りたもう」とあり、谷川対馬は敵に囲まれて逃げ難しと考え、川に飛び込み水死を選んだ。谷川氏は柳瀬氏とならび三田井家の旗本であった。高千穂峡で最も幅が狭い所では、逃れてきた城兵が槍の柄を突いて向こう岸に跳び渡ったため、そこを「槍飛」と呼ぶようになった。現在では槍飛橋が架かっている。一方、亀山城に向かった高橋勢は、三方を岩戸川の断崖に囲まれた要害と、家老・藤田左京の知略に攻めあぐねたが、岩戸川対岸の高台(詰の尾羽根陣)から砲撃して落城させた。藤田左京は城主の富高長義(とだかながよし)らを逃がして自刃した。淡路城もこの時に攻められて落城、城主の三田井政親と残党は「茶屋の尾羽根」に逃れるも追い詰められ悉く討死している。親武の首級は舟の尾の本陣(日之影町七折舟の尾)で首実検される予定だったが、本陣に運ぶ途中、宮水まで来たところで首が急に重くなり、運搬の武士が動けなくなったため、高橋元種が本陣より出向いて首実検を済ませたという。そのまま放置された親武の首級は、付近の住民が埋葬して、首塚を築いて供養した。これが宮水神社(日之影町七折宮水)の起源となった。三田井氏は、親武の弟である明王院親貞(ちかさだ)が討死、親武の長男・親長(ちかなが)と次男・親町(ちかまち)も討死しており、残されたのは三男・鎮信(しげのぶ)、四男・鎮氏(しげうじ)、五男・鎮武(しげたけ)の3人であった。鎮信ら兄弟は高橋氏に降り、高橋氏の支配のもと鎮信が三田井家の家督を継いだが、暗愚の当主であった。慶長元年(1596年)家臣の讒言を信じて弟の鎮氏を水牢に閉じ込めたうえ殺害、慶長2年(1597年)には兄弟のなかで傑物とされた鎮武を誅殺して、慶長3年(1598年)鎮信自身も病死してしまった。こうして神孫(しんそん)の名族・三田井氏は滅亡した。三田井氏の遺臣は高橋元種に従わない者が多く、高千穂討伐の戦いは慶長3年(1598年)まで続くことになる。文禄4年(1595年)高橋元種は甲斐宗摂に対して不信を抱き、甲斐氏と同族の水清谷(みずしだに)氏に2千の兵を付けて宗摂の居城・中崎城(日之影町岩井川中崎)を攻めさせた。五ヶ瀬川からそそり立つ断崖上の中崎城は、高千穂四十八塁でもっとも堅城とされた。宗摂は天然の要害を活かして良く守り、深角の甲斐内蔵助又蔵と云う者が寄せ手の大将・水清谷四郎三郎を鉄砲で討ち取っている。しかし中崎城は支えきれず落城、甲斐宗摂は向山を目指して脱出するが、逃亡途中の鶴の平で高橋氏の追手に囲まれ自刃した。慶長18年(1613年)には縣藩高橋家が罪人を匿った罪により改易になっている。天保15年(1844年)宮水神社は三田井親武の廟所として親武大明神の神号を許され、延岡藩主・内藤能登守の名代として宮水代官所の塩団右衛門直憑(なおより)と上司の郡奉行・松崎藤右衛門元周(もとかね)が廟所を訪ねている。(2020.12.18)

矢倉跡と伝えられる削平地
矢倉跡と伝えられる削平地

平安期の高千穂太郎政次の墓
平安期の高千穂太郎政次の墓

城兵らが槍で跳び渡った槍飛
城兵らが槍で跳び渡った槍飛

宮水神社の三田井親武公首塚
宮水神社の三田井親武公首塚

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