村上城(むらかみじょう)

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戦国時代、軍神・上杉謙信を相手に堂々と反旗を翻した勇将・本庄繁長の居城

特徴的な村上城の出櫓の遺構
特徴的な村上城の出櫓の遺構

村上市街の東端に位置する標高135m、比高110mの臥牛山(がぎゅうさん)一帯に村上城跡が存在する。山頂の本丸から北に二ノ丸、三ノ丸と階段状に続き、元羽黒、帯曲輪、鉄砲倉、天神平といった曲輪が周囲を取り巻く。山上の城跡には、天守櫓、隅櫓、乾櫓、平櫓、出櫓、玉櫓、靱(ゆき)櫓といった櫓跡や、冠木門、埋門、黒門、御鐘門、四ツ門、坂中門、田口中門といった城門跡が残る。城山および山麓居館への正門となる西麓の一文字門は、内枡形の巨大な櫓門で、規模は村上城内で最大であった。一文字門の遺構としては、枡形東面の石垣の一部が約30mに渡って残存し、その南側半分には村上城跡保存育英会の建物が覆い被さっている。この一文字門跡から七曲道と呼ばれる山道を登ると、山上部に四ツ門の遺構が現れる。この四ツ門は、ひとつの門で四方四面に扉を持つという特殊な構造であった。往時は南北2つの多聞櫓が接続しており、現在も四ツ門の石垣とともに櫓台が残されている。四ツ門から北側には山上部で最も大きな曲輪である三ノ丸跡がある。その北端には2層の靱櫓が築かれていた。靱(ゆぎ)とは、矢を詰めて背負った籠のことで、この櫓にはそうした道具類が収納されていたと考えられる。三ノ丸の北東隅を固めていたのは2層の玉櫓であった。四ツ門から上り坂を南に向かうと、御鐘門跡がある。遺構の保存状況は良好で、南北2つあった多聞櫓の石垣がほぼ完全に残る。御鐘門の先が二ノ丸となり、本丸に向かって進むと、右手の土壇上に特徴的な高石垣がせり出している。この石垣上に築かれていたのが出櫓である。出櫓が2層か単層かは意見が分かれるが、出櫓の脇にあった黒門との連携で強力な防衛線を実現した。その先が本丸で、往時は望楼型3層天守を始めとして5基の2層櫓が建ち並んでおり、それらは多聞櫓によって接続されていた。本丸への入口は冠木門と呼ばれた枡形門のみであった。現在はこれらの石垣のみが見事に残っている。藩政の中枢であった山麓居館は、かつて御殿を中心に城山側を除く周囲を空堀や土塁で取り囲み、その上に一文字門、三重櫓、月見櫓、中櫓、刎橋門、角櫓、榧門、多聞櫓を配置した。村上城の場合、山上の主郭部をまとめて本城と呼び、城下を堀で区画して二ノ丸、三ノ丸とも呼んだ。城下二ノ丸には、北から下渡門(勘定門)、吉田門、小石垣門、中ノ門が構えられた。下渡門跡には石垣や堀跡の遺構が残る。本来は枡形であったが、現在は堀跡に面した多聞櫓の櫓台の一部が残されている。城下三ノ丸には、北から山辺里門、大手門、飯野門、羽黒門の4つの城門が構えられ、城山北側を囲郭していた新町曲輪には、東から耕林寺門、青木門、秋葉門(熊鷹門)が、東麓の田口曲輪には、北から市内門、田口門が構えられた。城下三ノ丸跡にある光徳寺(村上市羽黒口)は代々の城主の菩提寺となり、堀氏、榊原氏、内藤氏の墓碑が存在する。城下を囲む総構えの規模は、南北1.4km、東西2.3km、総延長12kmにおよんだ。かつては城下を何重にも囲んでいた土塁も、現在は藤基(ふじもと)神社(村上市三之町)の裏手などごく一部にしか存在しない。藤基神社土塁跡は飯野門に接続していた土塁跡で、脇のコンクリート道路(暗渠)は堀跡である。城下のまいづる公園(村上市庄内町)には旧嵩岡家住宅、旧岩間家住宅、旧藤井家住宅の3棟の武家屋敷が公開されている。城下には他に旧成田家住宅、若林家住宅などの武家屋敷が現存している。平成5年(1993年)村上城跡は国の史跡に指定された。村上城がいつ築かれたのか正確な年代は不明であるが、戦国時代には本庄氏の居城が知られ、当時は本庄城と呼ばれていた。

