柏の城(かしわのしろ)

[MENU]

武蔵守護代・大石定重の持ち城の中で高閣・万秀斎が存在したと比定される城

本曲輪跡の志木第三小学校
本曲輪跡の志木第三小学校

新座郡舘村(たてむら)の名主・宮ヶ原仲右衛門仲恒(なかつね)が、享保12年(1727年)から享保14年(1729年)に執筆した『舘村旧記』などに柏の城という城が記されている。新河岸川の支流である柳瀬川の低湿地に突出した台地端を利用して、柳瀬川の谷を見おろす場所に立地する。中世の地方豪族の居館として典型的な占地であり、志木館とも引又(ひきまた)の館とも呼ばれる。志木第三小学校のあたりが本曲輪跡であり、その東側が二の曲輪跡、西側の長勝院(ちょうしょういん)跡あたりが西の曲輪跡、それらの南側から東側を取り囲むように三の曲輪が存在した。三の曲輪の南側には宿が広がっていた。本曲輪の虎口は二の曲輪側の東に開口し、この本曲輪と二の曲輪の周囲を大堀が囲む。二の曲輪の虎口と西の曲輪の虎口は、それぞれ三の曲輪側の南に開口する。三の曲輪の外側を逆L字に大堀が囲み、南側に追手(大手)門が構えられていた。絵図によると、これらの虎口は全て外側が折れを伴っていたようである。三の曲輪の中を鎌倉街道が東西に通過しており、城内への出入口は平虎口で、それぞれ東門と西門が置かれた。発掘調査により、三の曲輪の大堀は箱薬研型で、南から東への平地に長さ約90m、上幅約12m、深さ約4.7mの規模であった。現在はほんの僅かな土塁・空堀跡が残っているに過ぎない。『新編武蔵風土記稿』に「長勝院ノ東ノ方ニアリテ、同寺ノ境内ヘモ少クカヽレリ、今ハ畑トナリシカト、虚堀ノアト土手ノ状ナトワツカニ残リテ」とあり、この時点で遺構の大部分は失われていたことが分かる。城主については「昔、大石越後守コヽニ居レリ、此人ハ小田原北条家ノ家人ナリシカ」とある。大石越後守は、小田原北条氏に降った多摩郡の滝山城(東京都八王子市高月町)の城主・大石氏の後裔であった。柏の城の東側を奥州街道が通り、交通の要衝でもあった。奥州街道といっても五街道の一つである奥州街道とは別物で、甲州街道の日野宿(東京都日野市)と日光御成道の岩槻宿(さいたま市岩槻区)を結ぶ同名の脇往還(バイパス)である。奥州街道の成立ははっきりしないが、元となる道は中世後期には存在したようである。この奥州街道を南西に約6km行くと、同じく大石氏の滝の城(所沢市)がある。滝の城とは柳瀬川を使って舟で往来することも可能であった。柏の城の追手口の東には舘氷川神社(志木市柏町)が鎮座する。『氷川神社由来記』によれば、貞観年中(859-77年)郡司・藤原長勝(おさかつ)が武蔵国一宮・氷川神社(さいたま市大宮区)より分祀創立させたとあるが、それ以前より社があったとの伝承がある。平安時代初期に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が蝦夷征伐へ向かう際、武蔵野で別の賊と戦いになり、田村麻呂の軍勢は敵軍に囲まれて苦戦した。そこで武蔵国総鎮守・氷川神社に戦勝を祈願したところ、この地で実を鈴なりにした椋(むく)の木を見つけ、その実を兵士に食べさせると賊を退散させることができた。そのため田村麻呂が椋の木の近くに社を祀ったと伝わり、それが舘氷川神社の始まりという。平安時代の柏の城は、郡司・藤原長勝の居館であり、大蛇ヶ淵(おろちがふち)によって守られていた。この淵には「首無し(かしらなし)」という大蛇が棲んでおり、長勝はこれを退治して大蛇ヶ淵を水田に変えたため、田面長者(たのものちょうじゃ)と呼ばれるようになったと伝わる。柏の城の西の曲輪あたりは、かつて亭の台(ちんのだい)と呼ばれ、柏の城に逗留していた六歌仙・三十六歌仙の一人、在原業平(ありわらのなりひら)の座所として館が設けられていたと伝承される。

