柏原館(かしわばらやかた)

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鎌倉時代中期から明治維新まで続く京極氏の初代氏信から15代高清までの本拠

館跡に建つ徳源院本堂と位牌堂
館跡に建つ徳源院本堂と位牌堂

米原市は滋賀県北東部に位置し、北部を伊吹山地、南部を鈴鹿山脈、西側を琵琶湖に囲まれる。伊吹山地の主峰・伊吹山(いぶきやま)は、滋賀県の最高峰となる標高1377mである。一方、鈴鹿山脈の北端、伊吹山と対峙する位置には標高1094mの霊仙山(りょうぜんざん)が鎮座する。伊吹山系と鈴鹿山系の中間の地域は、古来より畿内と東国を結ぶ東山道(中山道)と、北陸を結ぶ越前道(北国脇往還)の結節点にあたり、交通の要衝として重要な場所であった。近くに古代・三関(さんげん)のひとつである不破関(ふわのせき)跡(岐阜県不破郡関ケ原町)がある。東山道の不破関は、天武天皇元年(672年)に東海道の鈴鹿関(三重県亀山市)、北陸道の愛発(あらち)関(場所不明)とともに飛鳥浄御原宮(奈良県高市郡明日香村)の警護を目的として整備された関所である。古くは不破関より東方を指して「関東」と呼んだ。柏原付近の東山道のルートは、東見付から北上して成菩提院(米原市柏原)と向山の北側を回り、清滝を南下して丸山西側の猫居坂(ねこおりざか)を通過し、西見付へと接続していたようである。江戸時代になると東山道を改良して五街道のひとつである中山道が整備される。江戸幕府が整備した中山道は、清滝をショートカットするように東西の見付が置かれ、その間に直線的な新しい道路と宿場町が造られた。これによって柏原の中心は清滝から柏原宿へ移行することになる。近江で最も東の宿場である柏原宿は中山道の60番目の宿場で、京都から江戸へ向かう場合、柏原宿から東へ、長久寺、寝物語(江濃国境)、今須宿、不破関、関ヶ原と続いていた。ここ柏原の地は、近江源氏・佐々木氏の流れを汲む京極氏の本貫地であった。京極氏は、鎌倉時代中期から明治維新までの約600年もの間、大名家として続いた全国的にも稀な名族である。現在の清瀧寺徳源院が京極氏の初代当主から15代当主までの居館跡で、柏原館とも柏原城ともいった。往時は背後の清滝山に清滝山砦(米原市清滝)という詰の城があった。現在、柏原館としての遺構は何も残っていないが、おそらく方形居館から発展した城館であったと思われる。徳源院の北東角に「城跡柏原城遺跡」と刻まれた石碑が立つのみである。江戸時代の万治元年(1658年)21代当主の京極高和(たかかず)が播磨龍野藩6万石から讃岐丸亀藩6万余石へ移封となるが、その次男である高豊(たかとよ)が22代を継ぎ、寛文12年(1672年)領地の一部(播磨国2か村)と始祖伝来の本貫地であった清瀧寺の地を知行替えしている。京極高豊は清瀧寺に三重塔・位牌堂・客殿を建て、庭園を整備して、十二坊(理教坊・勧学坊・西蔵坊・中之坊・梅本坊・本住坊・金蔵坊・万徳坊・妙法坊・醍醐坊・成就坊・神蔵坊)を再興するなど寺の復興を図った。また、父・高和の法号「徳源院殿」から院号を徳源院と改称した。このとき、墓参の不便から近隣に散在していた京極家歴代当主の宝篋印塔(ほうきょういんとう)などを1か所に集め、初代から祀り直したものが現在に伝わる「清滝寺京極家墓所」である。高豊は末代まで供養できるようにと、清滝村と大野木村の600石の地を徳源院に寄進している。墓所は上下2段に分かれており、上段に中世京極家の宝篋印塔18基、下段に近世京極家や丸亀藩の支藩・多度津(たどつ)藩主などの宝篋印塔16基と五輪塔3基が並んでいる。上段は永仁3年(1295年)の初代氏信(うじのぶ)から天正9年(1581年)の18代高吉(たかよし)までとなる。下段には京極家中興の祖である19代高次(たかつぐ)の墓があり、精巧に造られた笏谷石製霊屋の中に宝篋印塔が収められている。

