久保田城(くぼたじょう)

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常陸源氏嫡流の名族佐竹氏が治めた久保田藩の政庁

展望室を伴う新兵具隅櫓
展望室を伴う新兵具隅櫓

雄物川の支流である仁別川(旭川)と太平川に挟まれた程野村窪田の神明山(しんめいやま)という台地に、久保田藩の藩庁として久保田城が築かれた。平山城の久保田城は、本丸を中心として、東側に細長い二の丸、それらを囲むように重臣屋敷の並ぶ三の丸があり、北側には北の丸が配置される。もともと仁別川は神明山西裾の直下を流れていたが、久保田城の築城にともない約16年の歳月を費やして流路を西方に変更、旧河跡を外堀に利用した。神明山の東側には、長沼を含む広大な沼沢地が広がり、天然の要害であった。久保田城は本丸と二の丸を内堀が囲み、三の丸を外堀が囲む。また、東側の長沼や西側の仁別川が3重目の堀として機能していた。仁別川を境として、東側が内町(うちまち)という藩士の居住する侍町で、久保田城の防御のため屈曲の多い道とした。また、西側が外町(とまち)という職業別に定めた町人の居住区で、こちらは整然とした町割りにしている。さらに西側を寺町とし、寺院を一線に配置して有事の際は砦として利用できるように備えている。南方の金照寺山には出城としての役割があったと考えられている。久保田城に天守は造られず、石垣も使われなかった。石垣の代わりに、土塁の基底部に2、3段の石組みを用いた腰巻土塁で防御した。これは藩主の佐竹氏が江戸幕府に遠慮したとも、石垣普請に精通した者が居なかったとも言われるが、佐竹氏の転封前の本拠である常陸水戸城(茨城県水戸市)にも天守はなく、石垣を用いない城郭であった。もともと東国では、石垣を用いない築城法が一般的である。現在、久保田城の本丸と二の丸の跡地が千秋公園となっており、内堀や外堀は、大手門の堀や穴門の堀など一部を残して埋め立てられた。久保田城の本丸は、南半分が久保田藩の政庁として機能し、北半分が藩主の邸宅となっていた。本丸には櫓門形式の表門と裏門、上部に多門長屋(多聞櫓)を渡した埋門、帯曲輪につながる帯曲輪門の4つの城門が存在した。本丸南西の高台には天守の代用となる御出し(おだし)書院があったが、何度か建て替えられており、絵図によって2層の場合と単層の場合がある。本丸北西の高所には、新兵具(しんひょうぐ)隅櫓という2層の隅櫓が建てられていた。現在、その場所には、史料に基づき復元された新兵具隅櫓(御隅櫓)が建つが、その屋根に展望室として模擬の望楼が取り付けられており、3層天守風の残念な建物となっている。久保田城には他にも7基の2層櫓があった。本丸の周囲には、高い土塁と多門長屋、板塀がめぐらされていた。多門長屋が建てられた場所は、絵図によって異なるが、御出し書院から新兵具隅櫓を経て帯曲輪門までの距離と、表門から裏門までの距離と考えられている。表門は本丸御殿への玄関口で、一ノ門とも呼ばれていた。警備上からも重要な地点とされており、南側には表門の警護と管理をおこなう御番頭局(ごばんがしらべや)を、表門の下手には御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)を置いて厳重に守りを固めた。この表門は木造2階建て瓦葺きの櫓門で、絵図など文献資料や発掘調査の結果をもとに復元されている。久保田城内に唯一現存している御物頭御番所は、本丸と二の丸をつなぐ長坂にあり、二ノ門(長坂門)の開閉や、登城者の監視、城下の警備、火災の消火等を担当する物頭(足軽の組頭)の詰所である。江戸時代から現存する番所は全国的にも珍しく、秋田市指定文化財となっている。二の丸には勘定所、境目方役所、安楽院(祈祷所)、時鐘、金蔵、厩などが置かれ、黒門、松下門、不浄門、北御門の4つの城門と要所に4基の櫓が配置された。

