宮尾城(みやおじょう)

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日本三大奇襲のひとつに数えられる厳島の戦いの舞台となった毛利元就の囮城

西曲輪群のある要害山の山頂
西曲輪群のある要害山の山頂

広島湾の北西部、広島市中心部から南西約20kmに位置する厳島(いつくしま)は、通称を宮島(みやじま)という。島の規模は、長径約9km、短径約4km、周囲約30kmで、対岸とを隔てる海峡は「大野瀬戸」と呼ばれる。「いつくしま」の呼び名は「神をいつきまつる島」に由来するといわれており、海上に浮かぶ朱の大鳥居と社殿で知られる厳島神社(廿日市市宮島町)が有名であるが、古くは島そのものが神として崇拝された。厳島神社が海にせり出して築かれたのは、神の島とされた神聖な土地に、社殿を建てることを避けたためといわれる。伝承では、推古天皇元年(593年)佐伯部(さえきべ)の有力者であった佐伯鞍職(さえきのくらもと)が厳島神社を創建し、大同元年(806年)には唐から帰国した空海(くうかい)が厳島に立ち寄り、最高峰(535m)の弥山(みせん)を開山したと伝えられる。このとき空海によって焚かれた護摩の火が、1200年以上たった現在でも燃え続けており、この火を「消えずの霊火」といい、山頂近くの不消霊火堂(きえずのれいかどう)で見ることができる。厳島神社が現在の威容になったのは、平家一門の後ろ盾を得た平安時代末期である。平清盛(きよもり)が寝殿造りの様式で厳島神社を整備した。当時の社殿は、承元元年(1207年)と貞応2年(1223年)の2度の火災で失い、現存する社殿の多くは、仁治2年(1241年)に再建されたものであるが、本社本殿だけは、元亀2年(1571年)の建造である。これは、毛利元就(もとなり)の長男・隆元(たかもと)を暗殺した嫌疑により、永禄12年(1569年)元就の命で家臣の和智誠春(わちまさはる)・柚谷元家(ゆたにもといえ)兄弟が厳島神社で殺害される事件があり、血で穢れた本社本殿は元就によって建て替えられたためである。現在、本殿・幣殿・拝殿・祓殿・廻廊(すべて国宝)などのほか、主要な建造物は国宝または国の重要文化財に指定されている。また、昭和4年(1929年)弥山北麓の原始林が天然記念物、昭和27年(1952年)全島が特別史跡・特別名勝の指定を受け、平成8年(1996年)厳島神社とその背後の弥山一帯がユネスコの世界文化遺産に登録された。この厳島には、かつて毛利元就によって築かれた宮尾城があった。敵対する陶晴賢(すえはるかた)をおびき寄せるための城であり、日本三大奇襲のひとつである厳島の戦いの舞台となった城としても知られている。宮尾城は、厳島の北西にある要害山(ようがいざん)と呼ばれる標高27mの丘陵を中心に築かれた連郭式平山城である。往時は山麓まで海が迫っており、三方を海に面する海城であった。海上に突き出た縄張りにより、味方の警固衆(水軍)と連絡できる特色も合わせ持っていた。現在の宮島桟橋のすぐ南に位置している。全体的に急峻な地形であるが、曲輪や堀切がわずかに残るだけで遺構は少なく、山頂には東屋(あずまや)があり、一段下がって今伊勢神社という小規模な社が鎮座する。この辺りが西曲輪群で、堀切のある東の鞍部を経て東曲輪群がある。東曲輪群の山頂の曲輪に向かう途中に石積みの跡が残る。西曲輪群には5つの曲輪が、東曲輪群には帯曲輪も含めて10の曲輪が残るという。宮尾城は毛利元就が厳島の戦いに先だって急造した陣城のように考えられているが、実際にはそれ以前より存在していたようである。厳島は瀬戸内航路の重要拠点で、天然の良港を持つため、戦国期には大内氏が支配し、東征する際の軍港として用いられてきた。元就による宮尾城の改修には、人夫1千人を使って1か月程度かかっており、脆く崩れやすい地盤を固めるために石積みも使用されている。