下段では、この高次の石造の廟や、高豊から23代高或(たかもち)、24代高矩(たかのり)、25代高中(たかなか)までの4代の木造の廟が際立っている。石塔の大きさは様々で、京極家の栄枯盛衰をそのまま表している。徳源院の三重塔は、讃岐国丸亀から移築したという口伝もあったが、昭和52年(1977年)の解体修理により移築は否定されている。霊峰・伊吹山は古くから霊気を吐き、息づく神の坐(いま)す霊山として信仰を集めてきた。その山の神は斐伊川(ひいかわ)の八岐大蛇(やまたのおろち)が落ち延びた子孫だともいわれる。かの日本武尊(やまとたけるのみこと)も「伊服岐(いぶき)」の山の神の征討に向かい、白猪と化した伊吹山神が降らせた氷雨に敗れて伊勢の能褒野(のぼの)で崩じている。京都御所(京都府京都市)と比叡山延暦寺(大津市)を結ぶ線を延長させると伊吹山の山頂に至るため、伊吹山の神を鎮めるために延暦寺が置かれたとする説もあるらしい。奈良時代から平安時代において、荘園領主による土地開発が進められ、同時に伊吹山中腹においては山岳仏教寺院が建立され、後に伊吹四ヶ寺と称される太平寺(米原市太平寺)・弥高寺(米原市弥高)・長尾寺(米原市大久保)・観音寺(米原市上野)が展開していた。これらを含めて山岳寺院には戦国期に城塞化するものも認められる。かつて、柏原館は村上源氏の末裔とされる柏原弥三郎為永(ためなが)の居館であった。柏原弥三郎は源平合戦の恩賞により坂田郡柏原荘の初代地頭になるが、正治2年(1200年)寺社領を押領する等を理由に後鳥羽上皇から討伐の宣旨が下った。『北条九代記』には「恣(ほしいまま)に振舞(ふるまい)て、法令を破り、神社の木を伐り、仏寺の料を奪ひ、公卿殿上人に無礼緩怠(ぶれいかんたい)を致し、屡々(しばしば)帝命を背く事、重々の罪科あり」とある。鎌倉幕府から渋谷次郎高重(たかしげ)、土肥先次郎惟光(これみつ)らが近江へ追討に向かうが、それを待たずに官軍400余騎が柏原に押し寄せた。三尾谷(みおのや)十郎が柏原館を夜襲するも、柏原弥三郎は伊吹山に逐電して行方不明となった。しかし、建仁元年(1201年)佐々木広綱(ひろつな)の弟・四郎信綱(のぶつな)が柏原弥三郎の所在を突き止めて誅戮している。佐々木氏は宇多源氏の流れを汲む近江源氏で、平安時代後期に蒲生郡佐々木荘(近江八幡市安土町)の荘官となったのを期に佐々木を名乗る。一方で、柏原弥三郎は濡れ衣であったという説もある。この柏原弥三郎の死によって、いつしか伊吹山の悪霊と見なされるようになり、後に鬼伊吹こと伊吹弥三郎の伝説に発展したという。伊吹弥三郎の子・伊吹童子は多くの鬼を従えて悪逆非道の限りを尽し、伊吹山を逐われ、比叡山を逐われて、丹波の大江山で酒呑童子になったとされている。柏原弥三郎を討った佐々木信綱は、鎌倉幕府2代執権・北条義時(よしとき)の娘を得ることになり、この関係から幕府に厚遇され評定衆の一員に加えられる。承久3年(1221年)後鳥羽上皇が北条義時に対して起こした承久の乱では、佐々木氏嫡流である佐々木広綱は官軍に属して、京極高辻の館の伊賀光季(みつすえ)を滅ぼし、その館を賜っている。一方、弟の信綱は幕府軍に加わり、先陣として宇治川を渡河して幕府軍を勝利に導いた。捕らえられた佐々木広綱は処刑となり断絶、代わって信綱が佐々木氏嫡流となり、近江守護と佐々木荘を継承した。信綱には4人の息子がおり、長男・重綱(しげつな)は坂田郡大原荘の地頭職を得て大原氏の祖に、次男・高信(たかのぶ)は高島郡田中荘の地頭職を得て高島氏の祖になった。

