名古屋城(なごやじょう)

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大天守に載せた金の鯱で知られる徳川御三家筆頭の尾張徳川家62万石の居城

鉄筋コンクリート構造の天守
鉄筋コンクリート構造の天守

「尾張名古屋は城でもつ」といわれた名古屋城は、関ヶ原の戦いに勝利して江戸幕府を開いた徳川家康が、東海道の要所の押さえとして、また大坂の豊臣右大臣家への備えとして天下普請で築城したものである。ほぼ正方形の本丸を中心として、南東に二之丸、北西に御深井(おふけ)丸、南西に西之丸を配し、さらに南方には広大な三之丸を構えた平城である。本丸は北西隅に大天守・小天守を置き、残る三方に2層3階の隅櫓を配置、それらを多聞櫓で繋いでいた。東北隅櫓と多聞櫓は失われているが、西南隅櫓と東南隅櫓は現存する。5層5階地下1階の大天守は、南側に2層2階地下1階の小天守を伴い、地階を橋台で結ぶ連結式であった。また、大天守は従来の望楼型から脱却した層塔型の先駆であり、連結式前期層塔型天守に分類される。大天守の高さは石垣も含めて56mで、18階建てのビルに相当する。その規模は、延床面積比で播磨姫路城(兵庫県姫路市)の3倍、豊臣秀吉が造った摂津大坂城(大阪府大阪市)の天守と比べてもおよそ2倍もあった。また、日本一の高さを誇った武蔵江戸城(東京都千代田区)の寛永度天守にも延床面積では勝っており、名古屋城の天守は日本一の広さを誇る建物であった。出入口は厳重を極め、大天守へは小天守を通らなくては入ることができず、大天守・小天守とも入口は上部に石落しと総鉄張の扉を備えた門となっている。また、槍の穂先を並べた剣塀や隠狭間など、随所に敵の侵入を防ぐ備えが施されている。名古屋城で最も有名なのは金の鯱(しゃちほこ)である。鯱は防火の呪(まじな)いとして大棟の両端に載せたものだが、後には権威の象徴となっていった。金の延べ板で作られた金鯱は、慶長大判を1940枚も使用していたことが分かっており、2体の金鯱には合計で320kgの金が使われたという。金鯱は江戸城や大坂城にも存在していたとみられるが、江戸時代の前期にそれらの天守は焼失していたため、金鯱は名古屋城の象徴となった。この豪華な鯱を見た旅人は「天下様でもかなわぬものは、金のしゃちほこ雨ざらし」と唄ったという。しかし、尾張藩が財政難に陥ると、金鯱の鱗(うろこ)を溶かして赤字財政を補った。その際、金の代わりに銀を混ぜたため、次第に金鯱は黒ずんでいったという。名古屋城の金鯱は3度(享保・文政・弘化)も改修され、その度に金の純度が低下していった。近年、江戸時代後期の宝暦年間(1751-64年)におこなわれた「宝暦の大修理」に関連する資料12点が発見された。修理図面や関連文書のほか、天守周囲の景観を描いた「御天守上見通絵図」などである。宝暦の大修理とは、名古屋城の大天守が天守台石垣の変形と沈下で傾き、これを修復するために高さ36mもある大天守を長さ100m以上の太縄で引っ張って保ち、その間に石垣を補修するとともに建物内部も修理するというもので、大変な難工事であった。本丸の西南隅櫓は、古くは未申(ひつじさる)隅櫓と呼ばれ、東西約11.8m、南北約13.5m、高さ約14.1mと大規模であった。1階に屋根がなく、2階櫓に見えるが内部は3階という珍しい形式である。破風で華麗に装飾しており、破風の下に石落しが設けられている。西之丸の榎多御門(えのきだごもん)からの登城路にあたり、西之丸から本丸に向かう敵の進軍を阻むために設けられていた。東南隅櫓は、古くは辰巳(たつみ)隅櫓と呼ばれ、西南隅櫓とほぼ同規模であった。二之丸に侵入した敵を迎え撃ち、本丸の大手口にあたる南門を守る役割を担った。一般的には、枡形の城外側の高麗門を一之門、城内側の櫓門を二之門と呼ぶが、名古屋城の場合は逆であった。

