河村城(かわむらじょう)

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甲斐・駿河との国境に近く、障子堀などの北条流築城術にて築かれた境目の城

本城郭から見た小郭と障子堀
本城郭から見た小郭と障子堀

神奈川県西部に位置する山北町は、山梨県・静岡県と境を接し、丹沢山地の主峰・蛭ヶ岳(ひるがたけ)などの山岳地帯を取り込んでおり、面積の9割は山林となる。山北町南端部の河村城跡は、足柄平野と接する標高225m、比高130mの城山と呼ばれる丘陵上に築かれた。城山から東に浅間山、丸山と山北三山が連なり、酒匂川が西から南側を流れ、かつての皆瀬川が北から東側を流れて深い谷を形成している。足柄平野の北西部を取り巻く丹沢山地および箱根山地には、相模・甲斐・駿河の国境が交差するため数多くの城砦が築かれたが、河村城は甲斐・駿河から足柄平野に至る経路の要衝に位置する。甲斐から城ヶ尾峠を越えると湯ノ沢城(山北町中川)、中川城(山北町中川)、大仏城山(山北町中川)を経て、河内川と鮎沢川の合流点を見下ろす河村新城(山北町川西)があり、さらに酒匂川に沿って鐘ヶ塚砦(山北町都夫良野)から河村城に至る。湯ノ沢城は小田原北条氏の筆頭家老・松田憲秀(のりひで)の弟である松田新次郎康隆(やすたか)の持ち城と伝えられ、城主の格からも北条氏にとって重要な城であったことが分かる。松田康隆は本拠の松田城(松田町)に加えて、駿河深沢城(静岡県御殿場市)の城主も務めたとされる。河村新城は地理的にも重要な地点にあるため、永禄12年(1569年)に武田信玄(しんげん)、天正9年(1581年)に武田勝頼(かつより)、天正18年(1590年)に徳川家康が落城させた記録が残る。鐘ヶ塚砦は、天保年間(1830-44年)江戸幕府が編纂した『新編相模国風土記稿』に「古塚、村の中央にあり高六十間許、土俗伝へて鐘ヶ塚と唱へ、戦国の間相(合)図の鐘を撞(つき)し処と云」とあり、河村城と河村新城のほぼ中間に位置し、情報の伝達を担った繋ぎの城であった。一方、駿河から箱根・足柄峠の尾根筋を下ると、駿河足柄城(静岡県駿東郡小山町)、阿弥陀尾砦(南足柄市矢倉沢)、浜居場城(南足柄市矢倉沢)から平山・内山地区に達し、酒匂川を渡ると河村城である。JR御殿場線の山北駅から見える南側の小高い山が城跡である。河村城は3つの尾根を堀切によって断ち切って曲輪とした連郭式山城であった。最高所となる本城郭を中心に、東の浅間山に連なる尾根筋に蔵郭、近藤郭、大庭(おおば)郭、多地屋敷、大庭郭張出(はりだし)、水郭、馬違戸を配しており、大庭郭張出の南側を大手としている。本城郭から北へ伸びる尾根筋には小(しょう)郭、茶臼郭を配し、西へ伸びる尾根筋には馬出郭、西郭、北郭、北郭張出を配して大久保平へと続いている。周囲には段切腰郭、帯郭が随所にみられ、本城郭と北郭の間に水郭、馬洗場がある。本城郭・蔵郭間の幅約20mの堀切(薬研堀)で4本の橋脚の遺構が見つかった。橋脚幅4mの柱穴をコンクリートで表示し、木橋を架けて雰囲気を再現している。蔵郭・近藤郭間の堀切は、幅約30m、深さ約15mと河村城で最大規模であった。発掘調査により障子堀(しょうじぼり)が検出されている。障子堀とは北条氏の城郭にみられる特徴で、堀の中に高さ2mほどの畝(うね)状に掘り残した障壁を持つ空堀で、畝堀とも呼ばれる。他にも、本城郭・小郭間の堀切では8本、小郭・茶臼郭間の堀切では5本の畝が検出された。現在、蔵郭・近藤郭間、本城郭・小郭間、小郭・茶臼郭間で障子堀の復原的整備をおこなっている。小郭と茶臼郭の間には、お姫井戸の伝承地があり湧水もみられる。この井戸には落城時に城主の姫が投身したという悲話が残される。『新編相模国風土記稿』に城跡は開墾されて畑になったとあるが、富士山の宝永噴火による火山灰を天地返しによって畑に復元した跡も確認される。