久保田藩初代藩主となる佐竹義宣(よしのぶ)が転封してくる以前、標高45mの神明山には出羽国北部の戦国大名である安東氏(秋田氏)配下の川尻氏の矢留城が存在した。北西に川尻大明神があったため、神明山といわれるようになったが、古くは三森山と呼ばれていたという。安東氏は、平安時代中期の武将である安倍貞任(あべのさだとう)の子孫を称し、鎌倉時代には蝦夷代官職を、室町時代には蝦夷管領を世襲しており、幕府の命を受けて流刑地であった蝦夷地(北海道、樺太、千島列島)への罪人の送致、監視をおこなった。鎌倉時代末期から南北朝時代を通して、蝦夷地のアイヌ民族との重要な交易拠点であった津軽十三湊(とさみなと)を本拠地とし、蝦夷地にも勢力を伸ばしていた。そして、室町時代になると安東氏は上国家(かみのくにけ)と下国家(しものくにけ)に分かれて対立、上国家は小鹿島(男鹿市)や土崎湊(秋田市)を領し、湊城(秋田市寺内後城)を本拠として秋田郡を制圧、秋田城介(あきたじょうのすけ)を称した。秋田城介とは、律令制における出羽国の秋田城(秋田市大畑)を専管した国司である。秋田城に置かれた出羽介であることから秋田城介といわれるようになった。一方、下国家は津軽地方を領したが、八戸方面から勢力を伸ばしてきた南部氏に追われ、檜山城(能代市)を本拠に檜山郡や蝦夷地南部を領する。戦国時代後期になると、上国家湊安東氏に後嗣がなく断絶の危機を迎えたため、下国家檜山安東氏の安東愛季(ちかすえ)が湊家を継承して安東氏を統合した。そして、安東愛季は大宝寺氏の由利郡進出を阻み、陸奥国比内郡の浅利氏を滅ぼして、比内郡を秋田郡に併合、秋田郡、檜山郡、由利郡などを版図に収めて出羽北部で最大の戦国大名に成長した。愛季は織田信長や豊臣秀吉に誼を通じるなど、中央権力とも連絡を密にしており、天正8年(1580年)従五位上侍従となり、安東氏の最盛期を築き上げる。晩年には上国家湊安東氏が代々秋田城介を称したのにちなんで、名字を安東氏から秋田氏に改めている。天正15年(1587年)秋田愛季が角館城(仙北市)の戸沢盛安(もりやす)と戦った際、仙北淀川の陣中で病死した。秋田氏の家督は嫡子の実季(さねすえ)が12歳で継ぐが、従兄弟の安東通季(みちすえ)はこれに不満を持ち、天正17年(1589年)南部氏、小野寺氏と連絡し、戸沢盛安の支援を得て反乱を起こした。秋田実季は湊城を奪われ檜山城に籠城するが、南部氏が戸沢盛安の領地近くの比内地方に侵攻したため、一旦和睦が成立する。その間、秋田実季は越後上杉氏の重臣である本庄繁長(しげなが)と誼を通じ、由利郡の由利十二頭(ゆりじゅうにとう)に助勢を求め、安東通季を挟撃して湊城を奪還した。さらに、戸沢・小野寺連合軍との峰の山合戦を経て和議がまとまり、秋田実季はこの湊騒動の危機を脱した。安東通季は南部氏のもとへ逃れてその家臣となっている。しかし、この内紛は豊臣秀吉が全国に命じた惣無事令の違反とみなされた。秋田実季の中央工作により、秋田氏は存続を許され、所領も出羽国秋田5万2千石の安堵が認められる。また没収された領地のうち2万6千石が太閤蔵入地となり、実季がその代官となって実質上の支配は続いている。湊騒動ののち、秋田実季は土崎湊の地に新たな本拠として城郭の築城を開始した。この新しい湊城(秋田市土崎港中央)は、二重の堀を巡らせた大規模な平城であったという。慶長3年(1598年)豊臣秀吉が死去すると、次の天下を露骨に狙う関東7ヶ国255万石の徳川家康は、権謀術数の限りを尽くして天下取りのための勢力拡大を図った。

