那古屋城(なごやじょう)

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第六天魔王こと織田信長が幼年期から青年期まで過ごした人生最初の居城

那古屋城跡の城址碑と案内板
那古屋城跡の城址碑と案内板

愛知郡那古野の地に存在した中世城郭の那古屋城は、現在の名古屋城二之丸の位置にあたる。徳川家康による近世城郭の名古屋城は、この地で廃城となっていた那古屋城を取り込んで築城されたものである。名古屋城に完全に取り込まれたため、那古野城を偲ぶ遺構はほぼ存在しない。ただ、名古屋城の二之丸が那古野城の跡地であるとされており、現在、名古屋城二之丸庭園の入り口に那古屋城址碑と教育委員会による案内板がある。この城址碑は、もとは「那古屋城跡」と刻まれていたが、戦災で削れてしまい、「那古」までしか読めない。那古屋城は織田信長が幼くして城主を務めた城として知られており、信長が生まれた城という説もある。最近の発掘調査により、名古屋城の三之丸も那古野城の城域であったという推定がなされている。名古屋城の三之丸遺跡の発掘調査により、那古屋城時代の堀と武家屋敷の区画溝が発見された。これらは名古屋家庭裁判所の南側で見つかっており、南北に伸びた二重の薬研堀であった。この発見された堀は、大永年間(1521-28年)駿河国の今川氏が築城したときのものと推測された。堀の上部の地層からは複数のU字型の浅い溝が見つかったが、これは武家屋敷の区画跡とみられ、薬研堀より新しい時代のものだが江戸時代より古いと推定される。天文元年(1532年)信長の父である織田信秀(のぶひで)は今川氏から那古屋城を奪ったが、これを契機に縄張りに変更を加えて、二重堀を埋め立てて那古屋城内に武家屋敷を造営したものと考えられている。永正13年(1516年)駿河・遠江国の守護職である今川氏親(うじちか)は、尾張国守護職・斯波義達(しばよしたつ)との遠江国での長い戦いを制して降伏させ、遠江平定に成功した。こうして斯波氏の威が衰えると、永正15年(1518年)以降、三河国の全域と尾張国の東半分は今川氏の支配下に置かれた。今川氏親は、那古野荘を治める今川那古野氏の当主・那古野高重(たかしげ)に、末子・左馬助氏豊(うじとよ)を養子として送り込み、大永年間(1521-28年)最前線となる熱田台地(名古屋台地)の北西端に那古野城の前身となる「柳之丸」を築城した。この今川那古野氏とは、名越流北条氏の北条高家(たかいえ)と、今川氏の祖である今川国氏(くにうじ)の娘との間に生まれた高範(たかのり)から始まった家である。家督を継いだ今川氏豊は、柳之丸を尾張経営の拠点とした。氏豊は連歌を好み、勝幡城(愛西市)の織田信秀とは敵味方を越えての文雅の友であった。天文元年(1532年)信秀は今川氏豊の連歌会に招かれて柳之丸に赴くが、病に伏してしまう。いよいよ病状が悪くなり、遺言を伝えるために信秀の家臣達を柳之丸に呼び集めた。しかし、これは信秀の計略で、夜になると城内から兵を挙げ、城外からも示し合わせていた織田丹波守らが攻め入った。この那古野合戦で柳之丸はあっけなく落城し、今川氏豊はそのまま京都に逃亡した。織田信秀は柳之丸を改修して那古野城と称し、勝幡城から居城を移した。尾張守護代である織田氏は、元々は尾張国守護職でもある三管領筆頭の斯波武衛(ぶえい)家の家臣であったが、応仁の乱で大和守家と伊勢守家に分裂しており、それぞれが主家の斯波氏を凌いで戦国大名化していた。清洲織田氏(大和守家)は清洲城(清須市)を本拠として、斯波氏を奉じて尾張下四郡を治めており、一方の岩倉織田氏(伊勢守家)は岩倉城(岩倉市)を本拠として尾張上四郡を治めていた。織田信秀は、清洲織田氏に仕える清洲三奉行と呼ばれた因幡守家、藤左衛門家、弾正忠家のうち、弾正忠家という庶流の当主に過ぎなかった。

