常陸国の北部(多珂・佐都東・佐都西・久慈東・久慈西・那珂東・那珂西の7郡)は、かつて奥七郡(おくしちぐん)と総称された。平安時代後期に奥七郡から勃興した佐竹氏は、戦国時代には常陸一国54万石を統一する大大名にまで成長するが、その佐竹氏発祥の城が馬坂城である。馬坂城は太田城(常陸太田市中城町)の南西約3kmの距離にあり、常陸太田市街より瓜連(うりづら)方面に向かう県道61号線を進み、佐竹寺(常陸太田市天神林町)の先に城跡がある。佐竹寺のある高台から西方に張り出した標高約40m、比高約35mの台地の先端部に築城されており、大きく3つの曲輪で構成された連郭式平山城である。東から西に向かって外郭(押葉平)、本郭(御城)、西郭(西城)が並び、それぞれ空堀で区画されている。城域は遺構の現存状況から東西400m、南北150mの規模であるが、南側斜面にも曲輪が幾重にも築かれていた。北側台地下の谷間は、現在は灌漑により一面の水田であるが、かつては鶴ヶ池と呼ばれた湖沼であり、これを天然の水堀としていた。台地先端となる西側は断崖で、その西方から南方にかけては山田川まで広がる湿地帯に囲まれていた。馬坂城の外郭跡の内部には道路が通過しており、民家の敷地などになっている。この道路は県道61号線の旧道で笠間街道といい、城内を通過する瓜連方面の街道を押さえるための城であった。外郭の東端には幅15mの外堀跡が残る。城跡の見学者のために整備されているのは本郭と西郭である。中央の本郭は、約100m四方の台形のような形状で、西側と北側が1mほど低く上下2段になっている。この本郭には、城址碑、解説板、四阿が建てられており、東側には幅15mの内堀跡が残る。また、本郭の南東部に「馬坂城址大手門」と書かれた模擬冠木門が構えられている。本郭の南を通過する旧道のS字の坂を馬坂(まざか)といい、城名の由来となる坂である。平安時代後期、ここは八幡太郎こと源義家(よしいえ)の奥州征伐の兵站地であり、馬の飼育や飼料の補給をおこなっていたので馬坂と呼ばれたという。西側の西郭では中世城郭としての素晴らしい遺構を見学することができる。本郭との間は幅11mの内堀跡が残り、西郭の中央部に源氏塚という直径30m、高さ6mほどある古墳(円墳)を転用した特徴的な物見台が存在する。西郭の東西は100mほどであるが、北側に2本の尾根が延びる。東側の尾根には五段切岸が構築され、西側の尾根は二重堀切を経て先端の石塔山(石洞山)という出丸に至る。頂上に五輪塔があったので石塔山と呼ばれた。ここも物見台として使われたようで、山入の乱において佐竹宗家の久米城(常陸太田市久米町)を意識した物見台であったと想定される。ここには、安政3年(1856年)と刻まれた弁財天の石碑も存在する。これは鶴ヶ池の氾濫を防ぐための堤の工事で、人柱にされた鶴という村娘を供養するためのものである。西郭の南側は段々状の曲輪になっており、現在は畑地である。西郭の西側下には袖曲輪(袖郭)が設けられている。袖曲輪は東西70m、南北20から30m程の楕円形の曲輪で、周囲を横堀で囲まれ西郭とは堀切で切り離されていた。西側からの攻撃を引き受ける場所であるが、西郭と連携して防御できるようになっていた。水の手は本郭南側と袖曲輪南側に存在する。少し離れて、外郭の北方に突き出た尾根の先端にある稲村神社(常陸太田市天神林町)の地は、馬坂城の出城の役目を果たしたと推定されている。このように馬坂城は規模も大きく技巧的で、改修を受けながら戦国時代後期まで使用され続けていたのは確実である。大手口は東に構えられ、台地続きとなる佐竹寺側であった。
