衣笠城(きぬがさじょう)

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源頼朝挙兵時に城を枕に壮絶な死を遂げた三浦義明の居城

衣笠城の最高地点にある物見岩
衣笠城の最高地点にある物見岩

三浦半島の内陸部に位置する標高130mほどの衣笠山に衣笠城跡が存在する。また、平作川に沿って下流の久里浜までのあいだには、衣笠城の支城とされる平作城(横須賀市阿部倉)、大矢部城(横須賀市大矢部)、小矢部城(横須賀市小矢部)、佐原城(横須賀市佐原)、奴田(ぬた)城(横須賀市吉井)などの城跡が残されている。天平元年(728年)諸国行脚中の行基(ぎょうき)が衣笠山に金峯山蔵王権現と、自ら彫刻した不動明王を祀り、その別当として建てられたのが大善寺といわれる。その際、お祓いする水に困った行基が、杖で岩を打つと清水が湧き出した。これが不動井戸(滝不動)と呼ばれるようになった。衣笠城は、康平6年(1063年)三浦氏の初代当主の為通(ためみち)が築いて、宝治元年(1247年)宝治合戦で7代当主の泰村(やすむら)が滅びるまで、三浦一族の本城として184年間も栄えた。衣笠山の山頂に存在した蔵王権現社と、中腹の大善寺、不動堂も城内に取り込んでおり、特に大善寺は三浦一族の学問や仏教信仰の中心的な役割を果たしたと考えられている。そして、不動井戸は衣笠城の重要な水の手であった。現在、蔵王権現社と不動堂は存在しないが、不動明王像は大善寺に本尊として祀られている。衣笠城は大谷戸川と深山川を天然の水堀として、丘陵全体を取り込んだ規模の大きな城郭であったという。しかし、鎌倉時代の山城は、戦国時代のような大掛かりな普請工事はおこなわれず、天然の要害の地形をそのまま利用しただけのものが多かった。鎌倉時代に廃城となり、その後も利用されることのなかった衣笠城はまさにその特徴を有しており、そのため遺構はほとんど存在しない。大手口跡から「馬返しの坂」という急坂を登っていくと、やがて不動井戸が現れ、その上には曹洞宗の大善寺が鎮座する。この衣笠山の南側中腹にあたる大善寺の一段下あたりが居館の推定地となる。そして、大善寺の裏山が衣笠城の詰の城跡である。主郭部の北西部には物見岩と呼ばれる巨岩があり、城内の最高地点であった。衣笠城合戦では4代当主の三浦義明(よしあき)が、この物見岩の上で指揮をとったといわれる。現在、その近くには衣笠城址碑が建てられている。そして物見岩の東側には大きな堀切が残っている。一方、不動井戸からそのまま進むと、切り通しの道になり、ここが搦手口である。搦手口から南の平地は兵の訓練をおこなった練武場跡で、周囲には土塁が残る。さらに急坂を下ったところに水喰い井戸(馬喰い井戸)や堀口が残る。近くの平地には馬屋があったという。衣笠城には馬蹄形連丘がめぐっており、その周囲を支城群が防衛していた。衣笠城の大手口へ通じる道は佐原城が固めている。佐原城は三浦義明の末子である佐原義連(よしつら)によって築かれた。当時は入江が佐原付近まで入り込み、対岸の奴田城と共に、衣笠城の東面の守る役割を担っていた。三浦氏は三浦水軍という強力な海軍を有しており、その根拠地は奴田城に置かれた。大矢部城は馬蹄形連丘の内部にあり、万が一、佐原城が抜かれても、最奥部にある衣笠城に攻め寄せる軍勢を挟撃できる場所に位置する。大矢部城の城主は三浦義明の次男である三浦義澄(よしずみ)とも、和田義盛の三男である朝比奈義秀(よしひで)ともいう。ちなみに和田義盛とは三浦義明の長男である杉本太郎義宗(よしむね)の長男であるが、杉本義宗は早逝していた。また伝承に過ぎないが、朝比奈義秀の母は木曽義仲(よしなか)の死後、和田義盛に引き取られた女武者の巴御前(ともえごぜん)ともいわれる。そして、衣笠城の北面を小矢部城が、西面を平作城が防衛した。