藤原長勝には皐月前(さつきのまえ)という姫がいて、業平と駆け落ちを試みたが果たせず、皐月前の「むさしのは今日はなやきそ若草の、つまもこもれり我もこもれり」との一首が伝えられる。長勝院は、鎌倉時代初期に地頭であった荏柄胤長(えがらたねなが)が主人・源頼朝(よりとも)の妻・北条政子(まさこ)の安産祈祷のために田面長者・藤原長勝の霊を祀って開基した寺という。昭和60年(1985年)衰退して廃寺となった。鎌倉時代中期の正応2年(1289年)二階堂土佐守が柏の城を築いたとも伝わるが詳細は不明である。室町時代中期には、関東管領・山内上杉氏の重臣であった大石氏の城館となる。南北朝時代末期から頭角を現した大石氏は、山内上杉氏に仕えて武蔵目代・守護代を務めた有力な国衆である。文明18年(1486年)から翌年にかけて、関白・近衛房嗣(このえふさつぐ)の三男で、京都聖護院(しょうごいん)の門跡である道興准后(どうこうじゅごう)が関東各地を巡歴した際に記した紀行歌文集『廻国雑記(かいこくざっき)』に、「大石信濃守といへる武士の館」を訪れた記述がある。この大石信濃守とは大石顕重(あきしげ)を指すと考えられており、顕重は高月城(東京都八王子市高月町)を本城としていた。大石信濃守の館には「庭園に高閣あり、矢倉などを相かねて侍りけるにや、遠景すぐれて数千里の江山、眼の前に尽きぬとおもほゆ、あるじ、盃を取り出して、暮過ぐるまで遊覧しけるに」と記され、「一閑、興に乗じてしばらく楼にのぼる、遠近の江山分れること幾州、落雁は霜に叫んで風颯々(さつさつ)、白沙翠竹斜陽に幽(かす)かなり」と詠んでおり、大石氏の城館の状況が分かる。さらに、城内の御殿の庭では蹴鞠などを催して道興を接待している。この高閣とは、太田道灌(どうかん)の江戸城(東京都千代田区)の「静勝軒(せいしょうけん)」を意識して築いたものと考えられ、山内上杉氏の重臣であった大石顕重は、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌と、居城の立派さを競い合ったふしがある。大石氏クラスの国衆は領内にいくつもの城館を持っており、この道興が訪れた大石信濃守の館とは高月城であったとする説や、柏の城や滝の城であったとする説もあるが、柏の城が最有力の比定地になっている。柏の城の近くの宝幢寺(志木市柏町)は、大石信濃守の子・大石四郎の屋敷跡といわれる。また、柏の城の北方の柳瀬川に架る高橋あたりは、かつて「姥袋(うばぶくろ)」といった。これは、大石信濃守の家来・小原佐門が難波田城(富士見市)からの帰りにこの橋で鬼女(きじょ)に襲われて戦ったことに由来する。このように当地と大石信濃守との関係性は深い。翌年、道興が再び訪れた際に大石顕重は、古河公方・足利成氏(しげうじ)と扇谷上杉顕房(あきふさ)・犬懸上杉憲秋(のりあき)の連合軍が争った分倍河原の戦い(享徳の大乱)で戦死した父・房重(ふさしげ)の三十三回忌の供養を依頼したところ、道興は冥福を祈る歌を添えた花一枝を贈っている。ちなみに、道興が長勝院を訪れ、在原業平と皐月前の逸話を耳にしたことから追善供養が営まれ、手向けとして挿した一本の枝が芽を出した。それが今に残るチョウショウインハタザクラであると伝えられている。樹齢400年を超えるという古桜である。このチョウショウインハタザクラはオシベが旗弁に変形し旗に見えることから、平成10年(1998年)学会誌をもって世界に1本の新種として認定された。一方、文明17年(1485年)から長享2年(1488年)までの間、漢詩人であり禅僧でもあった万里集九(ばんりしゅうく)は、太田道灌の招きにより江戸城に滞在していた。