本庄氏は桓武平氏の秩父氏の流れをくむ。建永元年(1206年)頃、秩父季長(すえなが)の長男である行長(ゆきなが)に瀬波郡小泉庄の本庄の地頭職が与えられ、次男の為長(ためなが)には小泉庄の加納の地頭職が与えられた。行長の系統がのちに本庄氏を称し、為長の系統が色部(いろべ)氏を称した。戦国時代になると、本庄時長(ときなが)が臥牛山に本庄城を築城している。この16世紀初頭に築城された本庄城の面影は、七曲道のある西側斜面ではなく、国道7号線沿いの東側斜面に色濃く残っている。山頂東の帯曲輪群や、その下方には長大な竪堀が残り、本庄氏時代の遺構が確認できる。東麓に築かれた3段にわたる広大な田口曲輪は、本庄氏が居館とした「東ノ根小屋」の比定地である。永正3年(1506年)越後守護代であった長尾為景(ためかげ)は、越後国守護職上杉房能(ふさよし)の養子である定実(さだざね)を擁して房能に謀反を起した。永正4年(1507年)為景に敗れた房能は、実兄の関東管領上杉顕定(あきさだ)を頼り関東へ逃亡するところを自害に追い込まれる。揚北衆と呼ばれた国人領主の中でも有力者だった本庄時長、色部昌長(まさなが)、竹俣清綱(たけのまたきよつな)らは、房能の弔い合戦と称して台頭する長尾為景に兵を挙げたが、為景は同じ揚北衆の有力者である中条藤資(ふじすけ)、築地忠基(ただもと)、安田長秀(ながひで)らに命じて本庄城を攻撃させた。猛攻を受けた本庄城は陥落して、本庄氏は降伏、この戦いで時長の嫡男の弥次郎が戦死している。揚北衆の反抗はたちまち平定されたが、永正6年(1509年)殺された房能の復讐のために上杉顕定が越後に入国すると、長尾為景らは蹴散らされ越中へと落ちていった。しかし、永正8年(1511年)体勢を立て直した為景が、関東へ逃れようとした顕定を追撃して討ち取っている。天文2年(1533年)上条定憲(じょうじょうさだのり)が為景打倒の兵を挙げると、本庄時長の後継である大和守房長(ふさなが)や色部氏ら揚北衆は為景の下から離れて上条方に加わった。この戦乱は、次第に為景方が不利となり、ついに為景は隠退を決意して、嫡子晴景(はるかげ)に家督と守護代職を譲った。長尾晴景は病弱で、越後の戦乱を治める力に乏しく、為景に幽閉されていた上杉定実を守護職に復帰させている。定実には男子がなかったため、後継者として外孫にあたる伊達稙宗(たねむね)の子・時宗丸との養子縁組を望み、伊達氏との折衝には中条藤資があたった。時宗丸の母は藤資の妹である。これに対し、中条氏の勢力が強大化することを懸念した他の揚北衆は一斉に猛反発した。その急先鋒となったのが本庄房長である。中条藤資は伊達氏の支援を得て本庄城を攻撃しているが、房長は鮎川氏や小川氏らの一族を糾合して攻撃を防ぎ、庄内の大宝寺晴時(だいほうじはるとき)と同盟を結んで伊達・中条連合軍に対処した。本庄房長には、長資(ながすけ)という実弟がおり、同族の小川長基(ながもと)の養子になって小川氏を継いでいた。天文8年(1539年)本庄房長は大宝寺氏を支援するため庄内に向かっていた。このとき鮎川清長(きよなが)も同陣することになっていたが、清長は約束を破って出陣しなかった。さらに、かねてより兄に不満を抱いていた小川長資が房長の留守に乗じて本庄城に攻め込み、房長の居城を乗っ取ってしまったのである。出征先で小川氏の反逆を知った房長は怒り狂い、急ぎ軍勢を返そうとしたが、あまりに激しい興奮のため憤死してしまった。おそらく心臓発作と考えられる。

