丸亀城(まるがめじょう)

[MENU]

山崎甲斐守家治が江戸幕府から支援を受けて築いた西讃5万3千石の石垣の名城

山上部総石垣の北西側の遠景
山上部総石垣の北西側の遠景

香川県は四国北東部に位置する全国47都道府県で最小の県である。北側は瀬戸内海を挟み岡山県と相対し、南側は阿讃山脈で徳島県と画している。丸亀市は香川県の中西部に位置し、香川県内では高松市に次ぐ第二の都市であり、西讃(せいさん)地方の中心都市となる。市街地はかつての丸亀藩の城下町であり、また金刀比羅宮(琴平町)への参詣口でもあった。寛永10年(1633年)金毘羅大権現の別当である金光院住職・宥睨(ゆうげん)が、男竹の丸柄を使って、金毘羅参りの土産物に、丸金印を入れた渋うちわを考案したのが「丸亀うちわ」の始まりとされる。天保年間(1830-45年)参拝客の上陸地である丸亀港は金毘羅船の発着で大いに賑わい、全国の人々が丸亀うちわを土産に持ち帰って、「伊予竹に土佐紙貼りてあわ(阿波)ぐれば、讃岐(さぬき)うちわで至極(四国)涼しい」と歌い継がれた。丸亀平野は讃岐中西部に位置する沖積平野で、東に土器川、西に金倉川が流れ、瀬戸内海に注いでいる。平野の東には青ノ山、飯野山(讃岐富士)があり、西に天霧山、我拝師山、南に満濃池がある。土器川西岸の河口付近に標高66mの自然の岩山である亀山がある。旧名を波腰山または船山といい、古くはここまで潮の干満が押し寄せていた。この亀山を利用して築かれた丸亀城は、内堀内が東西約540m、南北約460mの規模で、山上の最高所である本丸から二の丸、三の丸、帯曲輪と4段の石垣を経て山下部(山下曲輪)に至る渦郭式の縄張りである。山上部が総石垣となる丸亀城は「石垣の名城」といわれる程、石垣が有名である。江戸時代初期の石垣を築く技術が最高水準に達したときに造られたもので、緩やかな勾配から次第に急になり最後は反り返る「扇の勾配」といわれる美しい曲線が特徴となる。丸亀城の4段の石垣を合計すると60mになり、総高としては日本一の高さで、三の丸の高石垣だけでも22mである。ちなみに単独の高さでは、摂津大坂城(大阪府大阪市)の33mが一番高く、伊賀上野城(三重県伊賀市)の30mが二番目であり、丸亀城はあくまでも総高としての日本一である。丸亀城の石垣は名人といわれた羽坂重三郎によるものとされ、裸になって働くことから「裸重三」と呼ばれたという。時の城主は重三郎の築いた石垣に感嘆して、この城壁は空を飛ぶ鳥以外に乗り越えられまいと満足した。しかし重三郎は、1尺の鉄棒があれば登れるといい、鉄棒を使って簡単に登ってしまった。これを見た城主は、重三郎が敵に通じることを恐れて井戸の中で殺してしまった。それが二の丸に残る井戸だと伝わる。山上部には天守を含めた12基の櫓と、それらを繋ぐ渡櫓や城門などがあり、山下曲輪には藩主の住む御殿や大手門、庭園などがあった。また、外堀の内側には侍屋敷を置き、大手口や搦手口には家老屋敷を配置して守りを固めていた。本丸には、天守(御三階櫓)、宗門櫓、多門櫓、姫櫓、塩櫓(鹽櫓)の5基の櫓があった。本丸北側の独立式層塔型3層3階天守は、現存する12天守のひとつであるが、1階平面が6間(11.5m)×5間(9.4m)と現存天守の中で最も小さい。高さは14.5m程で、播磨姫路城(兵庫県姫路市)の連立式望楼型5層6階天守の高さ31.5mの半分にも満たない。備中松山城(岡山県高梁市)の複合式望楼型2層2階天守の高さは10.9mだが、1階平面は7間(13.9m)×5間(9.9m)で、付櫓も附属するため丸亀城天守よりさらに大きく見える。天守の場合、1間は6尺5寸(1.97m)の京間を指すので1間は約2mとなるが、1間の長さは城や建物によって若干前後する。もっとも、丸亀城の天守は江戸時代には御三階櫓と呼ばれ、正式には天守ではなかった。

