二条城(京都市中京区二条城町)の東方、押小路通に面した西福寺の山門脇には「豊臣秀吉妙顕寺城跡」の石碑が立つ。この西福寺一帯は羽柴秀吉の築いた二条第こと妙顕寺城の跡地であり、その長方形の城域は東西1町(約120m)、南北2町(約250m)であった。二条西洞院にあった妙顕寺を移転させ、跡地を接収して築いたことから現在では妙顕寺城と呼ばれるが、『兼見卿記』には「二条城」「二条之屋敷」「妙顕寺之屋敷」などと記されている。妙顕寺は、元享元年(1321年)日像(にちぞう)上人が開いた京都で最初の日蓮宗(法華宗)の寺院(道場)である。弘安5年(1282年)宗祖・日蓮(にちれん)の入滅の際、13歳という若さだった日像は遺命として京都での布教を託されたという。建武元年(1334年)後醍醐天皇より勅願寺に指定するという綸旨(りんじ)を賜っている。天文法華の乱においては城塞化した洛中法華二十一箇本山のひとつでもあった。たびたび場所は移ったが、戦国時代となる天文17年(1548年)にはこの地に存在していた。妙顕寺城は、秀吉が天下統一を成し遂げる過程の重要な政治拠点である。文献から天守が存在したことが分かり、下京の町衆に外堀を掘らせたことや、外城と城中の二重構造の縄張りであったこと、本殿・広間・主殿之外之座敷・奥之小座敷・庭などを有したこと、狩野永徳(えいとく)の障壁画があったことなどが分かっている。これらから妙顕寺城が防御施設であると同時に、儀礼空間を備えた権威の場であったことも分かる。西方の押堀町で発掘調査をおこなった際、幅10m、深さ1.4mの舟入とみられる遺構が見つかった。調査地の西側に堀川があったことから、この場所は妙顕寺城への積み荷の集積場であった可能性があるという。今まで文献でしか確認できなかった妙顕寺城だが、令和6年(2024年)の発掘調査により妙顕寺城の池の遺構が見つかった。妙顕寺城の遺構が見つかるのは初めてで、池を備えた庭園が存在したことが分かった。これにより、妙顕寺城の存在が考古学からも証明されたことになる。この池は、慶長年間(1596-1615年)に埋められたとみられている。現在、地上に遺構は何も存在しないため城跡として偲ぶべくもないが、古城町(ふるしろちょう)、下古城町という地名が僅かに当時を伝えている。妙顕寺城跡は、往古の平安京では左京三条二坊十五町と十六町に該当し、平安時代前期には左大臣・藤原冬嗣(ふゆつぐ)が造営した閑院(かんいん)という邸宅が存在した。そのため、藤原冬嗣は「閑院大臣」ともいわれた。邸宅には釣殿、茶室、花亭などを備えた優美な庭園があったと推測される。閑院は藤原公季(きんすえ)に伝領され、公季の子孫は閑院流と呼ばれた。鎌倉時代になると、鎌倉幕府が閑院を改修して紫宸殿・清涼殿を具えた本格的な殿舎を造営し、後鳥羽天皇から8代にわたって閑院内裏と呼ばれる里内裏となったが、正元元年(1259年)火災で焼失しており再建されることはなかった。この地に妙顕寺が移転して来たのは永正18年(1521年)で、室町幕府10代将軍・足利義稙(よしたね)の命により二条西洞院に造営されたと伝わる。室町時代後期、室町幕府管領の細川晴元(はるもと)は山科本願寺(京都市山科区)の証如(しょうにょ)と同盟し、一向一揆を使って政敵を排除している。河内守護代の木沢長政(きざわながまさ)が河内国守護職の畠山義尭(はたけやまよしたか)から離反して晴元の被官となった。そのため、天文元年(1532年)畠山軍が木沢氏の拠る河内飯盛山城(大阪府大東市)を包囲したが、晴元の命を受けた一向一揆がこれを打ち破り畠山義尭を自刃させている。
