日本列島のほぼ中央に位置する岐阜県高山市は、日本で最も大きい市域を持ち、東には槍ヶ岳、穂高岳、乗鞍岳などの飛騨山脈(北アルプス)が、西には別山など両白山地が聳える。高山市街地の南西に位置する松倉城跡は、標高856m、比高270mの松倉山の山頂を中心に築かれた戦国時代の山城跡である。松倉山は高山盆地周辺の山々に比べてひときわ高く、山頂からは高山盆地が一望できる。北は越中街道で越中国富山、南は尾張街道で美濃国岐阜、東は信濃街道で信濃国木曽、西は郡上街道で美濃国郡上へ至る交通の要衝であり、飛騨を統治する上での重要な拠点であった。最高所に本丸、東に二ノ丸、西から南に三ノ丸を設けた構造で、東・西・北東の3方向に尾根が伸び、これら尾根筋には小さな曲輪や堀切、竪堀が配置されている。城域は東西約300m、南北約240m、主郭部は東西約180m、南北約60mとさほど大規模な山城ではないが、主郭部は総石垣造りとなっており、高山城跡(高山市城山)の石垣が取り払われてしまっている現在、飛騨地方で随一となる石垣造りの城跡である。松倉城跡から尾根伝いに西に向けて登山道が整備されており、250mほどで松倉シンボル広場へ至る。この標高800mの松倉シンボル広場までは車で行くことができる。松倉城の本丸は、内曲輪と外曲輪の2段で構成されている。松倉城の中心となる内曲輪は約24m四方の方形で、天守の穴蔵(地階)のように周囲を石塁が囲んでいる。この内曲輪は、曲輪としては小規模なため天守台と考えられているが、発掘調査では建物の存在を示す礎石等は確認できなかった。しかし、後世に削平を受けている可能性も否定できない。一辺が24m前後となる天守台としては、播磨姫路城(兵庫県姫路市)の大天守(南辺約28m、東辺約20m)が近く、上には大型の5層天守が載っている。松倉山の山頂に5層天守は必要ないため、天守が存在したのであれば1層目を入母屋造の大屋根として望楼を載せた初期望楼型天守と考えられる。内曲輪の南辺の東寄りに出入口が開く。内曲輪の西側と南側にL字形の外曲輪が付属し、西辺32m、南辺38mを測る。外曲輪の東面石垣が途切れる箇所が出入口となり、石段は確認されておらず、形状から木製階段が存在したと想定される。本丸外曲輪の石垣が最も良好な残存状況で、高さ約8mの高石垣で隅角部(ぐうかくぶ)は算木積みになっている。本丸の東側に突き出る二ノ丸は、東西約40m、南北約20mの長方形の曲輪である。二ノ丸には大手門跡と井戸跡があり、南面には旗立岩という巨岩が存在する。この旗立岩の上部には亀裂があり、そこに旗を立てたという。二ノ丸の発掘調査では2時期の礎石建物跡が見つかっている。なお、織豊系城郭の特徴を示す瓦は未検出で、瓦葺建物は存在しなかったと考えられる。高山の地は寒冷地なので、瓦では内部の水分が凍結して割れてしまうため使用されず、柿葺(こけらぶき)など木材の板で葺かれたと考えられる。三ノ丸は本丸から南西方向へ延びる曲輪で、南側に出枡形虎口、西側に隅櫓、北側に埋門をもつ石塁が存在した。南面の石垣は、出枡形虎口のところから始まり約43mにおよぶ長大なものである。長方形の出枡形虎口は、東西約20m、南北約8mの規模で、北面の一部と西・南・東面を石垣で囲む。西側が出入口となるが、破城の際に三ノ丸と出枡形虎口の両側から石垣を崩しており、通路は大量の石材で塞がれている。現在は出枡形虎口からの通路は不明とされているが、赤色立体地図を拡大すると、松倉城南側の越後谷に向かうつづら折りの道が確認できるという。松倉城は吾神谷(わがかみだに)からの道が大手、西尾根からの道が搦手である。