三奉行の他にも、織田大和守家には小守護代と呼ばれた坂井大膳も存在した。しかし、織田信秀は津島を支配することにより勢力を拡大し、主家の清洲織田氏とも戦いを繰り返すほどに成長していた。天文3年(1534年)5月12日、信秀に三男の吉法師(きっぽうし)が生まれた。のちの織田三郎信長である。庶兄(しょけい)の信広(のぶひろ)・秀俊(ひでとし)がいたものの、正室の土田御前を母に持つ信長が嫡子であった。その生地は那古野城と考えられていたが、当時の公家の日記に天文2年(1533年)那古野城の今川竹王丸(氏豊)が蹴鞠名人の門弟になったと記述されていたり、那古野城近くの天王社と若宮八幡宮が兵火によって焼失して天文8年(1539年)に再建されたことから、那古野城の乗っ取りは天文元年(1532年)ではなく、天文7年(1538年)である可能性が出てきた。この説に従うと、信長は那古野城ではなく勝幡城で生まれたことになり、現在ではこの説が有力となっている。天文8年(1539年)尾張統一のため、織田信秀は古渡城(名古屋市中区橘)を築いて那古野城から拠点を移す。そして、天文13年(1544年)11歳にして那古屋城を譲り受けた吉法師には、筆頭家老・林秀貞(ひでさだ)、次席家老・平手政秀(まさひで)、青山与三右衛門、内藤勝介(かつすけ)といった家老が付けられた。この頃の信長は、「明衣(ゆかたびら)の袖をはづし、半袴、ひうち袋、色々余多(あまた)付けさせられ、御髪(おぐし)はちやせんに、くれなゐ糸・もゑぎ糸にて巻立てゆわせられ、太刀朱ざや」と描写されるように、袖なしの湯帷子(浴衣の原型)を着て半袴(足首までの長さの袴)をはき、火打ち石の入った袋など色々身につけ、髪は紅と萌黄(もえぎ)の2色の糸で派手に結い上げ、朱色の鞘の太刀を佩いた傾奇者の風体であった。少年期から青年期には奇行が多く、周囲から「大うつけ」と称されていたのは有名である。尾張半国を制圧した父の信秀は、対今川戦では圧倒的な強さを誇ったが、美濃国の斎藤道三(どうさん)には負け続けた。天文17年(1548年)織田信秀は斎藤道三と講和し、道三の娘である濃姫(帰蝶)を信長の正室に娶った。天文21年(1552年)織田信秀が没すると、「たわけ殿」と呼ばれた織田信長は弱冠18歳で家督を継ぐ。当時、織田家の菩提寺であった萬松寺(ばんしょうじ)は那古野城の南側にあり、ここに僧侶約300人を集めて信秀の葬儀が執り行われた。萬松寺は、松平竹千代(のちの徳川家康)が6歳から2年ほど人質として暮らした場所でもある。8歳年上の信長は萬松寺をたびたび訪れ、竹千代と交流したという。信長は信秀の葬儀にも奇妙な格好で現れ、仏前で抹香を投げつけるという愚行をおこなっている。この時は「長つかの大刀・わきざしを三五なわにてまかせられ、髪はちやせんに巻立、袴もめし候はで」とあり、長い柄の太刀と脇差しを三五縄(みごなわ)で巻き、茶筅髷(ちゃせんまげ)の髪型で、袴すら穿いていなかった。信秀の死後、信秀に重用されていた鳴海城(名古屋市緑区鳴海町城)の山口左馬助教継(のりつぐ)が駿河の今川義元(よしもと)に寝返った。教継は子の山口九郎二郎教吉(のりよし)を鳴海城に置き、笠寺に砦を構えて今川方の葛山長嘉(かずらやまながよし)、岡部元信(もとのぶ)、三浦義就(よしなり)、飯尾乗連(のりつら)、浅井政敏(あざいまさとし)といった武将を招き入れ、自らは桜中村城(名古屋市南区桜本町)の守備を固めた。天文21年(1552年)4月17日、この報に接した信長は兵800を率いて那古野城を出陣、鳴海城に向かい小鳴海の三之山へ着陣した。

