岡山県の南部に位置する倉敷市、JR倉敷駅から南東800m程のところに倉敷美観地区がある。倉敷川沿いには白壁の蔵屋敷や海鼠(なまこ)壁の土蔵などが建ち並び、柳並木や川舟などの景観が楽しめる岡山県を代表する観光地である。江戸時代後期の旧大原家住宅、大橋家住宅は国の重要文化財に指定されおり、同じく重要文化財の井上家住宅は、美観地区で最古となる享保6年(1721年)に建てられた町屋である。城下町の風情が漂うが城下町ではない。江戸時代には天領と呼ばれる徳川将軍が直接支配した幕府直轄領であった。天領は全国で約400万石にのぼり、関東・飛騨・美濃などには郡代が、その他の地域には代官が派遣された。幕府の代官は、将軍直臣のうち知行高1万石以下で将軍に御目見(おめみえ)を許される旗本から選ばれ、任地に陣屋を構えた。その実務には、元締(もとじめ)・手附(てつき)・手代(てだい)・書役(かきやく)など10数人の下役人が当たった。大名領に比べて役人の数は圧倒的に少ない。美観地区にある倉敷アイビースクエアは、明治21年(1888年)に創業した倉敷紡績所の工場や倉庫を活用したホテルを中心とする複合観光施設である。この施設の敷地の東半分にあたる場所には、かつて城山という小さな丘があり、中世には小野ヶ城という小城が構えられた。別名として小野城、倉敷城とも呼ばれる。倉敷アイビースクエアの東側に丹(に)塗りの連鳥居が特徴の城山稲荷神社が鎮座し、戦国時代の面影を僅かに残している。明応2年(1493年)小野ヶ城の城主であった土豪・小野好信(よしのぶ)が、城内に伏見稲荷を勧請して祀ったのが城山稲荷の起源であり、元和5年(1619年)に城山稲荷大明神と命名された。城山稲荷の石鳥居には、文化8年(1811年)と刻まれ、社殿両脇の狐像の台座には、天保5年(1834年)11月とあり、江戸時代後期のものであることが分かる。明治時代の倉敷紡績所の工場建設に伴って、城山稲荷は向市場町に移されており、城跡である城山は全てが削り取られて平地になった。大正3年(1914年)城山稲荷は再び現在の場所に移されている。なお、小野ヶ城は江戸時代に至るまでの間に廃城となっており、天領を管理する備中国奉行のお茶屋(陣屋)を経て、江戸時代中期の延享3年(1746年)城山の西側に倉敷代官所が建てられ、幕府から派遣された代官の拠点となった。倉敷代官は幕末まで54代におよぶ。窪屋郡倉敷村に置かれた倉敷代官所は、標高43mの鶴形山の南側、標高99mの向山の北側に位置する倉敷支配所の政庁である。『倉敷陣屋図』によると、ほぼ方形の敷地で、東西約100m、南北約36mにおよんだ。周囲を水堀で囲まれた代官所は、南側中央に正門があり、内部には御役所、代官居所、元締屋敷、明倫館の講堂・校舎、倉などの建物が存在した。御役所は敷地の中央と南東側の2か所にあり、代官居所は東側に位置した。代官補佐で、年貢徴収・治安維持・勧農(かんのう)など民政の実務をおこなう元締の屋敷は中央の御役所の西側に、明倫館の講堂・校舎はその北側に建てられた。敷地の北東部に小高い城山が取り込まれており、守護神として城山稲荷が祀られていた。教諭所の明倫館は、天保5年(1834年)倉敷代官・古橋新左衛門の元締手附・宇佐美律右衛門が主導して代官所の敷地内に創設したもので、後の29代内閣総理大臣で5・15事件の凶弾に倒れた犬養毅(いぬかいつよし)も学んでいる。跡地には「天領倉敷代官所跡」と刻まれた石碑が置かれ、水堀跡、井戸跡などが残されている。この代官所井戸は、遠州の井、鶴形の井とともに倉敷の三名井といい、明倫館校舎前あたりに掘られたものである。