これに対して、会津120万石の上杉景勝(かげかつ)は、徳川家康の専横を許すことができず、家康との直接対決を意識して家老の直江兼続(かねつぐ)に領内の軍備増強を命じたのである。慶長5年(1600年)徳川家康は上杉氏の行動を謀反の準備と捉え、弁明の使者を送るよう景勝に命じた。しかし、直江兼続はこれに猛然と反発、家康に宛てた返書によって挑戦的な態度で家康を痛烈に非難した。いわゆる「直江状」である。徳川家康は上杉氏が挑発に乗り大義名分を得たことに喜び、直ちに会津征伐の軍を発することを全国の諸大名に命じた。家康は上杉領内を5ヶ所から攻撃することとし、北の米沢口に最上義光(よしあき)、南部利直(としなお)、秋田実季、戸沢政盛(まさもり)ら、北東の信夫口に伊達政宗(まさむね)、西の津川口に前田利長(としなが)ら、南東の仙道口に佐竹義宣を当て、家康は西国や東海道の諸大名と共に南の白河口より一斉に攻め込む計画であった。しかし、徳川家康が会津征伐に出征して畿内を留守にすると、上杉氏と昵懇であった石田三成(みつなり)が毛利輝元(てるもと)、宇喜多秀家(ひでいえ)、大谷吉継(よしつぐ)ら反家康派の諸大名を糾合して挙兵する。家康が下野国小山に入ったとき、石田三成らの挙兵を知った。この時、家康は小山評定を開いて会津征伐の中止を決定し、最上義光、伊達政宗、結城秀康(ひでやす)らに上杉景勝の牽制を命じて上方に引き返した。関ヶ原の戦いの幕開けである。南部氏、秋田氏、戸沢氏および出羽北部の諸将は、会津征伐に備えて最上義光の山形城(山形県山形市)に集結していたが、家康の軍勢が去ると、慌てて自領へ引き上げていった。孤立を恐れた伊達政宗は、上杉氏と和睦することに成功するが、最上義光は秋田実季と組んで上杉氏家臣の志駄義秀(よしひで)が守る庄内地方の東禅寺城(山形県酒田市)を攻めようとしていた行動が露見して和睦は認められなかった。このため、最上義光は単独で上杉軍と戦うことになる。上杉景勝は直江兼続に2万5千余の軍勢を預け、最上領侵攻を命じた。同時に庄内方面からも志駄義秀が3千の軍勢で最上領に進軍した。最上軍は少ない兵力で頑強に戦い、文字どおり山形城を守る最後の砦となった長谷堂城(山形県山形市)を死守する。この長谷堂城における激しい攻防戦の最中、関ヶ原本戦での西軍の敗北が伝わり、上杉軍は撤退していった。慶長7年(1602年)秋田実季は東軍に属していたが、最上義光の讒言によって常陸国宍戸5万石に移封となっている。太閤蔵入地の分が考慮されなかったので実質は減封であった。そして、入れ替わる形で、佐竹義宣が常陸国水戸54万石から出羽国秋田に石高不明のまま入封した。江戸幕府から石高が20万石と正式に認められたのは、これから62年後となる。佐竹義宣は、慶長6年(1601年)に完成した新しい湊城に入城したが、秋田氏が5万石の小身代に対して、佐竹氏はもともと54万石の大身代であったため、家臣団の屋敷などを構えるとなると湊城は手狭で、拡張の余地もなかった。佐竹義宣は新たに本城の築城を検討するが、城地の選定において父の義重(よししげ)と意見が分かれた。佐竹義重は経済的な理由から米の豊富な産地である領国南部の横手を推したが、佐竹義宣は雄物川の水運と、土崎湊に近くて領国中央となる窪田を選んだ。慶長8年(1603年)神明山に新城の築城を開始し、同時に城下町と主要道の整備もおこなう。慶長9年(1604年)窪田城の本丸が竣工すると、未完成ながら湊城から本拠を移した。寛永10年(1633年)から正保2年(1645年)にかけて、窪田から久保田に改称している。

