知多半島の南部に美浜町があり、その東端に河和(こうわ)がある。江戸時代の藩撰の地誌『張州府志』の知多郡の巻に「オヨソ知多郡ハ(張)州ノ南ニ当タリ、遠ク海中ニ出ズ。南北、率(おお)ムネ十三里タル可シ。東西或ハ一里、或ハ二里余。界ヲ愛知郡ニ接スルトイエドモ、然ルニ実ニ孤絶之一島ニ似タリ。西南東三方、海ヲ隔テテ伊勢、志摩、及ビ三州ノ地ト相対ス。郡中南北ニ山ヲ連ネ、其ノ山谷之間ニ民居有ルハ、俗ニ之ヲ中通りト謂ウ。其ノ沿海之邑、之ヲ東浦、西浦ト謂ウ。西浦ハ勢州ト海路七、八里、或ハ十里バカリ。東浦ハ三州ト相去ルコト甚(はなは)ダ近シ、三里或ハ一里。阿野竟(さかい)、一村ヲ以ッテ界ト為ス。郡中凡ソ一百四十余村。」とある。阿久比川沿いの半島北部の道を中通り、伊勢湾側を西浦、三河湾・知多湾側を東浦といったのである。これに従うと、河和は東浦に存在した。河和城は新江川(しんえがわ)の南岸にある標高36mの小山に築かれた。山頂に主郭があるが、これが最も大きな曲輪となる。内藤東甫(とうほ)の『張州雑志』の「河和城之図」から、河和城の主郭は30間(約55m)四方であったと推測できる。周囲には土塁が残っており、西側の土塁の北端と南端に櫓台が存在する。虎口は北側と南側に存在するが、往時は本丸に城門が4棟あったという。主郭の東側と南側は切岸となり、西側には一段下がって帯曲輪が存在、その北と南に横堀がある。帯曲輪の西側にも小さな曲輪が2つあり、南側の横堀の先にも大きな曲輪が2つ連なっており、梯郭式の縄張りであった。知多半島の多くの城址が消滅している中、この河和城跡は比較的良好に遺構が残っている。かつて、城の南の台地は侍屋敷、商家、農家が集まる集落になっていたという。周囲には、古屋敷、北屋敷、南屋敷といった地名が残る。『張州雑志』によると、かつての河和庄の範囲は、河和・北方・時志の3村であったことが分かる。河和にある天台宗の甘露寺(美浜町河和北屋敷)の『甘露寺記』には、中世の河和庄は二条甘露寺の荘園であったと記している。そして下地中分(したじちゅうぶん)によって北と南に分断され、南の南方村はやがて河和村になったという。中世の荘園は、京都や離れた場所に居住する本家(所)や領家の本家職・領家職と、荘園に住む公文、下司、地頭などの荘官職、それに実際に耕作に当たる百姓や作手などの百姓職といった人々がそれぞれ知行する所領であった。1つの土地にさまざまな所有権が重なり合っていたのである。そして本家職・領家職の知行を上分(じょうぶん)知行といい、荘官職・百姓職の知行を下地知行といった。鎌倉・室町期になって地頭の力が強くなるにつれ、地頭が年貢を押さえたり、土地を押領したりして、領家との間に訴訟沙汰を多く起こした。下地は年貢などすべての収益の対象になる土地で、田畑のほか、山林、塩浜なども含まれていた。この争論の解決法として、土地を折半したり、3分の1と3分の2に分けるなど、地頭分と領家分の境界を明らかにするのが下地中分である。河和という名称が史料上もっとも古くまで遡れるのは、長禄年間(1457-60年)である。三河国碧海郡上野(豊田市上野)で正親町三条家の代官を務める戸田弾正左衛門尉宗光(むねみつ)が知多半島南部に進出、東浦の河和から富貴に至るまでを領有した。そして、長禄年間に東浦を押えることを目的として河和城が築かれた。戸田氏はのちに三河国渥美郡田原(田原市)を本拠とすることで知られるが、戸田宗光が渥美半島の田原に進出して城を造るのは、文明12年(1480年)というので、河和城はそれよりもかなり前に築かれたことになる。