三浦氏は桓武平氏良文流の大族で、坂東八平氏のひとつに数えられる。平良文(よしふみ)の曾孫である平忠通(ただみち)を三浦氏の祖とする。この小五郎忠通は酒呑童子(しゅてんどうじ)退治で有名な源頼光(よりみつ)に仕えており、いくつかの逸話を残している。かつて伝説的な大盗賊である袴垂(はかまだれ)が山城・近江国境の逢坂山で死んだふりをして獲物が近づくのを待っていた。死体の周りには人だかりができており、そこへ平忠通が通りかかった。忠通は傷のない死体を見ると、郎党たちに警戒させて遠巻きに通り過ぎて行った。これを見ていた人々は、忠通が死体に恐れる様子を手をたたいて笑ったという。そして人が少なくなった頃、騎馬武者が通りかかり、死体に気が付いて弓で突っつくと、袴垂はこの武士を馬から引き落として殺害し、武具や馬などを奪って去った。この話を聞いた人々は、忠通の賢明さに関心したという。忠通の嫡男である平大夫為通は、源頼義(よりよし)に仕えて前九年の役で活躍、康平6年(1063年)その功により相模国三浦郷の地を与えられ、三浦氏を称した。そして、三浦半島中央部に位置する衣笠山に築いた城が衣笠城の始まりである。この山城は三浦氏の本拠地として、三浦氏の勢力拡大にともなって拡張されていく。三浦為通の嫡子である平太郎為継(ためつぐ)は、源義家(よしいえ)に仕えて、後三年の役に従軍している。この時、衣笠山の不動明王が戦場に現れ、敵の射かける矢を打ち払って為継を守ったという伝説があり、そのため箭取(やとり)不動と呼ばれるようになった。三浦氏は代々河内源氏を主君とし、累代の家人として仕えている。そして、相模国の有力在庁官人として国務に参画、三浦介を称して相模東半分と安房国に勢力を振るった。治承4年(1180年)蛭ヶ小島に幽閉されていた源頼朝(よりとも)が伊豆国で挙兵する。そして、三浦大介義明は頼朝に味方しようと、一族を衣笠城から出撃させている。頼朝も相模国三浦半島に本拠を置き、大きな勢力を有する三浦一族を頼みとしていたが、遠路のため石橋山にはなかなか参着できなかった。このとき、保元の乱で源義朝(よしとも)に従って活躍した大庭景親(かげちか)が平家方の総大将として頼朝と対峙しており、その配下には保元の乱や平治の乱で義朝に従った海老名季貞(すえさだ)、熊谷直実(なおざね)、岡部忠澄(ただずみ)、山内経俊(つねとし)などもいた。そうした状況のなか、三浦一族は早い段階から頼朝の挙兵に協力していたといえる。三浦義明が源氏から与えられた相模大介(おおすけ)職は、平家の世では実権が伴わないものであり、三浦氏にとっても源氏再興は宿願であった。さらに隣接する大庭氏との勢力争いも理由であったと考えられる。ところが、その日は大雨になり、丸子川(酒匂川)の氾濫によって三浦一族300余騎の行軍が阻まれていた。三浦一族は、大庭景親の党類の館に火を放った。その煙を遠望した大庭景親は、三浦一族が丸子川まで来ていることを察知、三浦一族が到着する前に頼朝と雌雄を決することとし、夜戦を仕掛けた。闇夜の暴風雨の中を大庭氏の率いる3000余騎が頼朝ら300騎に襲い掛かっている。頼朝の軍勢は力戦するが多勢に無勢で敵わず大敗、土肥の椙山に逃げ込んだ。その後、三浦一族は石橋山の戦いにおける頼朝の敗報に接したため、頼朝に合流することなく衣笠城に向けて引き返した。その途中、由井の浦(鎌倉市由比ヶ浜)で平家方の畠山重忠(しげただ)が率いる軍勢と遭遇した。畠山重忠の母は、三浦義明の娘であったため、合戦になる気配はなかった。