仁治2年(1241年)三男・泰綱(やすつな)が宗家を継いで近江守護に任じられ、愛知川(えちがわ)以南の近江南六郡(神崎・蒲生・甲賀・野洲・栗太・滋賀)の地頭職と京都の六角東洞院の館を与えられて六角氏の祖に、四男・氏信は愛知川以北の近江北六郡(愛知・犬上・坂田・浅井・伊香・高島)の地頭職と京都の京極高辻の館を与えられて京極氏の祖になった。六角泰綱が三男でありながら家督を継いだのは、正室(北条義時の娘)との間に儲けた子であったからと考えられている。また京極氏信が庶子家の中で最も優勢を誇ったのも同じ理由であった。氏信は柏原弥三郎の居館を本拠とし、さらに規模を拡張して、弘安6年(1283年)敷地内に清瀧寺を建立して菩提寺とした。また、弘安7年(1284年)氏信は出家して道善(どうぜん)と号している。南北朝の争乱では、足利尊氏(たかうじ)の盟友であった5代当主・京極高氏(たかうじ)の活躍が知られる。法名を道誉(どうよ)と号し、婆娑羅大名としても知られている。元弘元年(1331年)後醍醐天皇が笠置山で挙兵した際、鎌倉幕府の編成した鎮圧軍に京極道誉も従軍し、元弘2年(1332年)捕えた後醍醐天皇を隠岐島へ配流する際は道誉が道中警護を務めた。帰京したのち、元弘の変の倒幕計画に関わった後醍醐天皇の寵臣・北畠具行(きたばたけともゆき)を相模国鎌倉へ護送する任に当たる。しかし、途中の柏原で幕府より具行を処刑するよう命を受けた。道誉は具行の死に臨む態度に感服し、菩提寺である清瀧寺に1か月ほど留め、幕府に対して助命を嘆願したが叶わなかった。元弘2年(1332年)6月18日夜、2人はしばらく談笑したといい、翌19日に具行は処刑された。辞世の句は「消えかかる露の命の果ては見つ、さてもあづまの末ぞゆかしき」と『増鏡』に記される。「さてもあづまの末ぞゆかしき」とは、それにしても鎌倉幕府の末路を知ってから死にたかったという意味である。鎌倉幕府の終焉は目の前に迫っていた。徳源院の南方約700mにある丸山の猫居坂に北畠具行墓(米原市清滝)がある。墳丘状の盛土の上に高さ204mの貞和3年(1347年)と刻まれた宝篋印塔が建てられている。京極道誉は鎌倉幕府に忠実な武将であったが、足利尊氏が蜂起するといち早く馳せ参じ、以後は一貫して行動を共にした。一方、宗家の六角時信(ときのぶ)は最後まで北条氏に従っており、六波羅探題の北条仲時(なかとき)らの軍勢が光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って東国に落ち延びる際、時信は六角氏の居城・観音寺城(近江八幡市安土町石寺)に迎え入れている。翌日、美濃を目指す六波羅軍は番場峠まで進んだが、そこで待ち構えていたのが近江・美濃・伊勢・伊賀の野武士や悪党ども5千ほどの軍勢であった。この軍勢は道誉が差し向けたものとされる。数で劣る六波羅軍の戦いも空しく、北条仲時以下432名は蓮華寺(米原市番場)で自刃、天皇と上皇は道誉に保護されて京都へ戻った。これにより六角時信もようやく尊氏に降伏することとし、道誉に仲介を頼んでいる。足利尊氏の開いた室町幕府において、道誉は政所執事や6か国(若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津)の守護を兼ねた。京極道誉と柏原館に関する出来事としては、文和2年(1353年)1月5日、道誉が北野社参詣と称して逐電し、柏原城に閉じ籠ったという事件の記録が残っている。これは足利尊氏の寵臣であった関東使者・饗庭命鶴丸(あえばみょうづるまる)が上洛し、尊氏の嫡子・足利義詮(よしあきら)と道誉について鎌倉の尊氏に讒言した。これを真に受けた尊氏が立腹し、関東からの飛脚で「将軍欝憤の由」が京都に伝えられる。