さらに目障りであった晴元の重臣・三好元長(もとなが)を10万ともいう一向一揆に攻めさせて、和泉国堺の顕本寺(大阪府堺市)にて自刃させている。勢いに乗った一向一揆は畿内各地で蜂起し、南都(奈良県)に乱入して諸坊を焼き払った。さらに京都の法華寺院を攻撃するという風説が流れ、法華寺院ごとに組織化した法華衆徒が新日吉口(いまひえぐち)、汁谷口(しるたにぐち)、山崎などで一向一揆と戦った。天文元年(1532年)一向一揆の暴徒化に脅威を感じた細川晴元は、南近江守護の六角定頼(ろっかくさだより)と法華一揆の連合軍に山科本願寺を攻撃させ、堂舎を焼き払った。翌天文2年(1533年)晴元の要請により法華一揆は、石山本願寺(大阪府大阪市)を攻撃するため摂津国まで出陣している。法華衆徒は京都で圧倒的な勢力を誇り、洛中警固を命じられ、洛中を囲む諸関を管理した。天文5年(1536年)松本新左衛門久吉(ひさよし)という法華衆徒が、比叡山延暦寺西塔(滋賀県大津市)の華王房(けおうぼう)を論破する事件が起こる(松本問答)。激怒した延暦寺は法華寺院を攻撃するため諸寺・諸大名に援兵を求め、六角定頼らが応じた。これに対して法華衆徒は戦いに備え、妙顕寺や本圀寺(京都市下京区)など洛中法華二十一箇本山を城塞化する。同年7月27日、延暦寺の僧兵と六角軍は洛中に攻め込み、激しい戦闘の末、法華寺院は壊滅した。この天文法華の乱の兵火により下京は全焼、上京は3分の1が焼失、その被害規模は応仁・文明の乱よりも激しかったとされる。同年、室町幕府は法華寺院の再興を禁止する禁令三箇条を布告して日蓮宗を禁教した。その後、天文11年(1542年)の後奈良天皇による法華宗帰洛の綸旨を受けて、妙顕寺は避難先の堺から京都に戻り、天文17年(1548年)伽藍を再建している。天正10年(1582年)織田信長は天下統一に向けて積極的に勢力を広げていた。筆頭家老の柴田勝家(かついえ)を始め、前田利家(としいえ)、佐々成政(さっさなりまさ)は北陸方面へ、滝川一益(かずます)は関東方面へ、羽柴秀吉は中国方面へ遠征しており、三男の織田信孝(のぶたか)は大坂で四国遠征の準備をしていた。また、細川藤孝(ふじたか)、池田恒興(つねおき)、筒井順慶(じゅんけい)、塩河長満(ながみつ)、中川清秀(きよひで)、高山右近ら、畿内とその周辺の武将のほとんどは、羽柴秀吉の援軍のため居城に戻って出陣の支度をしていた。信長も中国方面に出陣することになっており、長男の織田信忠(のぶただ)が軍勢を率いて妙覚寺(京都市中京区上妙覚寺町)に入って信長の到着を待っていたが、その軍勢はわずか700人であった。近江と丹波に拠点を持ち、京都を守護すべき明智光秀(みつひで)を除けば、畿内は空白状態であった。その時、光秀は愛宕山西坊(京都市右京区)の連歌会で「ときは今、天(あめ)が下知(したし)る五月哉(さつきかな)」と読んでいる。信長は近江安土城(滋賀県近江八幡市)を発ち、30人たらずの供を従えて本能寺(京都市中京区元本能寺南町)に入った。丹波亀山城(亀岡市)を出陣した光秀は、1万3千の軍勢を率いて京都に雪崩込み信長を襲う。この本能寺の変により織田信長は49年の生涯を閉じた。明智軍は織田信忠にも襲い掛かった。信忠は妙覚寺から二条御新造(京都市中京区二条殿町)に移って防戦、明智軍を3度も撃退している。明智軍は二条御新造に隣接する近衛前久(このえさきひさ)邸に入り、家人の逃げ出したこの屋敷を占拠して二条御新造を銃撃、信忠の家臣のほとんどを討ち果たした。京都所司代の村井貞勝(さだかつ)も討死している。