表二之門は本丸の南門に残る高麗門で、城内側には櫓門形式の表一之門があったが戦災で焼失している。このほか、本丸の搦手(からめて)口にあたる東門も戦災で焼失し、現在は二之丸東二之門が本丸東二之門跡に移築されている。二之丸には、北東・南西・南東の三方向にL字型の隅櫓が置かれ、南の塁線上である西南隅櫓と東南隅櫓の中間に太鼓櫓が存在していたが、明治維新後に取り壊され現存しない。また二之丸の東西に東鉄門・西鉄門と呼ばれた門があり、三之丸と繋がっていた。いずれも枡形を構成し、多聞櫓で囲まれていたが、櫓門と多聞櫓は失われている。西側の二之丸大手二之門はもとの場所に現存し、東側の二之丸東二之門は本丸に移築されている。御深井丸には、2基の櫓が存在していた。このうち西北隅櫓(戌亥隅櫓)が現存している。西北隅櫓は3層3階で、東西約13.9m、南北約16.9m、高さ約16.2mと3層櫓としては全国で2番目の大きさを誇り、普通の城なら天守相当の規模である。別名を清洲櫓という。この櫓は徳川家康による清洲越(きよすごし)の際、清洲城(清須市)から天守あるいは小天守を移築したものと伝承されており、解体修理により古材を転用した痕跡が見つかっているため、実際に清洲城から移築された可能性がある。西之丸には月見櫓や未申櫓、榎多御門があった。昭和5年(1930年)名古屋城は勇壮な天守と優美な御殿により、戦前の国宝保存法に基づき城郭建築としての国宝第1号に指定された。その後、第二次世界大戦下の昭和20年(1945年)名古屋空襲の焼夷弾で大天守、小天守、本丸御殿をはじめ建物のほとんどを焼失したが、焼失をまぬがれた3つの櫓(西南隅櫓、東南隅櫓、西北隅櫓)、3つの高麗門(本丸表二之門、旧二之丸東二之門、二之丸大手二之門)は、重要文化財に指定されている。昭和34年(1959年)大天守と小天守が鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)で復元された。外観はほぼ忠実に再現されているが、最上層の窓が展望のため大きくなっている。戦後の外観復興天守は史実よりも観光が優先されてしまい、このような例は全国的にも多い。金鯱も天守の再建時に88kgの金を使用して新たに作られた。平成30年(2018年)には本丸御殿が木造で復元されている。殿舎の屋根は、幕末時点ではほとんど瓦葺に改められていたが、復元では築城当初と同様となる柿葺(こけらぶき)で建造されている。慶長12年(1607年)徳川家康の四男で清洲城主の松平忠吉(ただよし)が関ヶ原の戦いで負傷した傷が原因で没すると、家康は九男の徳川義直(よしなお)を清洲に封じた。義直は、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、家康が59歳の時に大坂城西の丸で誕生した。生母は家康が寵愛した「中の三人衆」のひとりで、石清水八幡宮(京都府八幡市)の社人・志水氏を出自とするお亀の方である。はじめ竹腰正時(たけのこしまさとき)に嫁ぎ、長男の正信(まさのぶ)を生む。夫と死別後、22歳の時に家康の側室になる。そして尾張徳川家の祖となる五郎太(後の義直)を生んでいる。石垣を築く際、巨大な石と石との間に楔(くさび)として詰める石を五郎太石(ごろたいし)という。義直が天下の楔となるよう家康により名付けられた。この五郎太という名前が、尾張徳川家の嫡子の幼名となった。また異父兄の竹腰正信は、のちに尾張藩の附家老(3万石)となり、幕末まで尾張藩附家老を務める家柄となる。慶長8年(1603年)五郎太丸は4歳で甲斐国25万石を拝領するが、幼少のため駿河駿府城(静岡県静岡市)で過ごした。慶長12年(1607年)松平忠吉の無嗣断絶により8歳で尾張国47万石へ移封となるが、引き続き駿府に留まった。