小鳴海の三之山とは、現在の三王山(名古屋市緑区鳴海町三王山)である。これに対して山口教吉は鳴海城を出陣して三之山の東の赤塚(名古屋市緑区鳴海町赤塚)に1千5百の兵で現れた。その後、双方とも先陣を繰り出し、赤塚の地で戦闘に突入する。これは信長が当主となって最初の合戦である。この赤塚の戦いでは、矢戦の後、槍戦となり、両軍入り乱れての接近戦となって信長軍は30騎が討死した。結局、勝敗つかず双方とも帰陣した。この際、もともと顔見知りだったため、生け捕りになった者を交換、さらに敵陣に逃げ込んだ馬もお互いに返し合ったという。家督を相続したばかりの信長には余力がなく、山口教継・教吉父子を討つことはできなかったが、のちに山口父子は今川義元に呼ばれて駿府で切腹させられる。信長の調略ともいう。天文21年(1552年)8月15日、今度は清洲織田氏の家老である坂井大膳が、坂井甚介、河尻与一、織田三位らと謀り、信長方の支城である松葉城(大治町西條城前田)と、近くの深田城(大治町西條南屋敷)を襲撃、松葉城主の織田伊賀守と深田城主の織田信次(のぶつぐ)を人質とした。信次は織田信秀の弟である。尾張下四郡の守護代・清洲織田氏の当主は織田信友(のぶとも)であったが既に影響力はなく、『信長公記』によれば、坂井大膳、坂井甚介、河尻与一、織田三位らが織田大和守家の実権を握っていた。信秀の生前は、これら清洲衆を掌握していたが、信長にはそのような力はなかったのである。翌16日、信長は那古野城を出陣、守山城(名古屋市守山区)からは叔父の織田信光(のぶみつ)が応援に駆けつけた。信長は軍勢を松葉口・三本木口・清洲口に分け、信長・信光軍は庄内川を越えて、清洲城外の萱津(かやづ)付近(あま市甚目寺)へ移動した。これに対して清洲城からは坂井大膳の弟である坂井甚介が軍勢を率いて迎撃した。この萱津の戦いは、信長軍の中条家忠(ちゅうじょういえただ)と柴田勝家(かついえ)が2人がかりで敵将・坂井甚介を討ち取り、それ以外にも清洲勢50騎を討ち取ったという。松葉口では清洲勢を惣構えの中へ追い入れて、真島の大門崎で交戦がおこなわれた。数刻の矢戦の末、多数の負傷者が出た清洲勢は本城に退却した。また、深田口では三本木(大治町三本木)に要害がなかったため、進軍して清洲勢30余人を討ち取ったという。こうして信長は清洲勢を降参させ、深田・松葉両城を奪還した。天文22年(1553年)閏1月13日、信長の傅役で次席家老を務めた平手政秀が自害する。一般には信長の奇行を憂い、信長を諌めた死とされる。『信長公記』によれば、信長が政秀の長男・五郎右衛門の持つ馬を所望したが、これを断られたことで次第に信長と政秀父子に不和が生じたといい、死の真相は定かではない。しかし平手政秀の死後も信長の行状は改まらなかった。政秀が諌死したことを聞いた舅の斎藤道三は、その「うつけ」ぶりを確かめてみたくなり、信長との会見を申し出た。場所は尾張と美濃の国境近くにあった富田(とんだ)という集落の正徳寺(聖徳寺)で、現在の一宮市にあたる。天文22年(1553年)4月20日の会見当日、道三は町はずれの小屋に隠れて、信長の行列を覗っていた。このときの信長は、茶筅の髪に湯帷子の袖をはずし、太刀・脇差を荒縄で腰に巻いて、腰のまわりには猿使いのように火打ち袋と瓢箪(ひょうたん)を7〜8個ぶら下げ、袴は虎革と豹革の半袴といった予想どおりの「たわけ」の格好で現れた。しかし、三間間中柄(さんげんまなかえ)の6mを超える長槍隊を500名、弓・鉄砲隊を500名を引き連れており、信長の軍事力・経済力に驚いたという。