出産間近だった房長の妻は、本庄城内にあって小川氏の兵を防いだが、全身に傷を負って倒れていたのを鮎川氏の家臣に発見されて、付近の寺に担ぎ込まれて何とか蘇生したという。または、妊娠したまま小川長資に犯されて、長資の妻にさせられたとも伝わる。いずれにしても、その数日後には男の子を産み落としている。激動のため早産であったようだが、このとき生まれた千代猪丸こそが後に上杉謙信(けんしん)麾下の勇将として名を馳せる本庄繁長(しげなが)である。この内紛には同族の色部勝長(かつなが)が調停に入り、産まれたばかりの千代猪丸を本庄氏の当主とする代わりに、小川長資を陣代(後見人)として当主の代行を認めることで収めた。上杉定実の養子の話が破談になると、長資は守護代の後継者に長尾景虎(のちの上杉謙信)を擁立する動きに加担した。小川氏は繁長を蔑ろにして、本庄氏の家中で権勢を振るい、それに鮎川氏も加担していた。天文20年(1551年)12歳になった本庄繁長は、耕雲寺(村上市門前)にて父房長の13回忌を主催しており、叔父の小川長資がこれに参列したとき、繁長は手勢を率いて長資を襲って切腹させている。このとき、鮎川清長も討ち取ろうとしたが、再び色部勝長の調停によって両者は和解した。こうして繁長は当主の実権を取り戻すことに成功しており、元服して本庄城主となった。本庄繁長は、永禄元年(1558年)から上杉謙信の麾下に属して勢力を伸張し、上杉氏の家臣団の中でも中条藤資に次ぐ地位を確立、川中島の戦いや関東攻めなど、越後国内はもちろん近隣諸国にまで勇名を馳せる活躍をしている。しかし、永禄11年(1568年)29歳の本庄繁長は武田信玄からの誘いに応じて、謙信に対して謀反を起こした。繁長は謙信に仕えて戦陣に明け暮れたが、感状を賜るのみで領地が増えることはなく不満が募っていた。謀反にさき立ち、繁長は同じ揚北衆の色部氏や中条氏らに協力を求めたが失敗、さらに鮎川清長も謙信側についたため、孤立した繁長は本庄城に籠城した。現在の村上市街地は三面川(みおもてがわ)の氾濫原であり、この当時は飯野ヶ原という荒地であった。謙信は越後の武将たちに総動員をかけ、自ら軍勢を率いて出陣してきた。繁長は屈することなく頑強に抵抗したため、本庄城を包囲したまま年を越した。この攻城戦は10か月にもおよぶ。繁長が守る本庄城は容易には落ちず、岩船、猿沢、大場沢、笹平、大栗田などで両軍は幾度も戦った。また、飯野ヶ原でも両軍が激突する大規模な野戦(飯野ヶ原の戦い)がおこなわれている。この戦いで色部勝長は戦死した。繁長は信玄からの援軍を頼りに孤軍奮闘したが、信玄からは援軍どころか兵糧が届いたのみで、この隙を衝いて武田軍は駿河に侵攻した。このころ信玄は南進を計画しており、謙信を越後に釘付けにしておく必要があったのである。利用されたことに気付いた繁長は、伊達・蘆名氏の仲介を入れて謙信に降り、この反乱は収束した。繁長は嫡子の顕長(あきなが)を人質として府中に差し出し、所領の一部が削られただけで許された。繁長の将器を惜しんだ謙信の計らいともいえる。ちなみに、この削られた所領が鮎川清長に与えられたため、元亀2年(1571年)これを恨んだ繁長は清長を攻め滅ぼしており、謙信に咎められた。上杉家に戻った繁長には活躍の機会は与えられず、謙信の政権下では不遇の時代を過ごしている。このため、天正6年(1578年)の御館の乱では、繁長はいち早く上杉景勝(かげかつ)に加担して、立場の強化を図った。翌年には御館(上越市)が陥落しており、乱は景勝の勝利に終わった。