中世の山城は有事の際に立て籠もる軍事施設(詰の城)で、平時は山麓にある居館で領国を統治していた。浅間山の南東麓の岸・湯坂地区には河村土佐屋敷跡、河村秀清屋敷跡などの伝承地があり、江戸時代の絵図にはこれらに加えて「河村内記屋敷」という記載もあり、この辺りが河村城の山麓居館だった可能性がある。城山は猫山とも呼ばれ、猫山は根小屋(ねごや)の転訛と考えられる。河村城の歴史は古く、平安時代にまで遡る。河村城を最初に築いたとされる河村氏は、平安時代末期に波多野遠義(はだのとおよし)の次男・三郎秀高(ひでたか)が、父の所領のうち足上郡河村郷を譲られ、河村三郎を称したことに始まる。波多野氏は、永承5年(1050年)頃から始まる前九年の役で河内源氏2代棟梁・源頼義(よりよし)の家人として活躍した藤原北家秀郷流・佐伯経範(さえきのつねのり)を祖とし、余綾郡(よろぎぐん)幡多郷(はだのごう)を中心とした藤原摂関家領である波多野荘を本領とした。なお、幡多郷とは、渡来系豪族である秦(はた)氏が居住したことに因むといわれる。波多野氏は相模の武士として在地支配しつつ在京して朝廷に出仕する一族であり、遠義は崇徳天皇の蔵人所衆として在京し、坂東武士としては珍しく従五位下筑後権守といった朝廷内でも高い位を持った豪族であった。河村秀高もまた摂関家の藤原忠実(ただざね)に仕えて侍所勾当となり、従五位下山城権守を得て昇殿を許されていたという。承安2年(1172年)河村城主の河村山城権守秀高は、城の大手にあたる小名湯坂に菩提寺として般若院を創建している。河村秀高の跡は、三男・三郎義秀(よしひで)が継いだ。義秀は弓馬の達人で、七尺二寸の大男だったという。波多野氏は家祖である佐伯経範より河内源氏の家人に列したが、治承4年(1180年)8月の石橋山の戦いにおいて、惣領の波多野義常(よしつね)と河村義秀は平家方の大庭景親(かげちか)に従って、河内源氏の嫡流である源頼朝(よりとも)を敗走させた。しかし、頼朝が安房国で再挙すると、坂東武士は続々と頼朝側に参陣したため数万騎に膨れ上がり、同年10月には南関東を制圧して鎌倉に入った。頼朝に敵対した大庭景親らは降伏したが斬首となっている。河村義秀も捕縛され、河村郷は没収となり、頼朝に味方した大庭景義(かげよし)の預かりとなって斬首が命じられた。波多野義常は頼朝から追っ手が差し向けられると、本拠の松田郷で自害している。ところが、大庭景義は密かに河村義秀を匿っており、10年後の建久元年(1190年)鶴岡八幡宮(鎌倉市)の流鏑馬神事で射手に欠員が出ると、景義は頼朝に射手として義秀を推薦している。『吾妻鏡』によると、頼朝は義秀には斬首を命じたはずだと言いながらも、失敗すれば改めて処刑するという条件で流鏑馬への参加が許された。河村義秀は流鏑馬の妙技を披露し、見事に三尺・手挟・八的などの難題をクリアして全ての的を射抜いたため、頼朝もその技量に感服して罪を許した。さらに、大庭景義からの進言によって旧領の河村郷も返還されることになった。鎌倉時代から800年以上も続いているとされる神奈川県指定無形民俗文化財の「室生(むろう)神社の流鏑馬」は、この出来事に由来するといわれる。一方、前年の奥州合戦では、河村義秀の弟で13歳の千鶴丸が陸奥国阿津賀志山(福島県伊達郡国見町)の攻防戦で武功を挙げた。このときの戦いぶりが頼朝の目に留まり、父の名を尋ねられて山城権守秀高の四男であると答えている。頼朝は千鶴丸の元服の儀式を執り行い、小笠原長清(ながきよ)を烏帽子親として河村四郎秀清(ひできよ)と名乗らせた。