現在の岡山県南部は、昔は「吉備の穴海(きびのあなうみ)」と呼ばれる内海で、内陸に深く湾入していた。岡山平野の南にある児島半島は、かつては半島ではなく、香川県の小豆島に匹敵する大きさの吉備児島と呼ばれる島であった。瀬戸内海に浮かぶ吉備児島と本土との間には大小20余りの島々が点在し、この吉備の穴海は海上交通の要衝として重要な役割を果たした。『古戦場備中府志』や『備中集成志』によると、平安時代初期の公卿・小野篁(おののたかむら)の子・小野朝臣良実(よしざね)が青江城(倉敷市酒津)を築いたとする。小野篁とは、昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたとされる人物で、小野良実は女流歌人・小野小町の父である。先祖には、飛鳥時代の遣隋使として「日出づるの処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)無きや」の国書を携えて入隋した官人・小野妹子(いもこ)がいる。青江城跡に近い青江神社(倉敷市酒津)の摂社・小野篁神社の祭神は、小野篁命、道風命、好古命、小町姫命であるという。この小野好古(よしふる)・道風(みちかぜ)兄弟は、小野良実の弟である葛絃(くずお)の次男と三男で、小野篁の孫にあたる。小野道風は、書道の三跡(さんせき)のひとりで、花札の「柳に小野道風」でも知られる。天慶2年(939年)藤原純友(すみとも)の乱が勃発すると、朝廷は小野好古を山陽道追捕使の長官、清和源氏の初代棟梁・源経基(つねもと)を次官に任じる。小野好古らは、瀬戸内海の海賊を率いる藤原純友を追討するために軍勢を進めた。現在の阿智神社(倉敷市本町)の鎮座する鶴形山は、内亀島と呼ばれる吉備の穴海に浮かぶ小島であった。このため阿智神社には海上交通の守護神である宗像三女神が奉斎されたと伝わる。鶴形山の南麓にあった岬には、小野好古によって追捕使の拠点のひとつである小野ヶ城と呼ばれる海城が築城された。天慶4年(941年)博多湾の戦いで純友の大船団は追捕使の軍勢により壊滅する。その後の小野ヶ城は、小野氏の累代の居城として続いた。平安時代末期、この辺りは源平合戦の舞台となり、干潮で浅瀬になった内海を馬で渡った佐々木盛綱(もりつな)の逸話が残されている。元暦元年(1184年)平行盛(ゆきもり)は500余騎の兵を率いて吉備児島の篝地蔵(倉敷市粒江)に本陣を構えたが、追討軍の佐々木盛綱は約500mの海峡を挟んだ対岸の藤戸(倉敷市有城)で足止めとなっていた。『吾妻鏡』によると、行盛がしきりに挑発したため、盛綱は馬に乗ったまま郎従6騎を率いて藤戸の海路3丁余りを押し渡り、向こう岸に辿り着いて行盛軍を追い落としたという。建武の新政の頃には福山合戦の前哨戦があり、建武3年(1336年)備中目代である小野浄智房(じょうちぼう)の2人の息子である七条の辨房(しちじょうのべんぼう)、小周防の大弐房(こずおうのだいにぼう)らが足利尊氏(たかうじ)方の荘兼祐(しょうかねすけ)、真壁是久(まかべこれひさ)と戦って戦死している。この時、小野父子は小野ヶ城から出撃したと考えられる。明応2年(1493年)には、小野好信が小野ヶ城の城内に伏見稲荷を勧請しており、小野氏が小野ヶ城で続いていた事が分かる。天正8年(1580年)と推定される小早川隆景(たかかげ)書状に「蔵敷(くらしき)在番之儀」とあるので、倉敷には毛利家に属した城が存在したと推定され、それは当時の倉敷に唯一の城であった小野ヶ城の可能性が高い。毛利家は織田信長に寝返った宇喜多家と交戦しており、今の鶴形山の辺りに兵站基地を置いて「蔵敷」と呼んでいたと考えられる。