事実、『正保城絵図』の「讃岐国丸亀絵図」には天守ではなく「矢倉六間五間」と記され、江戸幕府には櫓として申請していたことが分かる。ただ、天守かそうでないかは微妙な問題で、元和元年(1615年)の武家諸法度の制定以降は10万石以下の大名には新たに天守を作らせない方針もあり、幕府への遠慮から御三階櫓という名目で届け出たに過ぎない。しかも、全ての面に窓がある「八方正面」の御三階櫓は明らかに天守であり、大政奉還後は天守と称している。この丸亀城の天守は、小規模の割には存在感がある。これには仕掛けがあり、天守の入母屋破風が城下を向いているため、妻側がこの広さなら棟側はさらに奥行きがあるのだろうと錯覚させられる。普通は棟側が長いという常識が原因であるが、実は丸亀城天守は棟側の方が短い。つまり、城下(北側)から見上げたときに大きく見せるため、わざと間口が広い側に入母屋破風を付けている。逆に、本丸の西側から天守を眺めると、棟側の屋根が極端なまでに狭く、異様に見えてしまう。他にも、天守の1階・2階・3階の逓減(ていげん)率の大きさも仕掛けのひとつであり、上階が急激に小さくなっていくため、遠近法による目の錯覚で下層が実際よりも大きく見えるという工夫である。本丸東下の二の丸には長崎櫓、番頭櫓(鬼門櫓)、辰巳櫓、五番櫓の4基の櫓があり、下段を囲む三の丸には月見櫓、水手櫓(坤櫓)、七間櫓(戌亥櫓)の3基の櫓、さらに下段には帯曲輪があった。山上部と山下曲輪は急勾配の見返り坂で繋がっている。北側の大手門(大手一の門・二の門)も現存している。櫓門形式の大手一の門は、櫓内で藩士が太鼓を打って刻(とき)を知らせたことから太鼓門とも呼ばれる。大手二の門は高麗門形式で、左右の狭間塀は土塀となり、内外共に腰羽目を張り、その間に狭間を備えている。大手一の門と二の門を組み合わせた大手枡形は、甲州流軍学の標準となる5間×8間の「五八の枡形」を凌ぐ10間(約18m)×11間(約19.8m)という巨大なものである。搦手側には栃の木門(旧大手門)跡の石垣も存在する。山下曲輪の北西部には、藩政時代の政庁で、藩主の居住空間でもある山下御殿があった。その御殿表門も現存している。薬医門形式で、藩主御殿の玄関先にあったので藩主玄関先御門ともいう。御殿表門の西側には番所が連結しており、さらに鉤形に折れて御駕籠部屋、詰所、交代部屋などのある長屋が続く。明治2年(1869年)山下御殿が火災で焼失し、その跡地には丸亀市立資料館が建つ。内堀の周囲は外堀が方形に取り囲んでいた。鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政が始まると、足利尊氏(たかうじ)は讃岐に細川定禅(じょうぜん)を、阿波に細川和氏(かずうじ)を遣わした。建武2年(1335年)尊氏が建武政権に対して反旗を翻すと、定禅はこれに呼応して蜂起、建武3年(1336年)香西(こうざい)氏・託間氏ら讃岐武士を率いて尊氏の京都制圧戦で活躍した。しかし、奥州の兵を率いて上洛した北畠顕家(きたばたけあきいえ)に大敗した尊氏は九州へ逃れ、定禅も讃岐へ退いた。九州で巻き返しを図った尊氏は、京都に向けて大軍で攻め上ると、讃岐にいた定禅も兵を率いて尊氏軍に合流している。そして、同年の湊川の戦いで新田義貞(よしさだ)・楠木正成(まさしげ)の軍勢を撃破する。その後、尊氏が室町幕府を開くと、讃岐国守護職には細川定禅の兄・顕氏(あきうじ)が補任された。顕氏のあとは嫡子・繁氏(しげうじ)が讃岐守護を継ぎ、繁氏が病没すると細川宗家(京兆家)の頼之(よりゆき)が継承した。以後、讃岐守護は細川頼之の子孫が世襲している。