防長二国を核として、周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護職を務めた西国随一の戦国大名・大内義隆(よしたか)は、天文20年(1551年)重臣で周防守護代の陶隆房(たかふさ)の謀反により自害に追い込まれた(大寧寺の変)。陶隆房は晴賢と改名し、大内義長(よしなが)を傀儡の当主として大内家の実権を掌握している。この事件に対し、大内義隆の義兄であった石見三本松城(島根県鹿足郡津和野町)の吉見正頼(よしみまさより)が、弔い合戦として挙兵、安芸で勢力拡大していた毛利元就・隆元父子に援軍を要請した。この三本松城とは津和野城のことで、戦国時代までは三本松城と呼ばれていた。一方、陶晴賢も元就に対して吉見氏討伐の出陣を要請している。この頃の晴賢は周防・長門を掌握し、石見・安芸・豊前・筑前にも勢力を拡大していたので、安芸半国にも満たない毛利氏が対抗できる相手ではなかった。当初は陶氏に従っていた元就であったが、天文23年(1554年)大内家から離反して、陶氏方の拠点であった佐東銀山(さとうかなやま)城(広島市安佐南区)、己斐(こい)城(広島市西区己斐上)、草津城(広島市西区田方)、桜尾城(廿日市市桜尾本町)の諸城を攻略、厳島にも渡り晴賢の家臣・深野小右兵衛ら番衆を追放して占拠した。わずか1日で佐東銀山・己斐・草津・桜尾の4城と厳島を押さえ、これにより陶氏との断交を明らかにしている。これを防芸引分(ぼうげいひきわけ)という。さらに、仁保島(にほじま)城(広島市南区)の白井賢胤(しらいかたたね)を駆逐して仁保島を奪取した。これを知った陶晴賢は激怒し、麾下の宮川甲斐守房長(ふさなが)に7千の兵を授けて差し向けた。宮川房長の軍勢は南下して毛利軍の拠点である桜尾城の西方の折敷畑山(おしきばたやま)に着陣した。このとき毛利元就は、土一揆を鎮圧するため桜尾城にいた。その後におこなわれた折敷畑の戦いでは、毛利軍3千余は4隊に分かれて宮川氏の陣に殺到し、大将・宮川房長をはじめ750余の首をあげて潰滅的打撃を与えている。天文24年(1555年)矢野城(広島市安芸区)の野間隆実(のまたかざね)が陶氏に与し、白井賢胤とともに仁保島を攻撃するが、仁保島城将の香川光景(みつかげ)に撃退され奪回には至らなかった。これに対して元就は、矢野城に猛攻を加えて落城寸前まで追い詰めた。野間隆実は命の保証を条件に降伏を受け入れて開城するが、約束を反古にされ、退去した家臣や城兵もろとも虐殺された。従来、降伏した者を赦す元就であったが、陶晴賢との決戦直前という時期であり、仕方のない措置であったとされる。弘治元年(1555年)春、毛利元就は厳島に囮の城として宮尾城を構築した。厳島神社の少し東方にある有ノ浦の岬を利用している。元就が厳島を決戦場に選んだのは、戦力的に優位な陶氏とまともに戦っても勝ち目がないため、あえて狭隘(きょうあい)で行動が制約される場所を選んだとされる。このとき、草津城・桜尾城・仁保島城などの整備もおこなった。宮尾城が完成すると、中村二郎左衛門という武将を置いて籠城の準備をさせた。元就は厳島を決戦場と決めてからは、内通偽装など、あらゆる手段を使ってこの島に陶晴賢をおびき寄せようとした。5月13日、晴賢は警固船約100艘で宮尾城を襲撃させて有ノ浦を焼いた。ここにおいて元就は、宮尾城に厳島神社の神領衆である己斐豊後守直之(なおゆき)と新里宮内少輔元政(もとまさ)を派遣し、決死隊として兵500を与えた。この主将・己斐直之と副将・新里元政は、陶方の己斐城と桜尾城で元就に降伏した武将である。