当時、知多半島の東浦では、緒川と対岸の三河国刈谷を拠点とする水野氏が力を蓄えて、知多半島中央部への進出を狙っていた。一方、西浦では、知多郡分郡守護の一色氏の被官であった佐治氏が、大野と内海を拠点に台頭していた。この状況で戸田氏と佐治氏は、知多半島先端の師崎の湊をめぐって争うことになる。文明8年(1476年)戸田宗光は境界として共有する幡豆ヶ崎に陣代を置き、佐治駿河守宗貞(むねさだ)も対抗上、幡豆ヶ崎に陣代を置いた。いわゆる「幡豆ヶ崎の両陣」である。その後、戸田氏と佐治氏は和睦して、羽豆城(南知多町師崎)に交替で陣代を置くことになる。やがて宗光は、渥美半島を統一することに成功、田原城(田原市田原町)を嫡男の弾正忠憲光(のりみつ)に譲り、明応2年(1493年)三河に進出する駿河今川氏に備えるため三河二連木城(豊橋市)を築いて移る。ところが、明応8年(1499年)宗光は船形山の戦いで今川軍に敗れて討死している。その跡は戸田憲光が継いだ。憲光は今川軍に抵抗することを不利として、今川氏の傘下に入る。永正6年(1509年)憲光は長男の左近丞政光(まさみつ)に田原城を譲り、自らは河和城に移り住んで河和殿と称した。大永5年(1525年)憲光は死去し、三男の万五郎親光(ちかみつ)が河和城と河和戸田氏を継いだ。『張州雑志』によると、河和城主の戸田万五郎の知行は、「東浦ハ英比ノ庄(阿久比町)ヨリ下ナリ、西浦ハ上野間(美浜町)ヨリ下ナリ、都合一万八千石ナリ、武夫、幕下ニ属スルモノ夥シ」とある。親光のあとは、孫右衛門繁光(しげみつ)、孫八郎守光(もりみつ)と続くが、その間に大きな戦があった。三河岡崎城(岡崎市)の松平広忠(ひろただ)は今川氏に属しており、水野氏も同様であった。そして、尾張の織田信秀(のぶひで)と敵対していた。同じ今川氏の傘下ということで、松平広忠の許へ水野藤七郎忠政(ただまさ)の娘・於大(おだい)が嫁ぎ、松平竹千代(のちの徳川家康)が生まれた。ところが、天文12年(1543年)水野忠政が死去すると、嫡子の藤四郎信元(のぶもと)は、今川義元(よしもと)に背き、織田氏に属してしまう。このため、松平広忠は今川氏をはばかって於大の方と離別せざるを得なくなる。織田氏に従った水野氏の狙いは、知多半島の中南部に勢力を伸ばすことにあった。天文13年(1544年)織田信秀の武力を背景に水野信元は南下を開始する。新海淳尚(あつひさ)の宮津城(阿久比町)、榎本了圓(りょうえん)の成岩城(半田市)、岩田安広(やすひろ)の長尾城(武豊町金下)を次々と攻め落した。そして戸田領に侵入すると、一族の重鎮である戸田孫右衛門法雲(ほううん)の守備する富貴城(武豊町冨貴郷北)を落城させており、戸田法雲は将兵ともども討死した。さらに水野勢は、布土城(美浜町布土明山)も降し、信元の弟・藤次郎忠分(ただちか)を配置して河和本城に迫った。水野勢との戦いは2度、3度とくり返された。水野氏は北方村までは手中に収めたが、河和城までは抜けなかった。勢いに押された戸田氏は富貴・布土・時志・北方を失い、知多半島における勢力は衰退、水野氏と戸田氏の戦いは水野氏優勢のまま膠着状態に入ったと考えられる。そして、天文16年(1547年)8月2日に事件が起きた。岡崎の松平広忠は、今川氏との結びつきを強めるために、当時6歳の竹千代を人質として駿府へ送ることにした。ところが、田原の戸田康光(やすみつ)が途中でこれを奪い、船で熱田の織田信秀の配下・加藤図書頭のもとに送った。通説では戸田康光が永楽銭1千貫文で竹千代を売ったとされる仕業である。