佐竹寺は、大同2年(807年)鶴ヶ池対岸の洞ヶ崎峰の観音山に創建され、当初は観音寺と称した。天文12年(1543年)の兵火により焼失、天文15年(1546年)佐竹氏17代当主の佐竹義昭(よしあき)により太田城の鬼門除けとして現在地に再建された。江戸時代に久保田藩(秋田県)が編纂した『佐竹家譜』によると、佐竹氏の始祖となる源義光(よしみつ)は「天喜三年(1055年)陸奥国鎮守府に生る、清和帝第六の王子・貞純親王(さだずみしんのう)の孫・将軍源頼義(よりよし)の第三子にして、義家・義綱(よしつな)の同母弟なり」とあり、「康平六年(1063年)三月十八日、父・頼義と同く新羅大明神に詣で、神前に於て首服(しゅふく)を加え新羅三郎義実(よしざね)と称す、後義光と改む」とある。河内源氏2代棟梁・源頼義の三男・義光は、八幡太郎義家・賀茂次郎義綱の弟で、近江三井寺(滋賀県大津市)の新羅善神堂(しんらぜんしんどう)で元服して新羅三郎義光と称した。永保3年(1083年)から始まる後三年の役で、長兄の義家が清原家衡(いえひら)・武衡(たけひら)に苦戦しているとの知らせを受けると、寛治元年(1087年)義光は左兵衛尉の官職を辞して、朝廷に無断で陸奥国へ救援に向かった。同年(1087年)金沢柵(秋田県横手市)は落城、清原家衡・武衡らの斬首で後三年の役は終結している。義家は賊徒追討を朝廷に報じたが、朝廷からは義家の私戦とみなされて陸奥守を解官(げかん)されてしまう。義光の長男は源義業(よしなり)である。義業は平繁幹(しげもと)の次男・吉田清幹(きよもと)の娘を妻にした。このことは、常陸を代表する在地勢力である常陸平氏と婚姻関係を築いたことになる。公卿・藤原為隆(ためたか)の日記『永昌記(えいしょうき)』の嘉承元年(1106年)6月10日条に「常陸国合戦の事、また春宮大夫(とうぐうのだいぶ)宣下す、義光并(なら)びに平重(繁)幹等の党、東国の国司に仰せてこれを召し進(まい)らすべし、義国(よしくに)は親父・義家朝臣にこれを召し進らさしむ」とあり、常陸で合戦を続ける当事者たちが朝廷から呼び出されており、東国の国司に源義光や平繁幹らの召喚を命じ、源義家に三男・義国の召喚を命じたという。この常陸国合戦の背景としては、常陸北部で常陸平氏と藤原北家秀郷流氏族の争いが起き、源義光が常陸平氏(平繁幹)に、源義国が秀郷流氏族に加担したということである。この秀郷流氏族というのは、平将門(まさかど)を討伐した鎮守府将軍・藤原秀郷(ひでさと)から始まる北関東に広く分布していた氏族である。源義光は平繁幹とともに甥の源義国と戦いを続けていたが詳細は不明である。天仁2年(1109年)河内源氏4代棟梁・源義忠(よしただ)が暗殺されるなど、この頃に河内源氏の内部対立があったとされる。義忠暗殺事件では様々な人物に嫌疑がかかり、賀茂次郎義綱の三男も容疑者として殺害された。これに憤慨した5人の兄弟は全員自害に至る。『尊卑分脈』によると真犯人は義光とし、実行犯を常陸平氏の鹿島三郎成幹(なりもと)とする。鹿島成幹は口封じのために三井寺で生き埋めにされたという。源義光・義業父子は常陸平氏に味方して、常陸平氏の軍事力を背景に常陸に基盤を築いていった。源義光は刑部丞という官職に就いていながら、度々常陸へ赴いては滞在して抗争を繰り返していたようで、遅くとも天永2年(1111年)までに刑部丞を解官されている。また、公卿・源師時(もろとき)の日記『長秋記』の大治5年(1130年)6月8日条に「件(くだんの)清衡妻上洛、嫁(とつぐ)検非違使(けびいし)義成(業)」とある。