ところが、杉本城(鎌倉市二階堂)を守っていた和田義茂(よしもち)が、三浦一族が攻められていると勘違いして、畠山軍に突入したため合戦が始まってしまった。和田義茂とは和田義盛(よしもり)の弟である。『源平盛衰記』によると、三浦一族は300騎、畠山軍は500騎で戦い、この小坪合戦で畠山重忠は郎従50余名を討ち取られて退却、三浦氏も大きな被害を出しながら衣笠城に逃れた。畠山重忠は同じ秩父一族の惣領家である河越重頼(しげより)に加勢を呼びかけ、重頼は同族の江戸重長(しげなが)とともに数千騎の武士団を率いて重忠に合流し、三浦氏の衣笠城を攻撃する。この時、和田義盛は衣笠城を捨てて要害堅固な奴田城で戦うよう主張したが、三浦義明はあくまで世に聞こえた本城の衣笠城で戦うことにこだわった。籠城する三浦一族は400余騎、衣笠城の東木戸口(大手口)は三浦義澄、佐原義連、西木戸口(搦手口)は和田義盛、金田頼次(よりつぐ)、中陣は長江義景(よしかげ)、大多和義久(おおたわよしひさ)等が守った。そして、搦手口への攻撃に備えた平作城には、平佐古太郎為重(ためしげ)が守備した。一方、河越重頼、江戸重長、金子家忠(いえただ)らは2千余騎で大手口から、畠山重忠らは1千余騎で搦手口から攻め登った。三浦一族は少数ながら秩父一族の大軍を相手に善戦したと伝えられる。しかし、小坪合戦で消耗している三浦一族の敗戦の色は濃くなり、夜になって衣笠城を放棄して脱出、衣笠城は秩父一族によって攻め落とされた。この衣笠城合戦では、89歳の老齢であった当主の三浦義明が城に残って奮戦し、「今、この老いた命を武衛(頼朝)に捧げて、子孫の繁栄をはからん」と自害した。これには逸話がある。義明は衣笠城から愛馬の黒雲に乗って先祖の墓所へと向かった。しかし、現在の腹切松公園の場所まで来ると黒雲は急に動かなくなった。死期を悟った義明は、大きな老松の根に腰を据えて腹を切ると、黒雲は突然走り去り、舌を噛み切って死んだという。この松は腹切松と呼ばれ、枝を切ると血が出ると伝わり、村人から大切にされた。衣笠城を脱出した三浦一族は間道を抜けて、おそらく奴田城に逃れ、この三浦水軍の根拠地から船を出したと思われる。現在も奴田城の軍船を置いた一帯に「舟倉」という地名が残る。三浦氏を継いだ三浦義澄らは、三浦半島を脱出して安房国へ向かい頼朝と合流した。その後、源頼朝は安房国で再挙し、房総半島の二大勢力である千葉常胤(つねたね)、上総広常(ひろつね)を傘下に加え、大軍となって武蔵国へ進軍すると、畠山重忠、河越重頼、江戸重長ら秩父一族は長井の渡で頼朝に帰属した。『吾妻鏡』によると、頼朝は三浦一族に「秩父一族は源家に弓を引いた者であるが、このように勢力の有る者を取り立てなければ目的は成し遂げられないであろう。憤懣を残してはならない」と言い聞かせ、三浦氏も異心を抱かないとして秩父一族の従属を認めた。そして三浦義澄は、千葉常胤、上総広常、土肥実平(さねひら)らと共に頼朝の宿老となっている。また、甥の和田義盛は侍所別当職に就き、頼朝の近侍に和田義茂、佐原義連らの三浦一族が選ばれた。これについて、『源平盛衰記』に逸話が載せられている。石橋山の戦いの敗戦ののち、真鶴から安房国に向かって船出した頼朝ら七騎は、海上で不審な船に出会った。頼朝に従っていた三浦義明の弟である岡崎義実(よしざね)は用心して近づくと、それは三浦一族の船であった。一同は喜び、互いの消息を交換した。岡崎義実の長男である佐奈田与一義忠(よしただ)が石橋山で討たれた事や、衣笠城合戦の事を語って涙した。