『知多郡史』の見解では、この田原戸田氏の行動は、河和戸田氏を救うためのものだとしてる。水野氏と河和戸田氏の不均衡な状況に、今川氏の勢力である松平広忠の息子・竹千代を掠奪することで均衡を取り戻し、あわよくば河和戸田氏に有利な和平を図ろうとするものである。事実、この頃に水野氏と河和戸田氏は和睦しており、河和城は落城せずに残ったのである。しかし代償も大きかった。天文16年(1547年)今川義元は田原城を攻撃、康光を討ち取って田原戸田氏を滅亡させた。河和戸田氏と和睦した水野氏は、さらに兵を進めて内海佐治氏を傘下に収めている。その後、水野信元の娘(妙源尼)が戸田守光に嫁ぐが、これは天正10年(1582年)前後のことと推測される。妙源尼は河和様と称せられたようで、徳川家康とは従兄妹という関係にあった。その間、天正3年(1575年)織田信長の武将・佐久間信盛(のぶもり)の讒言により、水野信元は信長の命で甥の家康に殺害されている。ところで、河和城主の孫八郎守光は、戸田氏直系の嫡子ではなく、佐治氏から養子に入ったとされる。『張州雑志』は「或る人いわく、河和城主戸田孫八郎、実は内海の佐治備中守為綱(ためつな)の子なり、戸田孫右衛門これを養って、水野信元の娘をもって、これに嫁がしむ」と記している。また、同じ『張州雑志』でも了證(りょうしょう)のまとめた「全忠寺蔵水野系譜一巻」は異なり、「戸田孫八郎、大野宮山城主、佐治氏ノ子ナリ、戸田孫右衛門養ツテ子ト為ス、戸田氏系(譜)ニ云ウ、田原三郎右衛門ノ子、マタ孫右衛門、三郎右衛門ト云ウト、一説ニ、孫右衛門ノ弟ナリト、末ダ正説ヲ聞カズ」とある。天正18年(1590年)の頃、戸田守光と妙源尼の間には、長男で7歳の万千代と、2人の女子がいた。この頃の戸田家は、東浦では北は富貴、長尾から南は矢梨、乙方まで、また西浦では、奥田から内福寺に至る都合十余か村8千石を知行する国侍、土豪であった。当時、尾張国を支配していたのは、織田信長の次男・信雄(のぶかつ)である。天正10年(1582年)の本能寺の変の後、信雄は尾張国清州に移り、尾張・伊賀国と南伊勢5郡を支配していた。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐では、信雄も秀吉の下知に従って出陣した。信雄の軍勢は3万といわれるが、この中に戸田守光も加わっていた。7月11日、北条氏政(うじまさ)の切腹とともに小田原の役は終わる。7月13日の論功行賞では、家康は国替えを命ぜられて江戸に移ることになるが、信雄は国替えを承知しなかったため、秀吉の怒りを買い秋田に追放された。尾張国には、信雄に代わって豊臣秀次(ひでつぐ)が封ぜられた。7月17日、秀吉は小田原を出発して奥州に向かい、8月9日には会津黒川城(福島県会津若松市)に入っている。このような情勢の中、戸田守光は8月20日に相模国小田原で討死する。守光の死は、戦場において敵と戦って死ぬ名誉ある戦死であったとは考えられない。守光は主人である信雄を失っていた。信雄は国替えでなく追放の身であるから、従ってゆくことはできない。残された道は、新しい国主である秀次の配下となり、所領の河和一帯を安堵してもらう以外になかった。ところが守光は死んだ。秀次または秀吉に反逆したものと考えられる。城主討死の報が伝わるや、河和郷民大いに乱れて、城は破却におよんだ。おそらく火をかけられたと思われる。そして守光の妻子も領民の迫害に遭う。領主が討死したからといって、領民がすぐ城に火をかけたり、領主一族を迫害することはない。守光の死は、時の権力者に対する反逆によるもので、そのため領民は河和城を忌まわしいものとして火を放った。