この頃、吉備の穴海には、東の吉井川、中央の旭川、西の高梁川と、岡山県の三大河川が全てこの内海に流入しており、土砂が堆積(たいせき)して干潟が発達していた。倉敷周辺は高梁川の沖積作用により阿知潟(あちがた)と呼ばれる遠浅の海になっており、漁村であった内亀島の周囲は干潮時には干潟が広がっていたとされる。天正13年(1585年)豊臣政権の五大老であった宇喜多秀家(ひでいえ)の命を受け、家臣の岡豊前守利勝(としかつ)が大規模な干拓事業をおこなった。岡利勝には、天正10年(1582年)備中高松城(岡山市北区)の水攻めの際に堤防築造の指揮を執ったという実績がある。多聞カ鼻(早島町)から宮崎を経て向山の岩崎(倉敷市二日市)までと、酒津(倉敷市酒津)から内亀島の西側を通って向山(倉敷市船倉町)に至る2つの「宇喜多堤」と呼ばれる汐止め堤防を築いて干拓した。最初に干拓が進められたのが美観地区のあたりで、倉敷川を中心とする一帯は、宇喜多家により広大な新田が開発された。宇喜多秀家が始めた干拓は江戸時代にも引き継がれ、やがて倉敷一帯の島々が陸続きとなり、現在の平野が形成されて吉備児島は児島半島となった。海に浮かんだ島々は平野の中の小高い山へと姿を変えたのである。併せて、高梁川と海域を繋ぐ汐入の運河として倉敷川が掘削され、倉敷は内陸港として新たに機能することになった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、徳川家康は没収した毛利領の松山を天領とし、西国目付として備中国奉行を設置した。ここに1万4千石で赴任したのが小堀正次(まさつぐ)・政一(まさかず)父子である。この時、倉敷村も天領となり、備中松山城(高梁市)に置かれた松山代官所の管轄するところとなる。慶長6年(1601年)の小堀代官検地によれば、倉敷村の石高は619石余りであった。慶長6年(1601年)から慶長8年(1603年)までのものと推定される備中国奉行・小堀新介正次から庄屋の小野助右衛門に宛てた書状は、現在の美観地区の辺りに「くらしき」と呼ばれる集落が成立していたことが確認できる最古の史料で、物資の集積地であったことも分かるものである。なお、倉敷の地名の由来は不明である。倉敷湊が当時の高梁川の河口付近に位置したため、松山代官所は高梁川の水運を利用して内陸の松山と倉敷湊を結び、倉敷湊を年貢米を始めとする物資の中継基地として機能させた。倉敷村は江戸幕府の重要拠点として栄えることになる。慶長19年(1614年)大坂冬の陣において、2代備中国奉行の小堀遠州こと小堀遠江守政一は兵糧米十数万石を倉敷湊から摂津国大坂に積み出すという幕府の命を受け、倉敷に屋敷を構えて陣屋(お茶屋)とした。倉敷には早くから水夫(かこ)屋敷が存在し、江戸時代初期には倉敷川の川辺に水夫屋敷が並んだ。水夫とは船乗りで、日頃は暮らしに必要な物資を運んだ。文禄・慶長の役に動員されたとも伝わり、大坂の陣や島原の乱には、幕府の兵糧米や物資を運んだ。小堀氏のお茶屋が構えられたのは小野ヶ城の場所なので、小野家は小野ヶ城の跡地を小堀遠州に差し出したようである。小野家は倉敷村で一番の地主であり、元和5年(1619年)時点で村高の11.6%にあたる71石余もの田畠を所持するなど経済力も突出していた。小野家は倉敷村の庄屋を世襲して繁栄した。元和3年(1617年)鳥取藩より池田長幸(ながよし)が6万5千石で備中松山城に入り、備中松山藩を立藩した。これに伴って倉敷村は備中松山藩の領分となる。寛永18年(1641年)2代藩主・池田長常(ながつね)で廃絶となり、寛永19年(1642年)成羽藩より水谷勝隆(みずのやかつたか)が5万石で入封する。