信忠は側近の前田玄以(げんい)に嫡男・三法師の保護を命じて脱出させ、自身は自害した。この時、織田信忠が前田玄以に託したという短刀「徳善院貞宗(とくぜんいんさだむね)」は現存している。その後、明智軍が近衛邸から攻撃したことに尾ひれが付いて、近衛前久が本能寺の変に加担していたという風説が流れた。同年(1582年)羽柴秀吉は中国大返しを敢行し、山崎の戦いで謀反人の明智光秀を破って、西国から京都への入口に当たる山崎の天王山山頂に山崎城(大山崎町)を築く。秀吉は、天正11年(1583年)4月21日に賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破ったことにより信長の後継者としての地位を確立、同年9月から石山本願寺の地に天下統一への拠点として摂津大坂城の築城が開始された。この大坂築城と並行して京都二条に上洛時の宿館の造営を計画している。信長が安土城と京都を頻繁に往復したように、秀吉も大坂城と京都を何度も往復することになる。信長が京都における宿所として本能寺や妙覚寺を使ったように、秀吉の宿所として選ばれたのが妙顕寺であった。本能寺や妙覚寺、妙顕寺は全て日蓮宗の寺院である。ただ、注目されるのは、秀吉の場合、妙顕寺の堂坊を間借りするのではなく、城郭として築き直している点である。それは、信長が明智光秀に本能寺を襲われ、防戦虚しく横死したことを教訓としたものと考えられる。秀吉は妙顕寺を小川寺之内に移転させて、その跡地に内堀と外堀を巡らせる妙顕寺城を築き始めた。普請奉行は京都所司代の前田玄以である。二条の地というのは、武家政権にとって意味のある場所であった。当時の二条大路は都でいちばん大きな通りであり、足利尊氏(たかうじ)から義満(よしみつ)まで、3代の将軍が二条に屋敷を構えたため、足利将軍家の屋敷を二条陣または二条城といった。その後、二条通に面していなくても将軍家の屋敷を二条陣または二条城と呼ぶようになっている。二条付近は京都の上京と下京の間にあたり、町屋が少なかったため、この付近に城館が築かれたという実情もあるらしい。しかし、武家の棟梁の京都における城館は、二条に構えるのがふさわしいと考えられるようになった。かつて、織田信長が室町幕府15代将軍の足利義昭(よしあき)のために築城した二条古城(京都市上京区武衛陣町)もそうである。この二条古城の地は、13代将軍の足利義輝(よしてる)の二条御所(武衛陣)があった場所と同じである。信長の在京屋敷として2年ほど使用した二条御新造も同様で、これは正親町(おおぎまち)天皇の第一皇子・誠仁(さねひと)親王に献じており二条御所と称された。妙顕寺城も二条通に信長が築いた二条御新造と妙覚寺跡を挟んで近接する場所を選地している。秀吉が二条の地にこだわったのにはそのような理由があり、後に徳川家康が二条城を築くのも同じ理由である。二条御新造に隣接した近衛前久邸は、元々は秀吉の屋敷であった。天正7年(1579年)秀吉が自邸として二条に建築したものを信長によって没収されてしまい、信長から近衛前久に献上されたという経過があった。『妙顕寺文書』によると、妙顕寺は「二条以南、三条坊門以北、油小路与西洞院間東西一町南北二町」の敷地を有していた。天正11年(1583年)9月5日に秀吉側から妙顕寺に対して在京時の屋敷にする旨の申し出があり、『兼見卿記』には9月11日付けで近々普請が始まるとの記載がある。そして、早くも11月9日に公卿の吉田兼見(かねみ)は妙顕寺城の城中で秀吉と対面しており、勅使として万里小路充房(までのこうじあつふさ)も派遣された。これが妙顕寺城の史料上の初見となる。