江戸城には「静勝軒」という望楼式の櫓建築が存在しており、当時の戦闘本位の中世城郭の中で風雅と居住を兼ね備えた城郭として、江戸城は日本城郭史において革命的な城であったといえる。この「静勝軒」は、天守建築の始まりとして他の守護・守護代クラスの武将に大きな影響を与えた。例えば、山内上杉顕定(あきさだ)は鉢形城(寄居町)に「隋意軒(ずいいけん)」を建て、道灌の父である太田道真(どうしん)は太田氏館(越生町)に「自得軒(じとくけん)」を建てた。大石顕重の嫡子である源左衛門尉定重(さだしげ)も城館に高閣を建て、江戸城に滞在している万里集九を城館に迎えて厚く接待している。この時、城中に建てた高閣を、万里集九に依頼して「万秀斎(ばんしゅうさい)」と命名してもらった。万里集九の漢詩文集『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』巻六の「万秀斎詩序」には、このことについて記されている。漢文を意訳すると次のようになる。武蔵国の領主の軍営には、主君を護る優れた臣下が居る。それは大石定重である。定重は木曽義仲(よしなか)の10世の子孫で、武蔵の20余郡はすべて、その指令に従っている。その忠義心は太陽を貫くほど天下に行き届き、始めから終わりまで主君に対する忠節は変わらない。定重は優れた土地を武蔵野の中にはかり定め、大層厳しく砦の城壁を設けた。その後、あづま屋を建てたが、その西方には富士の千年も消えぬ積雪が見え、東方にはもやや霞が遥かに連なり、南方には平野や松原があり、涼しい風が吹き渡ると、その松風は天然自然の曲を絃のない琴で美しく奏でる。北東には湖水と2つの村があり、そのかなたに筑波の峯が朝な夕なに心地よく空に掛かって見える。昔、宋の宋子房が着色して、新しい意匠で画いた絵画は、大きく開いて其の景色を取り入れて、四方八方をすべて極めつくして描いたという。しかし今、この地はそれとは異なり、一たびすだれを捲いて眺めると、その中に十景も二十景でも、なお余り有るほどである。晋書、顧ト之伝の語にあるように「多くの谷川が争うように流れ、多くの巌が、その美しさを競っている」ようである。この描写にも、多く劣る所は無い。さて、大石定重は、仲介者を通じて、私にこの建物の名を求めてきた。そこで「万秀」と名付けた。世の中が安定して、賊に備える犬も、用がなくなって寝ていて目ざめるのは、誠に結構なことである、とある。この詩は配列の位置からみて、文明19年(1487年)の作で、文明18年(1486年)太田道灌が扇谷上杉定正(さだまさ)に誅殺され、翌年(1487年)に山内上杉顕定と扇谷上杉定正は決裂し、両上杉家が長享の乱と呼ばれる長期間の抗争を始めた頃である。このように大石氏は、当時として最高の文化を取り入れていたことが分かる。これらの史料をもとに、大石氏の館の所在地を探る試みがなされ、高月城、柏の城、滝の城、滝山城が候補となった。『梅花無尽蔵』に西方に「富士千秋之積雪」とあり、厳密には富士山は南西方向であるが、大体西方と見てよく、どれも当てはまる。東方の「煙霞眇范(えんかびょうぼう)」もどれも当てはまり、南方の「平原松原」は柏の城のみが当てはまる。北東方の「湖水双村、筑波之数峯」は、滝の城の北側全てが台地で、湖水がないため当てはまらない。柏の城には北東に大沼(軍伝田)があり、柳瀬川の低湿地は氾濫により湖水状にもなっていたようで一番近い。また、大石氏が滝山城を築くのは30年ほど後なので、総合的に判断して柏の城が一番当てはまる。一方、道興准后が関東にいた時期と、万里集九が関東にいた時期は、ほぼ同時期であった。