戦後の論功行賞では、河村秀清は陸奥国の岩手・紫波・名取・耶麻の各郡において数郷ずつを拝領して、奥州河村氏の祖となっている。『吾妻鏡』によると、建久元年(1190年)頼朝入洛の際、先陣の畠山重忠(はたけやましげただ)を先頭に、後陣隋兵の九番として河村三郎(義秀)の名が確認できる。また、建久4年(1193年)曾我兄弟の仇討ちで知られる富士の巻狩りにおいても、頼朝の隋兵として河村三郎の名が連ねられるなど、河村氏は鎌倉幕府の有力な御家人として続いている。建武の新政を経て南北朝時代になり、正平一統(しょうへいいっとう)が破綻すると、南朝は新田一族に足利尊氏(たかうじ)の追討を命じた。正平7年(1352年)新田義貞(にったよしさだ)の遺児・新田義興(よしおき)・義宗(よしむね)兄弟と、従兄弟の脇屋義治(わきやよしはる)らが上野国で挙兵、征夷大将軍となった宗良(むねよし)親王を奉じた南朝方の軍勢は尊氏のいる鎌倉を目指して進軍し、一時は鎌倉の占拠に成功している。河村氏も南朝方として協力しており、鎌倉に入った軍勢の中には北条時行(ときゆき)の存在も確認できる。南朝勢力は鎌倉を脱出した尊氏を追って武蔵の人見原(東京都府中市)、金井原(東京都小金井市)、小手指原(埼玉県所沢市)などで戦っているが、これら武蔵野合戦では足利軍の反撃にあって南朝勢力は鎌倉を追われた。新田義興と脇屋義治は再挙を期して平塚に移り、その後に河村山城権守秀国(ひでくに)・秀経(ひでつね)父子に迎えられて6千余の軍勢で河村城に入った。『太平記』等には、河村城が南朝方の拠点となっていたことが記されている。山北町共和地区には、武蔵野合戦に敗れた宗良親王が河村城に逃れたという伝承を由来とする国指定重要無形民俗文化財の「お峯入り」という行事が残されているが、敗北した宗良親王は信濃に逃れたと考えられており、河村城に入ったとは考えづらい。足利尊氏・基氏(もとうじ)父子は鎌倉に戻り、河村城には畠山国清(くにきよ)ら5千余の軍勢を派遣している。国清は新田義興、脇屋義治や河村一族が立て籠もる河村城を攻撃するが、南朝勢力は1年余り持ち堪えた。北朝方の武将・三富弥四郎元胤(もとたね)の観応3年(1352年)3月16日の軍中状に「同十五日河村城御向の時合戦致す事」と、河村城の名が一次史料に初めて登場し、前日に河村城で合戦があったことが記されている。『管領記』に「河村の城へ人数を遣し責られけれども山嶮にして苔滑らかに人馬に足の立つべき処もなし」とあるように、河村城は難攻不落の堅城であったことが窺える。しかし、翌正平8年(1353年)河村城の兵糧が尽きると、新田義興と脇屋義治は城を脱出し、河村氏の中川城を経て甲斐に逃れたとされる。河村秀国・秀経父子をはじめ河村一族の多くは、畠山国清との南原(みなみはら)の戦いに惨敗して討死している。河村城は落城して般若院と共に焼失したという。現在の般若院(山北町岸)が所蔵する『梅風記』の写しに、この時の河村城の籠城の様子が記録されている。焼失した般若院は、文明年間(1469-87年)中興開山の日圓(にちえん)によって丸山裾の元屋敷に再興される。その後の河村城は、応永23年(1416年)上杉禅秀の乱において4代鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)方の城として史料に現れた後、しばらく歴史の表舞台から姿を消し、永享10年(1438年)永享の乱が勃発すると、関東管領・山内上杉憲実(のりざね)の属城として再び登場する。憲実は室町幕府と対立する鎌倉公方を諫止するが、持氏との関係が悪化してしまい、双方の軍が鎌倉に集結して一触即発の状況になった。