後三年の役で源義家・義光兄弟と一緒に戦った奥州藤原氏初代当主・藤原清衡(きよひら)が、大治3年(1128年)に亡くなった。そして、清衡の妻・北方平氏(きたかたのへいし)は入京して、検非違使になっていた源義業に嫁いだと記載されている。「平氏」とは平氏の出身という意味らしい。義業は吉田清幹の娘を娶っているので、北方平氏は側室、あるいは後妻ということも考えられる。奥州藤原氏2代当主・基衡(もとひら)は北方平氏の実子なので、基衡にとって源義業は義理の父にあたる。義業の跡は長男の源昌義(まさよし)が継いだ。昌義は藤原清衡の娘を娶っており、陸奥に強大な勢力をもつ奥州藤原氏との関係性は維持された。大治6年(1131年)京から下向した昌義が、父から相続した佐都西(さとさい)郡佐竹郷に土着して佐竹冠者と称したのが佐竹氏の始まりである。保延6年(1140年)昌義は、観音寺の境内にて二十尋に一節しかない竹を見つけ、これを吉兆として佐竹を称したとする伝承もある。常陸の奥七郡では藤原秀郷流の在地勢力との間で争いがあり、昌義はそれを鎮めるために佐竹郷に入ったとされる。この昌義が佐竹氏の初代であり、当初は観音寺に居住したという。馬坂城の築城年代は定かではないが、藤原秀郷流の天神林(てんじんばやし)氏によって築かれたと伝わる。長承2年(1133年)昌義が馬坂城を居城とした天神林刑部丞正恒(まさつね)を駆逐して馬坂城主となった。治承元年(1177年)昌義は観音寺に300貫の地を寄進して、のちに佐竹氏代々の祈願所としている。佐竹昌義は馬坂城を本拠として常陸北部に勢力拡大を図り、四男・隆義(たかよし)に家督を相続した。佐竹隆義は太田城を居城とする藤原秀郷流の藤原通盛(みちもり)を服属させ、接収した太田城に本拠を移した。太田城は、2代当主・隆義から19代当主・義宣(よしのぶ)まで、約460年間にわたり佐竹宗家の本城として続くことになる。その後、佐竹隆義の次男・三河守義清(よしきよ)が稲木郷に入植して稲木(いなぎ)氏を名乗った。この稲木義清の居城である稲木城が馬坂城とされ、『新編常陸国誌』にも「稲木故城、久慈郡稲木村にあり、これを馬坂城と称す」とある。馬坂城は佐竹氏の庶子家の居城となった。稲木義清は病気で一子を失い、世の無常を感じて出家、建永元年(1206年)下野国宇津宮に観專寺(栃木県宇都宮市)を開山する。後に浄土真宗の開祖・親鸞(しんらん)と出会い、親鸞の24人の高弟である二十四輩のひとり信願房(しんがんぼう)となる。稲木義清の後は、義保(よしやす)、実義(さねよし)、義繁(よししげ)、佐竹氏6代当主・義胤(よしたね)の三男・義信(よしのぶ)、盛義(もりよし)、義武(よしたけ)と続いた。建武2年(1335年)中先代の乱における鶴見合戦にて、佐竹氏8代当主・貞義(さだよし)は北条時行(ときゆき)の一派と戦って敗れ、貞義の五男・佐竹義直(よしなお)、稲木義武、真崎義景(まさきよしかげ)が討死している。義武の跡は、稲木義信(よしのぶ)が継いだ。応永14年(1407年)佐竹氏11代当主・義盛(よしもり)が男子に恵まれず死去したため、佐竹宗家の当主として藤原北家勧修寺流である関東管領・山内上杉憲定(のりさだ)の次男・龍保丸(りゅうほまる)を養子に迎えようとした。これに対して、佐竹氏の一門筆頭である山入与義(やまいりともよし)を中心に、稲木義信、長倉義景(ながくらよしかげ)、額田義亮(ぬかだよしすけ)ら庶子家は、源氏の名門である佐竹家に藤原姓の養子が入る事に反発し、義盛の弟・義有(よしあり)を当主とするよう求めた。