これら以外にも出枡形虎口の存在や、防御施設を持つ北東尾根・東尾根もあり複数の登城路があったと考えられる。三ノ丸の西端部には一段高い箇所があり、三ノ丸隅櫓の櫓台が見つかった。櫓台はL字形をしており、石段も残っていた。隅櫓下となる西・北面の石垣は、一辺が2mを超える城内最大規模の巨石が集中的に使用され、最大の石材は3.7m程となる。これらは明らかに鏡石で、通路横にシンボル的に配置されている。本丸外曲輪の西面石垣から三ノ丸の北西面石垣へ向かって石塁が延びて、三ノ丸の北側を閉塞していたことが判明した。石塁の中央より東側、本丸外曲輪の石垣に近い部分に埋門があった。埋門は4本の巨石を門柱のように立て、その間に通路部分があり、その上に板状の石材を天井部に渡したトンネル状の構造が推測できる。この埋門は西尾根に続く松倉城の搦手門であったが、破城により破壊されている。松倉山の北麓にある飛騨民俗村・飛騨の里の辺りは松倉城の武家屋敷群があった所である。ここには松倉城に関連する土塁が残っている。長さ55m程で、東端は山の斜面に取り付いている。松倉城に続く吾神谷を塞ぎ、城域と城下町を隔てていたと考えられる土塁である。元々、松倉城に残る石垣は三木姉小路(みつきあねがこうじ)氏が築いたもとの考えられていたが、平成元年(1989年)縄張り図の視点から石垣は金森長近(かなもりながちか)が築いたものとの意見があり、これを契機に各地の城郭研究者から金森氏によるもの、もしくはその可能性が高いとする論考が続出した。その後、築城者をめぐって金森氏か三木氏かで論争が起き、盛んに論戦が繰り広げられた。「三国司」とは、室町時代に旧来の国司として存続していた三家をいう。史料によって対象となる家は異なるが、伊勢北畠氏、飛騨姉小路氏と、土佐一条氏または阿波一宮氏を指す。確認できる最初の飛騨国司は、南北朝時代に南朝から任ぜられた姉小路家綱(いえつな)で、貞治2年(1363年)から永和4年(1378年)の間に国司を務めた。姉小路氏は、平安時代中期に藤原北家小一条流の藤原師尹(もろただ)の次男・済時(なりとき)が平安京の姉小路に居を構え、その子孫が姉小路氏を名乗ったのが始まりとされる。平安京の姉小路とは、現在の姉小路通(あねやこうじどおり)に当たる。一方、延文4年(1359年)北朝から京極高氏(きょうごくたかうじ)が飛騨国守護職に補任されると、以後は京極氏が飛騨守護を世襲している。国司の姉小路氏は飛騨北部を治めたのに対して、守護の京極氏は主に飛騨南部を治めた。応永12年(1405年)頃、姉小路国司家は古川・小島・向(むかい)の3家に分裂している。応永18年(1411年)応永飛騨の乱で、国司・古川姉小路尹綱(ただつな)が室町幕府の命を受けた京極高数(たかかず)に討たれると、闕所地(けっしょち)に守護勢力の扶植が進み、飛騨南部の益田(ました)郡に京極氏の代官として被官である三木氏が入国した。その後、守護の京極氏や国司の姉小路氏が衰退すると、桜洞(さくらぼら)城(下呂市)を拠点とした三木氏が勢力拡大して、やがて飛騨の南半分を支配する。古川盆地に姉小路三家、北飛騨に江馬(えま)氏が盤踞したが、三木氏は高山盆地に進出し、姉小路三家の内紛を利用して古川盆地にまで勢力を伸ばした。永禄2年(1559年)5代当主・三木良頼(よしより)は公家の地位を獲得しようと朝廷工作をおこない、『御湯殿上日記』によると朝延から正式に「三国司の内へ入たき由」が許された。この場合の「三国司」は、姉小路三家と読み替えるのが自然で、姉小路国司家の名跡を継ぐことが認められたと考えられる。
