三原城の城下町を起源とする三原市は、広島県の中央東部に位置し、中国・四国地方のほぼ中央に相当する。三原という地名は、平安時代中期に編纂された『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』の郡・郷名の中に「柞原(みはら)」、「美波良(みはら)」として確認できる。現時点で「三原」表記の最古の史料は、石手寺(愛媛県松山市)にある嘉元4年(1306年)の鉄製燈籠台座で、「備後国三原之大工津守守真(つもりもりざね)」という銘文が鋳込まれている。他には、永寿寺(世羅町)に所蔵される永和2年(1376年)から4年をかけて書写された大般若経の奥書に「備後国御調(みつぎ)郡三原金剛寺」とある。これらから、14世紀には「三原」と表記されていたことが分かる。国指定史跡である小早川氏城跡は、沼田小早川氏の4代当主・茂平(しげひら)から17代当主・隆景(たかかげ)までの本拠であった高山城(三原市高坂町)、16世紀半ば頃に小早川隆景が高山城から移った新高山城(三原市本郷町)、そして16世紀後半に隆景によって築かれた近世城郭・三原城の3つの城跡が一括して指定される全国的にも珍しい例である。奇しくも、この小早川氏城跡(高山・新高山・三原)は、いずれもJR山陽新幹線の線路によって串刺しにされている。とりわけ三原城では、昭和50年(1975年)の山陽新幹線開業とその後の三原駅高架化によって本丸跡が駅と一体化し、城郭の中心部を新幹線が貫くという全国的にも類例の少ない景観となった。その一方で、この景観は近代化による史跡の改変を今に伝えている。ちなみに、三原城では一般的な「天守台」ではなく「天主台」と表記する。これは、三原城が天主という表記を使用していた古い時代に築かれた城であり、江戸時代の古絵図にもその表記が残されていることから、三原市ではそれを尊重して天主台を用いている。この天主台跡へは三原駅のコンコース内から直接入ることができ、「駅チカ」というより「駅ナカ」の城跡である。三原城は、沼田川(ぬたがわ)河口の瀬戸内海に面したデルタ地帯に、大島・小島をつないで築かれた海城で、海に向かって3か所の船入りを開くことで軍港としての機能も備えた。水軍を有する小早川氏ならではの城郭であった。満潮時には海に浮かんでいるように見えたことから、浮城(うきしろ)の異名を持っている。縄張りは、巨大な天主台を北側に頂く本丸を中心に、その東・西・南の三方に二之丸、さらに東側に三之丸と東築出、西側に西築出を設けた梯郭式平城であった。城域は東西約900m・南北約700mの規模で、かつて城内には2層櫓が32基、城門が14棟もあったとされる。和久原川(わくばらがわ)を東端の備えとし、海につながる水堀が複雑に巡らされていた。小早川氏ゆかりの寺院は新高山城周辺から三原城の北側に移され、寺町が形成された。また、西国街道を城内に取り込み、城下町と一体的に整備された城郭であった。現在では市街化が進み、天主台と周囲の水堀、船入櫓跡、中門跡などの石垣を残すのみである。日本最大級の規模を誇る三原城の天主台は、安芸広島城(広島市)の5層天守が6つ収まるほどの広さを持つ。実際には、天主台の三方の隅に2層櫓を配し、それらを多聞櫓で連結した構造で、独立した天守は存在しなかった可能性が高いとされる。一方で、福島正則(まさのり)時代に鞆城(福山市鞆町)の3層天守を三原城に移築したという伝承も残る。これらを踏まえると、天主台というより天主曲輪であったと考えることもできる。この高さ約15mの天主台の石垣は、余人は真似るべきではないとされた「アブリ積み」という特殊な工法で積まれている。
この積み方は、石材の見付(表面に見える部分)が大きく、控え(石垣内部へ入り込む部分)が短いため、崩落の危険性が高く、施工には高度な技術が要求される珍しい工法である。「悪い積み方の見本」とまでいわれるアブリ積みであるが、過去に何度も大地震に見舞われながら、三原城の天主台は一部の修復はおこなわれているものの、築城から450年以上を経過した現在も、その雄大な姿を保ち続けている。天主台の西側と北側は、内堀(通り丁堀)に沿って西国街道が東に向けて通過する。往時は、西国街道を遮るように天主台の北側に枡形を構成する後藤門が築かれ、街道が「鍵の手」に曲げられていた。これにより、敵の進軍速度を落とし、視界を遮るとともに、天主台からの側面攻撃を可能にした。近年、後藤門の石垣の南端が復元され、石垣の東側は階段状の雁木が再現されている。天主台の東側、内堀を隔てて二之丸の大櫓があった辺りには、三原刀を鍛える鍛冶屋敷があったことから、二之丸でも特にこの一角は鍛冶曲輪と呼ばれていた。三原刀は鎌倉時代末期に興り、その作風は大和伝の流れを汲むとされ、備後には古くから大和諸大寺の荘園があった関係から、大和鍛冶の影響を受けたとも考えられている。