だが、翌応永15年(1408年)佐竹宗家は鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)の援軍を得ると、反対を押し切って山内上杉家から龍保丸を太田城に迎え、義盛の婿養子として家督を相続させた。12代当主・佐竹義人(よしひと)である。これによって、佐竹宗家と庶子家は武力衝突に至り、山入の乱といわれる内乱が勃発した。さらに、応永23年(1416年)足利持氏と前関東管領の犬懸上杉禅秀(ぜんしゅう)が対立して上杉禅秀の乱が起きると、佐竹宗家は持氏に味方し、庶子家は禅秀に味方した。当初、禅秀側が優勢であったが、室町幕府4代将軍・足利義持(よしもち)が持氏を支援したため、翌応永24年(1417年)1月10日に上杉禅秀は追い詰められて自害した。山入与義は持氏に降伏したが、稲木義信は稲木城に拠って抵抗を続けた。持氏の命を受けた佐竹義人が鎮圧に向かい、2月に総攻撃したが稲木城は堅固で落とせなかった。この稲木氏の善戦は、長倉義景や山縣三河入道の挙兵を誘発し、持氏は近隣の武将にも討伐を命じている。応永24年(1417年)卯月(4月)26日の『飯野光隆(みつたか)軍忠状』によれば、陸奥国岩城郡・岩崎郡の岩城氏・岩崎氏に「佐竹凶徒可令退治旨」の御教書が下され、4月10日に陸奥国を出立し、15日に瓜連城(那珂市)へ参陣、瓜連城の長倉義景を降伏させている。その後、山縣三河入道の城を攻略し、4月24日に稲木城を落城させた。稲木義信は殺害されて、稲木氏は滅亡した。文明年間(1469-87年)頃、13代当主・佐竹義俊(よしとし)の次男・三郎義成(よししげ)が馬坂城を居城とし、地名から天神林氏を称した。馬坂城も天神林城と呼ばれた。この天神林義成も佐竹宗家に反抗して山入一揆に加担する。延徳2年(1490年)義成の兄である14代当主・佐竹義治(よしはる)が没し、次男の義舜(よしきよ)が若くして跡を継ぐと、山入義藤(よしふじ)・氏義(うじよし)父子が佐竹義舜を追放して太田城を乗っ取った。天神林義成の長男・上総守義益(よします)は、太田城へ移った山入父子に代わって山入城(常陸太田市国安町)を守備した。文亀2年(1502年)山入氏義は佐竹宗家を滅ぼすため出陣、義舜は東金砂山に逃げ込んで、山上の東金砂山王権現の別当である滝聖院東清寺(常陸太田市天下野町)を本陣とした。山上から麓に至るまで「掻楯、逆茂木、大関、小関」などで厳重に備え、東金砂山の衆徒が武装して守備したが、山入氏義の大軍は雲霞のごとく攻め上った。別当の僧坊が襲われ、義舜は千手堂に入って防戦するも、ついに弓折れ矢尽きて権現堂に入って自刃しようとした。そのとき、雷電晦冥(らいでんかいめい)、疾風豪雨(しっぷうごうう)が大いに吹き荒れて、大木・枯木を薙ぎ倒すという異変が起こった。動揺した山入軍は隊伍を乱して逃亡、義舜勢は40余丁ほど追撃して敵兵の多くを討ち取った。昔から金砂山はよく雷雨になり「筑波の雷は半国の雨、金砂の雷は一国の雨」といわれるが、これは東金砂山の御霊権現・荒人神の信仰に関連がある。佐竹義治の娘が夭折して東清寺に荒人神として祀られており、義治の娘なので義舜の姉か妹である。荒人神は雷や疫病を意のままに発動できる恐ろしい神である。永正元年(1504年)体制を立て直した佐竹義舜は太田城を攻め落とし、山入氏義らを捕らえて処刑した。天神林義益・三郎父子は山入城を守って戦死、こうして約100年にわたった山入の乱は終結した。その後も馬坂城には佐竹氏の支族が在城したというが、その名は伝わっていない。慶長7年(1602年)19代当主・佐竹義宣(よしのぶ)が出羽国久保田20万石へ転封になると、馬坂城は廃城になっている。(2025.04.27)