細川氏は、直臣である香川・安富(やすとみ)・奈良氏らを入部させて讃岐の支配をおこなった。室町時代中期の応仁の乱では、香川元明(もとあき)、香西元資(もとすけ)、安富盛長(もりなが)、奈良元安(もとやす)の4人が細川四天王と呼ばれ、東軍総大将・細川勝元(かつもと)の主力部隊を構成していた。室町時代における讃岐守護所は鵜多津(宇多津町)に置かれ、讃岐の玄関港として栄えた。鵜多津の聖通寺山には重臣・奈良氏の居城である聖通寺城(宇多津町平山)があり、西の天霧山には讃岐西方守護代・香川氏の居城である天霧城(善通寺市)があるなど、丸亀の地は讃岐の大勢力に挟まれた地であった。香川氏は讃岐13郡のうち6郡を治め、奈良氏は鵜足郡と那珂郡の2郡を治めた。丸亀城の場所は、鵜足郡と那珂郡の境に立地しており、奈良氏の統治下において丸亀城の前身となる聖通寺城の支城が存在したと考えられている。この支城は、奈良元安が築いたというが、考古学的には確かめられていない。聖通寺城の各支城は、長尾・新目・本目・法勲寺・金倉寺・三谷寺・円亀(まるがめ)に存在した。この頃の丸亀城の周辺は海浜の一寒村に過ぎなかった。奈良氏は、太郎左衛門元安から備前守元信(もとのぶ)、太郎兵衛元政(もとまさ)と続いた。戦国時代になると、細川氏に代わりその被官であった三好氏が台頭し、畿内一円に大勢力を有した。三好氏の勢力は讃岐にも進出し、東讃の安富・香西氏らが軍門に降った。天文22年(1553年)三好氏の重臣・篠原氏が讃岐守護代として入ると、鵜多津は篠原氏に押さえられ、奈良氏は勢力を失っていった。その後、奈良氏は三好氏に属すが、天正3年(1575年)那珂郡の奈良氏の家臣のうち、新目・本目・山脇の3氏が香川氏に寝返った。これを機に香川氏は奈良領へ攻め入り、奈良元政は那珂郡を失った。こうして奈良氏は所領の大半を失い、津郷の2村、川津などの数村を領するのみとなった。やがて、土佐を統一した長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が、阿波・讃岐への進攻を開始、天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長が横死すると、長宗我部軍は一気に阿波・讃岐に雪崩れ込んだ。香川氏は長宗我部氏に降り、元親の次男・親和(ちかかず)を養子として迎えた。この香川親和が中讃制圧のため1万2千の大軍を率いて聖通寺城に迫ると、奈良元政は抗することなく城を放棄して、阿波に落ち延びている。天正13年(1585年)羽柴秀吉の四国征伐によって長宗我部氏が降伏すると、元親には土佐一国が安堵され、讃岐は論功行賞により仙石秀久(せんごくひでひさ)に聖通寺10万石、尾藤知宣(びとうとものぶ)に鵜多津5万石、十河存保(そごうまさやす)に山田郡2万石が与えられた。天正14年(1586年)秀吉の九州征伐が始まると、十河存保や長宗我部元親・信親(のぶちか)父子ら四国勢6千が先遣隊として九州に派遣され、仙石権兵衛秀久はその軍監に任命された。このとき秀久は、豊後にて防備を固めよという秀吉の命令を無視し、独断専行で島津家久(いえひさ)率いる1万余と会戦におよび惨敗した。この戸次川の戦いで、長宗我部信親と十河存保が討死、仙石秀久は軍監としての責務を果たさず讃岐に逃亡した。激怒した秀吉は仙石氏を改易して、秀久に高野山追放の処分を下した。仙石氏と十河氏の旧領は尾藤甚右衛門知宣に与えられ、讃岐一国18万石を領することになった。天正15年(1587年)尾藤知宣が仙石秀久に代わって九州征伐の軍監を務めたが、根白坂の戦いで仙石氏の二の舞を避けた慎重策が秀吉の怒りを買い、尾藤氏も改易となって追放されてしまう。