佐竹氏は、清和源氏の一流である河内源氏の流れをくみ、新羅三郎義光(よしみつ)を祖とする常陸源氏の嫡流で、甲斐源氏とは同族の名家である。室町時代には常陸国守護職を世襲し、戦国時代において国人領主の台頭もあって影響力を弱めるが、「鬼義重」の異名をとる18代当主佐竹義重の出現によって常陸国の大半を支配下に置くことに成功している。佐竹義宣の時代、豊臣秀吉の小田原の役に参陣して常陸一国の安堵を受け、秀吉の朱印状を後ろ盾に常陸国の平定をおこなった。小田原討伐の際、佐竹義宣は石田三成の斡旋で豊臣秀吉に謁見し、三成を総大将とする武蔵忍城(埼玉県行田市)の水攻めにも参加しており、三成とは親交があったと考えられる。現在、久保田城本丸南西の隅櫓跡には茶室「宣庵」があり、この茶室の庭園には舟形の手水鉢が置かれている。これは文禄・慶長の役にて加藤清正(きよまさ)が朝鮮から持ち帰り、豊臣秀吉に献上したものと伝えられ、大坂城内にあった手水鉢を石田三成のはからいで佐竹東家に贈られたという。慶長2年(1597年)佐竹義宣の従兄弟で、下野国の大名である宇都宮国綱(くにつな)が突然改易された。理由は諸説あるが、行動を共にしていた佐竹義宣も連座して処分される可能性があった。しかし、石田三成のとりなしによって難を逃れることができ、義宣は三成の恩義に大変感謝したという。そして、豊臣秀吉、前田利家(としいえ)が相次いで死去すると、かねてから石田三成と対立していた加藤清正、福島正則、池田輝政、黒田長政、加藤嘉明、浅野幸長、細川忠興ら武断派の七将が、三成の大坂屋敷を襲撃した。しかし、三成は事前に計画を察知、佐竹義宣の助けを借りて、宿敵である徳川家康のいる伏見屋敷に逃げ込んだ。その後、三成は騒動を起こした張本人として、家康より五奉行の職を解任され、近江佐和山城(滋賀県彦根市)での蟄居を命じられている。そして、関ヶ原の戦いとなるが、佐竹義宣はかねてより懇意のある西軍の石田三成に味方しようとするが、父の義重は時流を読み東軍の徳川家康に協力するよう主張した。結局、佐竹氏は旗色を鮮明にせず曖昧な態度を取ったため、戦後に出羽国秋田への減封となる。佐竹氏の入国に当たっては、領内各地で反佐竹一揆が起こったため、六郷城(佐竹義重)、横手城(戸村氏)、大館城(佐竹西家)、角館城(佐竹北家)、湯沢城(佐竹南家)、檜山城(多賀谷氏)、十二所城(茂木氏)、院内城(大山氏)など要所に佐竹一族や有力家臣を配置、佐竹四家の筆頭である佐竹東家は久保田城下に常住した。元和元年(1615年)一国一城令において、このような情勢不安もあってか、本城である久保田城以外に例外として横手城(横手市)と大館城(大館市)の存続が認められている。それ以外は廃城となったが、館構えにして領内支配の拠点としての役割を果たした。江戸時代を通じて、佐竹氏は出羽国久保田から移封することなく明治を迎えている。明治元年(1868年)戊辰戦争では、久保田藩は新政府軍に加担したため、奥羽越列藩同盟の庄内藩、仙台藩、盛岡藩からの攻撃を受け、横手城と大館城は炎上したが、久保田城は無傷で残った。しかし、明治13年(1880年)久保田城の建物は、大火によって御物頭御番所と裏門を残してことごとく失い、明治19年(1886年)の俵屋火事では、佐竹氏ゆかりの鱗勝院(秋田市旭北栄町)を含む寺町と外町のほとんどを焼失している。鱗勝院は再興に際して、佐竹氏より久保田城の裏門を拝領しており、木造2階建ての櫓門であった裏門は、移築に際して2階部分が取り払われた。この山門は今でも鱗勝院に現存している。(2009.08.30)

復元された久保田城表門
復元された久保田城表門

唯一現存する御物頭御番所
唯一現存する御物頭御番所

移築改修された本丸裏門
移築改修された本丸裏門

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