清洲城は五条川の氾濫する低地にあり、城地は狭くて大規模な野戦や籠城にも不向きであったため、豊臣右大臣家との決戦を見据えた家康は、濃尾平野の要地に大規模な城郭を築城することを計画した。小牧・古渡・那古屋の候補地のうち、水害や水攻めの心配のない立地条件から、廃城となっていた織田信長ゆかりの那古屋城址に築城を決めた。慶長15年(1610年)加藤清正(きよまさ)、福島正則(まさのり)、池田輝政(てるまさ)、黒田長政(ながまさ)、前田利常(としつね)等、西国を中心とした豊臣恩顧の外様大名20家に名古屋城の普請を命じて、清洲から名古屋への遷府をおこなった。この時、築城とともに城下町の整備もすすめ、清洲から名古屋へ町家や寺社などを強制的に移転させている。慶長15年(1610年)天守台や石垣、堀などの普請が完成し、慶長17年(1612年)天守や櫓、城門などの作事がほぼ完成、慶長20年(1615年)から本丸御殿や二之丸御殿が順次完成していった。特に本丸御殿は尾張藩主の居所として、玄関、表書院、対面所などが連続した武家風書院造の典型であり、近世城郭における御殿の最高傑作であった。慶長19年(1614年)徳川義直は大坂の陣において初陣を飾る。冬の陣では天王寺付近に布陣、野田・福島の戦いで尾張藩御船奉行の千賀信親(のぶちか)が水軍を率いて活躍、中でも稲生重政(しげまさ)率いる亀崎水軍は六拾六挺立の関船で豊臣秀頼(ひでより)の御座船である大坂丸を拿捕する戦功をあげている。夏の陣の天王寺・岡山の戦いでは後衛を務めた。元和2年(1616年)家康が没すると、17歳になった義直は母とともに尾張に入国している。元和5年(1619年)美濃国岐阜などを加増され、61万9500石となった。こうして名古屋城は、徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)の筆頭である尾張徳川家62万石の居城として、幕末まで約250年間続いた。元和6年(1620年)本丸御殿は将軍上洛時の宿舎として改修され、将軍の御成御殿(おなりごてん)と位置付けられた。そのため、藩主は本丸御殿から二之丸御殿に移っており、その後も本丸御殿を使用することはなかった。寛永11年(1634年)3代将軍・徳川家光(いえみつ)の上洛にあわせて、本丸御殿に上洛殿を増築した。もっとも、4代将軍・家綱(いえつな)からは江戸城で将軍宣下を受けたため、14代将軍・家茂(いえもち)まで将軍が名古屋城に宿泊することはなかった。義直の従二位権大納言が尾張徳川家の極位極官となり、2代藩主は子の光友(みつとも)に、3代藩主は孫の綱誠(つなのぶ)に引き継がれた。現在の経済都市・名古屋の礎を築いたのは、7代藩主の徳川宗春(むねはる)である。宗春は、元禄9年(1696年)3代藩主・綱誠の二十男として名古屋で生まれる。正徳3年(1713年)綱誠の十男である4代藩主・吉通(よしみち)が25歳で死去、吉通の長男で5代藩主となった五郎太も同年に3歳で死去した。そのため、綱誠の十一男となる継友(つぐとも)が6代藩主となっている。正徳6年(1716年)7代将軍・家継(いえつぐ)が危篤に陥ると、将軍候補は紀州徳川吉宗(よしむね)と、尾張徳川継友の2人に絞られた。継友は有力視されていたものの、吉宗が8代将軍に迎えられた。享保14年(1729年)尾張藩の支藩(御連枝)である陸奥国梁川藩3代藩主・松平義真(よしざね)が没し、梁川藩大久保松平家が断絶する。尾張藩の松平通春(後の徳川宗春)は徳川吉宗からの肝煎りで梁川藩3万石を与えられ、大久保松平家を再興することになる。しかし、翌享保15年(1730年)に尾張藩6代藩主・継友が死去、遺言により松平通春が尾張徳川宗家を相続して7代藩主となる。