天正18年(1590年)小田原征伐において、仙石秀久は秀吉のもとに参陣して対北条氏戦で活躍して帰参できたが、尾藤知宣は北条氏降伏後に許しを乞いに現れたため、秀吉の不興を買って処刑された。尾藤氏の耳鼻は削がれ、手足を斬り落とされた上で首を撥ねられるという残忍な殺され方をしたと伝わる。仙石権兵衛も尾藤甚右衛門も秀吉の古参の家臣であったが、挽回方法の違いで明暗を分ける事になった。天正15年(1587年)尾藤氏に代わり生駒親正(いこまちかまさ)が、播磨国加里屋6万石から讃岐一国12万6千余石で入封する。当初、親正は東讃の引田城(東かがわ市)を居城とし、後に聖通寺城に本拠を移すが、天正16年(1588年)高松城(高松市)を築いて本拠とした。生駒氏は、美濃国可児郡土田村(岐阜県可児市土田)の出身で、親正の父・親重(ちかしげ)が織田信長の母・土田御前の兄であり、信長の側室となった生駒吉乃(きつの)は親正の妹であるともいう。慶長2年(1597年)生駒雅楽頭親正・讃岐守一正(かずまさ)父子は、西讃の支配の拠点として丸亀城の築城を開始、丸亀城には生駒一正を配置した。この頃の絵図によると、生駒氏時代の天守は山上部の本丸中央にあり、縄張りも現在とは異なっていた。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにて、親正は西軍に与して高野山に逃れ出家したが、一正が東軍に与した功により1万5千石の加増となった。一正は領内の再検地をおこない17万3千余石になる。慶長7年(1602年)丸亀城が完成すると城代に佐藤掃部を置き、一正は高松城に移った。しかし、元和元年(1615年)の一国一城令により、3代藩主・讃岐守正俊(まさとし)は高松城を残して丸亀城を廃城とした。寛永17年(1640年)4代藩主・壱岐守高俊(たかとし)はお家騒動により出羽国矢島(秋田県由利本荘市)に流罪となった。いわゆる生駒騒動である。生駒氏の配流後、讃岐は東讃と西讃に二分され、寛永18年(1641年)山崎家治(いえはる)が肥後国天草4万2千石から西讃5万3千石で入封する。寛永19年(1642年)家治は廃城となっていた丸亀城跡に築城を計画して江戸幕府から許可を得た。幕府も瀬戸内の海上交通の要所として築城の必要性を感じていたため、家治に築城費用として白銀300貫を与え、参勤交代を免除して築城させている。瀬戸内海の島々にはキリシタンが多く、寛永15年(1638年)に島原の乱を鎮圧したばかりで、キリシタンの蜂起に備えての築城でもあった。山崎氏時代の丸亀城は、『正保城絵図』や『大洲の図』などの絵図から知ることができる。現在の縄張りはこれらの絵図とほぼ一致しており、山崎氏の手によるものであることが分かる。高松藩の記録によると、明暦2年(1656年)丸亀城は残らず焼失したという。山崎氏は、甲斐守家治から志摩守俊家(としいえ)、虎之助治頼(はるより)と3代続くが、明暦3年(1657年)治頼が8歳で夭折して絶家となり、仁尾で分家していた叔父の豊治(とよはる)が備中国成羽で家名存続を許された。万治元年(1658年)京極高和(たかかず)が播磨国龍野藩6万石から丸亀藩に6万余石で入封する。京極氏は山崎氏の築城を継続し、万治3年(1660年)に天守が完成、寛文10年(1670年)に南側にあった大手枡形を現在地へ移した。元禄7年(1694年)3代藩主・高或(たかもち)のとき、庶兄・高通(たかみち)に多度津藩1万石を分家させている。多度津藩庁は丸亀城内に置かれた。京極氏は、刑部少輔高和から備中守高豊(たかとよ)、若狭守高或、佐渡守高矩(たかのり)、能登守高中(たかなか)、長門守高朗(たかあきら)、佐渡守朗徹(あきゆき)と7代210余年続き、明治維新を迎えた。(2022.06.10)

西側から見た棟側が短い天守
西側から見た棟側が短い天守

三の丸の「扇の勾配」の高石垣
三の丸の「扇の勾配」の高石垣

御殿表門と連結する番所・長屋
御殿表門と連結する番所・長屋

巨大な大手枡形の大手一の門
巨大な大手枡形の大手一の門

[MENU]