翌永禄3年(1560年)良頼は従四位下・飛騨守を叙任し、長男・自綱(よりつな)は従五位下・左衛門佐を叙任する。これによって正式に古川家の名跡を継ぎ、良頼・自綱父子は姉小路を名乗った。この頃、古川氏や向(小鷹利)氏の動向は不明であり、小島氏は三木氏傘下の武将として活動していた。永禄5年(1562年)良頼は従三位・参議を叙任する。さらに良頼は、姉小路国司家の極官である権中納言を超える中納言の任官に執着したが、これについては認可されず、正親町天皇より例なき事として「御分別候」と拒否された。なお、『永禄六年諸役人附』に、姉小路良頼は「姉小路中納言」、自綱は「宰相」とあり、正式に叙任されずとも中納言を自称していた。永禄7年(1564年)甲斐の武田信玄(しんげん)が飛騨に侵攻した際、姉小路良頼は同盟していた越後の上杉謙信(けんしん)と連携して対抗している。元亀3年(1572年)良頼が病没し、姉小路自綱が6代当主となる。天正6年(1578年)上杉謙信が没すると、自綱は織田家に接近して同盟を結んだ。自綱の正室は、斎藤道三(どうさん)の娘なので信長とは相婿の関係であった。天正7年(1579年)4月、自綱は飛騨北部への進出拠点として松倉城を築いて居城とした。『飛騨略記』、『飛騨群鑑』などによると、松倉城を「夏城」、桜洞城を「冬城」と称したといい、冬の松倉城は豪雪に閉ざされるため季節に応じて移動したとされる。天正10年(1582年)信長が本能寺の変で死去すると、北飛騨の江馬輝盛(てるもり)は勢力拡大を目指して小島城(飛騨市古川町)の小島時光(ときみつ)に襲い掛かった。時光は籠城戦で江馬氏を退けている。小島氏の救援に駆けつけた姉小路自綱は、高堂城(高山市国府町)の広瀬宗域(むねくに)、小鷹利城(飛騨市河合町)の牛丸親綱(うしまるちかつな)と連合して、宿敵・江馬輝盛を八日町の戦いで討ち取り、ついに飛騨の統一を果たす。しかもこれで終わらず、天正11年(1583年)1月、姉小路自綱と広瀬宗域は小鷹利城を急襲して落城させている。牛丸親綱は越中国富山の佐々成政(さっさなりまさ)を頼って落ち延びるが、追い払われて越前国大野の金森長近の元に亡命した。織田家で「飛騨国取次」であった成政は、姉小路氏とは同盟関係にあった。さらに、天正11年(1583年)9月、姉小路自綱は広瀬宗域を松倉城に招いて謀殺し、高堂城を奪い取った。『広瀬旧記』に「としは天正十いちねんの、ころは菊月十九日、三津木休庵(姉小路自綱)がそのために、ひろせ高堂は落城なり」とある。嫡子の広瀬宗直(むねなお)は城を脱出して金森長近の元へ逃げ込んだ。また、天正11年(1583年)に姉小路自綱の長男・信綱(のぶつな)は、叔父である鍋山顕綱(あきつな)と共に、羽柴秀吉への内通を疑われて誅殺された。姉小路信綱は松倉城内で殺されたという。自綱は次男・秀綱(ひでつな)に家督を譲って隠居し、古川盆地の高堂城に移った。7代当主となった姉小路秀綱は松倉城を本拠に飛騨国を治めた。天正13年(1585年)羽柴秀吉は対立する佐々成政の討伐を決め、それと同時に金森長近に対して姉小路氏の討伐を命じた。金森氏の飛騨侵攻には、姉小路氏に領地を奪われた牛丸親綱、広瀬宗直、江馬時政(ときまさ)、鍋山右近大夫などの牢人衆が協力して先鋒を務めた。越中から金森長近の本隊が進軍し、南部からは養嗣子・金森可重(ありしげ)の別働隊が進んで、南北から姉小路氏を挟み撃ちにした。高堂城を包囲された姉小路自綱は、金森氏の降伏勧告を拒否して籠城戦を続ける。しかし、朝廷から自綱に降伏するよう命が下ったため城を明け渡して降伏した。