両者は元就のために必死に働くしかなかったし、両者の存在は裏切られた晴賢を刺激した。7月7日、晴賢は白井賢胤に命じて宮尾城を攻撃させたが、城兵の抵抗によって再び撃退された。宮尾城の攻略に失敗した晴賢は、今度は厳島を孤立させるために大内水軍の中核を担う三浦房清(ふさきよ)を派遣して仁保島を占領しようとした。房清は警固船数艘に精兵500を乗せて仁保島へ渡ったが、仁保島城の香川光景が手勢200を率いて応戦したため退散した。晴賢は三本松城の戦いを継続していたため主力部隊を動かせず、戦闘が大規模化することはなかった。しかし、8月下旬に吉見正頼との和睦を成立させると、対毛利戦に本腰を入れることになる。弘治元年(1555年)9月21日、陶晴賢は総勢2万余の軍勢を率いて、5百余艘の大船団で周防国玖珂郡今津から海上20km先の厳島へ向けて出発、翌22日の早朝から大元浦への上陸を開始した。元就の誘いに乗った晴賢は、全軍を厳島に投入してしまうのである。陶軍を上陸させた警固船は、そのまま長浜、有ノ浦、大元浦、須屋浦などの海岸に配備し、大野瀬戸に向けて警戒態勢を取った。水軍の主力は、宇賀島・大浜・桑原・神代・沓屋・浅海など屋代島衆で、警固衆の大将は宇賀島十郎左衛門であった。上陸した陶軍の先陣は三浦房清と大和興武(おきたけ)の部隊で、厳島神社の北東の塔の岡へ進んだ。陶晴賢の率いる本隊は、厳島神社を挟んで反対側の勝山城(廿日市市宮島町)に本陣を置いている。勝山城は、大永4年(1524年)頃に大内義隆の父である15代当主・義興(よしおき)によって築かれたとされる。厳島神社の宝物館裏の多宝塔のある丘に築かれていた。現在は石碑があるのみで遺構は見当たらない。勝山城に入った晴賢は、ここから宮尾城が見通せず指揮に不便だということで、先陣の置かれた塔の岡まで本陣を進めている。塔の岡という名称は、「五重の塔がある丘」に由来する。ここからは宮尾城内の毛利勢の動きが手に取るように分かる。陶軍は付近の民家を撤去させ、宮尾城と向き合う正面に逆茂木や木柵を二重三重に廻らせた。宮尾城は陶軍の攻撃開始から数日で堀を崩され、櫓は傾き、落城寸前の状態にまで陥ったが、籠城する500人程度の城兵で持ちこたえていた。9月24日、毛利元就の本隊4千が、水軍基地である草津城に着陣すると、26日に宮尾城の援軍として熊谷信直(くまがいのぶなお)と警固船50余艘を送り込んだ。囮城が落城してしまったら、この作戦は失敗である。なお、この熊谷氏は、平安時代末期に源平合戦で活躍した熊谷直実(なおざね)の直系の子孫である。熊谷信直は、長男・高直(たかなお)、次男・直清(なおきよ)、三男・広真(ひろざね)、四男・三須隆経(みすたかつね)ら4人の息子とともに落城寸前の宮尾城へ合流して防戦を続けるが、いつ陥落してもおかしくない状況であった。このときの毛利氏の水軍は、毛利家直轄の川ノ内警固衆と小早川家麾下の沼田(ぬた)警固衆、その沼田衆との誼で早くから加担を申し出ている因島村上衆で、それらを合わせても2百艘に及ばない。小早川隆景(たかかげ)は家臣の乃美宗勝(のみむねかつ)を通じて、沖家水軍(能島村上・来島村上氏)に協力を要請しており、1日だけでよいから加勢してほしいと働きかけていたが、27日になっても現れなかった。乃美宗勝は沼田水軍の総大将で、能島村上武吉(たけよし)と姻戚関係である。囮城である宮尾城が陥落してしまうと、陶晴賢は宮尾城に番兵を置いて、すぐさま海田市(かいたいち)へ上陸、毛利氏の本城である吉田郡山城(安芸高田市)が襲われるという、そういう瀬戸際であった。