憲実の近習である長尾実景(さねかげ)、大石重仲(しげなか)らは、憲実に河村城へ難を避けるよう進言しているが、憲実は河村城ではなく本拠である上野平井城(群馬県藤岡市)に退いた。その後、足利持氏に属した小田原城(小田原市)の大森憲頼(のりより)が河村城に攻め掛かって落城させている。足柄平野進出を狙った大森憲頼は、河村城攻略のため酒匂川の対岸に春日山砦(南足柄市内山)を築いたとされる。現在、春日山砦跡は東京電力内山発電所となって消滅した。永享10年(1438年)8月21日の足利持氏感状には「河村城責落候、目出候」とあり、持氏が大森氏の河村城攻略を賞している。しかし、その直後の9月初旬には、室町幕府6代将軍・足利義教(よしのり)の命を受けた今川範忠(のりただ)が、持氏勢を討つべく足柄山を越えて関本に陣を敷いた。関本は河村城から直線距離で1里ほど南に位置する。永享11年(1439年)永享の乱に敗れた足利持氏は自害して果てるが、大森氏は没落することなく勢力を維持した。しかし、大森氏は享徳の乱以降に兄弟で分裂したようで、兄の大森憲頼は古河公方・足利成氏(しげうじ)方として活躍し、弟の大森氏頼(うじより)は扇谷上杉方として活躍した。大森憲頼・成頼(しげより)父子に代わって大森氏頼・実頼(さねより)父子が相模西部に支配を広げ、文明10年(1478年)長尾景春(かげはる)の乱で、氏頼は平塚城(平塚市)に籠った大森伊豆守を攻撃、この伊豆守とは成頼とされる。伊豆守が箱根山中に逃亡したことにより、大森氏の統一と当主の地位を手に入れた。氏頼が小田原城を本拠とするのも、この頃と考えられる。以後、氏頼が河村城も管理したと考えられるが確かな史料はない。大森実頼は若くして没したため、氏頼の次男・藤頼(ふじより)が大森氏の当主を継ぐ。明応4年(1495年)伊豆韮山城(静岡県伊豆の国市)の北条早雲(そううん)が大森藤頼から小田原城を奪い、相模に北条氏の勢力を広げると、河村城も北条氏の属城となった。永禄11年(1568年)武田信玄が甲相駿三国同盟を破棄して駿河に侵攻すると、甲相駿の国境地帯は緊張に包まれた。信玄は深沢城を攻略して、永禄12年(1569年)10月には大軍を率いて北条氏の本城・小田原城を包囲している。この時、『北条記』に「近郷は悉城へ入、遠所は皆曽我山・田嶋・河村思ゝに入しかは」とあるように、河村城は領民の避難場所として使用された。永禄12年(1569年)12月に再び信玄が来襲しており、『鎌倉公方九代記』の中で「新庄・足柄・湯澤以下九ヶ所の城は、皆信玄に開渡されて候」とあるように、河村口・足柄口の北条方の境目の城である湯ノ沢城、中川城、大仏城山、河村新城、足柄城など9城を攻め落とした。元亀元年(1570年)4月、北条氏康(うじやす)・氏政(うじまさ)父子は武田軍から深沢城を奪還して、守将に北条綱成(つなしげ)を配置した。しかし、同年末には信玄が大軍を率いて深沢城を包囲、金掘衆を動員して城を掘り崩し、翌年1月に深沢城へ矢文を放って開城を迫り、綱成を退去させた。その後の深沢城は武田氏の城として続いている。北条氏は深沢城に対する前線基地として、元亀2年(1571年)3月に河村城・足柄城の普請をおこない、9月には河村城に追加の普請をおこなうなど、迅速な対応をおこなって備えた。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐において、河村新城は徳川勢に攻められ、城番・遠山左衛門尉景政(かげまさ)が指揮するも31人の戦死者を出して落城した記録が残る。河村城も落城または放棄により廃城になったと考えられるが、これらを伝える資料は残されていない。(2025.10.18)

小郭・茶臼郭間の堀切と障子堀
小郭・茶臼郭間の堀切と障子堀

本城郭・蔵郭間に架かる木橋
本城郭・蔵郭間に架かる木橋

最大規模となる堀切と障子堀
最大規模となる堀切と障子堀

大庭郭から近藤郭と蔵郭の眺め
大庭郭から近藤郭と蔵郭の眺め

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