自綱は助命され、京都へ護送されて幽閉された。姉小路秀綱・季綱(すえつな)兄弟は松倉城に軍勢を集結させて、天嶮を活かした籠城戦により徹底抗戦を続けた。ところが、家臣の藤瀬新蔵(ふじせしんぞう)らが金森氏に内応して松倉城内に火を放ち、城兵が混乱する中、金森軍の総攻撃を受けて松倉城は陥落した。秀綱は城を脱出して信濃へ逃れたが、大根川で土民に襲われて鉄砲で撃ち殺されたという。『飛騨軍乱治国記』に「秀綱は信州え落行かんとて、大八賀より阿多野の中洞へ懸り、それより池ヶ洞之内黍生と言所にて、已に野人に討れん所を漸遁て、信州大根川の橋場迄逃延しかども、大根川の郷民の手に懸、鉄炮にて討殺す」とある。また『飛騨太平記』には「さて松倉は休庵(自綱)が二男秀綱楯籠る、され共終に守り遂げ得ず、城を落ち逃げ信州大根川の百姓の鉄炮に中(あた)り、むなしくなりぬ」とある。秀吉の書状には「一類悉首刎」とあるが、自綱は生存しているので秀吉一流の誇張表現である。天正15年(1587年)姉小路自綱は京都で没している。飛騨に侵攻した金森氏は、速やかに姉小路氏を滅ぼして国内を制圧したが、飛騨を治めることは想定していなかった。天正13年(1585年)9月3日付の金森長近から石徹白長澄(いとしろながずみ)宛の書状に「其国之儀、大野と相隔、殊上方ヘ出入不自由ニ候間、色々御理申上畏候、就夫堺廻ニて御知行給候」、「其国ヘハ稲葉勘右衛門方、先可被遣由被仰出候」などとある。これによると、飛騨国は越前国大野と離れており、上方との往来にも不便なので飛騨拝領を固辞し、代わりに和泉国堺の周辺に知行を得たとある。大野も引き続き知行が認められて安堵しており、飛騨国は稲葉勘右衛門重通(しげみち)が拝領となるので、飛騨に駐屯している金森家の軍勢が乱暴狼藉を働かないよう指示している。この史料から、金森長近は飛騨拝領を望んでいなかったことが分かる。しかし、結果的には長近が飛騨を任され、拠点を大野から移すことになる。天正13年(1585年)9月初頭から「国中一揆」という事態が発生しており、金森氏の一揆鎮圧は長期化した。金森氏に従った牢人衆が、姉小路氏滅亡後も旧領が回復されないことに不満を抱き蜂起したのである。天正14年(1586年)秀吉によって飛騨一国3万8千余石が改めて金森長近に与えられたが、この経緯を示す史料は見出せない。『願生寺由来』によると、金森長近は飛騨国拝領後、まず松倉城の破却を実施したという。松倉城破却の人足は、夜明け前から土や石をモッコ等で運ぶ作業に駆り出され、この作業は夏から冬まで長期間に渡った。高山城の築城は、天正16年(1588年)から慶長8年(1603年)まで16年間掛かった。城山の北の尾根を削って二之丸・三之丸を造成し、町屋は一番町・二番町・三番町の3町に編成して、松倉石ヶ谷から47軒を移転させるなど700余軒を移転させた。松倉城の破却は、高山城の築城と並行する動きとして実施されたようである。松倉城の石垣調査によると、二ノ丸は古い段階の石垣であり、年代的には天正13年(1585年)以前なので姉小路自綱が築いたとされる。一方、本丸と三ノ丸の石垣は新しく、天正14年(1586年)に入封した金森氏の在城期に改修されたものとされる。石垣の隅角部や鏡石の使用等をみると、さらに新しく天正期末頃から文禄期の特徴と捉えることもできる。このように松倉城の廃城年ははっきりしない。いずれにしても松倉城は、姉小路自綱の段階で稚拙ではあるが小石材で石垣の城を築いており、金森長近によって中心部が巨石の伴う高石垣に改修されるなど、新旧2時期に渡って構築されたものである。(2025.09.26)