享保16年(1731年)通春は従三位左近衛権中将に叙任、吉宗より一字を賜り徳川宗春と名乗った。宗春は派手で奇抜な衣装で知られており、「御衣服、御羽織も紅色、赤の縮緬の頭巾をかぶり」とある。そして3mもあるキセルを使っていたが、キセルが余りにも長過ぎたため、先端は家臣が支えていたという。馬ではなく白い牛に乗り、名古屋城下を練り歩いた。享保の改革による徹底した質素倹約を推進する吉宗とは異なり、宗春は祭り・芝居・遊郭を奨励する規制緩和をおこない、全く逆の政策を進めた。緊縮政策に嫌気がさした全国の人々が、祭りや芝居の盛んな名古屋に集まった。その賑わいを当てにして、商人や職人たちも次々と名古屋に移住した。それまで倹約令で活気を失っていた名古屋は、大いに繁栄して江戸・大坂・京都に次ぐ大都市に急成長、夜は毎日花火が上がったという。しかし、次第に風俗の悪化を招き、尾張藩の士風は乱れ、巨額の財政赤字が積み上がるなど行き詰まりをみせた。また、将軍と真っ向から対立する藩主に家臣が動揺してしまい、元文3年(1738年)宗春が参勤交代で国許を離れると、家老により宗春の命令が全て停止された。元文4年(1739年)吉宗は尾張藩の混乱を理由に宗春を蟄居謹慎とした。この処分を聞いた宗春は「終わり(尾張)初もの」という言葉を残して表舞台から去った。宗春の墓には罪人と同様に金網が被せられたという。宗春の事跡を伝えた『遊女濃安都(ゆめのあと)』に「かかる面白き世に生まれあうこと、ただ前世の利益(りやく)ならん、仏菩薩の再来したまう世の中やと善悪なしに、ありがたしありがたし」と記される。宗春の政策は、老中・田沼意次(おきつぐ)によって幕政に引き継がれている。8代藩主は御連枝となる美濃国高須藩主の四谷松平義淳(よしあつ)が徳川宗勝(むねかつ)と改めて継いだが、宗春の養子という形式ではなく、幕府が尾張藩を一旦召し上げたうえで宗勝に下した。寛政11年(1799年)宗勝の子である9代藩主・宗睦(むねちか)の死去により、義直以来の男系の血統が断絶した。10代藩主・斉朝(なりとも)や11代藩主・斉温(なりはる)は11代将軍・徳川家斉(いえなり)の周辺からの養子であった。特に斉温は在世中に一度も尾張に入国せず江戸藩邸で暮らすなど、尾張藩士の不満は募った。下級藩士を中心に尾張藩の支藩・高須藩から四谷松平義恕(よしくみ)の藩主継承を望んだが、12代藩主・斉荘(なりたか)、13代藩主・慶臧(よしつぐ)と徳川将軍家周辺からの押し付け養子が続いた。松平義恕とは、のちの徳川慶勝(よしかつ)である。幕府からの藩政介入に反発した藩士達が「金鉄党」を結成し、やがて尾張藩の尊攘派になっていく。嘉永2年(1849年)慶臧が死去すると、ついに徳川慶勝の14代藩主就任が実現する。慶勝は藩祖である義直の「王命によって催さるる事」という遺命を奉じて尊皇攘夷を主張し、安政5年(1858年)大老の井伊直弼(なおすけ)がアメリカ合衆国と日米修好通商条約に調印したことに抗議した。しかし、これが災いして、安政の大獄によって隠居謹慎を命じられ、弟の茂徳(もちなが)が15代藩主となる。この高須藩から尾張藩に養子に入った14代藩主・慶勝、15代藩主・茂徳は、幕末の京都で活躍した会津藩主で京都守護職の松平容保(かたもり)、桑名藩主で京都所司代の松平定敬(さだあき)とも実の兄弟であり、高須四兄弟と呼ばれた。文久3年(1863年)慶勝の子・徳川義宜が16代藩主になると、そのまま明治維新を迎えている。尾張徳川家は御三家筆頭でありながら、ついに将軍職につく人物を輩出することはなかった。(2004.12.17)

焼失を免れた本丸の西南隅櫓
焼失を免れた本丸の西南隅櫓

本丸南東に現存する東南隅櫓
本丸南東に現存する東南隅櫓

復元前の本丸御殿跡の礎石
復元前の本丸御殿跡の礎石

清洲城天守と伝わる西北隅櫓
清洲城天守と伝わる西北隅櫓

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