現在、鍛冶曲輪は駐車場になっているが、周囲には石垣が残されている。二之丸の南東隅に突出する船入櫓跡石垣は、南西隅に2層の船入櫓を備えていた。船入りを監視するための櫓で、現在も石垣が残り、その上に登ることができる。船入櫓跡石垣の南東隅の石垣下には、岩礁を基盤にして石垣を積み上げているのが確認できる。船入りの遺構が残るのは、全国でも三原城だけとされる。三原駅前の商業施設の西側に「本丸中門跡」と刻まれた石碑がある。三原城の中門は、本丸ではなく二之丸にあり、内堀によって隔てられた二之丸をつなぐ土橋の東側に築かれた。古絵図によると中門は櫓門形式であった。中門跡から南北に石垣が続き、石垣の前面には幅は狭くなっているものの、内堀が残存している。この内堀は北方の天主台まで続いていたが、線路と駅舎が造られたためか、途中が埋め立てられている。中門跡の北側の石垣は、一部で積み直しはあるが当時の遺構とされる。一方で、南側の石垣は、新たな石材を用いて近代(明治以降)に築き直されたものと評価されている。この南に続く石垣の南端が臨海一番櫓跡である。和久原川の水刎(みずはね)は、川の流れを弱め、東築出の用地を確保するために、川岸から川中に向けて築かれた三角形の石垣である。水流が強く当たる場所には石材に穴が開けられ、鉄棒で連結されていたという。現在、水刎は和久原川に8か所ほど残っている。14棟の城門の一つである四脚門形式の西築出の御作事奉行所門は、順勝寺(三原市西町)の山門として移築現存している。また、城内の生駒氏の侍屋敷門(四脚門)は糸𥔎神社(三原市糸崎)の神門として、浅野氏の御成御門(四脚門)は安楽寺(三原市鷺浦町)の山門として現存している。極楽寺(三原市東町)の山門は、もとは三原奉行所門(四脚門)であり、その前身は新高山城の棟門形式となる裏門(搦手門)だったと伝えられる。かつての三原は、備後国御調郡の木梨荘に属しており、椙原保(すぎはらほ)を本貫とした杉原氏が、南北朝時代以降に木梨荘を本拠としていた。応仁・文明の乱において、文明7年(1475年)山名氏惣領家に背いて東軍に属した山名是豊(これとよ)が西軍に敗れて備後から撤退すると、備後は山名宗全(そうぜん)の跡を継いだ政豊(まさとよ)が掌握し、御調郡三原郷もその支配下に入った。その後、山名政豊は三原郷を高野山に寄進している。
高野山は大楽寺尊慶(だいらくじそんけい)を代官として三原郷の管理に当たらせた。ところが、備後中央部の国人・江田光実(えだみつざね)が南下して三原郷を押領し、江田氏の勢力下に置かれるなど緊張状態が続いた。永正元年(1504年)尊慶は沼田小早川氏13代当主である小早川扶平(すけひら)に、押領された三原郷の回復を依頼した。その際、高野山に毎年200貫の年貢を納めることを条件に、尊慶の死後は扶平の後継者に三原郷の代官職を譲ることを約束した。この契状は、沼田小早川氏が三原へ進出する契機になったと考えられる。永禄10年(1567年)17代当主・小早川隆景によって、三原城は築城された。しかし、それ以前の天文22年(1553年)に、毛利本家から小早川氏に派遣されていた八幡原六郎右衛門尉が「三原要害」の在番を命じられている。この三原要害は、三原城のすぐ北に位置する標高175mの桜山に築かれた桜山城(三原市桜山町)に比定されており、永禄10年(1567年)の築城は、山上の要害から、海上交通や水軍の運用に適した沼田川河口へ場所を移したものと考えられている。当初は砦規模の小城であったようだが、小早川水軍の拠点として次第に拡張された。織田信長が畿内を掌握し、天正4年(1576年)以降に毛利家との対立が激化すると、後方拠点としての三原城の重要性は一段と増した。天正5年(1577年)石山合戦に備えて小早川隆景が笠岡方面に在陣した際、三原城は毛利輝元(てるもと)の本営となっている。天正8年(1580年)には毛利家の宿老・粟屋元通(あわやもとみち)が三原城に在番して改修を担当し、天正9年(1581年)末から輝元が三原城に在陣すると、改修はさらに進められた。『中国兵乱記』によれば、天正9年(1581年)10月、小早川隆景は備中境目七城の城主を三原城に招き、羽柴秀吉の中国攻めへの対策を協議している。三原城は山陽方面の毛利軍を統括する司令拠点として運用されたとみられる。天正10年(1582年)には備中高松城(岡山県岡山市)をめぐって羽柴軍と毛利軍が対峙した。隆景が新高山城から三原城へ本拠を移したのは、天正10年(1582年)頃とみられる。羽柴軍との講和後に三原城へ帰城した隆景は、天正10年(1582年)6月20日から諸村の人々を動員して昼夜兼行で三原城の堀普請をおこない、翌年にかけて城下町(東町)の建設も進めた。天正期に三原城の整備が本格化する中で、背後の桜山にあった桜山城跡も整備され、詰の城として取り込まれた可能性がある。この詰の城を、三原城の甲之丸とする見解もある。