そのため、『廻国雑記』の「あるじ、盃を取り出して」の「あるじ」が大石顕重でなくなる可能性もあるが、大石定重が柏の城にいて、大石顕重が高月城にいたと見ることもできる。大石氏は、信濃国佐久郡大石郷から上野国に移って栄えたのち武蔵国に進出したとする説と、山内上杉氏が武蔵国守護職になってから取り立てた武蔵の在地武士であったとする説がある。7代当主の大石信重(のぶしげ)は関東管領・山内上杉憲顕(のりあき)に仕え、延文元年(1356年)戦功により入間・多摩両郡の柳瀬川流域を含む13郷を与えられた。系図では、石見守憲重(のりしげ)、三河守憲儀(のりよし)、源左衛門尉房重と続き、11代当主が信濃守顕重となる。大石氏の研究は多いが、大石一族の動向や居住地など、いまだに解決されず不明な点が多い。これは、13代当主・源左衛門尉定久(さだひさ)が北条氏康(うじやす)の三男である北条氏照(うじてる)に家督を譲ったこと、小田原の役で北条氏が滅亡したこと、氏照の家臣団構成が後世に伝わらなかったことなどが理由としてあげられる。天文15年(1546年)河越夜戦(かわごえよいくさ)にて主家の山内上杉憲政(のりまさ)が北条氏康に敗れ、上野平井城(群馬県藤岡市)へ逃れる。この時、大石定久は北条氏に服属し、家督を北条氏照に譲って戸倉城(東京都あきる野市)に退いた。永禄4年(1561年)上杉謙信(けんしん)の鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)社参の際に、途上にあった北条氏の諸城を片っ端から落としていったが、柏の城も謙信の軍勢に攻めたてられ落城したと伝わる。柏の城の北東方に軍伝田(ぐんでんだ)という大沼があり上杉軍は攻めあぐんだというが、この沼地に夜陰に乗じて伐採した木材を投げ入れて足代(あししろ)にし、数十人の忍びを渡らせて柏の城を焼き討ちにして落としたという。現在の志木市本町6丁目の「陣場」という小字は、上杉謙信が陣を置いた場所と伝えられる。同じく本町6丁目の小バケ(小崖)の南側には総大将の直江山城守が本陣を設けて休憩したという「休み塚」が大正の頃まで存在した。他に、柏の城が落城した際に討ち取られた城兵の首を埋葬した首塚(志木市幸町)も大正の頃まで存在した。氏照が北条氏に復すると、定久の長男である播磨守定仲(さだなか)が大石氏の家督を継ぎ、天正の頃は、定仲の長男である大石越後守直久(なおひさ)が柏の城の城主であった。『小田原編年録』に「獅子浜城、大石越後守此城ヲ守ル」とあり、『新編武蔵風土記稿』に「天正九年(1581年)北条武田両家ノ間和議破レケル時、駿河国分国境目ノ押ヘトシテ、同国獅子浜ノ城ニ越後守ヲ籠ヲキシコト」と、北条氏の命により駿河獅子浜城(静岡県沼津市)の城代を命じられていた。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原の役の際、大石直久は獅子浜城の守備に当たったので、柏の城は家臣に任されていた。豊臣軍に明け渡された柏の城であったが、徳川家康の関東入封後は、徳川家の家臣である福山月斎(げっさい)が新しい地頭として城地に居住している。江戸時代初期の寛永17年(1640年)頃から新河岸川を利用した舟運が始まり、大量の物資や人が行き交った。当時の新河岸川は「九十九曲りゃあだでは越せぬ、通い船路の三十里」と舟唄に歌われたほど蛇行しており、十分に水量を保つことができたので、江戸と川越を結ぶ重要な動脈であった。近くに河岸場として引又河岸(志木市本町)が置かれ、奥州街道(脇往還)が通過するなど、水上交通と陸上交通が交差する要衝であった。市(六斎市)や宿場(引又宿)が設けられ、今日では想像もできないほどに繁栄を極めたという。(2002.11.09)

長勝院が存在した西の曲輪跡
長勝院が存在した西の曲輪跡

チョウショウインハタザクラ
チョウショウインハタザクラ

僅かに残る三の曲輪の大堀跡
僅かに残る三の曲輪の大堀跡

大手口跡の東側の舘氷川神社
大手口跡の東側の舘氷川神社

[MENU]