この時、倉敷村は再び天領となり、初代倉敷代官として米倉平太夫重種(しげたね)が支配することになったが、陣屋は設置されなかった。倉敷代官は、倉敷・美作国久世・讃岐国塩飽(しわく)諸島など約6万石を管轄統治した。その後の倉敷村は、天和3年(1683年)に庭瀬藩へ移管され、元禄10年(1697年)には丹波亀山藩領、元禄16年(1703年)には再び天領となり代官・大草太郎左衛門正清(まさきよ)の支配となる。宝永7年(1710年)には駿河田中藩領、享保5年(1720年)から天領になり代官・遠山半十郎の支配となり、代官支配は幕末まで続く。なお、各藩の領地となっている間も倉敷村は、幕府預かり地として事実上の幕府の代官支配が存続していたという。寛保元年(1741年)11月から代官・千種清右衛門が陣屋を築き始めて、延享3年(1746年)に倉敷代官所が完成し、延享5年(1748年)には牢屋も付設された。代官所の設置により倉敷は江戸幕府の山陽地方支配の拠点となった。倉敷代官所ができると、小野家は掛屋(かけや)や郡中惣代(ぐんちゅうそうだい)など、代官行政を支える中核を担った。しかし、18世紀中頃から倉敷代官所の改築費の立て替えなどのため経済的苦境に陥り、持高は大きく減少した。大草太郎右馬政郷(まささと)は、文政元年(1818年)から文政11年(1828年)までの倉敷代官であるが、長連寺(倉敷市船倉町)の過去帳には戒名と「文政九年五月十日」の日付があり、口碑によると新禄古禄騒動の引責により自決したとされる。その死は、文政11年(1828年)7月まで伏せられていた。新禄古禄騒動とは、倉敷村における村方騒動で、江戸時代の初めから倉敷村の運営を担ってきた小野家、井上家など13家の旧家(古禄)と、新たに台頭してきた大原家、大橋家を筆頭とする新興の豪商(新禄)の約90年にわたる争いである。この代官まで巻き込んでの勢力争いは、新禄の勢力が古禄十三軒を上回るようになり勝敗は決した。現在の美観地区の街並みを形成する建物は大半が新禄の町家で、宮崎屋井上家住宅が唯一現存する古禄の町家である。この井上家は、吉備児島に備前小串城(岡山市南区)を築いた高畠和泉守の嫡子・市正貞政(さだまさ)の次男である新右衛門を初代とする。天正17年(1589年)毛利家に属する高畠氏は、貞政のとき宇喜多家に攻められて小串城は落城した。高畠新右衛門は倉敷に移住して井上と改め、慶長14年(1609年)には現在の井上家住宅の場所にいたという。慶応2年(1866年)長州第二奇兵隊の幹部だった立石孫一郎は、隊士約100名を率いて脱走し、第二次長州征討を前に倉敷代官所と浅尾藩の陣屋(総社市)を襲撃する事件を起こした。いわゆる倉敷浅尾騒動である。当時、倉敷代官所の役人は代官以下16名だったが、代官・桜井久之介と6名の役人が広島に出張中で、3名は笠岡代官所(笠岡市)に詰め、元締・田中東蔵も外泊していたので、5名の役人と宿直の雇人24名しか居なかった。浪士達の襲撃により手附・長谷川仙助と雇人8名が死亡した。この事件により代官所の大部分が焼失したため、明倫館の講堂を代官所として代用した。慶応4年(1868年)1月、倉敷代官所は岡山藩に引き渡されて廃止となった。同年5月には新政府によって旧倉敷代官所管轄地が倉敷県となった。このときに明倫館は倉敷県庁舎として使われたが、明治4年(1871年)倉敷県が廃止されて小田県に統合されると倉敷県庁舎は放置された。新禄・大原家は、明治21年(1888年)倉敷紡績所(クラボウ)を創設するなど、財閥ともいえる発展を遂げた。明治22年(1889年)倉敷代官所の跡地には、クラボウの倉敷本社工場が建設された。(2025.08.18)