上杉景虎(かげとら)に従った長男の本庄顕長は、廃嫡を条件に繁長の功に免じて助命された。繁長の次男・義勝(よしかつ)は大宝寺義興(よしおき)の養子となり、庄内地方への影響力も強化している。天正9年(1581年)新発田重家の乱が勃発しており、この乱の鎮圧は天正15年(1587年)までかかるが、景勝方で中核となって働いたのは繁長であった。こうして謙信時代に失った信頼を回復し、再び景勝政権下の重鎮として返り咲くことに成功した。一方、天正15年(1587年)山形の最上義光(よしあき)が庄内地方に侵攻、繁長は新発田攻めで動けず、出羽尾浦城(山形県鶴岡市)を落とされた大宝寺義興は自害に追い込まれた。しかし義勝は難を逃れ、天正16年(1588年)本庄繁長・大宝寺義勝父子は庄内奪還のために派兵し、十五里ヶ原で最上軍に壊滅的被害を与えて、庄内全域を平定するという活躍を見せている。大宝寺氏は義勝により再興された。しかし、天正18年(1590年)奥羽各地で一揆が発生すると、天正19年(1591年)繁長・義勝父子は豊臣秀吉から庄内の藤島一揆を煽動した疑いにより大和国に蟄居を命ぜられた。その結果、本庄城と周辺の領地は直江兼続(かねつぐ)の実弟である大国実頼(おおくにさねより)の管理下におかれ、大国氏の家臣・春日元忠(もとただ)が代官として本庄城に入城した。文禄元年(1592年)繁長は秀吉に朝鮮出兵の参陣を願い出て許され、上杉景勝に従って朝鮮に渡った。そして、慶長3年(1598年)上杉景勝の会津転封に従い、陸奥国田村郡守山に移った。この頃の本庄城は、慶長2年(1597年)頃に作成された『越後国瀬波郡絵図』で確認できる。「村上ようがい」と記された本庄城は、現在と同様に大きく数段に削平され、七曲道も確認できる。建築物はほとんどが平櫓で、石垣は用いられず、木柵で曲輪を仕切っている。本庄氏に代わって城主になったのは、堀秀治(ひではる)の与力大名であった村上頼勝(よりかつ)が9万石で入封した。西国の築城技術に精通していた村上氏の時代に石垣が導入され、城名も村山城に改められた。元和4年(1618年)2代忠勝(ただかつ)のときに改易となり、堀直寄(なおより)が長岡から10万石で入封する。この時代に村上城は大改修され、城下に総構えを築き、初めて3層天守も造営された。堀氏は3代直定(なおさだ)まで続くが、寛永19年(1642年)直定が夭折して嫡流が断絶、村上藩は一旦廃藩となった。その後、出雲崎代官が管轄する幕府領を経て、正保元年(1644年)本多忠義(ただよし)が10万石で村上藩を立藩し、慶安2年(1649年)15万石の松平直矩(なおより)に代わった。直矩は村上城を大規模に改修し、天守・櫓等が新たに造り直された。天守の外観は、唐破風を備えた華美なものに一新されたという。寛文7年(1667年)榊原政倫(まさみち)が藩主になると、同年に落雷により天守が焼失、わずか4年で天守を失い、以後再建されることはなかった。榊原氏は2代続き、その後は、本多氏が2代、松平輝貞(てるさだ)、間部氏が2代と目まぐるしく代わり、享保5年(1720年)内藤弌信(かずのぶ)が5万石で入城すると、内藤氏が幕末まで8代続いた。幕末の動乱において、奥羽越列藩同盟に加盟した村上藩であったが、藩内では抗戦派と恭順派が対立を深め、慶応4年(1868年)藩論をまとめきれなかった藩主の内藤信民(のぶたみ)が自害する事件が発生、統制が取れなくなった。新政府軍が迫ると恭順派の藩士は退去、抗戦派は村上城での籠城を諦め、山麓居館に火を放って脱出し、庄内藩に合流した。こうして新政府軍は村上城に無血入城している。(2014.05.06)

本丸南西隅に現存する天守台
本丸南西隅に現存する天守台

四ツ門と多聞櫓の石垣の遺構
四ツ門と多聞櫓の石垣の遺構

下渡門跡に残る櫓台の一部
下渡門跡に残る櫓台の一部

飯野門に接続していた土塁跡
飯野門に接続していた土塁跡

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