沖家衆の加勢をこれ以上待つことはできず、諦めかけていたところ、翌28日になって沖家水軍3百艘の大船団が廿日市沖へ来援したという。一方で、厳島合戦には沖家水軍すなわち能島村上・来島村上水軍は参戦していなかったという説もある。それは毛利家から沖家衆への感状が一通も発見されていない事による。しかし、当時の記録である『棚守房顕(たなもりふさあき)覚書』、『三島海賊家軍日記』、『厳鳥合戦之記』、『二宮佐渡覚書』、『森脇覚書』、『桂岌円(きゅうえん)覚書』などの史料には記載されており、永禄11年(1568年)元就が隆景に宛てて「今度予州への儀、来島扶持をもって隆元我ら頸(くび)をつぎたる事候、その恩おくりに候ほどに云々」と書いているので、史実と断定できそうである。9月晦日(29日)夜、毛利元就は3千の毛利軍本隊を率いて、暴風雨の中を厳島に渡海し、島の反対側の包ヶ浦に上陸、吉川元春(きっかわもとはる)を先陣として博奕尾(ばくちお)の尾根に登って布陣した。一方、小早川隆景が率いる沼田水軍は、別働隊として闇の中を厳島神社の大鳥居から堂々と島へ向かっていった。そして、筑前国から援軍に来た宗像水軍と偽り、港に入って上陸を敢行、塔の岡の坂下まで近づいて味方の合図を待った。10月1日の早朝、元就は全軍に突撃命令を出した。毛利軍本隊が塔の岡の背後から陶軍の本陣を急襲、続けて毛利軍別働隊が山坂を駆け上がる。このとき、宮尾城からも城兵が反撃に打って出た。前後から挟撃された陶軍は、大人数のため自由が利かず混乱し、総崩れとなって海辺をめざして敗走した。大元浦では、厳島から脱出するために船の奪い合いとなり、大勢で乗船したため転覆して溺死する者が続出している。さらに、沖合いで待機していた能島村上武吉の指揮する村上水軍によって、船に火を掛けられたり、乗っ取られたりして退路を断たれた。三浦房清は陶晴賢の脱出を助けて殿軍を務め、奮戦のすえ小早川隊に討ち取られた。晴賢は大元浦へ逃れるが、海岸には一艘の船もなく、『棚守房顕覚書』によると、進退極まった晴賢は、大江浦で宮川市充の介錯にて自刃したという。一説に、晴賢はさらに山を越えて東海岸の青海苔浦へ出たともいう。そして、ここにも渡船がなかったので山中に引き返し、高安ヶ原という場所で自刃したという。陶晴賢の辞世の句は「何を惜しみ何を恨みん元よりも、この有様に定まれる身に」である。享年35歳であった。最期まで従った伊香賀隆正(いかがたかまさ)、柿並隆正(たかまさ)、山崎隆方(たかかた)らも晴賢の頸を隠して自刃した。猛卒揃いで知られる弘中隆包(ひろなかたかかね)・隆助(たかすけ)父子ら百人余は、大聖院を経由して天険の駒ヶ林(標高約509m)の龍ヶ馬場に籠もった。3日間の孤軍奮闘の末、10月3日に吉川隊に囲まれて全滅している。10月4日、毛利軍によって山中に潜伏していた乙若(おとわか)という晴賢の草履取りだった少年が捕らえられた。これにより晴賢の首級の隠し場所が判明し、晴賢の首は元就の手に渡った。そして10月5日、廿日市の桜尾城にて陶晴賢の首実検がおこなわれた。このとき元就は、主君を討った逆臣として晴賢の首を鞭で3度叩いたと伝わる。10月11日まで毛利軍は山狩りをおこなって敗残兵を掃討し、厳島の戦いで戦死した将兵の遺骸は全て対岸の大野へ運び出した。また、血で汚れた厳島神社の社殿を潮水で洗い流して清めさせ、血を吸った地面は徹底的に削り取ったという。毛利軍による塔の岡の奇襲によって、陶氏の軍勢はわずか一日で壊滅した。その戦死者は4千7百余名と伝わる。その後の宮尾城の処遇は不明である。(2019.03.22)

海側から見た宮尾城跡の遠景
海側から見た宮尾城跡の遠景

宮尾城の鞍部を断ち切る堀切
宮尾城の鞍部を断ち切る堀切

東曲輪群に残る石積みの跡
東曲輪群に残る石積みの跡

宮尾城跡から遠望する塔の岡
宮尾城跡から遠望する塔の岡

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