このとき和田義盛は、嘆いていても仕方がないと言い、平家を滅ぼして本望を遂げたら侍所別当を戴きたいと早々と恩賞を願い出たという。頼朝は恩賞を約束し、義盛の気の早さに笑った。治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての治承・寿永の乱で三浦一族は活躍、文治5年(1189年)奥州藤原氏征伐でも三浦義澄・義村(よしむら)父子、和田義盛・宗実(むねざね)兄弟、佐原義連らが大いに活躍した。頼朝は鎌倉幕府創設の礎となった三浦義明の功を称え、建久5年(1194年)追善のために満昌寺(横須賀市大矢部)を建立した。頼朝は満昌寺で義明の十七回忌の法要を営み、遺族に義明がまだ存命して加護してくれていると語った。この話から「鶴は千年、亀は万年、三浦大介百六ツ」という囃し言葉が広まった。建久10年(1199年)頼朝が急死すると、2代将軍には嫡男の頼家(よりいえ)が就任した。しかし、頼家の専制政治が御家人たちの反発を招き、外祖父である北条時政(ときまさ)が頼家から訴訟権限を奪い取り、北条時政・義時(よしとき)父子、和田義盛、三浦義澄、比企能員(ひきよしかず)、安達盛長(もりなが)、梶原景時(かげとき)、大江広元(ひろもと)、三善康信(やすのぶ)、中原親能(ちかよし)、八田知家(ともいえ)、足立遠元(とおもと)、二階堂行政(ゆきまさ)といった有力御家人による十三人の合議制を敷いた。その後、鎌倉幕府では北条氏の陰謀による失脚が相次ぎ、梶原景時をはじめ、比企能員、畠山重忠など有力御家人が次々と滅ぼされた。そして、元久元年(1204年)源頼家も伊豆国修禅寺で北条氏の手勢によって暗殺された。三浦一族の和田義盛は、京都では「三浦の長者」と称されるほどであったが、和田氏の勢力拡大を警戒した北条義時が義盛を挑発、建保元年(1213年)和田合戦に発展して和田氏を滅ぼしている。この義盛の蜂起に際して、和田氏への協力を約束していた三浦義村は、直前になって北条氏に寝返り、幕府内の地位を保守した。『古今著聞集』によると、三浦義村は自分より上座に着座した千葉胤綱(たねつな)に対し「下総の犬めは寝場所を知らぬな」と皮肉を言うと、胤綱は「三浦の犬は友を喰らうぞ」と和田合戦での義村の裏切りを嘲笑したという。建保7年(1219年)3代将軍の源実朝(さねとも)は右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮(鎌倉市雪ノ下)に参詣するが、参拝を終えた境内にて、頼家の次男で鶴岡八幡宮寺別当の公暁(くぎょう)が、父の仇として実朝を暗殺した。公暁は三浦義村を頼ったが、義村は公暁を殺害したため源氏の正統は途切れてしまう。三浦氏は北条氏の陰謀事件にことごとく関わっており、御家人の筆頭として北条氏に次ぐ勢力を保持した。そして、三浦義村は北条一門と血縁を結び、鎌倉幕府内の地位を築きあげている。しかし、次の泰村の代になると、北条氏との対立関係が生じることになる。執権の北条時頼(ときより)は三浦氏との戦いの回避に努めたが、強硬派である安達景盛(かげもり)によって三浦氏討伐の謀略が進められ、宝治元年(1247年)ついに宝治合戦が勃発した。三浦泰村とその一族は、鎌倉の三浦泰村館(鎌倉市雪ノ下)で北条勢を相手に頑強に戦ったが、精強で知られた三浦武士団もついに源頼朝を祀る法華堂に逃れ、一族郎党および味方する御家人達500余人が自害して三浦宗家は滅亡した。この戦いで、三浦一族でありながら唯一北条氏に味方した佐原盛時(もりとき)は、三浦介を継ぐことを許されたが、領地は全盛期から大きく削られて三浦半島南部に限られたため、三浦氏の本城である衣笠城は廃城となった。(2011.09.25)

衣笠城の水源である不動井戸
衣笠城の水源である不動井戸

衣笠山の南側中腹の大善寺
衣笠山の南側中腹の大善寺

切り通しの先にある搦手口
切り通しの先にある搦手口

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