妙顕寺城の姿は詳しく分かっていないが、『貝塚御座所日記』に「要害ヲカマエ、堀ヲホリ、天主ヲアゲテアリ」とある。平素は前田玄以が居住して京都所司代の政務にあたり、秀吉が上洛すると宿舎に充てられた。京都所司代とは、信長や秀吉が京都の支配や治安維持のために、室町幕府の侍所(さむらいどころ)の長官である所司の代理の官に倣って設けたものである。前田玄以は京都所司代として洛中・洛外の警備、公卿・神社仏閣の管理を担当し、天正13年(1585年)丹波国亀山に5万石を領した。天正11年(1583年)11月から天正13年(1585年)10月までの2年間、『兼見卿記』に記された妙顕寺城への秀吉の滞在回数は12回で、従五位下左近衛今権少将や従三位権大納言、正二位内大臣の叙任など、秀吉の昇進時は妙顕寺城に勅使が遣わされた。このように上洛時の宿館だけでなく、朝廷との窓口機能を備えていたことが分かる。当初、秀吉は征夷大将軍の職を望んだとされる。征夷大将軍とは、武家政権が確立した鎌倉時代以降、武家の棟梁として政権を握った人物が任命される役職となった。同時に、鎌倉時代から続く先例によって、武家の棟梁である征夷大将軍は、清和源氏が相応しいという認識も確立されていた。清和源氏でなければ征夷大将軍になれないという訳ではない。『義昭興廃記』によると、天正13年(1585年)秀吉は備後国に流寓している足利義昭の養子になって、征夷大将軍の職に就こうとしたが、出自の賤しい者を子にすることは後代の嘲りになるとして、義昭の許しを得られなかった。やむなく秀吉は征夷大将軍を諦め、関白就任に方針変更した。一方、『多聞院日記』によると、信長の後継者として地位を固めつつあった羽柴秀吉に対し、朝廷から征夷大将軍の打診があったが、秀吉はこれを辞退したとあり、事実は分からない。いずれにしても秀吉は、公家の最高位である関白になった。史上はじめての武家関白の誕生である。秀吉は摂関家(藤原氏)の家職となっていた関白に就任するため、天正13年(1585年)7月に五摂家筆頭である元関白・近衛前久の猶子となり、同月中に妙顕寺城で関白任官を果たした。征夷大将軍ではないため二条へのこだわりはなくなり、関白としての職務を全うするため禁裏御所の近くに屋敷が必要になった。天正15年(1587年)関白の政庁として禁裏御所の西方1.5kmの地に聚楽第(京都市上京区多門町)を築城すると、妙顕寺城はその存在意義を失うことになる。秀吉が聚楽第に移ると、民部卿法印・前田玄以の邸宅として利用され「二条法印屋敷」と称されたという。江戸時代前期の絵図には、前田玄以の家臣の名が見える。慶長3年(1598年)豊臣秀吉が亡くなる直前に前田玄以は五奉行に任ぜられ、石田三成(みつなり)を筆頭とする五奉行のひとりとして内政に手腕を発揮した。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて前田玄以は西軍に属したが、決戦に際しては豊臣秀頼(ひでより)の後見を申し出て大坂城に留まり、最後までどちらにも加勢しなかった。この中立を保つ姿勢が徳川家康に評価され、丹波国亀山5万石の本領が安堵されている。慶長8年(1603年)徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が成立すると、板倉勝重(かつしげ)が京都所司代に就任した。江戸時代における所司代屋敷は、二条城の北側に設置された。当初は上屋敷、中屋敷(堀川屋敷)、下屋敷(千本屋敷)の3つに区画されており、上屋敷が政庁であり所司代の居所であった。一方、妙顕寺城の廃城時期については分かっていない。慶長年間(1596-1615年)妙顕寺城の跡地に西福寺が建てられたというので、それまでに破却されていたことになる。(2004.03.13)