豊臣政権下における小早川隆景は、伊予一国35万石の加増や、伊予に代えて筑前一国、筑後・肥前各2郡を得て居城を移したが、その間も三原城は小早川氏の持城として維持された。文禄2年(1593年)豊臣秀吉に秀頼(ひでより)が誕生すると、秀吉の甥で養子でもあった羽柴秀俊(ひでとし)は他家へ出されることとなり、実子のいない毛利輝元がその養子先の候補になったとされる。これを知った隆景は、秀俊を自らの養子に迎えたいと秀吉に願い出たとされ、自家を犠牲にして毛利本家に秀吉の血筋が入ることを防ぐ狙いがあったと伝えられる。秀吉は隆景を高く評価し、毛利家の重臣でありながら直参同様に遇していたことから、この願いを喜んで受け入れたという。秀俊は、後に小早川秀秋(ひであき)と改めた。その後、隆景は従三位権中納言に叙せられ、小早川家の家格も大きく高まった。文禄4年(1595年)隆景は毛利輝元とともに五大老の一人に任じられたが、秀秋に家督と筑前一国、筑後・肥前各2郡30万7千石の所領を譲り、譜代の家臣団を率いて三原城に隠居した。
この時期、三原城の整備が本格化しており、枡形に「門矢倉」の構築を命じる隆景の書状が残る。しかし、慶長2年(1597年)に隆景が病没すると、三原は毛利家の直轄領となり、隆景配下の三原衆も毛利本家に帰参した。ちなみに秀秋は、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で東軍に内応した功により備前国岡山55万石に加増移封となったが、慶長7年(1602年)に死去して小早川家は無嗣断絶となった。関ヶ原合戦後、西軍の総大将であった毛利輝元に代わり、福島正則が安芸・備後2か国49万余石の太守として広島城に入る。正則は、三原城3万5千石、神辺城(福山市神辺町)3万5千石、鞆城8千石、尾関山城(三次市)2万石、五品嶽城(庄原市)1万石、安芸亀居城(大竹市)1万石の6か所に支城を置き、芸備22郡を統治した。三原城には養嗣子の福島正之(まさゆき)を置き、備後支配の拠点として整備を進めている。現存する天主台の石垣は、北西隅が算木積を志向しながらも未完成で古式の様相を残すのに対し、北東隅は完成された算木積となっており、築造時期に差がある。このことから、隆景の築いた天主台の一部を福島氏が改修したと考えられている。また、福島氏の時代に西町の町割りがおこなわれ、隆景が整備した東町と併せて三原町と称された。慶長12年(1607年)福島正之は乱行により幽閉処分となり、翌年に餓死した。その後は仙石但馬守但高(ただたか)が三原城番として8千石で配置された。慶長14年(1609年)福島正則による鞆城の大規模な築城は江戸幕府の不興を買い、鞆城は廃城となった。この鞆城の天守は三原城へ移築されたとの伝承がある。ただし、この移築を裏付ける史料は確認されておらず、現在では「歴史的な推論」として扱われる。元和元年(1615年)一国一城令によって福島氏の支城が整理される中、三原城は例外的に存続を認められた。元和5年(1619年)福島正則が改易になると、広島藩士は江戸にいる正則の安否が確認できず、広島城や三原城に籠城するが、正則の指示を受けて整然と城を引き渡した。この時の行動は賞賛され、大名改易時における国元家臣団の模範とされた。福島氏の領地は安芸国広島藩領と備後国福山藩領に二分され、広島藩には紀伊から浅野長晟(ながあきら)が安芸一国・備後8郡の42万6千余石で入封した。浅野家の統治下では、三原城は広島藩の支城としての存続が認められ、浅野忠吉(ただよし)が三原城主として配置された。三原浅野氏は3万石の給地を与えられ、広島藩の筆頭家老を務めたため広島に常住した。実際に三原城を預かった城代は、三原浅野氏の重臣・戸田六左衛門勝直(かつなお)で、三原には70人余の家臣がおり、三原町および給地の統治をおこなった。戸田勝直は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の際は紀伊新宮城代で、わずか60人足らずで3千人の熊野一揆を鎮圧したとされる。三原浅野氏は明治維新まで三原城主を代々務めた。明治4年(1871年)廃藩置県により広島藩領は全域が広島県となる。三原城跡は海軍省の管轄となり、西海鎮守府が仮設された。しかし、沼田川の堆積作用などが問題となり本設には至らず、最終的に呉に鎮守府が置かれた。その後、城内の建物や樹木などは競売にかけられて撤去された。明治25年(1892年)清国との外交関係の悪化により山陽鉄道の敷設が急がれる中、新たに尾道駅から現在の糸崎駅までが開通した。明治27年(1894年)には広島駅まで延伸され、三原城本丸跡に三原停車場が開業している。この際、三原城跡は一部を残して大きく改変され、撤去された石垣は糸崎港建設の石材として転用された。現在残されている遺構は、往時の1割以下とされる。(2026.10.23)