正徳寺に着いた信長は、屏風を立て長袴の正装に着替え、腰には小刀、髪も結い直した。この見事な変わり身に、信長の家臣ですら普段は「たわけ」を装っていたのだと驚いた。正徳寺の会見が終わり、その帰り道、道三の家臣・猪子兵介(いのこひょうすけ)が、信長はうわさ通りの大たわけだったと洩らしたが、道三は信長の非凡さを見抜いており、「わしの息子たちは、そのたわけの門前に馬をつなぐ(軍門に降る)事になるだろう」と評価した。信長も道三の器量を認め、改革者としての道三のやり方を積極的に吸収していく。斯波武衛家の14代当主で尾張国守護職の斯波義統(よしむね)は、織田大和守家に擁立されて清洲城に入るが、すでに守護としての実権はなく、彦五郎信友の傀儡として扱われた。義統はそんな状況を快く思わず、天文23年(1554年)信友が信長を謀殺する計画を企てたとき、信長にその計画を密告して支援を求めた。しかし、それを知った信友は激怒、小守護代の坂井大膳をはじめ、河尻与一、織田三位、川原兵助らが城内の守護館に乗り込み、斯波一族30余名と共に自害に追い込んだ。難を逃れた若武衛こと嫡男・義銀(よしかね)は、那古野城の信長のもとへ落ち延び、信長の庇護下に入る。義統の自刃からわずか6日後、信長は主家を討った謀反人の討伐という大義を以って清洲へ攻め込んでいる。そして山王口を突破、清洲城から迎撃してきた信友勢を安食村で打ち破り、この安食の戦い(中市場合戦)で河尻与一や織田三位など、多くの武将を討ち果たしている。天文24年(1555年)劣勢となった坂井大膳は、再起を期して信長の叔父・織田信光の調略に取りかかるが、逆に信光の謀略により清洲織田氏は滅びてしまう。『信長公記』によると、信光は大膳の誘いに応じるふりをして、4月19日に清洲城に入城する。翌20日、南櫓を守備していた信光の軍勢の異変を察知した大膳は清洲城から脱出するが、守護代の織田信友は逃げ遅れ、信光に殺害されて清洲城を奪われた。坂井大膳は駿河国の今川義元のもとに逃れるが、その後の消息は不明である。信光は奪い取った清洲城を信長に譲り渡すと、信長は那古野城を信光に与えて清洲城に本拠を移した。信光は守山城から那古野城に移るが、弘治元年(1555年)11月26日、信光は不慮の死を遂げた。『甫庵信長記』によると、信光の正室と密通していた家臣・坂井孫八郎により殺害されたという。その後、那古屋城には筆頭家老の林秀貞を城代として配置した。弘治2年(1556年)林秀貞・通具(みちとも)兄弟は、信長の弟・織田信行(のぶゆき)を奉じて謀反を起こすと、尾張の東半分の武将も一斉に蜂起した。林兄弟が率いる1千7百の軍勢は、那古屋城から信長の居城である清洲城を目指して進軍、これに対して信長は7百の親衛隊で迎え撃った。信行軍の大将である林通具は、信長軍を相手に前線で暴れ回った。そこに信長軍の黒田半平が歴戦の強者である通具に挑み、斬り合いは数時間におよび、半平は左手を打ち落とされた。そこに現れた信長は、通具を討ち取っている。大将を失った信行軍は総崩れ、この稲生の戦いは信長軍の勝利に終わった。敗れた林秀貞であったが、信長から謀反の罪を許されており、今までどおり宿老の立場に据え置かれた。守護・斯波義銀を擁立する立場となった信長は、やがて織田伊勢守家も滅ぼし、尾張を平定していく。信長の本拠が清洲城に移ったあと、那古屋城の重要性は薄れたかのように思うのだが、その後も大規模な拡張がおこなわれている。尾張国における軍事上の拠点として利用され続けていたのだが、天正10年(1582年)本能寺の変からほどなく廃城となった。(2004.12.17)

城跡に比定される二之丸庭園
城跡に比定される二之丸庭園

萬松寺にある織田信秀の墓所
萬松寺にある織田信秀の墓所

清洲城跡に建つ織田信長像
清洲城跡に建つ織田信長像

岩倉城跡の織田伊勢守城址碑
岩倉城跡の織田伊勢守城址碑

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