清洲城(きよすじょう)

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織田信長の尾張国統一時代の居城

大坂城の復興天守
清洲城の模擬天守

五条川西岸沿いの清洲の地に清洲城があった。この地は、鎌倉街道と伊勢街道の合流点で、美濃路を通り中山道にも接続する交通の要衝である。清洲城は木曽川の河口近くに位置し、その支流である五条川を内堀、外堀に取り込んでいる。関西側からみると関東の入口を鎮護する巨城であるため、「関東の巨鎮」と称えられた。現在、本丸跡が清洲古城跡公園として整備され、天守台とされる少し高くなった場所があり、そこに幕末に建てられた「清洲城墟碑」と「右大臣織田信長公古城跡」の2基の石碑が建つ。清洲古城跡公園には清州城の本丸石垣の一部が復元されている。この石垣は五条川の河川事業に伴う発掘調査により発見されたもので、軟弱地盤に備えて不等沈下しないように枕木と胴木が梯子状に組まれた梯子胴木で、石垣は野面積みの技法で組まれている。石垣の発見場所は復元石垣から下流約200mの位置である。清洲城の遺構を分断するようにJR東海道本線と東海道新幹線が走っており、五条川を挟んだ対岸には清洲城の模擬天守と書院が建てられている。JR清洲駅の北方にある総見院(清須市大嶋)は織田家の菩提寺で、信長所用とされる兜が伝わる。これは箱書きによると本能寺の変の直後に、織田信雄(のぶかつ)が焼け跡から探し出させたもので、「焼兜(やけかぶと)」と称される。焼けて変色した兜からは、本能寺の劫火が想像できる。

室町幕府の管領で尾張守護職の斯波義重(しばよししげ)は下津(おりつ)に守護所を置いていたが、応永12年(1405年)別城として清洲城を築いたとされる。文明8年(1476年)下津城(稲沢市)が兵火で焼かれると、守護代の織田敏定(としさだ)の清洲城に守護所を移し、以後、名古屋城(名古屋市)の築城までの約130年間、清洲城下は尾張随一の都市として栄えた。このころ、尾張支配の実権は斯波氏から守護代の織田氏に移っており、尾張八郡のうち上四郡(丹羽、葉栗、中島、春日井)を岩倉城(岩倉市)に拠った織田伊勢守家が領有し、下四郡(海東、海西、愛知、知多)を清洲城に拠った織田大和守家が領有していた。織田信長の家系は、織田大和守家の庶流であり、一時期は信長の父である信秀(のぶひで)が清洲奉行として清洲城に入城していたこともあった。信秀は守護代家が互いに争っているうちに力を養い、次第に自立していく。

弘治元年(1555年)那古野城(名古屋市)の織田信長は守護代の織田信友(のぶとも)を討って清洲城を奪い、守護の斯波義銀(よしかね)を追放した。以後、信長は清洲城を居城として、尾張国の統一を目指す。尾張の首府である清洲に入ることは、信長の権勢を内外に示すうえで、極めて重要なことであった。近年の発掘調査により、信長時代の清州城には天守がないことが分かっている。しかし、大型館城(やかたじろ)の周りには10mを超える堀を備え、周囲に武家屋敷群を配置した堅固な平城であった。惣構えで囲まれた城域のど真ん中を五条川が流れていた。永禄3年(1560年)駿河・遠江・三河の大守であった今川義元(よしもと)の軍勢が尾張国に侵攻した。いわゆる、桶狭間の戦いである。清洲城の信長は、まず『敦盛』の「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」という有名な一節を謡い舞い、陣貝を吹かせた上で具足を着け、立ったまま湯漬を食したあと、甲冑を着けて出陣したと『信長公記』にある。桶狭間の戦いで今川義元が織田信長によって討たれると、それまで今川氏に従属していた松平元康(徳川家康)は、三河国の支配権を回復するために今川家からの自立を図った。これに怒ったのが今川義元の跡を継いだ今川氏真(うじざね)である。永禄4年(1561年)家臣の小原肥前守鎮実(しずざね)に命じ、松平氏に従った東三河の諸氏の人質十数名を三河吉田城(豊橋市)の龍拈寺口で殺した。今川氏との全面対決となった松平元康は、凄まじい勢いで勢力を拡大する隣国の織田信長への接近を考えた。永禄5年(1562年)家康が信長の清洲城を訪問して同盟が締結されたことから清洲同盟と呼ばれている。永禄6年(1563年)美濃攻略の拠点として小牧山城(小牧市)の築城を始め、そこに居城を移すと、清洲城は長男の信忠(のぶただ)が継いだ。信長が居城を小牧山、岐阜、安土へ移しても、清洲は尾張の首府として機能し続けた。その後、天正10年(1582年)本能寺の変で信長・信忠が自刃すると、清洲城にて織田政権の後継者や遺領の分配を決定する「清洲会議」が行われた。そこでは明智光秀を破った羽柴秀吉の意見が重視され、信長の後継として信忠の子で幼少の三法師(のちの織田秀信)が選ばれて、信長の次男信雄が後見補佐役として清洲城に入った。信雄の時代には秀吉に対抗するために城は大改修され、城下町も含めて東西1.5km、南北2.8kmに拡張、大天守、小天守などが築かれ、堀も三重になった。