命鶴丸については『太平記』に「饗庭の命鶴丸、生年十八歳、容貌当代無双の児」とある。これに激怒した道誉は、北野社参詣を理由に京都を出て、本拠の柏原城に入ったまま抗議のため出てこなくなった。心配した足利義詮は、粟飯原清胤(あいはらきよたね)と醍醐寺三宝院の賢俊(けんしゅん)を柏原城に派遣して慰撫しようとしたが、道誉は使者との面会すら拒絶したという。その後どうなったのか不明だが、翌月には道誉は政務に復帰しており、短期間の抗議で終わったようである。このように、在京御家人として京都を拠点にしていた頃の京極氏の城館はこの柏原館であった。その後、近江国守護職は六角氏がほぼ独占するが、京極氏も江北3郡など広大な所領を有した。また、飛騨・出雲・隠岐の守護を代々務めており、山名氏・一色氏・赤松氏と並んで室町幕府の軍事を担当する四職家(ししきけ)に列して中央政権で重きをなした。応仁元年(1467年)応仁の乱が勃発したとき、京極家の当主は59才の老練な武将である11代持清(もちきよ)であった。室町幕府の侍所頭人の要職にあり、領国である北近江・飛騨・出雲・隠岐の軍勢を率いて、東軍・細川側として参戦している。一方、六角家はわずか10歳前後の高頼(たかより)で、重臣の伊庭(いば)氏が補佐して西軍の主力を務めた。応仁の乱の勃発直後、京極持清は観音寺城を攻め、守将・伊庭雪隆(ゆきたか)を敗死させ、その勢いのまま翌年には近江一国を制圧している。六角高頼は、伊賀・甲賀でゲリラ戦を試みるが、持清の子・勝秀(かつひで)に再び観音寺城を攻略されてしまう。文明元年(1469年)持清は六角氏に代わって近江守護に任命され、道誉以来130年ぶりに京極氏が近江の守護大名となった。しかし、文明2年(1470年)に持清が病没すると、京極氏は家中が分裂し、孫童子丸派と乙童子丸派に分かれて戦う波乱の時代を迎える。永正2年(1505年)長らく続いた内紛を乙童子丸こと15代高清(たかきよ)が収めて、同年にそれまで京極氏の拠点であった柏原館から、伊吹山の南麓に京極氏館(米原市上平寺)を築いて拠点を移した。この居館の北方には詰の城の上平寺城(米原市藤川)が築かれた。応仁の乱と内紛により、出雲・隠岐は守護代の尼子経久(あまごつねひさ)に奪われ、飛騨は家臣の三木直頼(みつきなおより)に奪われた。さらに、京極高清は2人の子供を巡る内紛を止められず、大永3年(1523年)高清を補佐する上坂信光(こうざかのぶみつ)の専横に対し、浅見氏・浅井(あざい)氏・三田村氏・堀氏などが京極氏館の詰の城である上平寺城を攻め落としている。この家臣団によるクーデターで京極氏は没落し、京極氏館は廃絶したと考えられる。以降は国人衆の力が京極氏を圧倒するようになり、家臣筋である浅井亮政(すけまさ)が北近江の実権を握ることになる。永禄11年(1568年)織田信長が上洛戦で成菩提院に宿営した際、落魄した18代高吉は名族の誇りを捨てて信長に恭順し、嫡子・小法師を人質に出した。小法師は元服して高次と名乗り、信長の許で活躍して蒲生郡奥島5千石を与えられる。天正10年(1582年)本能寺の変での混乱に乗じて、京極高次は羽柴秀吉の長浜城(長浜市)を攻撃するが、明智光秀(みつひで)が秀吉に敗れると清瀧寺に身を隠し、柴田勝家(かついえ)を頼って越前に逃れた。天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いで勝家に味方してしまうが、秀吉の側室となった妹・龍子(たつこ)の嘆願により秀吉に仕えることができた。天正15年(1587年)には浅井三姉妹の次女・初(はつ)と結婚しており、ここから名門・佐々木京極家の再興が始まることになる。(2026.02.14)

徳源院の北東角に立つ城址碑
徳源院の北東角に立つ城址碑

中興の祖・京極高次の石製霊屋
中興の祖・京極高次の石製霊屋

清滝山砦跡のNHKの白い建物
清滝山砦跡のNHKの白い建物

猫居坂に遺された北畠具行墓
猫居坂に遺された北畠具行墓

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