中世において、不浄の穢れを払うために罪人の住宅を焼き払う習慣があったという。戸田氏の領民は、そうすることで戸田氏に一味徒党するものでないことを証明した。戸田守光の屍は、家臣により河和村に埋葬されている。美浜町河和北田面に旧跡さんという宝筺印塔が今もある。不敬なことがあると、いくつもの火の玉が出てきて祟りするという。この火の玉を地元ではゴヒンサンともグヒンサンとも呼ぶが、御火様の意味のようである。『尾張徇行記』には、「此村戊亥(北西)ノ方、野間界ノ山奥ニ姥ヶ谷(うばがたに)ト云フ所アリ。今ハ姥ヶ田ト云ウ。是ハ、戸田孫八郎小田原ニ於テ戦死ノ後、其ノ内室、百姓共ニセコメラレ、山奥ヘ身ヲ遁レシ故ニ其ノ所ヲ姥ヶ谷ト唱エ来タレリ」とある。セコムとは責める・いじめるの意味である。迫害された母子4人は、山ひとつ越えた野間大坊(美浜町野間東畠ケ)の長圓(ちょうえん)の所に難を避けた。長圓は妙源尼の従姉弟に当たる。そして、この野間大坊で、妙源尼は髪をおろしたと考えられる。これ以後、「妙源褝尼」と名乗った。そして叔母にあたる家康の母・於大の方(伝通院)を頼って、子供3人を連れて野間から江戸に向かった。妙源尼母子は、江戸では於大の方の庇護の下にあったようである。慶長2年(1597年)徳川家康は、武蔵国足立郡大門郷700石を宛がう直筆の朱印状を14歳の万千代に渡した。このとき万千代は水野下野守信元の名跡を継ぐよう命ぜられ、戸田姓から母方の水野姓に改めている。家康にとって戸田は幼い自分を誘拐した家で、一方の水野は母の実家であり、信長の命とはいえ伯父・信元を殺して滅ぼしてしまったという経過もある。母の妙源尼は、家康に対して万千代に旧領・河和の領知を求めたが、家康は許さなかった。仇した領民を害することを恐れたためとされている。しかし、妙源尼はしばしば家康に懇願し、「かりに采地を他邦に賜わって、数万石を領したとしても、領知の恩は、河和一邑より劣る」と訴えた。そして迫害した河和郷民に復讐しないことも誓った。やがて家康は旧領の河和一郷1460石を万千代に与えて在村を許した。慶長6年(1601年)妙源尼母子は11年ぶりに河和に戻った。万千代あらため水野惣右衛門光康(みつやす)は18歳になっている。水野光康が地頭として河和に帰った慶長6年は、関ヶ原の戦いの翌年である。水野光康は、家康の幕下に属して手柄をたて、念願の河和領知になったと思われる。そして家康の命により、尾張藩主徳川義直(よしなお)の旗本になっている。名古屋城下に屋敷を賜り、本領の河和では河和城を復興することなく、北東の平地に水野屋敷を構えた。水野屋敷については詳しい資料がなく不明であるが、天保12年(1841年)の『河和村絵図』によると、現在の河和橋から国道沿いに南下した河和天神社(美浜町河和北屋敷)あたりまで約5千坪の屋敷地があった。この水野屋敷は、河和村では「お屋敷」と呼ばれて慕われた。残存していた建物の棟札によると、安政2年(1855年)に建てられたことが分かる。美浜町大字北方十二谷に旧屋敷の天井板などを再利用した「水野屋敷記念館」が存在するが、復元ではないという。慶長16年(1611年)家康が水野屋敷に訪れて、光康と妙源尼がもてなしている。寛永7年(1630年)には初代藩主・義直が水野屋敷を訪れている。その後も尾張藩主の代替わりの際は「知多郡御廻り」として、水野屋敷への立ち寄りが慣例となった。江戸時代、武士の役は、武官の番方と行政官の役方とに大別されるが、河和水野家は代々尾張藩の番方筆頭である大番頭となっている。これは戦陣における侍大将であった。(2016.07.03)