秀吉の天下となり、天正18年(1590年)信雄が改易された後の清洲城主は、豊臣秀次(ひでつぐ)、福島正則(まさのり)と替わる。福島正則は、尾張国海東郡二寺村(あま市)出身の武将で、豊臣秀吉とは親戚の関係にあり、幼少の頃から秀吉に仕えていた。正則の名が広く知れ渡るのは、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで、正則は一番鑓(やり)・一番頸(くび)の活躍をした。これにより「賤ヶ岳の七本槍」のひとりに数えられたが、正則の働きは他の面々より上とされ、恩賞では別格の扱いを受けた。その後は、天正15年(1587年)に11万3千余石で伊予今治城(愛媛県今治市)を与えられ、文禄4年(1595年)には24万石で清洲城を与えられた。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの直前に東軍先発部隊が清洲城に集結して、西軍の織田秀信(ひでのぶ)が守る美濃岐阜城(岐阜県岐阜市)を攻撃した。降伏した秀信は浄泉坊(岐阜県岐阜市)で武具を解き、剃髪して尾張国知多へと送られ、関ヶ原の戦いの終結後には高野山へ追放となった。関ヶ原の戦いでは、正則は豊臣恩顧の大名でありながら東軍に属し、先陣を務めるなど、東軍勝利の功労者となった。福島正則が関ヶ原の戦いの戦功により安芸広島城(広島県広島市)に移ると、清洲城主は家康の四男・松平忠吉(ただよし)、ついで九男・徳川義直(よしなお)と替わった。この時代には、城下の人口も約7万人におよび、これは京都や大坂に次ぐ規模で、清洲は日本屈指の都市にまで成長している。この頃に来日した朝鮮使節は、清洲の繁栄を見て「関東の巨鎮」と記している。しかし、慶長15年(1610年)徳川家康は豊臣氏との決戦を見据えて、名古屋城の築城を命じた。清洲城の建物、石垣、城下の町並みまでも、すべて名古屋へ移転させて、清洲城は廃城となった。これを清洲越(きよすごし)という。「思いがけない名古屋ができて、花の清洲は野となろう」と唄われたとおり、清洲城は城下町ごと姿を消し、城跡は田畑となった。ちなみに、名古屋城御深井(おふけ)丸の西北櫓(清洲櫓)は、清洲城の小天守の移築と伝えられる。移転の主な要因は、清洲が水運に恵まれる半面、水攻めや水害に遭う恐れがあり、台地上の名古屋を豊臣方に対する防衛拠点にしようとしたためと見られている。清洲越によって全てを失った清洲だが、元和2年(1616年)清洲宿が誕生すると、清洲は東海道と中山道を結ぶ美濃路の宿場町として甦った。さらに西枇杷島の青物市場である下小田井(しもおたい)の市が名古屋の台所として賑わい、江戸の神田、大坂の天満とともに日本三大青物市場と称されるほどになる。清洲は商業都市として発展する。(2003.12.30)

本丸の天守台跡
本丸の天守台跡

右大臣織田信長公古城跡碑
右大臣織田信長公古城跡碑

名古屋城の清洲櫓
名古屋城の清洲櫓

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